礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

蹶起部隊は陸相官邸で川島義之陸相に要求をつきつけた

2019-04-30 03:58:08 | コラムと名言

◎蹶起部隊は陸相官邸で川島義之陸相に要求をつきつけた

 古谷綱正解説『北一輝「日本改造法案」』(鱒書房、一九七一)の解説〝二・二六事件と「日本改造法案」〟から、「二・二六事件の経過」の節を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。途中に、(中略)とあるのは、原文における中略である。

 この日早朝、野中四郎、安藤輝三〈テルゾウ〉、栗原安秀らの青年将校は、それぞれ所属の下士官兵を説得や命令(演習に出るという)によって動員し、歩兵第一、第三、近衛歩兵第三連隊などから、千四百名余りの兵力を出動させた。村中孝次、磯部浅一も、軍服に着かえて、これに加わった。
 この部隊は、数隊に分れて、首相官邸、警視庁、あるいは大官の私邸を襲って、斉藤〔実〕内大臣、高橋〔是清〕蔵相、渡辺〔錠太郎〕教育総監を殺し、鈴木〔貫太郎〕侍従長に重傷を負わせた。別動隊は、湯河原に牧野〔伸顕〕伯を襲ったが、牧野伯は逃れて無事だった。また岡田〔啓介〕首相は殺したつもりだったが、これは義弟の松尾伝蔵大佐であって、首相は無事だった。襲撃のあと、部隊は首相官邸、陸軍省、国会議事堂など、永田町の一帯を占領し、陸相官邸で川島義之陸相に要求をつきつけた。
 まず香田清貞〈コウダ・キヨサダ〉大尉が、「蹶起趣意書」を読みあげた。
「謹んでおもんみるに我が神洲たる所以は、万世一神たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生成化育をとげ、終に八紘一宇〈ハッコウイチウ〉を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天袓肇国、神武建国より明治維新を経て益々体制を整え、今やまさに万邦に向って開顕進展を遂ぐべきの秋〈トキ〉なり。
 然るに頃来〈ケイライ〉ついに不逞凶悪の徒簇出〈ソウシュツ〉して、私心我慾を恣〈ホシイママ〉にし、至尊絶対の尊厳を藐視〈ビョウシ〉し、僣上これ働き、万民の生成化育を阻害して、塗炭の痛苦に呻吟〈シンギン〉せしめ、随って外侮外患日を逐うて激化す。
(中略)
 内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮〈チュウリク〉して、稜威を遮り御維新を阻止し来れる奸賊を芟除〈サンジョ〉するに非ずんば、皇謨〈コウボ〉を一空せん。恰も第一師団出動の大命渙発せられ、年来御維新翼賛の誓い、殉国捨身の奉公を期し来りし帝都衛戍〈エイジュ〉の我等同志は、まさに万里征途に上らんとして、而も顧みて内の世状に憂心うたた禁ずる能わず。君側の奸臣軍賊を斬除して、彼の中枢を粉砕するは我等の任として能く為すべし。臣子たり股肱〈ココウ〉たるの絶対道を今にして尽さざれば、破滅沈淪を飜すに由なし。
 茲に同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝脳を竭し〈ツクシ〉、以て神洲赤子の微衷〈ビチュウ〉を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊こいねがわくは照覧冥助を垂れ給わんことを。」
 そしてこれに続いて、村中と磯部が要望事項を口頭で述べた。
 一、事態の収拾を急速に行うと共に、本事態を維新廻転の方向に導くこと。決行の趣旨を陸相を通じて天聴に達せしむること。
 二、警備司令官、近衛、第一両師団長及び憲兵司令官を招致し、その活動を統一して、皇軍相撃つことなからしむるよう急速の処置をとること。
 三、兵馬の大権を干犯したる宇垣〔一成〕朝鮮総督、小磯〔国昭〕中将、建川〔美次〕中将の即時逮捕。
 四、軍権を私したる中心人物、根本博大佐、武藤章中佐、片倉衷〈タダシ〉少佐の即時罷免。
 五、ソヴェト国威圧のため荒木〔貞夫〕大将を関東軍司令官に任命すること。
 六、各地の同志将校を招致し事態の収拾に当らしむること。
 七、蹶起部隊の警備隊編入、現占拠位置より絶対に移動せしめざること。
 さらに、このほか本庄〔繁〕、荒木、真崎〔甚三郎〕各大将を初め十九名を陸相官邸に招致することも要望した。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・4・30(なぜか1位に極めて珍しいものが)

