信州スロウライフ12ヵ月

野菜や草花と暮らす生活

奥飛騨温泉郷にて

2009年08月31日 22時50分49秒 | Weblog
8月29日の土曜日にムスメがこの1ヶ月働いている奥飛騨温泉郷の中の、栃尾温泉に一時帰国したムスコと2匹の犬を連れて泊りに行く。
岐阜県の温泉は高山と下呂温泉に泊ったことがある。
松本から上高地方面を目指し途中で高山方面に分れ、安房トンネルを抜けるとまもなく平湯、福地、新平湯、栃尾、新穂高と5つの温泉が続き奥飛騨温泉郷と呼ばれる。
その中の栃尾温泉に着いた。
民宿が並び、いずれも湯量が豊富で貸切露天風呂が備わっている。
栃尾温泉の真ん中、宝山荘がムスメの勤務先。
もうこの31日で仕事は終わる。
来年、西アフリカで勤務するムスメにとっては、この温泉旅館での経験はまたとない機会となっている。

犬達と蒲田川べりを散歩し、清冽な流れに犬は飛び込み、彼らなりに楽しんでいる。
長いウオーキングコースが続く。周囲は高い山々が続き、景色は見飽きない。
夕食は岩魚の塩焼きや朴葉焼き、手打ちそばなどが並び飛騨牛の柔らかさに土地の贅沢な食事を堪能した。
竜の瞳という誠に珍しいご飯も頂いた。

夕食後、疲れて沈没したムスコを置いて川べりで蛍が見えるというので長靴をあてがわれ懐中電灯を持ち真っ暗の川を目指した。
ややや・・・・女将さんがまだ見れるというが本当に蛍がふわりふわりと飛んでいる。
浅い流れのあたりを中心に4,50匹光っている。
これは、50年ぶりに見る蛍である。大感激。
まさか蛍が本当に見られるとは思ってもいなかった。
6月になると蛍の大イベントの観光地があるがその地域よりこちらの方が天然で、養殖ではなく数も多いという。
小さな平家蛍は、暗い中で健気に光り、一気に郷愁に引き込まれた。
小学生の頃近くの田んぼに行き、虫かごに蛍を捕まえて家に帰って緑の蚊帳の中に離す。
それを見ながらいつの間にか眠ってしまうが、蚊帳の中で飛んでいる蛍は今でも眼の奥に残っている。

温泉には何度も入った。時間によっては貸切状態になり、露天風呂の貸切は全く贅沢をさせてもらう。
お湯の中で手足を伸ばした瞬間、これに勝る至福はない。。
身も心もとろけてなくなりそう。
単純アルカリ温泉だが、上がった後は肌はすべすべ。
女将さんも大女将さんも顔の造りも肌も美しく、絶対に温泉に毎日入っているとこのような結果になりますという良い見本となる方々なり。

栃尾温泉は栃の木が多くあるのでその名前の由来だそうで、豊富な温泉の湯量と、四季の桜や紅葉、清冽な鮎が取れる川、は釣り客の多い土地で、又季節に来てみたいと思わされる宿であった。
天然の水が飲めるがその水をゆっくり落とすダッチコーヒーが又たまらなく美味しかった。
一滴、一滴ゆっくり落ちるコーヒーを眺めながら、こんな静かな空間で
過ごすことがまさしく旅気分を味わっているというのであろう。
明日からの元気に働く素はこんな時間から生まれて行くのであると、これも心の中に浮かんだ手ごたえかもしれない。
日頃それぞれ忙しい生活を送っている、我々家族だが、奥飛騨へやって来てそれぞれ一緒に散歩したり、蛍を見ながら話をして、又家族の繋がりの良さを感じ取った時間になり、貴い思い出となったのである。

  

