◎日ソ中立条約と帝国外交の本心
『人物往来』第5巻第2号(1956年2月)、「昭和秘史・戦争の素顔」特集号から、尾形昭二執筆の「謀略の陥穽・日ソ中立条約」という記事を紹介している。本日は、その三回目。
本心を曝露した帝国外交
だが日本外交の失敗はそれだけではない。
そもそもソ連に日ソ中立条約廃棄の口実をあたえ、その有効期間内にこれを無視する権限を許したのは、ほかならぬ日本外交の責任なのである。
松岡〔洋右〕外相が一九四一年(昭和十六年)の四月、モスクワでスターリン首相と中立条約を締結したのは、まずこれによってアメリカに圧力を加えて、アメリカをして日本のアジアにおけるフリー・ハンドをみとめさせ、その「後顧の憂い」をたって、その枢軸外交、日独防共協定の本来の目的であるソ連打倒、その日独による分割支配を企図するものであった。その証拠には、松岡は日ソ中立条約締結直前のドイツ訪問で、ドイツのソ連攻撃が目前にせまっていることを知っていたばかりか、三月二十九日のリッペントロップ外相との会談で、ドイツがソ連を攻撃する場合、「日本は消極的態度はとらない」ことを約束までしていたからである。いいかえると、日ソ中立条約の締結は、ソ連に敵対しないという日本の外交政策からでたものではいささかもなく、反対に、これによって、アメリカをおさえて、ソ連を討とうという、ソ連だまし討ちの謀略にほかならなかったのである。それはなかなか考えた手だったとはいえる。しかしここでも枢軸一辺倒、ファッショ・ドイツ過信の思いあがった日本外交は、あまりにも早くその本心をソ連のまえにむきだしてしてしまったのである。
一九四一年の六月二十二日、日ソ中立条約締結から二ヵ月、ドイツは日本に予告したとおり、ソ連に侵入した。そこでソヴェト政府は、時をうつさず、六月二十五日に、駐日大使を通じて日本政府に、日本は中立条約にしたがい中立を守るかどうかを照会した。このとき松岡は、あのヨーロッパを一瞬にして席捲した無敵のドイツ軍、その一六〇ないし二〇〇箇師をソ連に振りむけることができるという、訪独時のリッペントロップの豪語を思いうかべたのであろう。それに相手は人心の離反した共産国家だ、ひとたまりもあるまい、むしろこの際ソ連をおどしてドイツの作戦をたすけ、日本もバスにのる用意をするのが得策だと考えたのであろう。そのソ連政府の照会に「然るべく」回答するかわりに、とてつもない返事をぶっつけてしまったのである。すなわち「日本外交の基本は三国同盟(日独伊――筆者)である。したがって中立条約がこの基本と三国同盟と両立しないときは、中立条約は効力をもたないであろう」と。これではソ連はたまったものではない。それは日本のドイツ援助、対ソ中立放棄の明瞭な言明だからである。
白昼夢・日本の謀略
ついで七月二日の御前会議では、独ソ戦が有利に展開した場合、「われわれは北方問題解決のため武力に訴え、北方の安定を期すべし」という決定がなされた。ゾルゲでソ連は知らぬはずはない。そして九月二十五日には、折から期限満了の日独防共協定――ソ連が対ソ軍事同盟だと考えている――がおおっぴらに五年間延長されたのである。こんな「申立」が通用するわけがない。
そこで他方、日ソ中立条約の締結によってひっこますはずのアメリカも、日本の真意を見ぬき、いいかえると、日本の膨脹を警戒しだし、その結果、妥協どころか、かえってますます強気となり、このため、日本はソ連にうっかり手もだせなくなり、ここに日本の謀略は早くも逆の効果をうみ、ついに眼ざすソ連とではなく、反対に、ソ連打倒のためにひっこまそうとしたアメリカと戦争をおっぱじめる破目となったのである。