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二・二六事件の経過(古谷綱正執筆)

2019-04-29 03:10:11 | コラムと名言

◎二・二六事件の経過(古谷綱正執筆)

 本年三月二八日および二九日、古谷綱正解説『北一輝「日本改造法案」』(鱒書房、一九七一)の解説〝二・二六事件と「日本改造法案」〟から、「二・二六事件と私」の節を紹介した。この解説は、この節のあとに、「二・二六事件の経過」という節が続く。本日は、これを紹介してみたい。この節はかなり長いので、数回に分けて紹介する。

  二・二六事件の経過

 二・二六事件はどうして起ったか、そしてその経過をざっとふりかえってみよう。
 当時の陸軍中央部は、林銑十郎陸相を補佐して軍政を推進する永田鉄山軍務局長が中核となり、これに中堅層の幕僚佐官級将校がつながって統制派と称せられていた。この中には当時の第二十四旅団長東条英機少将も加わっている。一方、十一月事件で免官となった村中孝次、磯部浅一(いずれも大尉)を中心に、在東京部隊の隊付〈タイヅキ〉下級将校(青年将校といわれる)たちは、荒木貞夫、真崎甚三郎両大将らをかついで、皇道派と称して、統制派と対立していた。(この皇道派の指導理論が北一輝の「日本改造法案大綱」なのだが、その点はあとでふれる。)このほか、荒木、真崎に反感を持ち、その排撃運動を起していた橋本欣五郎大佐ら、清軍派といわれる一派もあったが、これは統制派と共同戦線を張っていた。
 一九三五年(二・二六事件の前年)八月の定期異動の直前、真崎教育総監が更迭され、渡辺錠太郎大将がその後任となった。真崎は最後まで、強硬に拒否したが、林陸相は上奏御裁可を仰いで、これを強行した。陸軍の人事は、陸軍大臣、参謀総長、教育総監のいわゆる三長官できめられるのが慣例だったので、皇道派は、この更迭は「統帥権の干犯〈カンパン〉である」と攻撃した。そして、この人事は林陸相よりも、永田軍務局長のやったことだといわれた。
 八月定期異動が発表されたあと、八月十二日の朝、永田軍務局長が陸軍省で執務中、相沢三郎という中佐に軍刀で斬殺された。相沢は福山歩兵第四十一連隊付だったが、八月異動で、台湾歩兵一連隊付となっていた。赴任直前の犯行であった。相沢は、六年ほど前から村中、磯部らと同志的なつきあいがあった。東京在勤のときは、真崎大将の家にも出入りしていた。真崎の更迭問題ではひどく憤慨し、陸軍省に出かけて永田に会って、その辞職を迫ったこともあった。
 相沢は軍法会議にかけられ、翌一九三六年の一月十八日から公判が開かれた。弁護人は貴族院議員の鵜沢総明〈ウザワ・フサアキ〉と皇道派と関係の深い満井佐吉中佐である。皇道派は、この公判闘争に力をそそレだ。北一輝とともに、皇道派の理論的指導者であった西田税〈ニシダ・ミツギ〉(士官学校第三十四期で、病気のため騎兵少尉で退官した)は「現在は相沢公判一本槍で行くべきで、公判を有利にすることによって情勢も熟するし、うまくいけば自分たちの希望する国家改造も、ある程度は実現できる」と主張していた。村中孝次、磯部浅一も、相沢公判に関する文書戦に従っていた。
 二月もなかばを過ぎ、相沢公判もすでに八回を重ねた。弁護人の申請した証人調べは、橋本〔虎之助〕前陸軍次官、林前陸相の喚問が終り、問題の真崎大将の喚問が迫っていた。一方、殺された永田中将の同期生たちは、公判廷では永田中将の人格や功績が無視され、誹謗されているとして、別の証人申請を行なって、まき返しに出た。相沢公判をめぐる陸軍部内の対立抗争は、緊迫したものになっていた。
 こうした情勢の中で、皇道派青年将校たちの間には、このままでは自分たちの勢力はますます押しこめられ、陸軍は統制派の思うままになるといったいらだちが強くなっていた。実力をもって、これを打破しなければならないと、その謀議も着々と進んでいた。このような空気の中で、その年の初め、第一師団の満洲派遣が決定された。第一師団には、皇道派青年将校が多くいて、いわばその本拠であった。自分たちが満洲に行ってしまえば、もう蹶起の機会はなくなる。相沢公判を利用する宣伝活動にも限界がある。急がねばならない。こうして、蹶起の日が二月二十六日に決定された。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・4・29

