信州スロウライフ12ヵ月

野菜や草花と暮らす生活

北の国から

2011年08月30日 23時41分41秒 | Weblog
先日向田邦子が亡くなり30年経ったと記事を書いた。
その後新聞の番組欄を見ていて何気なくBSフジの月曜日の夜10時、
北の国からの再放送が載っていた。
心がときめいた。

30年前の連続テレビ小説で毎回欠かさず見ていた。
私はその頃34歳、子供達は5歳と4歳で純と蛍より数歳小さいが
似たようなもので毎回楽しみにその週を追っていた。

その番組が終了してもスペシャル番組で黒板一家のその後を負い続け
蛍も純も大人になるまで数年おきに番組が続いた。
さだまさしのギターによるテーマ曲は30年間、初めはカセットテープ、
その後はCDでずっと事あるごとに聴き続けてきた。
中嶋朋子と吉岡秀隆の俳優として続く番組や映画はずっと観続けてきた。
いわば自分の人生の半分に近い日はこの北の国からの影響を受けながら
ここまで来た。

子供が成長してから一人で富良野のロケ現場を3回見に行った。
そして寒い北海道の富良野ではないが、やはり寒い信州でいま
60歳を過ぎてからの生活を送っている。

そうだ、子供たちが高校生や大学性の頃再放送がありビデオに撮ってズラリと揃えたが
忙しい年代だったため繰り返し見直す時間がなく古くなったビデオテープを
再生することがなかったことを思い出した。

1年半前に地デジになるためテレビを購入した。
最近内蔵録画で予約したはずが取れていないのを
ぼんやりの私はやっと気がついた。
トーシバがすぐに修理に来てくれハードディスクを交換し様子を見たが
 結局本体の基盤の故障ということで再三の部品交換で直った。

そのため北の国からの録画は全部消失し、やっと取り戻した時は第7話まで進んでいた。
今夜再生し見始めて唖然とした。
内容は覚えはあるがほとんど場面が記憶に残っていなかった。
純の拝啓、慶子ちゃんから始まるストーリの中に倉本聰は心に残る
様々な人生の教えを散りばめていた。

30年経って、今それが納得できる自分になり若いときに見ていた自分は
何も分かっていなかったのだなぁと自分の幼さを見出していた。

黒板一家には足元にも及ばないがその数分の一の苦労を重ねた自分が
この30年間の間さだまさしの北の国からのテーマ曲によってその時々を
支えられてきたのがつくづく感じられた。
今は求めるのが皆無に等しい時代となったが、優れたテレビ小説は人の心を育てるのだと
今夜はそのことに気が付いたのである。

夏も終わりに近づき、ムスメは去っていく・・・・・

2011年08月24日 21時02分22秒 | Weblog
先週から低温と雨降りが続き、洗濯物が干せず犬たちは散歩に出られない。
何だかしょぼくれて、そうか、もう花火が終わったから秋が来たのか~とこれから
やって来るながーい冬を想った。

でも許せない、いきなりこんなに予告なしの秋の到来では心の準備が出来ていない。
まだついさっき、灯油の入ったタンクをしまったばかりだ。
マイナス10度以下に下がるさむーい冬はしっかりと受け止める心構えができていなければならぬ。

などなどグダグダ毎日寒い空気の中で考えていた


と、先週西アフリカから4月末国外への避難で一時帰国していたムスメが
9月7日に再び戻ることが決まったと連絡してきた。

昨年4月訓練の後ブルキナファソの任地へ赴任したときは当たり前のように
「元気で行っといで」と送り出したのに戦地化した国から避難してきた時は大変だったねぇ
ゆっくりしなさいといいつつ甘い顔で受け入れた。

それから4ヵ月、ムスメの将来はどんどん帰国後の嫁入り方向に決まっていき
本人はおろか周囲の親戚知人友人も出たり入ったりしながら顔合わせしつつ
落ち着くところに落ち着いた。
いわば休暇は天からのご褒美なのか、ムスメは果報者と
の表現のごとく、この4ヵ月をフルに活用した。

間もなく2週間もしないうちにこの涼しさを通り越したさぶい信州から
炎署のアフリカの生活に戻っていく。

いまさらとか、もういいんじゃないの?とか周りは押しとどめる言葉を出すが
中途半端はいけない。
あと半年で任期は終了する。
また4か月前の時間にタイムスリップしてムスメは仕事をせねばならない。