しかしアメリカと戦争をはじめる破目となっても、緒戦の戦果によりかつドイツの力を盲信していた日本は、その対ソ強硬態度を改めるどころか、反対に、ますます虎視眈々、対ソ・バスにのりおくれまいとしていたのである。一九四二年の二月には満ソ国境に約一〇〇万の兵力を集結し、有名な「関特演」〔関東軍特殊演習〕の名で対ソ作戦を準備し、さらに対ソ占領地行政計画(法令から宣伝用ポスターにいたるまで)用意し、占領地要員を要請し(外務省の私の部屋からも言葉の関係上、人員が提供されていた)、中央では、一九四二年に東条がオット・ドイツ駐日大使に、ウラジオの奪取を豪言し(極東裁判記録)、あるいは、政界・軍部の要人で組織された「国策研究会」が、一九四三年の五月に発表した『大東亜共栄圏計画』のなかで、「大東亜共栄圏の合理的な範囲」として、公然とバイカル以東と外モンゴルをあげる。といった具合いであった。
これで日本はソ連の中立を期待していたというのである。そしてソ連の対日参戦は「厳存する」中立条約の「違反」だというのである。虫のよい話である。ソ連の文献はのべている。日本はあらゆる面で中立義務を犯していた。ソ連を攻撃しなかったのは、攻撃できなかったからにすぎないと。まことにそのとおりであり、日本の謀略の見事な失敗である。しかもなさけないことは、日本のこの謀略は、ソ連の軽妙な謀略に完全にしてやられていたのである。〈96~98ページ〉【以下、次回】
文中、「リッペントロップ外相」の表記は、原文のまま。厳密には「リッベントロップ」とあるべきだが、「リッペントロップ」となっている文献も多いのは、日本語では、そのように発音されていたからであろう。リッベントロップのフルネームは、「ウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ: Ulrich Friedrich Wilhelm Joachim von Ribbentrop」。
『人物往来』第5巻第2号(1956年2月)、「昭和秘史・戦争の素顔」特集号から、尾形昭二執筆の「謀略の陥穽・日ソ中立条約」という記事を紹介している。本日は、その三回目。
本心を曝露した帝国外交
だが日本外交の失敗はそれだけではない。
そもそもソ連に日ソ中立条約廃棄の口実をあたえ、その有効期間内にこれを無視する権限を許したのは、ほかならぬ日本外交の責任なのである。
松岡〔洋右〕外相が一九四一年(昭和十六年)の四月、モスクワでスターリン首相と中立条約を締結したのは、まずこれによってアメリカに圧力を加えて、アメリカをして日本のアジアにおけるフリー・ハンドをみとめさせ、その「後顧の憂い」をたって、その枢軸外交、日独防共協定の本来の目的であるソ連打倒、その日独による分割支配を企図するものであった。その証拠には、松岡は日ソ中立条約締結直前のドイツ訪問で、ドイツのソ連攻撃が目前にせまっていることを知っていたばかりか、三月二十九日のリッペントロップ外相との会談で、ドイツがソ連を攻撃する場合、「日本は消極的態度はとらない」ことを約束までしていたからである。いいかえると、日ソ中立条約の締結は、ソ連に敵対しないという日本の外交政策からでたものではいささかもなく、反対に、これによって、アメリカをおさえて、ソ連を討とうという、ソ連だまし討ちの謀略にほかならなかったのである。それはなかなか考えた手だったとはいえる。しかしここでも枢軸一辺倒、ファッショ・ドイツ過信の思いあがった日本外交は、あまりにも早くその本心をソ連のまえにむきだしてしてしまったのである。
一九四一年の六月二十二日、日ソ中立条約締結から二ヵ月、ドイツは日本に予告したとおり、ソ連に侵入した。そこでソヴェト政府は、時をうつさず、六月二十五日に、駐日大使を通じて日本政府に、日本は中立条約にしたがい中立を守るかどうかを照会した。このとき松岡は、あのヨーロッパを一瞬にして席捲した無敵のドイツ軍、その一六〇ないし二〇〇箇師をソ連に振りむけることができるという、訪独時のリッペントロップの豪語を思いうかべたのであろう。それに相手は人心の離反した共産国家だ、ひとたまりもあるまい、むしろこの際ソ連をおどしてドイツの作戦をたすけ、日本もバスにのる用意をするのが得策だと考えたのであろう。そのソ連政府の照会に「然るべく」回答するかわりに、とてつもない返事をぶっつけてしまったのである。すなわち「日本外交の基本は三国同盟(日独伊――筆者)である。したがって中立条約がこの基本と三国同盟と両立しないときは、中立条約は効力をもたないであろう」と。これではソ連はたまったものではない。それは日本のドイツ援助、対ソ中立放棄の明瞭な言明だからである。