思うように行かなんだ

2009年08月29日 00時22分09秒 | Weblog
朝7時過ぎに諏訪南インターから中央道に乗った。
平日だから混むこともないだろうと思って、軽い気持ちで山々を見ながら運転していた。
時々、片側通行の表示があり、車線規制となって、スピードは鈍くなる。
今日は相模湖インターまで、車線規制に3回会った。
双葉SSをで出て間もなく、左側の車がいきなり何の表示もせず
寄って来た。
危ないじゃないの!とクラクションを鳴らす間もなく、相手は強引にそのまま走るので、後10センチで危うく激突というところで、こちらがスピードを落とし先に行かせた。
一体何なの?
と思ったら、車線規制で、若者カップルが割り込んできた訳。
ウインカーも出さず、強引で、頭から湯気が出たが、まあまあここで怒っていても、道中が長いから忘れよう。
相模湖インターから降りたが、それまでの間3箇所で工事中で車線規制で、スピードを変えて走り、段々時間予定到着時刻より送れて行く。
韮崎や須玉あたりを走っている頃より私の顔つきは険しくなってること間違いなし。

相模湖インターから一般道路へ降り、津久井湖、相模湖を抜けて時間短縮をするつもりが前に、タンクローリーが40キロでずっと走っており、抜くわけに行かず後続車はずるずる渋滞。

やっと途中でタンク車は左に折れたが、何と今度は前にバスが・・・・。
ややや、またしてもかい!
追い越すほど道路は広くなくずるずる諦め後続車が山道を走り、相原付近にまできたら、お祭りで交通規制。
道路はおみこし担いだ子供たちで進むことが出来ない。
もはやこの頃には何か私、悪いことした?的な考えにはまってきた。
もう16号に出たときは絶望的。
予定時間を軽~く1時間オーバー。
焦っちゃいけない、怒っちゃいけない、これが都会なのよ。
と心の中の守護神がささやく。

でもわかっちゃいるけど、今日の午前中だけでも私は5年は寿命をチジめたに違いない。
良くぞこのような環境でこれまで行ったり来たりしていたものだ。
眼科についたらもう11時となった。
散瞳薬を挿して、眼底をすっかり見てもらい、遠いところをご苦労様でした、6ヵ月後に又拝見しましょうといわれて退散した。
ところがこの後がいけなかった。
瞳が開き、外へ出たらまぶしくて、まぶしくてまともに眼が開かない。
息子がいたお陰で、助手席で小さくなり、来る時は勢い良かったのに
太陽に向かって走るから、うつむき加減でもあった。
都会に住んでいたくせに脱都会派はすっかり信号なしの土地に慣れ、もはや都会へ出て遊びたいなどとは決して思わなくなった。

帰りの高速も追越するためジグザグ運転の車を何度も見て、
眼の検査に行ったはずが眼が疲れて帰ってきてしまった。世の中どうしたものだろう。
高速道路はより、品格のあるマナーを心掛けて欲しい。
瞬時に命取りの事故に繋がるんだから・・・・。

夜中の日記

2009年08月28日 01時19分06秒 | Weblog
うかうかしていたらもう翌日となってしまった。
実は、今日は(まだ夜中だが)創立記念日でお休みとなる。
嬉しさのあまり、夕食後寝てしまった。
犬がお腹の上に乗って寝ており、重くて目が覚めた。

さあそこから本領発揮。
がさごそ、思いつくまま、部屋の掃除、じゅうたんのお掃除、本の整理、バッグの中の整理、色々やってみたら、もう0時を回っていた。
その間、BSでおくりびとを途中で発見してちらちら横目で見ながら作業に徹した。
このおくりびとはお正月にシカゴへ出かけ、帰りの機内でずっと映画を見続けた中の一つであった。
すっかり感動し、その後2月のオスカーで受賞した時一緒に嬉しさを貰った。

今日は起きたら、元住んでいた中央林間の眼科へ出かける。
半年に一度眼科の健診を行なっている。
歳を取って眼と足が使えなくなると人様にお世話にならねば生活が成り立たなくなる。しかも車椅子のお世話になるやもしれない。
となると、健康診断だけはマメにやっておく必要がある。