アフリカに戻るとなれば親としては気持ちも浮かれていられない。
この居住地近辺でうろちょろしていた時はよかったなぁ。

成田を発つ日は悲しさで一杯になる自分がもう予想される。
何度も子離れの訓練をしてきたが、まだまだ一人前になれそうにない

雨が降り…

2011年08月20日 13時40分50秒 | Weblog
昨日から念願の雨が降り、しかし…

今日はやけに寒い
台所に立っていると手が切れるほど冷たかった八ヶ岳源流の水は
温かく変わっている。

何だかしまいこんだストーブを引っ張り出したいわねぇと犬に語った。

それもそのはず
温度計は18度
先週の花火大会では搾るほど汗をかいていたのにこの差。
このまま、まさか秋に突入するのではないでしょうね。

9月3日には諏訪湖の新作花火大会がある。
例年汗をだらだら流しながら花火が上がるのを待っていたではないか

暑い夏の間仕事の合間には休日は畑と出回る日々が続き、やっと家でゆっくり座る時間ができた。
と、思ったとたんこの寒さ。
気持ちが付いて行かない。

諏訪湖上花火大会

2011年08月17日 22時11分57秒 | Weblog
今年も待ちに待った花火の日がやって来た。
いつも来年も必ず来ようと思いつつ、夜空いっぱいに盛大に上がる花火を見上げている。
戦後始まった諏訪湖の花火大会は今年で63回目となり、3月の東日本大震災の鎮魂と冥福に
黙祷から始まった。
今年は大震災があったので花火大会は中止される懸念もあったが、花火を通じて
エールを送るという前向きの催しとなった。

39,000発の花火と50万人の見物客で普段静かな湖畔は全く違った景色となった。
4時間席を取って7時からの開会まで待つが今回は雲が多く、日傘を指さねばならない暑さも
なく風が抜けていく湖畔で昼寝まで出来た。

観光客より多いのではないかと思うほど屋台も出た。
超ワイドスターマインと大爆音で始まるが諏訪湖は四方が山に囲まれているので
音響効果が良く、体の中を突き抜けて行くほどの音は凄まじい。



水上スターマインとナイヤガラが最高の人気もので周囲は大騒ぎしながら天を見上げている。
花火が終わると信州は秋に近づいて行く。
また来年会いましょうと約束しながら膨らんだ気持ちがゆっくりと萎んでゆくのを感じるのが
毎年のことである。

  
            

来年は遅ればせながらムスコの試験合格祝と、ドイツから帰任する姪夫婦のお祝いと、
ムスメの結婚祝いが重なり花火に託しお祝い花火にして見ることが大きな楽しみになることを願う。


秋桜

2011年08月10日 22時56分09秒 | Weblog
毎週日曜日22:00からEXILE魂を見ている。
自分がこのような若者のダンスユニットを見るのが不思議だが、惚れ込んでいる。
先週はさだまさしの登場。

さっすがさださんのトークショウは番組を乗っ取りEXILEを喰っていた。
案山子、秋桜、関白宣言、は名曲中の名曲、時間が流れても、いつ聴いても心の奥に染み入り
涙が流れそうになる。

ATSUSHIの防人のうたも熱唱でダンスのヒトのイメージが強かったのががらりと変わった。

山口百恵が18歳の当時ピンと来ないと言っていた3年後、自分が結婚することでやっと歌詞の意味が分かったと
メッセ‐ジをくれたとさださん言っていた。
わかる気がする。

淡紅の秋桜が秋の日の 何気ない日溜りに揺れている
此頃 涙脆くなった母が 庭先でひとつ咳をする
縁側でアルバムを開いては
私の幼い日の思い出を何度も同じ話くりかえす
ひとりごとみたいに 小さな声で 
こんな小春日和の穏やかな日は
あなたの優しさが浸みてくる
明日嫁ぐ私に 苦労はしても笑い話に時が変えるよ
心配いらないと笑った

この歌詞は今娘を嫁がせることになった母親の方がよほど胸に応える。
自分も昔嫁ぐ時分このような思いも切なさも持つことができず
今やっと娘を送り出す段になって気持ちがわかることになった。

名曲はその時その時の自分の気持ちで受け止めることで
心の中に深く浸みこんでいく。


今週のEXILE魂はたまらなく良かった。
それにしても来週のゲストがAKB48とは見ようか止めようか悩むところである。




八ヶ岳薪能

2011年08月07日 22時55分35秒 | Weblog


今年も8月の恒例の薪能の日がやってきた。
今年は東日本大震災復興支援公演で出し物は

能 経正 上田公威
狂言 柿山伏 野村萬斎
能 紅葉狩り 観世清和 の3題が午後4時半開演となった。

午後から休暇を取り小淵沢の身會岐神社へ開演ギリギリに着いた。
昨日まで毎日午後から夕立となり雨が降ったらどうしよう~ 荒天決行とあるので
ずぶ濡れになっても舞台を観なければならないかなと心配した。

しかし蝉時雨の神社の境内は今年も雨は降りそうもなく、厳粛な気配に包まれ
能舞台は開かれた。
今年は東日本大地震復興支援公演との目的もあり、野村萬斎の狂言も見ることができ
いつもより観客は長蛇の列となった。

