礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日ソ中立条約と帝国外交の本心

2025-04-13 00:09:28 | コラムと名言
◎日ソ中立条約と帝国外交の本心

『人物往来』第5巻第2号(1956年2月)、「昭和秘史・戦争の素顔」特集号から、尾形昭二執筆の「謀略の陥穽・日ソ中立条約」という記事を紹介している。本日は、その三回目。

  本心を曝露した帝国外交
 だが日本外交の失敗はそれだけではない。
 そもそもソ連に日ソ中立条約廃棄の口実をあたえ、その有効期間内にこれを無視する権限を許したのは、ほかならぬ日本外交の責任なのである。
 松岡〔洋右〕外相が一九四一年(昭和十六年)の四月、モスクワでスターリン首相と中立条約を締結したのは、まずこれによってアメリカに圧力を加えて、アメリカをして日本のアジアにおけるフリー・ハンドをみとめさせ、その「後顧の憂い」をたって、その枢軸外交、日独防共協定の本来の目的であるソ連打倒、その日独による分割支配を企図するものであった。その証拠には、松岡は日ソ中立条約締結直前のドイツ訪問で、ドイツのソ連攻撃が目前にせまっていることを知っていたばかりか、三月二十九日のリッペントロップ外相との会談で、ドイツがソ連を攻撃する場合、「日本は消極的態度はとらない」ことを約束までしていたからである。いいかえると、日ソ中立条約の締結は、ソ連に敵対しないという日本の外交政策からでたものではいささかもなく、反対に、これによって、アメリカをおさえて、ソ連を討とうという、ソ連だまし討ちの謀略にほかならなかったのである。それはなかなか考えた手だったとはいえる。しかしここでも枢軸一辺倒、ファッショ・ドイツ過信の思いあがった日本外交は、あまりにも早くその本心をソ連のまえにむきだしてしてしまったのである。
 一九四一年の六月二十二日、日ソ中立条約締結から二ヵ月、ドイツは日本に予告したとおり、ソ連に侵入した。そこでソヴェト政府は、時をうつさず、六月二十五日に、駐日大使を通じて日本政府に、日本は中立条約にしたがい中立を守るかどうかを照会した。このとき松岡は、あのヨーロッパを一瞬にして席捲した無敵のドイツ軍、その一六〇ないし二〇〇箇師をソ連に振りむけることができるという、訪独時のリッペントロップの豪語を思いうかべたのであろう。それに相手は人心の離反した共産国家だ、ひとたまりもあるまい、むしろこの際ソ連をおどしてドイツの作戦をたすけ、日本もバスにのる用意をするのが得策だと考えたのであろう。そのソ連政府の照会に「然るべく」回答するかわりに、とてつもない返事をぶっつけてしまったのである。すなわち「日本外交の基本は三国同盟(日独伊――筆者)である。したがって中立条約がこの基本と三国同盟と両立しないときは、中立条約は効力をもたないであろう」と。これではソ連はたまったものではない。それは日本のドイツ援助、対ソ中立放棄の明瞭な言明だからである。

  白昼夢・日本の謀略
 ついで七月二日の御前会議では、独ソ戦が有利に展開した場合、「われわれは北方問題解決のため武力に訴え、北方の安定を期すべし」という決定がなされた。ゾルゲでソ連は知らぬはずはない。そして九月二十五日には、折から期限満了の日独防共協定――ソ連が対ソ軍事同盟だと考えている――がおおっぴらに五年間延長されたのである。こんな「申立」が通用するわけがない。
 そこで他方、日ソ中立条約の締結によってひっこますはずのアメリカも、日本の真意を見ぬき、いいかえると、日本の膨脹を警戒しだし、その結果、妥協どころか、かえってますます強気となり、このため、日本はソ連にうっかり手もだせなくなり、ここに日本の謀略は早くも逆の効果をうみ、ついに眼ざすソ連とではなく、反対に、ソ連打倒のためにひっこまそうとしたアメリカと戦争をおっぱじめる破目となったのである。
 しかしアメリカと戦争をはじめる破目となっても、緒戦の戦果によりかつドイツの力を盲信していた日本は、その対ソ強硬態度を改めるどころか、反対に、ますます虎視眈々、対ソ・バスにのりおくれまいとしていたのである。一九四二年の二月には満ソ国境に約一〇〇万の兵力を集結し、有名な「関特演」〔関東軍特殊演習〕の名で対ソ作戦を準備し、さらに対ソ占領地行政計画(法令から宣伝用ポスターにいたるまで)用意し、占領地要員を要請し(外務省の私の部屋からも言葉の関係上、人員が提供されていた)、中央では、一九四二年に東条がオット・ドイツ駐日大使に、ウラジオの奪取を豪言し(極東裁判記録)、あるいは、政界・軍部の要人で組織された「国策研究会」が、一九四三年の五月に発表した『大東亜共栄圏計画』のなかで、「大東亜共栄圏の合理的な範囲」として、公然とバイカル以東と外モンゴルをあげる。といった具合いであった。
 これで日本はソ連の中立を期待していたというのである。そしてソ連の対日参戦は「厳存する」中立条約の「違反」だというのである。虫のよい話である。ソ連の文献はのべている。日本はあらゆる面で中立義務を犯していた。ソ連を攻撃しなかったのは、攻撃できなかったからにすぎないと。まことにそのとおりであり、日本の謀略の見事な失敗である。しかもなさけないことは、日本のこの謀略は、ソ連の軽妙な謀略に完全にしてやられていたのである。〈96~98ページ〉【以下、次回】