勤務先が大病院であるが、慣れた医者とは離れがたく、片道2時間半の距離で、中央高速を走って受診している。

折からアメリカ赴任のムスコが一時帰国で、短い時間だがこの長野へも立ち寄っていく。
私の眼の検査は瞳孔を開くため、その後眼が運転どころではなくなるため、ムスコが合流して運転し、長野へ母を運んでくれる。
帰りは2人で勝沼のいつものぶどう農家へ立ち寄り、温泉に入って来よう。
明日は忙しい・・・・。
奥飛騨の娘のいる温泉旅館へ犬2匹ともども2人と2匹で泊りに出かけ
ムスコの日頃の労いを皆揃って賑やかにやってみるが、多分飲んだら沈没だ。

移動距離は神奈川県から岐阜県までだが、かなり嬉しくなってきた今の夜中の気持ちである。

低温注意報

2009年08月24日 21時27分18秒 | Weblog
  


昨日、涼しくなった日々の様子を書いたが、その夜何だかとても足が冷えて、夜寝る前にまだ8月なのに変だな?と思いながら寝てしまった。
朝起きて庭を眺めると、コスモスの花が満開になっている。
、いつの間にか草花が入れ替えをして、つい最近までボリジが庭一杯に咲いていたものだが、コスモスが勢いを増して、4種類くらいの色の花をつけている。
周囲に背の高い花が姿を消したので、自由に枝を伸ばし立派なコスモスの畑になった。
いつもより早く咲き始め、満開になっている。
庭は雨も降らないのにしっとりと夜露に濡れ、爽やかな雰囲気であるが、裸足の足が冷たくなりとても涼しいので温度を測ってみた。

と、14度しかない。
これはこれは夏の気温ではなくもう秋が深まってきた気温である。
朝のニュースで低温注意報が出ていた。
農村は気温にはとても注意を払う。
秋の野菜の種まき時期でもあり、ほうれん草農家は夏の長雨でほうれん草はとろけてしまい、その後播いたが今度は気温が低く、成長しないそうである。
もっと温度が下がれば霜注意報が有線放送で流れて来る。
通勤の時、首に綿のマフラーを巻いてみたらとても暖かく、温度差が大きすぎるこの時期、体調管理が難しくなってきた。


涼しくなった夕暮れ

2009年08月23日 23時03分14秒 | Weblog
この数ヶ月で久し振りに、北アルプスが見えた。
夏の終わりに、はっきりと槍ヶ岳まで見える。
今日の空はどこまでも清み、うろこ雲になっているからもう秋が来ている。
昨日は休日であるが、病院祭で出勤した。
5月に予定されていたが、インフルエンザが流行始め、中止になった。
今回で5回目、どうしても行ないたいとの院長の希望で8月なら大丈夫ではないかと実行された。
花火が上がり、岡谷太鼓保存会の腹の底に響く音でのオープニング。
ヘルスチェックには200人以上の周囲の住民の方々が見え、会場はエアコンをハイにしても熱気で汗だくだった。
1500食作った無料カレーライスも空っぽになった。
研修医の演劇、医師の講演会、大抽選会、外では屋台が出て、イベントが多い諏訪の本領を発揮していた。
長野県中央部の地域医療の中核をになう病院としては地域住民も含め職員のチームワークを作る良い機会であった。

あけて今日は
日曜園芸家で畑に埋もれた。
きゅうりは眼を離したら13本もなっていた。
西瓜がひっそりとコスモス畑の中で3個も大きくなっていた。
西瓜は生まれて初めての作品である。
トマトは鈴なりになっていて、長かった雨の後急に勢いを取り戻していた。
しかし
すぐにでも秋の野菜の準備を始めねばならない。
園芸家は休日は無い。
痛い腰をかがめながら、頭の中は次の季節を追っている。
疲れていても野菜たちに元気を貰い、夕方散歩に出て、八ヶ岳の姿と澄んだ空気に思わず深呼吸をして、小さな幸せを感じ取った。

  