開場に時間がかかり、周りを見わたすと平均年齢歳50歳以上ではないかと思うほどで
しかも女性客が圧倒的に多い。
今年で能を見るようになり4年目で、毎年この日を過ごすことで日本の古典芸能に接し
気持ちが洗われ、遠い先祖の観阿弥、世阿弥の偉大さを想いそれを受け継いできた
能、狂言役者の生き方に鳥肌が立つ思いになる。

3時間半の公演が終わり駐車場から車で帰ることが大変な時間を要することになる。
1,000人以上の観客は車でしかこの地に来れないから、神社の周辺は車の洪水になる。

ナンバーを見ると東京、千葉、埼玉、神奈川、はおろか滋賀 京都 岐阜、とあり何時家に着くのか
それでもやってくるのである。
諏訪ナンバーなど申し訳ないくらいだ。
今回の能の紅葉狩りの鬼揃いの舞台は大勢のツレが舞台に揃いめったに見られない豪華絢爛さだった。

  


欲張りと後悔

2011年08月07日 22時05分09秒 | Weblog
昨日大家さんから梅の実がいるなら畑に行ってもいでいいよと言われ、今年は梅干の梅を買うチャンスを
逃したので明日行きますと返事をした。
大家さんの畑は広大で梅やすももの木が何本もあった。

好きなだけ取っていいよと言われ、木の下から上を見上げるとたわわになっている
梅の実を見たら俄然欲が出てきた。
下の方になっている実は小さい。
上の方は手が届かない。
触っただけで熟した実はバラバラと落ちてしまう。

久しぶりに木に登ってみた。
子供の頃木に登って遊んでいたので怖いことはないし、コツは体が覚えている。
木の上から見ると眺めが良い。

暑いので汗だくだくになり、もういい加減でやめようとバケツに2つ取って来た。
さあこれからが大変だ。
家に帰って実を洗い何に加工するか考えねばならぬ。
 かなり熟しているのでカリカリの青梅を選んで2キロを梅酒にした。



残りを測ったら13キロもある。
梅干し、さしす漬け、甘酢漬け、サワー漬け…ひとまず下ごしらえに取り掛かった。
これが大変だった。
15キロは手間が掛かり、洗ってへたを取り一晩水に付けアクを出す。



加工して出来上がったモノは保存がきき、美味しく貴重だがなんでも下準備に時間を費やす。
欲張りの結果今日の休日は半日以上、梅に時間を取られ、後悔が残ったのも事実だ。

午後から雷が暴れまわり、夜まで雨が続く。
台所から動けず作業に徹するには良かったかもしれない。

犬もクールビズ

2011年08月06日 23時51分08秒 | Weblog



8歳と7歳になった我が家のダックスは2ヵ月ごとにトリミングへ行っている。
飼い主には足の爪も切らせないし、ブラッシングもさせてくれない。
噛まれるのがオチだ。

それなのにトリマーさんには静かに手入れをさせてくれ、最後には髪飾りも付けて
ビフーォ~アフターの差が大きい。
毛が伸びてきてホームレス犬と名付け、茶色の犬はたぬきと名付けこの暑い夏にうっとおしい姿になった。

カットをお願いしますと言ったとたんひらめいて、思いっきり短く毛を刈ってくださいと頼んだ。
2時間後引き取りに行って2匹を見たとたん、あら~小さくなったわねぇと言ってしまった。
たぬきは天然パーマの毛は全部刈り取られ、ゴールデンレドリバーの子供のようになった1匹は
つるつるの体にかわりきれいになった。



涼しげで良い。
餌の食べ過ぎで最近太ったんではないの?と言っていたのに実は毛を刈ったら、小さくなってしまった。

ただし手間がかかった分、2匹のトリミング代は私のパーマ代と同じ値段であった。




弾丸トラベラー その2

2011年08月02日 21時47分43秒 | Weblog
短時間で済ませねばならない旅行となれば、自ずと行動は限られてくる。



名所旧跡、建築物、美術館、広い台北市内で地理に不安なまま、交通情報に疎く観光誌によるにわか情報でも、いざ現地に立つと頭はからっぽになった。
しかし心強い私設添乗員が傍にいるので、言われるがままに動いていれば良い。

台北101タワー

 

観光のあとは買い物となる。
時間がないが、中国茶と茶器が欲しいのでこれも台北で有名なお店と言う茶店に入った。
烏龍茶のお手前と講義を背中を正して神妙に聞いた。
烏龍茶についてのこれまでの知識はここで全部捨て去らねばならなかった。
小さな茶器で茶葉1gで5人分のお茶が頂けるという。
香りも味もお店のご主人の入れてくださったお茶は異なった。
普段烏龍茶と信じて飲んでいたお茶は実は違っていたのだった。
茶葉と鉾に入った茶器を購入し、熱湯をポットに入れ持ち歩けばどこでも美味しい烏龍茶を
飲めるということになる。にわか茶人になったが文化の違う海外で知らなかった知識を得るのは
年齢が経つにつれ、感謝せねばならないことになった。