 文中、「リッペントロップ外相」の表記は、原文のまま。厳密には「リッベントロップ」とあるべきだが、「リッペントロップ」となっている文献も多いのは、日本語では、そのように発音されていたからであろう。リッベントロップのフルネームは、「ウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ: Ulrich Friedrich Wilhelm Joachim von Ribbentrop」。

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重光外相を中心とする外務省幹部の「希望観測」

2025-04-12 00:29:39 | コラムと名言
◎重光外相を中心とする外務省幹部の「希望観測」

『人物往来』第5巻第2号(1956年2月)、「昭和秘史・戦争の素顔」特集号から、尾形昭二執筆の「謀略の陥穽・日ソ中立条約」という記事を紹介している。本日は、その二回目。

  「枢軸礼讃」外交の悲劇
 それは、右にのべた、当時の藁をもつかみたい気持ちに多分に支配されたによるものであるが、しかしなんといってもそのいちばん大きな原因は、それだけにこの時期に大切な国際情勢を適確に判断する見識に欠けるところがあったからによるものであった。ではそれはどこからきたか。
 それは、今の「自由国家礼讃」と軌を一〈イツ〉にする当時の「枢軸礼讃」外交の国際情勢にたいする「読み」の「狭さ」である。いいかえると、枢軸ドイツの「不敗」を「盲信」する日本外交が、世界の情勢の発展を正しくつかむことができなかったからによるものである。すなわち日本外交が柄軸ドイツの「不敗」を「盲信」する結果、今次の大戦が、米英軍がイタリアに上陸し、イタリアが枢軸から脱落して以来、その様相をかえたこと、すなわちそれはもはや米英ソの対枢軸戦ではなくなり、じつはすでにドイツ、ひいては日本の敗北を前提としたソ連と米英の熾烈な争覇戦に転化したことを、したがってソ連はアジアにおいても、米英、ことにアメリカが、日本ひいては中国を独占支配し、その結果、その銃先き〔ママ〕が直接ソ連の国境に突きつけられる事態がおこることを座視するはずがないことを、見ぬくことができなかったによるものである。そして私が想定したソ連の早期対日参戦すなわち、日本の対米敗北(それはもはや明白であった)の可能性は、まさにこのような戦争の様相の変化、国際情勢の発展を基礎とするものだったのである。そしてそれを裏づけるものとして枢軸国との戦争を相手の無条件降伏まで「共同して」遂行することを明らかにした一九四三年(昭和十八年)十月三十日の米英ソのモクワ共同宣言、その発展としてはじめて日本を「侵略者」と規定した一九四四年十一月六日の革命記念前夜祭のスターリン首相の演説をあげることができたのである。そしてソ連の日ソ中立条約廃棄の通告は、まさにこのスターリンの言明をうけてなされたのである。だからそれはソ連が対日参戦を意図し、そのためになされた手続とみるべきだったのである。だが重光〔葵〕外相を中心とする外務省幹部の右の会議は、これを全く「反対」に「希望観測」したのである。まさに小田原評定以下で、「枢軸礼讃」の片寄った判断のしからしめるところである。
 このため日本は、事もあろうに、米英との斡旋をソ連に依頼するため、近衛〔文麿〕を特使に仕立ててモスクワに派遣方を申入れるという大失敗を仕でかし、そしてソ連が参戦するや周章狼狽し、強剛を誇った関東軍も不意をうたれてひとたまりもなく手をあげるという醜態をさらけだしたのである。〈95~96ページ〉【以下、次回】