里山を守る

2009年08月16日 21時47分10秒 | Weblog
昨夜、近くの温泉に入り、真っ暗の夜道を雨が振る中家に向かって下っていった。
途中で前方に何か見え、慌てて急ブレーキをかけて止まった。
すぐ後ろに車が続いており、追突寸前、危なかった。
道路には5匹の鹿の親子らしき姿があり、車のライトに照らされて身動きしない。
クラクションを鳴らすことも出来ず、しばし止まっていたら左右に飛び跳ねて散っていった
標高1200メートルくらいの林に囲まれた土地で、こんな山里近くに鹿が出て、一瞬野生動物が見れる国立公園に来たのかと思いながら、心臓がどきどきしたまま暫く走った。

朝食を終えてテレビを見ていたら、WOWWOWで探求者たちというテーマで、青々とした木々が眼を引いた。
養老猛さんが登場しており、あら、脳の科学者がと思ったら、環境問題の活動もされている。
画面では何度も関西の山林を訪れ、農家の81歳の井筒さんという老人と一緒に山を歩き山の実状を調べている。
戦後、木を植えればお金になると一斉に山に杉を植えてきたが、今になると木々は不健康で枯れ始め、収益は程遠く、農家は後継ぎも少なくなり山の存続も難しくなってきている。
自然に人間は手を入れたが、途中で中断し自然を守れなくなっている。
水の問題にも繋がっていく。
今後日本は森とどう向き合えるのか、手入れという象徴的な、まるで子育てと同様な思想を持たなければ森林は滅びていくという。
81歳の井筒さんは杖を付きながら自分の山林を養老さんと歩き回り、午前中で
31本の広葉樹の若木を掘って来る。
その若木を全部すらすらと名前を言い、その木の特徴を説明して、まるで植物学者のようだった。
広葉樹は森を守る。
それぞれの木は色々の役目を果たしている。
木の種類によって、根を横に張ったり、深く地中に根を掘り下げたり、地中にそれぞれ縦横に根を張り山崩れを防いでいるのである。

都会は全て画一的で、物は溢れ、整った生活をしており、それは石油や油のお陰で、エネルギーが止まったら生活はそこで成り立たなくなる。
里山も自然に手入れをして木々を育て、水を守らねばならない。
自分も里山に移住して来て、歩き回っていると、畑や田んぼや家の周囲の手入れが良く行き届いているのに感心する。
決して草ぼうぼうに伸び切って暑苦しい姿を見ることが無い。
野菜を作る傍ら、土地の手入れをしょっちゅう行なっている。
季節の花を植え、傍を通るのに眼を楽しませてくれる。
山林の下草も刈られて風通しが良い。

鹿が人家の近くに出て来ているが、食べ物が無いのか、増えすぎているのか、段々動物の社会にも異変が起き始めている。
車で走っていると、年に数回鹿に出くわす場面があったが、その都度一瞬夢かと、しばし頭の思考がストップしてしまう。


遥かなる遠い国

2009年08月15日 21時04分47秒 | Weblog
2人の子供の内、ムスメは8月のお盆の入りに生まれた。
予定日より4日遅れ、13日の金曜日、仏滅の日とクリスチャンであれば好ましくない日である。
暦を良く見たら3りんぼうと書いてあった。
日本式にはむこう3軒両隣に災いが及ぶ日と解説してあった。

そしてムスコは、それから1年半後の寒い冬の1月の13日の金曜日、これもまた偶然か仏滅であった。
二人とも予定日を大きく外して、生まれたのである。
何の因果か、生まれた日が悪いのか、二人とも生まれてから、しょっちゅう、それぞれ怪我という災難に見舞われ、ハハの私は常に子供を抱えて年中、救急病院めぐりをしていた。
入学式に小学校の池に落ちたこともあった。
交互に怪我の繰り返しをしていた。

昔、小学生の子供を連れてKデパートに行ったとき、無料の占いというのに呼び止められ
二人の将来は海外で暮しますと言われて、へーと言ってそれきり忘れていた。

それから大きく時は流れ・・・・・・
昨年の今頃、アルジェリアで働いていた娘が帰国して、その後どうするのか、
きっと色々考えているには違いないと傍で黙っているしかなかった。
先日、自分の生まれたお盆に入る頃、仕事が決まった。
2次試験に合格してやっと口にした。
来年の4月から今度は西アフリカの、ブルキナフアソの中の都市クドウグ市役所での行政サービスに要請されて出かけていく。
国の名前は聞いたことも無い。
主な仕事は文書管理や文書フアイリングとか住民台帳の電子化とかいったことであり、コンピューター技術の人間がいないため要請された。
市役所の中は書類が山積みで、丸秘文書も一緒に山積み状態。