夕食は本場台湾料理が食べたい。
小籠包が美味しいというお店に行き待ち時間を言われてびっくりしたが、待つことにした。
お腹もすいていたが、運ばれてきた湯気が立つ料理は本当に美味しく大満足した。

そのあとお腹いっぱいになり、台湾といったらエステかマッサージでしょうと言われ
肩こりのマッサージと足のマッサージを選び、至福の時間に突入する。
ムスコは足つぼマッサージでは5つ星と言われるお店を探したというのでさぞかしと
期待していたが、、肩こりのマッサージを受け始めたら、ソフトソフトと言いつつ
私は唸った。
こっているツボを誠に、見事に捉えもみほぐしてくれるのだが、決してソフトではない。
途中で耐え切れなくなり、トイレへ逃げ込んで、体制を立て直した。
ぎりぎりまで耐え忍んでみたが、凝っている箇所を全部探し出して揉みほぐしてくれたのではなかろうか。
そのあとは薬草の入った足湯に浸かったのち足ツボマッサージに移った。
これもたかが足ツボと思ったが、ツボ全部いたくてたまらず、痛いくせにそのうち眠りこけてしまった。
気がついたときは終了していた。

羽が生えたように軽やかになった体でホテルに帰ったときは午前2時頃を過ぎていた。
美味しい食事とマッサージ、お茶の楽しみを手に入れて、大忙しの旅行は
満足のうちにまた帰路の飛行機に乗った。

帰りは追い風に乗り2時間半の搭乗時間で羽田国際空港に到着し時間は夕方の7時半になっていた。
羽田の駐車場は便利なものでバスや電車の乗り継ぎをせず、首都高を順調に走り
息子の家に到着した。
翌日は月曜日で普通に出勤するため、コーヒーを飲んでひと息継ぎ、さあ、信州へ帰ろう
と10時半過ぎに今度は一人で車に乗った。
到着時間は翌日の1時半過ぎたが、行きの中央道の混雑と違って夜中の高速はがら空きのため
走りやすかった。
60過ぎのおばさんが夜中の高速を走っている姿はこれで2度目だが、我ながらなかなかたいしたものだ。
個人差はあるが人は年齢で片付けられない部分もある。
としだからと逃げないで、まだ前向きで経験していきたいと思う部分を今回もやっつけられたかなと思う。
成長した息子のおかげでまるまる面倒を見てもらい、アクテイブな旅行が出来た。

謝謝・・・・




弾丸トラベラー

2011年08月01日 22時58分19秒 | Weblog
先月で失効しそうになったJALカードのマイルを航空券に替えた。
一人で欧州圏に行く十分な休暇は叶わないし、相談した結果ムスコと一緒に台湾へ行くことにした。

台湾は全くの無縁な国ではない。
戦前までは両親と兄と姉を含み母の兄弟一族が南の高雄でドックのある造船所を手広く経営していた。
終戦で国を追われ日本国本島へ帰国してきた。
もう両親は旅立ったが、その縁を求める思わぬ機会がやって来たと幸運を喜んだ。

休暇は週末を利用して1泊2日の最短観光旅行になった。
ムスメは何でそんな短い1泊なんかで海外に行くの?と出かける寸前まで
不思議と思っているようだ。

ムスコが添乗員となって旅行計画を立てホテルの予約も行い
私は楽々お任せ旅行が出来る幸せな身だ。

金曜日の午後、仕事は半日休暇を取り、帰宅して旅行の準備を済ませ
ムスコの住んでいる中央林間に車で向かった。
羽田から信州へ帰ってくるには時間的には交通機関が動いていないので
車で中央道を往復することにした。

土曜日の30日羽田の新しい国際空港へ向かい12時近くの台北行きの便に乗った。
台北には3時過ぎに到着し、涼しい東京から30度以上の暑い国での観光が始まった。
時間が限られているが、台湾に来たからにはそれらしい観光スポット巡らないと
と午後から総統府 

、二二八和平公園、蒋介石を記念した中正記念堂 
    

パワースポットなる台北最古の仏教寺院の龍山寺をめぐった。
ここは老若男女、すごい人数の人々がお供え物を持ち寄り、お経を読み、絶対に日本では見られない光景に出会った。
 

地下鉄という便利な乗り物があり、2日間乗り放題のチケットを買い、広い台北を電車に乗ったり降りたり
タクシーに乗ったりっしながらもかなり歩き回った。
よかった…普段歩き回る仕事でバテずに済んだ。

続きは明日へ。