 文中、「銃先き」は、原文のまま。あるいは、「鉾先き」の誤植か。

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私だけが「ソ連は参戦する」という見解だった(尾形昭二)

2025-04-11 03:23:12 | コラムと名言
◎私だけが「ソ連は参戦する」という見解だった(尾形昭二)

 部屋の片づけをしていたところ、『人物往来』の第5巻第2号(1956年2月)が出てきた。「昭和秘史・戦争の素顔」という特集になっている。
 この特集号から、
尾形昭二(当時・外務省調査局ソ連課長)が執筆した「謀略の陥穽・日ソ中立条約」と題された記事を紹介してみたい。

   謀略の陥穽・日ソ中立条約
    ――条約廃棄によりソ連参戦必至を叫ぴ失笑を
        買った筆者は当時外務省ソ連課長! まん
          まと計略に踊った露国外交の裏面を公表

                  尾 形 昭 二【おがたしようじ】

  小 田 原 評 定 以 下
 陽ざしは温いが、肌寒い会議だった。
 昭和二十年〔1945〕の桜もたけなわの四月の上旬。場所は外務省の会議室。主宰者は小磯〔国昭〕の「時の人」今と同じ重光〔葵〕外務大臣。参加者は当時の外務次官、現駐英大使西春彦、当時の政務局長、現駐土〔トルコ〕大使上村伸一〈カミムラ・シンイチ〉、当時の欧亜局長、現駐メキシコ大使久保田貫一郎、当時の調査局ソ連課長の私、それにロシア通というので特に招請された今は故人の元駐ソ大使館参事官、元駐波〔ポーランド〕大使の酒匂秀一〈サカワ・シュウイチ〉。議題はほかでもない。去る四月五日附でソ連外相モロトフからわが駐ソ佐藤〔尚武〕大使に手交された「日ソ中立条約廃棄にかんする覚書」の意義。具体的にいうと、ソ連は同条約の有効期限である翌昭和二十一年〔1946〕の四月まで中立を守るかどうかであった。
 会議は重苦しい雰囲気のうちにすすめられた。もはや敗戦の色は濃く、日本がもちこたえられるかどうかが、ソ連が中立を守ってくれるどうかに多分にかかっていたからである。会議は一時間以上もつづいた。そして私をのぞく全員の意見は、ソ連は条約の有効期限中は中立を守るだろうというにあった。ただ私だけが「ソ連は参戦する」という見解だった。だがそれは一座の「失笑」をかっただけで、会議は日本に望ましい結論でおわった。だがこの観測は、見事にはずれたのである。〈95ページ〉【以下、次回】

 最初のほうに、「今と同じ重光外務大臣」とある。この「今」とは、言うまでもなく、この特集号が発刊されたときの「今」である。重光葵(しげみつ・まもる)は、当時、第三次鳩山一郎内閣で外務大臣(第77代)の職にあった。

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しかして看読写作の四者ともに全し(曾国藩)

2025-04-10 01:58:51 | コラムと名言
◎しかして看読写作の四者ともに全し(曾国藩)

 本日は、曾国藩『曾文正公家訓』のうち、同治五年(1866)正月十八日の条を紹介してみたい。この条は、その字句について、河上肇が疑問を抱いたところである(4月2日の当ブログ参照)。
 引用は、武内義雄訳『曾文正公家訓――児らへの手紙』(武内義雄全集第6巻『諸子篇一』)より。