前回アルジェリアでの高速道路建設の文書管理を請け負った経験が繋がったそうだが、ムスメも暫く書類の山に埋もれるのか・・・。
フランス語が日常用語でこれが相当訓練を受けなければならない。

アルジェリアから帰ってくるときにムスメは又このアフリカの大地に立ちたいと思ったそうだ。

そういえばムスメは大学に入ってからも自分の居場所ではないと、別な大学を受けなおした。
その気持ちを仕事先の霞ヶ浦で散歩の時打ち明けられ、母親としては黙って応援するだけであった。
東京から神奈川の遠いキャンパスまで通い、クラブも国際ボランテイア活動をしていた。
先日、友人とモンゴルへ旅行していたが、先々でJAICAの職員や青年海外協力隊の活動をしている人との交流もあり、きっと今回の仕事をする決心に随分と役立ったのであろう。
ムスメの友人はお母さんは許してくれるでしょうと言っているが、考えて見れば
遠い昔、デパートで言われた占い師の言葉はずっと胸の中に残っていたのである。
ムスメは何度も海外で暮してきた。
ムスコも今夫婦で海外勤務をしている。
友人や私の兄妹からは女の子をアフリカで働かせて大丈夫?母親として心配じゃないの?と非難めいた言葉を貰うが、戦地に行くわけではない。
メイドや警護付きの籠の鳥状態のアルジェリア時代よりずっと自由みたいである。

幼い子供たちを何度も何度も救急病院に運び、辛い経験を沢山して来たため度胸は出来ている。
自分達の行先を決めるのは子供たち・・・・。
今となると、子供のいない一人住まいを如何に健康に過ごせるかが、自分の最大の任務であると思う。
今年の夏は気候が変動しっぱなしであったが家族にとってまたまた変化がやって来た年になった。



ああ不愉快

2009年08月12日 21時08分08秒 | Weblog
今朝は仕事場に早く行こうと、高速道路を使った。
原村から諏訪南インターまで3分、原村にある諏訪南インターから諏訪インターまで11分そこから通勤バイパスで行っても、一般道路で30分の距離を相当短縮できる。

久し振りの青空、南アルプスと八ヶ岳がそれは青々と美しく、心は浮き浮きして来る。
南インターから入った途端、ええっ何?動かぬこの車の列は・・・・・。


やっと入れてもらって、見渡したものの、車はびっしり、車庫状態。
インターでの表示はされていなかったし、知らないからこそ、勢いよく高速道路に入ってきたが、どうする?
そろそろとしか動かぬ車のナンバーを見ると、八王子、名古屋、横浜、埼玉、品川、練馬と現地のナンバーは見当たらずなんでこんなに早い時間にと思ったら、そうだお盆休みか。
そういえば地震で東名は路肩が崩れ通行止めとか言っていたから
迂回か。
となると大変なことになった。
遅刻は免れない。
ずるずる、原バス停まで40分かかる。
途中の標識に事故渋滞と見えてきた。
ラジオで諏訪インター付近でバスとトラックが衝突したと流れ、覚悟が出来た。
原バス停まで兎も角と思っているうちに路肩を走る車が増えてきた。
バス停でトイレ休憩をする車かと思ったが、ビュんビュン飛ばして行く。

やっとバス停付近までたどり着いたがバス停を飛ばして行く車がノンストップだ。
そのまま、走行車線にウインカーを出し入ってくるではないか。追い越し車線はするする走っている。
走行車線は入って車を入れるためブレーキランプの付いたままの車がじゅつつなぎ。

やっと判った。
後ろから続いている車が、路肩を走りバス停でショートカットし横入りして、ごぼう抜きしているのだ。
何と言うずるさ。
入ってくる車を見ると、何と初心者マークまでいるし若いジョシもいるし、ぐいぐい入れろと突っ込んでくる。

