先日向田邦子が亡くなり30年経ったと記事を書いた。
その後新聞の番組欄を見ていて何気なくBSフジの月曜日の夜10時、
北の国からの再放送が載っていた。
心がときめいた。
30年前の連続テレビ小説で毎回欠かさず見ていた。
私はその頃34歳、子供達は5歳と4歳で純と蛍より数歳小さいが
似たようなもので毎回楽しみにその週を追っていた。
その番組が終了してもスペシャル番組で黒板一家のその後を負い続け
蛍も純も大人になるまで数年おきに番組が続いた。
さだまさしのギターによるテーマ曲は30年間、初めはカセットテープ、
その後はCDでずっと事あるごとに聴き続けてきた。
中嶋朋子と吉岡秀隆の俳優として続く番組や映画はずっと観続けてきた。
いわば自分の人生の半分に近い日はこの北の国からの影響を受けながら
ここまで来た。
子供が成長してから一人で富良野のロケ現場を3回見に行った。
そして寒い北海道の富良野ではないが、やはり寒い信州でいま
60歳を過ぎてからの生活を送っている。
そうだ、子供たちが高校生や大学性の頃再放送がありビデオに撮ってズラリと揃えたが
忙しい年代だったため繰り返し見直す時間がなく古くなったビデオテープを
再生することがなかったことを思い出した。
1年半前に地デジになるためテレビを購入した。
最近内蔵録画で予約したはずが取れていないのを
ぼんやりの私はやっと気がついた。
トーシバがすぐに修理に来てくれハードディスクを交換し様子を見たが
結局本体の基盤の故障ということで再三の部品交換で直った。
そのため北の国からの録画は全部消失し、やっと取り戻した時は第7話まで進んでいた。
今夜再生し見始めて唖然とした。
内容は覚えはあるがほとんど場面が記憶に残っていなかった。
純の拝啓、慶子ちゃんから始まるストーリの中に倉本聰は心に残る
様々な人生の教えを散りばめていた。
30年経って、今それが納得できる自分になり若いときに見ていた自分は
何も分かっていなかったのだなぁと自分の幼さを見出していた。
黒板一家には足元にも及ばないがその数分の一の苦労を重ねた自分が
この30年間の間さだまさしの北の国からのテーマ曲によってその時々を
支えられてきたのがつくづく感じられた。
今は求めるのが皆無に等しい時代となったが、優れたテレビ小説は人の心を育てるのだと
今夜はそのことに気が付いたのである。
その後新聞の番組欄を見ていて何気なくBSフジの月曜日の夜10時、
北の国からの再放送が載っていた。
心がときめいた。
30年前の連続テレビ小説で毎回欠かさず見ていた。
私はその頃34歳、子供達は5歳と4歳で純と蛍より数歳小さいが
似たようなもので毎回楽しみにその週を追っていた。
その番組が終了してもスペシャル番組で黒板一家のその後を負い続け
蛍も純も大人になるまで数年おきに番組が続いた。
さだまさしのギターによるテーマ曲は30年間、初めはカセットテープ、
その後はCDでずっと事あるごとに聴き続けてきた。
中嶋朋子と吉岡秀隆の俳優として続く番組や映画はずっと観続けてきた。
いわば自分の人生の半分に近い日はこの北の国からの影響を受けながら
ここまで来た。
子供が成長してから一人で富良野のロケ現場を3回見に行った。
そして寒い北海道の富良野ではないが、やはり寒い信州でいま
60歳を過ぎてからの生活を送っている。
そうだ、子供たちが高校生や大学性の頃再放送がありビデオに撮ってズラリと揃えたが
忙しい年代だったため繰り返し見直す時間がなく古くなったビデオテープを
再生することがなかったことを思い出した。
1年半前に地デジになるためテレビを購入した。
最近内蔵録画で予約したはずが取れていないのを
ぼんやりの私はやっと気がついた。
トーシバがすぐに修理に来てくれハードディスクを交換し様子を見たが
結局本体の基盤の故障ということで再三の部品交換で直った。
そのため北の国からの録画は全部消失し、やっと取り戻した時は第7話まで進んでいた。
今夜再生し見始めて唖然とした。
内容は覚えはあるがほとんど場面が記憶に残っていなかった。
純の拝啓、慶子ちゃんから始まるストーリの中に倉本聰は心に残る
様々な人生の教えを散りばめていた。
30年経って、今それが納得できる自分になり若いときに見ていた自分は
何も分かっていなかったのだなぁと自分の幼さを見出していた。
黒板一家には足元にも及ばないがその数分の一の苦労を重ねた自分が
この30年間の間さだまさしの北の国からのテーマ曲によってその時々を
支えられてきたのがつくづく感じられた。
今は求めるのが皆無に等しい時代となったが、優れたテレビ小説は人の心を育てるのだと
今夜はそのことに気が付いたのである。