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礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(19・4・28)

2019-04-28 07:16:04 | コラムと名言

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(19・4・28)

 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30を紹介する。順位は、二〇一九年四月二八日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった「日」の順位であって、アクセスが多かった「コラム」の順位ではない。

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
4位 18年9月29日 邪教とあらば邪教で差支へない(佐藤義亮)
5位 16年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
6位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁  
7位 18年8月19日 桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5      
8位 17年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
9位 18年1月2日 坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
10位 18年8月6日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その5

11位 17年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
12位 18年8月11日 田道間守、常世国に使いして橘を求む
13位 17年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
14位 17年8月6日 殻を失ったサザエは、その中味も死ぬ(東条英機)
15位 17年8月13日 国家を救うの道は、ただこれしかない
16位 19年4月24日 浅野総一郎と渋沢栄一、瓦斯局の払下げをめぐって激論
17位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官
18位 18年10月4日 「国民古典全書」は第一巻しか出なかった
19位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
20位 19年1月1日 もちごめ粥でも炊いて年を迎えようと思った(高田保馬)

21位 18年5月15日 鈴木治『白村江』新装版(1995)の解説を読む
22位 19年2月26日 方言分布上注意すべき知多半島
23位 18年8月7日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その6
24位 19年1月21日 京都で「金融緊急措置令」を知った村田守保
25位 18年12月31日 アクセス・歴代ベスト108(2018年末)
26位 19年1月23日 神社神道も疑いなく一種の宗教(美濃部達吉)
27位 18年5月16日 非常識に聞える言辞文章に考え抜かれた説得力がある
28位 18年5月4日 題して「種本一百両」、石川一夢のお物語
29位 18年5月23日 東条内閣、ついに総辞職(1944・7・18)
30位 18年9月30日 徴兵検査合格者に対する抽籤は廃止すべし

次 点 19年1月30日 鵜原禎子が見送る列車は金沢行きの急行「北陸」

*このブログの人気記事 2019・4・28

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クルーゾー監督の映画『恐怖の報酬』を鑑賞した

2019-04-27 00:19:17 | コラムと名言

◎クルーゾー監督の映画『恐怖の報酬』を鑑賞した
 
 昨日、新百合ケ丘駅北口の川崎アートセンターに行き、クルーゾー監督の映画『恐怖の報酬』(一九五三)を観てきた。この映画は、むかし、テレビで観たこともあるし、中古ビデオを買い求めて、自宅で見たこともある。しかし、映画館で観るのは初めてだった。
 金曜の午後という時間帯にもかかわらず、結構多くの観客が集まっていた。見ると、そのほとんどは、すでに仕事をリタイアされていると思しき年齢層の方々だった。もちろん私も、そのひとり。
 マリオ(イヴ・モンタン)とともに、ニトログリセリンを運ぶジョー(シャルル・ヴァネル)の役どころは、「老人」である。この老人を演じたときのシャルル・ヴァネルの実年齢は六十一歳。そして、この映画を鑑賞している観客のほとんどは、その実年齢以上の方々のようだった。あまりにも危険な任務に、怖気づいてしまったジョーは、若いマリオから罵倒される。それに対して、ジョーは、こう答える。「年をとれば、みんなこうなるんだ」。このセリフが身に沁みた。
 傑作であり、名作であった。新百合ケ丘までやってきた甲斐があった。
 この映画は、「日本映画大学シネマ列伝vol.6」六作品のうちの一作品だという。日本映画大学シネマ列伝というものが、どういうものか知らないが、たぶん日本映画大学の関係者によるセレクションなのだろう。
 そういえば、新百合ケ丘駅北口には、日本映画大学新百合ケ丘キャンパスもある。川崎アートセンターがあって、日本映画大学がある。いまや、新百合ケ丘は、映画の聖地と言ってもよいのではないだろうか。

*このブログの人気記事 2019・4・27

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日本人の悪徳の第一は「うそ」である(オールコック)

2019-04-26 02:04:22 | コラムと名言

◎日本人の悪徳の第一は「うそ」である(オールコック)