その横入りしてくる車を入れるためスピードを落とし渋滞が作られているのである。
バス停付近が過ぎたら、渋滞が解消され、ぐんぐんスピードを出して
走り始めた。
諏訪インターでは降りる車は無く、皆松本方面へ去っていった。
衝突したバスとトラックは片付けられ、何事も無かったように見える。
インターを降りて通勤道路を飛ばし、職場へは30分の遅刻となった。

車の中では後悔と、怒りの感情を散々味わった。
渋滞の中で少しでも先に出ようと、浅ましいことをやってどのくらい時間が短縮できるか、それよりも疚しさが先立たないか、ドライバーはマナーが物言うのに人間のいやらしさを見た朝となった。

夕方仕事が終わり、帰る車のラジオから今朝の事故の様子が流れた。
バスとトラックは朝の3時ごろの事故で、その後続いて中央道では関連事故が8件続いたそうである。

最後の赤紙配達人

2009年08月10日 23時23分57秒 | Weblog
滋賀県大郷村から赤紙を受け取り出征していった若者と配達人の苦悩を伝えるドラマを見た。

西邑仁平さんという実在の人物を通し、生き証人の口から伝えられる言葉、遺族、それぞれの重い当時を語る言葉・・・・・。
涙が自然ににじんで来て、どうにもならない。
自分も戦後生まれとはいえ、
戦後の幼い毎日にも貧しい記憶、ラジオから流れる尋ね人の時間、などいまだに思い出すことが出来る。

終戦記念日は毎年やって来る。
原爆、ヒロシマ、ナガサキと人々の記憶を繋ぎとめ、戦争の悲劇は繰り返されることがないようとの永遠の願いは続く。
どの画面を見てもうっと胸に来るものばかりで眼が離せなかった。

今日のドキュメントは吉岡秀隆の眼と体での演技から流石に良く作られた作品で想いが奥深く伝わってくる。

現在104歳の赤紙配達の仕事をしてきた西邑さんの言葉の苦悩の伝言は何にも替えがたい力であった。
しんどかったが光ったドラマである。

親の心とは

2009年08月09日 23時11分42秒 | Weblog
朝、大急ぎで朝食を済ませあたふたと車で須玉まで飛ばし、友人のお見舞いを済ませた。
お昼過ぎ、ムスメは奥飛騨の勤め先まで戻って行き、
Jマートで買い物を済ませたあと不安定な空模様を気に掛けながら畑の作業を始めた。
梅雨明けを聞いてからずっと数週間雨が続き、先週の月曜日、僅かに晴れ間が覗いた。
しかしその夜から今度は毎晩夜になるとゲリラ豪雨の繰り返しで、立秋に入ってしまった。
今日は僅かな晴れ間の中、畑の手入れを行なった。
雨続きのお陰で雑草はやりたい放題伸び、トマトは立ち枯れ、どこから手をつけて良いやら・・・。
絶対サボっていなかったのに、行った先で座り込み、これまでやっていた仕事を忘れ散漫なる仕事ぶり。
汗を飛ばしながら、がむしゃらに、手当たり次第目の前の作業を片付けていると、あららら・・・・
もう夕方の6時のオルゴールが火の見やぐらから流れて来る。

ずっと午後から畑に入りっきりであったが、心がずんと重く色々別なことを考えてみても変わらない。
過去に同じような気持ちでいた時があった。
昨年、カナダから帰って来るときの機内でのあの時。
ムスメとバンクーバーで別れた時と同じだ。

昨日帰宅してこれから先の仕事について話し、ムスメとしては半年かかって準備して手にした仕事であり、親としては心配はあってもこれまでと似た様なこと、
世間にお役に立つならと物分りの良い事を見せた。
けれど実際、独りになり、でかけて行ったムスメが後半年もしたら遠いアフリカか・・・・と思うと物分りの良い筈が本当は違っていたのだ。