     九五 同治五年正月十八日(一)
字もて紀鴻に諭す。爾(二)、柳帖琅邪碑【りゆじようろうやひ】を学ぶ、その骨力【ちから】を効【なら】へば則ちその結構【かたち】を失ひ、その開張【かたち】有【あ】れば則ちその■搏【ちから】なしといふ。古帖は本より学びやすからず、然れども爾これを学ぶはなほ旬日にすぎず、烏【な】んぞよく衆美畢【ことごと】く備はり、効を収むることかくのごとく神速ならんや。余、昔、顔柳帖を学ぶ、臨摹【りんぼ】動【やや】もすれば軏【すなは】ち数百紙にして猶ほ且つ一も似るところなし。余四十以前京にありて作れる字、骨力も間架も皆観るべきなし。余自ら媿【は】ぢてこれを悪【にく】む。四十八歳以後、李北海岳麓寺碑(三)を習ひてやや進境あり。然れども業【すで】に八年の久しきを歴【へ】て、臨摹已に千紙をすぐ。今、爾、功を用ひる未だ一月に満たずして、遂に遽【には】かに神妙に躋【のぼ】らんと欲するか。余は凡ての事において困知【こんち】励行の工夫を用ふ。爾、名を求むること太だ驟【にはか】にして効を求むること太だ捷【すみや】かなるべからず。以後毎日柳字百個を習ひ単日(奇数の日)には生紙をもつてこれを臨し、双日(偶数の日)には油紙をもつてこれを摹せよ。帖を臨するには徐にすべし、帖を摹するには疾くすべく(四)、専らその開張の処を学べ。数月の後、手愈々拙く字愈々醜く、意興愈々低かるべし、これ謂はゆる困なり。困する時切【かなら】ず間断することなかれ。此の関を熬過【たへしのべ】ば便ち少進すべく、再び進めば再【また】困【くる】しみ、再び熬【しの】べば再【また】奮ひて自ら亨通精進の日あるべし。特【ただ】に字を習ふのみならず、凡ての事皆極困極難の時あり、打し得て通ずれば便【すなは】ち是れ好漢。余、爾に責【もと】むるところの功課はすべて多事【おほき】にあらず。毎日字を習ふ一百、通鑑を閲する五葉、書を誦熟する千字(或いは経書、或いは古文古詩、或いは八股試帖。従前書を読めるは即ち熟書となす、総【すべ】てよく背誦するを以て止【し】となせ、総べて高声朗誦すべし)、三・八の日には一文一詩を作れ。此の課極めて簡、毎日両個時辰【にじかん】を過きずして完畢【かんひつ】すべく、而して看読写作の四者倶に全し。余は則ち爾自ら主張を為すにまかせて可なり。
爾の母全家をもつて周家口に住せんと欲すといふも断じて行ふべからず。周家口は河道はなはだ窄く、永豊と相似て余の周家口に駐するも亦た長局にあらず。決計【はかる】に、全眷湘にかへり、紀沢は全行の復元をまちて二月初めに金陵にかへり、余は初九日において程を起すべし、此れ嘱す。
(一) この一信、第二五信と対照して見よ。
   (二) 柳帖琅邪碑 金の時代に柳公権の字をあつめて刻立した折州普照寺の碑をいう。その出来映えがよいので、有名な元秘塔なども、これに比べると復刻だろうという説さえある。
   (三) 李北海岳麓寺碑 李北海は中国の書家。名は甾、字は泰和。玄宗朝に北海の太守と成ったので李北海と呼ばれる。その書の著名なものは岳麓寺の碑と雲麾将軍李忠訓碑とで、ことに前者は北海自書自刻で筆勢のすぐれていることは第一だといわれる。碑は今長沙岳麓寺書院に保存されている。
    (四) 帖を臨するは徐ろにすべく、帖を摹するは疾くすべし 臨帖はその骨力を学ぶを主とするから、ややもすれば軽姚に失する、ゆえに徐ろにかくべし、摹帖はその開張を習うゆえに滞に失する、ゆえに疾くしてその失をたむるを要す。〈450~451ページ〉

 文中、■は、ワードで出せなかった。「手偏に完」という字である。

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武内義雄による『曾文正公家訓』の紹介

2025-04-09 01:39:54 | コラムと名言
◎武内義雄による『曾文正公家訓』の紹介

 今月3日のブログで、清末の政治家・曾国藩に『曾文正公家訓』という著書があること、同書には、武内義雄(1886~1966)による翻訳があることについて触れた。
 本日は、武内義雄訳『曾文正公家訓――児らへの手紙』(1948)の「はしがき」を紹介してみたい。出典は、武内義雄全集第6巻『諸子篇一』(1978)である。

