◎満井佐吉の血をはかんばかりの絶叫
石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、同書上巻の「十八 陸軍空前の永田事件軍法会議」の章を紹介している。本日は、その六回目(最後)。
真崎大将の登場
前陸相・林〔銑十郎〕の喚問が終われば、次はそのライバル、前教育総監・真崎〔甚三郎〕の登場である。二月二十五日の第一師団司令部は、爆発せんばかりの緊迫した空気に包まれた。われわれ記者団もこの日の真崎の陳述に注目した。それは彼が総監を罷免された当時の真相を明らかにするとともに、反皇道派(宇垣〔一成〕、小磯〔国昭〕、二宮〔治重〕、建川〔美次〕)の企図した「三月クーデター」、省部の統制派系幕僚による錦旗革命事件を暴露するものと期待したからだ。ところが、どうだ。彼は非公開裁判が開かれたと思う間もなく、憤然色をなして退廷してしまったのだ。記者団はあっけにとられた。私もとまどいながら夕刊用のため鉛筆をとった。
「……満天下の視線を一点に集めつつ公判の開かれることすでに九回。きょうこそは被告の最も尊敬する前教育総監、現軍事参議官真崎甚三郎大将喚問の日である。さすがに熱心な一般傍聴人も劈頭〈ヘキトウ〉からの公開禁止を予想してかわずかに七名。見渡す限り廷内は私服憲兵の物々しい顔に占められている。問題の人、真崎大将は勲二等旭日章副章を佩用〈ハイヨウ〉。陣太刀型軍刀を帯びて午前九時半第一師団に到着した。同十時五分相沢〔三郎〕被告が出廷すると裁判長は被告の氏名点呼後、息もつかせず『これからの弁論は軍事上の利益を害する恐れありと認め公開を禁止する』と宣告、開廷一分で休憩。かくて同十五分、堀〔丈夫〕第一師団長に伴われながら、童顔に微笑を浮かべた真崎大将が、公判廷の奥深く吸い込まれ、非公開のまま再開されたが、午前十一時七分、突如、大将は興奮の色をたたえて退廷してきた。そして同二十分藤原〔元明〕副官を従えてサッサと帰ってしまった。これは裁判長がまだ休憩を宣しないうちなので、外部の人々は異様な感にうたれた。仄聞〈ソクブン〉するところによれば真崎大将は今度の喚問にあたり、公判廷の陳述が当然教育総監時代に知得した軍の秘密にわたるところから、これを陳述するのには『軍法会議法第二百三十五条』に則り、勅許を経べき〈フベキ〉性質のものと主張していた関係上、この日の軍法会議当局の処置について何らか不満を抱き、重要事項の訊問を忌避して退廷したものらしい(以下略)」。
もちろん、このニュースは社会面のトップ記事。「永田事件公判に突如大波瀾」といったトッパン横見出しをあしらって、「真崎大将が退廷、手続上に不満か、緊張の法廷に衝撃」と見出しに打ち出した。
軍法会議法第二百三十五条には「……国務大臣、元帥、参謀総長、海軍軍令部総長、教育総監、もしくは軍事参議官又はこれらの職にありしもの前項の申し立てをする時は勅許を得るにあらざれば証人としてこれを訊問することを得ず」との規定がある。そのため真崎は裁判長から召喚状を受けとると、勅許を得るよう強く軍法会議当局へ要請していた。ところが軍当局は、その措置をとらなかった。真崎はこれが不満だった。そして、勅許を得てから再喚問すべきである、との態度に出たわけだ。
満井弁護人の獅子吼〈シシク〉
かくて公判は午後一時七分再開、直ちに弁護人から「勅許奏請の手続きをとったうえで、真崎大将を再喚問してほしい」との申請があったが、裁判長はこれに留保を宣し、同十二分またも休憩。やがて定刻より遅れること三十五分、午後二時開廷。再び公開となった。
劈頭、まず弁護人・鵜沢〔聡明〕が発言を求めた。
「本件に関し被告の申し立てる重要な箇所をあげれば、真崎総監の更迭に関速して統帥権干犯の事実があったと強調している点である。弁護人としてはこの問題に関して、斎藤〔実〕内大臣の喚問を申請する。すなわち予審で示されたごとく、総監更迭の裏面に何らか内大臣の策動があったとのうわさがある。この事実を明らかにすることは、軍の明朗化のため、また斎藤内大臣のためにも必要である。なお大岸頼好〈オオギシ・ヨリヨシ〉大尉、菅波三郎大尉、赤塚理中佐、仙台の福定無外〈フクテイ・ムガイ〉師をも証人として申請する」
白髪をふるわせながら斎藤内大臣の喚問を訴える老博士の姿は悲壮そのものであった。
次に特別弁護人・満井〔佐吉〕が立ち上がった。彼はまず、「池田成彬〈シゲアキ〉、太田亥十二〈イソジ〉、木戸幸一、井上三郎、下園佐吉、唐沢俊樹ら六名を証人として申請したい」と、その理由を陳述した。そして、さらに「永田事件の根本原因は、社会機構の矛盾の持ち来たらせたものだ。昭和維新は歴史的必然である」と断じて、農山漁村の窮乏と国防の第一線をになう貧しい兵士との関係を痛憤、
「今や隊付青年将校は、無気力な軍上層部を信頼していない。この結果、昭和維新の叫びが起こったのであって、両者の確執は当然である。永田閣下は頭脳明晳、陸軍の偉材だったことは疑う余地はない。が、その企図したところは、政財界、官僚と握手妥協しつつ、修正的に統制経済を実現しようとしたものである。かかることは、すべて財閥団の支配力の作用するところにほかならない。重臣層もまた、統帥権干犯の常習者である。かのロンドン会詖においても、満州事変の朝鮮軍越境に関しても、時の一木〔喜徳郎〕宮内大臣は金谷〔範三〕参謀総長の上奏を阻止した。そのとき部内の局課長以上のものは総辞職しようとしたが、某将軍(筆者注、武藤信義教育総監をさす)の慰撫によりわずかに事なきを得た。最近、山本英輔海軍大将が国事を憂えるの余り、斎藤内府に対して善処の忠告を発したという事実さえあるではないか」
と前後三時間にわたって熱弁をふるった。法廷内の時計の針は、すでに午後五時を指していた。この間、裁判長は弁護人の激越な大演説にたまりかねたか、
「弁護人の論述は長くなるようだから、あとは書面で提出して欲しい」
と制したが、満井は色をなして一歩もあとへ引かない。
「裁判長閣下! 国家危急存亡のときであります。一時間や二時間時間をさくことが出来ませんか」
と食い下がる場面もみられた。
この日、皇道派の御大将真崎の出廷に加えて、満井の血をはかんばかりの絶叫は、何か無気味な影が忍び寄りつつあることを暗示していた。
一夜明ければ二月二十六日である。「満井弁護人起ち痛憤の長広舌」といった大見出しで飾られた新聞が各戸に投げ込まれるころ、一千四百名にのぼる軍隊が決起した。そして、帝都の空に〝昭和維新革命〟ののろしを打ち上げたのである。