親心は複雑だ。
やわい弱い心を隠して、その上からコンクリートを流しこむことをやってのけることをする。
強いハハを演じて実はそうは行かないものであることを、今日も畑で何時間も農作業をしても心は晴れないため自分の心を鏡で覗いてしまった。

外は既に秋の気配でまだ8月なのに秋の虫が鳴いている。

過ぎし日々

2009年08月08日 13時49分30秒 | Weblog
季節は微妙にその時その時で思い出を振り返らせてくれる。
今頃になると、丁度カナダでロッキーの山でトレッキングをしていたなぁとふわっと甘い気持ちに浸っている。
だが、それは瞬時のことで又すぐに今の自分に戻り忙しい忙しいと休めていた掃除の手を再開したりする。

昨年の今頃は家族3人(嫁も含む)それぞればらばらで暮していた。
息子は突然、シカゴへ赴任することになり、短い準備期間で慌てて
出国して行った。
英語会話能力もそこそこにである。
行けば何とかなるさ精神で半分破れかぶれであった。

娘はというと、カナダからこれも天からのお恵みかロンドンとアルジェリアの行ったり来たりの勤務に就いた。
母親だけがかけ離れて信州の村での生活で、親子の文化の差は非常に大きかった。

それぞれが6月から生活の場を異にし、苦労を背負った。
息子は日本人がいない職場でいきなり英語での専門の仕事でちんぷんかんぷん。

娘も北アフリカの中でセキュリテイ上ガードマンつきメイドさん付きで飛行機での移動しながらの勤務。
車は危険な国であるから、一人では行動できない、籠の鳥状態。
これも英語とフランス語だけの毎日。

母親は定年を終えて再び再就職し、新しい勤務地で経験の無い仕事に就きマニュアルを覚えるのに必死で、追いつかず自分を呪い辞めようかと悩む毎日であった。
都会から来た人はだから駄目なのねと言われるのが悔しくて続いたようなものだ。

住む国が違いながらそれぞれ思い悩み辛い日々を送った。
悩むことは学ぶことであり、時間と共に環境に順応して行くものである。

息子は1年も経つと環境にも何とか慣れ、現地の勤務者とのやり取りも慣れ、いつしか当たり前の日常を送っている。

娘も苦難のアルジェリアの生活を終えて帰国した。
今信州で美しい環境に解け込もうとしている。

母も仕事には慣れてこれまでの長い都会での仕事と異なって
長野県の中での多くの人々に接することにより自分が役立っていると言う実感を味わっている。

1年の月日は短いか長いか、辛い最中は長いと思ったが、過ぎてみるとそれぞれ家族が次のステップに立っており、短い時間であったかもしれないと思うようになってきた。

八ヶ岳薪能

2009年08月03日 22時30分08秒 | Weblog
昨日まで雨が続き、しかも週末の2日間はゲリラ豪雨で道路が川になってしまうほどの降り方であった。
今朝起きたら、雨雲は無くなり青空になっていた。
急激に夏がやって来て午後は焼け付くような暑さがやって来た。
例年北杜市の身曾岐神社の能楽堂で8月3日に八ヶ岳薪能が奉納される。
今回は月曜日にあたった。
午後から休暇を取り、午後3時半開場のため車で諏訪から大急ぎ、小淵沢まで走った。
雨天決行を昨日まで予測していたが、流石に神様の集う森は青空が広がり、能楽堂の池では鯉が跳ね、周りの森ではひぐらしの蝉時雨となった。
日本一の能楽堂は1,500人くらいの観客が集まっている。
中高年の女性客、しかも多分平均年齢50歳代後半と見られる。

VIP席では市長や衆院議員、歌手のゆず、と様々。
今回の題目は能の西王母、狂言の清水、能の鞍馬天狗である。
これで移住して来て3回目の能を見るが、これまで平家物語や源氏物語に由来するもので物悲しさを味わっていたが、今回は若い継承者を中心に演じられていた。
世阿弥生誕100年目という記念の年で武蔵野大学の増田先生の解説があり、世阿弥の初心忘れるべからずの精神を説いていた。
人間常に生きている限り、初心であるべきで、60才を過ぎたら直線コースの仕上げ時期になるという。
もう年だからなどと引っ込んでいてはいけない。