白昼夢・日本の謀略
ついで七月二日の御前会議では、独ソ戦が有利に展開した場合、「われわれは北方問題解決のため武力に訴え、北方の安定を期すべし」という決定がなされた。ゾルゲでソ連は知らぬはずはない。そして九月二十五日には、折から期限満了の日独防共協定――ソ連が対ソ軍事同盟だと考えている――がおおっぴらに五年間延長されたのである。こんな「申立」が通用するわけがない。
そこで他方、日ソ中立条約の締結によってひっこますはずのアメリカも、日本の真意を見ぬき、いいかえると、日本の膨脹を警戒しだし、その結果、妥協どころか、かえってますます強気となり、このため、日本はソ連にうっかり手もだせなくなり、ここに日本の謀略は早くも逆の効果をうみ、ついに眼ざすソ連とではなく、反対に、ソ連打倒のためにひっこまそうとしたアメリカと戦争をおっぱじめる破目となったのである。
しかしアメリカと戦争をはじめる破目となっても、緒戦の戦果によりかつドイツの力を盲信していた日本は、その対ソ強硬態度を改めるどころか、反対に、ますます虎視眈々、対ソ・バスにのりおくれまいとしていたのである。一九四二年の二月には満ソ国境に約一〇〇万の兵力を集結し、有名な「関特演」〔関東軍特殊演習〕の名で対ソ作戦を準備し、さらに対ソ占領地行政計画(法令から宣伝用ポスターにいたるまで)用意し、占領地要員を要請し(外務省の私の部屋からも言葉の関係上、人員が提供されていた)、中央では、一九四二年に東条がオット・ドイツ駐日大使に、ウラジオの奪取を豪言し(極東裁判記録)、あるいは、政界・軍部の要人で組織された「国策研究会」が、一九四三年の五月に発表した『大東亜共栄圏計画』のなかで、「大東亜共栄圏の合理的な範囲」として、公然とバイカル以東と外モンゴルをあげる。といった具合いであった。
これで日本はソ連の中立を期待していたというのである。そしてソ連の対日参戦は「厳存する」中立条約の「違反」だというのである。虫のよい話である。ソ連の文献はのべている。日本はあらゆる面で中立義務を犯していた。ソ連を攻撃しなかったのは、攻撃できなかったからにすぎないと。まことにそのとおりであり、日本の謀略の見事な失敗である。しかもなさけないことは、日本のこの謀略は、ソ連の軽妙な謀略に完全にしてやられていたのである。〈96~98ページ〉【以下、次回】
文中、「リッペントロップ外相」の表記は、原文のまま。厳密には「リッベントロップ」とあるべきだが、「リッペントロップ」となっている文献も多いのは、日本語では、そのように発音されていたからであろう。リッベントロップのフルネームは、「ウルリヒ・フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・リッベントロップ: Ulrich Friedrich Wilhelm Joachim von Ribbentrop」。
*このブログの人気記事 2025・4・13(8・10位に、なぜか丸山眞男)
- 重光外相を中心とする外務省幹部の「希望観測」
- 私だけが「ソ連は参戦する」という見解だった(尾...
- 武内義雄による『曾文正公家訓』の紹介
- 細かい心使ひに博士の人柄が現はれてゐる(小島祐馬)
- しかして看読写作の四者ともに全し(曾国藩)
- 心事の一端を申上げました(河上肇)
- 引揚げ前、京都で博士にお目にかゝることが出来た...
- 丸山眞男と安藤英治
- 柳宗玄の「種樹郭橐駝伝」を読む
- 中間団体が抵抗権のとりでになる