   はしがき

 この書は清朝末期の偉人曾国藩【そうこくはん】が児らに与えた手紙をあつめて家の訓としたもので、原本は「曾文正公家訓」と題しているが、今は便宜上「児らへの手紙」と改題した。
 曾国藩、字は泊涵【はくかん】、滌生【じようせい】と号し、文正公と諡【おくりな】された。湖南湘郷の農家に生まれたが、はやくから学問に志し、官途について礼部侍郎にすすんだ。咸豊二年〔1852〕、母の喪に服して郷里に引き籠っていると、たまたま太平天国の乱が起こって、広東から北上して湖南に入り、長沙を陥れて岳州にすすみ、長江を下って武昌・漢陽・九江・安慶・蕪湖・太平を屠【ほふ】ってついに南京を占領した。これをみかねた曾国藩は慨然身を挺し、義勇軍を募ってその平定にのり出した。この大乱は咸豊十一年〔1861〕南京の恢復で終結したが、公はその後も捻匪の粛清に従事して前後十三年間を戦陣の間に過ごした。ここにあつめられた手紙はみなこの戦陣から送られたもので、一つ一つの手紙はすべて遺言状ともいわるべきもので、真情の発露するところ、熱涙の迸【ほとばし】るところ、読者を感泣せしめるものがある。
 かつて京都大学に学んだころ、友人山崎君が病のため休学を決意して、恩師狩野君山〔直喜〕先生を訪ねたとき「何か心の糧〈カテ〉になるような書物がよみたい」と訴えると、先生はしばらくお考えになったのち、「これでもよんで見ては」とこの本を頂いたと、この本を前にして君はかたった。そこで私もまたこの書一部を購【あがな】い求めてよんでみた。よみえないところも少なくはなかったが、なるほどよい書物だと感じた。爾来この書は私の愛読するところとなった。
 その後大阪につとめて吹田〈スイタ〉に住んだとき、土地の有志とこの書を輪読し、後また懐徳堂の講本にこれをつかって聴講の諸君からよろこばれた。中の一人はこれほど面白い本はかつてよんだことがないとまでいってくれた。しかし私はこの書を講了しないで仙台にうつった。昭和三年〔1928〕仙台放送局が設けられて間もないときのことであった。私は局のすすめにしたがって、この書の十一篇を選んでマイクに向かったが、その間数通の手紙をもらった。中の一通に「自分の家では夕食を終った食卓のまわりに全家族があつまってあなたの放送をきくのをたのしみにしている、どうか家訓全部をつづけてきかせてもらいたい」という意味がかかれてあった。私はいまさらながらこの書の価値と曾公の偉さを知った。そうしていつか全書を邦訳して世に送りたいものだと考えたが、それは容易に実現されなかった。
 終戦後、私は東京にうつりすんで、ある世家の二階に寄寓したが、そこには永く居られなくなり、百方手をつくして家をさがしたが見つからず、ついに家族を国元にかえして単身石神井学園長堀文治君の世話になることとなった。ここに私は毎晩の日課としての手紙一通ずつを翻訳して無聊〈ブリョウ〉を慰めようと決心した。全体で百二十通、半年あまりで完了して、私の素願はみたされた。
 私はこの書によって三つのものを学び得た。第一に親たるものは児等の教育に、これほどまで熱心であらねばならぬかということを、第二にこれによって学問の仕方、読書の順序階梯を、第三に手本の選び方、字の習い方を悟ることができた。私は終生この書を愛読するであろう。そうしてこの翻訳ははなはだ拙いものではあるが、これによって同好の士が一人でもふえれば幸いである。
 私は翻訳にあたっていかなる体裁をえらぶべきかに迷うた。最初は口語体で行こうと考えたが、かくてはせっかくの名文をダイナシにする恐れがある、私はやはり原文のままよみ下した方が無難だろうと考えて遂にその方法に従った。そうして用語の意味はなるだけふり仮名ですませて、内容と引用文について少しばかり注を加えることとした。ただ慢然とよんでいるとさして難しくもないようだが、さて翻訳となると疑義が百出して、いまさらながら自分の読書力がなさけなくなる。どうしてもよめないと思ったところは注の中で断わっておいたが、よめたつもりのところにも誤をつたえるものがないとはかぎらない。こうした点は大方の教を仰いで他日の修正を期したい。
   昭和二十三年十二月            武内義雄

『曾文正公家訓』という本の魅力を、あますところなく伝えている。それにしても、武内義雄という学者は、文章がうまい。

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