約2時間半に亘り鑑賞したが、天候、周囲の環境、重厚な能舞台、暮れてからの篝火、全て夏の夜の贅沢な幽玄の世界に浸ることが出来た。
能の舞台を日常見る機会がないがこうして夏の八ヶ岳の麓でのイベントとして毎年鑑賞できるので、積み重ねをしていけば良いのであろう。
東京方面からの客が多く、これだけの観客が一斉に終了後車でそれぞれ戻っていくのだが、方向が違うのであろう、真っ暗の夜道を原村へ到着するまで前後の車もなく走った。
余韻が残ってこれもまた良かった。


あの頃・・・・・

2009年08月01日 17時06分38秒 | Weblog
土曜日。
お天気が悪いため、家事を詰め込まず(畑での作業が出来ない)午前中、シカゴの息子夫婦とスカイプの通話で近況を知り、
次に繋がったフランクフルトの姪と時間気にせず話が出来、離れたそれぞれの生活が確かめられた。
こちらはお昼過ぎ、シカゴは夜10時頃、そしてフランクフルトはおはようと言って出て来た。
休日はいつもより時間が過ぎていくのが早い。
あれもこれもとその度に手を付け、冷蔵庫の中身まで引っ張り出して掃除をしたら夕方になっていた。
外は雷と共に豪雨でひどい降り方である。

犬の首輪に付いていた、鈴が取れて床に落ちていた。
インド製の音が澄んできれいな音が気に入って2匹のそれぞれの首輪につけていた。
落ちた鈴をさあ何で又首輪につけようかと、針箱を覗いた。
最近針箱とは縁遠く、ボタンをつける、かぎ裂きを繕う、
という作業が日常生活から消えうせものが豊富になり、手作業する場面が無くなってしまった。
針箱を探すと、レース糸が出て来た。
傍には鈎針が何本かある。
手にとってレース糸を鈎針で、鎖編みをしてみた。
ああ、まだ忘れていない・・・・・。

ふと思いは遠い昔に戻って行った。
初めて毛糸で鈎針を持って長編みで、小さな手提げ袋を編んだのが小学6年生。
それからどんどん、有り余る時間の中、
鈎針で中学生や高校生の頃の夏の自由課題はレースのテーブルセンターを仕上げて提出していった。
あの頃は一枚一枚のドイリーを繋げては、大きなセンターに広がって行った。
パイナップル模様などもあったっけ。
いまや100均でその手のレースは買えるが、あの時代に仕上げたテーブルセンターだ一体どこへ行ったのだろう?
あの暑い福島での中高時代にあの集中力はいまだに感動ものだ。
と思いながら、そうだ高校時代には夢を持って将来に想いを馳せていた。

今60代を通過中、あの夢は全く違った方向へ来て、これで良かったのだろうかと
思いはするが、後悔はしない。
夢中で選ぶことも無かったかもしれないし目の前に来た事象を受け取りながら此処までやって来たのだ。
子育てや、仕事や、移住などは考えに考えながらやって来たと思っているから後悔していないのであろう。
そんなことを僅かな時間で振り返って、レース糸から繋がる思い出って、
深海の底から浮き上がってきたような、普段思いつくことも無い思い出である。

歳を取ったら、林の中の木漏れ日で犬が傍で眠り、
私はレース編みや、セーターや刺繍をしながらゆっくりとした時間を送りたいと夢を持っていた。
今その環境を手にしていながら、その頃考えることも無かった体の衰えが、良くわかった。

眼だ。

眼が細かい物を見るには老眼鏡のお世話にならねばならない。
すいすい何の疑いも無くはかどっていった手作業は
今や、鈎針を持って鎖編みをすることさえ眉間に皺を寄せながら、のことで遠い若い時代の夢は、今やかなりの決心が必要になっている。
ついでに感傷的な自分のこころの延長で
、You Tubeで神田川やいい日旅立ちなどを聞いて豪雨で白く煙っている外の景色を見ていた。
こんな小さな想いも休日の日だからこそ出来たことかもしれない。