 必要があって、イギリスの初代駐日公使オールコックが書いた『大君の都』(岩波文庫、一九六二)を読んでいる。これが、なかなか興味深く、刺激的である。本日は、同書のうちから、日本人の「うそ」について述べているところを紹介してみたい。〔 〕内は翻訳者(山口光朔)による注、《 》内は引用者による注である。

 わたしは、この著者《スラップ氏》の説にまったく賛成であって、日本人の悪徳の第一にこのうそという悪徳をかかげたい。そしてそれには、必然的に不正直な行動というものがともなう。したがって、日本の商人がどういうものであるかということは、このことから容易に想像できよう。かれら、東洋人のなかではもっとも不正直でずるい。こういうことはひとつの種族全体についてはおろか、ひとつの階級についてすらはっきりとはいえないことのように思えるが、開港場で、とくに貿易の最大の中心地である横浜で、営まれている貿易においてきわめて巧みな計画的な欺瞞【ぎまん】の例がたえないことを見れば、この点については疑う余地はない。絹の梱【こり】を売るときには、いつも外側には同じ品質の束をおき、中側にはきわめて巧妙に織り合わせたもっと質の悪いものをいれてある。樟脳の瓶【かめ】には、上の方にだけ本物がいれてあって、そのほかは米の粉である。油桶の下半分は水である。契約金はすぐにかれらが自分で使うために利用され、臆面もなくとられてしまう。しかし、われわれ〔イギリス〕のなかにも、国内や国外に不正直な商人がいるともいえよう。そして不幸なことに、この事実には論議の余地がない。ハッスル博士と議会の委員会が示した通りだ。自由な自治的な美徳のほまれ高きイギリスでも、ごまかしていない食品を買うことは、むずかしいのではなかろうか。命を守る薬でさえ品質を落とす(それもしばもっとも有害な物をまぜる)ようなことをしていない薬を買うことは、むずかしいのではなかろうか。あるいは表示してある通りの長さの綿布や、きまり通りの分量がはいっているブドウ酒やビールを買うことも、むずかしいのではなかろうか。たしかにこういうことは事実である。そして事実であるだけに悲しいことだ。もっとも文明がすすんだ国においてさえ、商業道徳というものは特別の法律をもっているように思われる。そしておそらくそれよりももっと一般的にいえることは、もっとすすんだ国においてさえも、その道徳的規準は完全な真実とか正直とかからはほどとおいということであろう。したがって樟脳の代わりに米の粉を売る日本人も、唐がらしの代わりに鉛丹〈エンタン〉を売ったり、パンの代わりに明礬【みようばん】と骨粉〈コップン〉をまぜたものを売るイギリスの商人も、ただ程度のちがいだけだということは残念ながらわれわれも認めざるをえない。とはいえ、だますことの巧妙さと一般性にかけては、日本人ははるかにわれわれにまさっている、とわたしは考える。うそということにかんしては、そのことばの十分な意味なり、そのやり方がどの程度にまで完全なものになっているかということを知るためには、役人【ヤクニン】、すなわち日本の官吏と多少つき合ってみる必要がある。いかなる代償を払っても――愛をもってしても、金にものをいわせても――真実をえることができない。一国がこういう特徴をもちつづけているかぎりは、本当の進歩というものは不可能だ、とわたしは信ずる。真の文明とは、必然的に進歩的なものなのである。
 なんらかの社会的なきずなが存在するためには、結局ことばや誓いというものをある程度信頼しなければならない。ところが、あらゆる階級の日本人のあいだでは、これ以上度をこせば社会的きずなというものが存在できなくなるほど、まったく真実というものが無視されている。【中略】まっ赤なうそがばれて非難されることは、日本人や中国人にとっては、恥にも不面目にもならない。見つけられることにたいするスバルタ的な恥辱感さえないのである。しかし信頼ということがこれほどわずかしかなく、真実を話すべき義務というものが認められていないところで、社会的な生活におけるさまざまの関係がどのように維持されているかということは理解しがたい。司法上のことでは、この問題は拷問【ごうもん】制度で解決される。拷問で真実をしぼりとるか、強情な者を殺してしまうかどちらかである。しかし他のことにおいては、人間同士の通常のやりとりのすべてにおいて仕事を営むに必要と思われる程度に真実をえるためには、明らかに拷問以外のもうすこし残忍でない手段を使って真実をえなければならない。しかし、もしベーコンがさらにのベているように、「真実を探究するとは真実を口説くことだ」とすれば、日本ではそういう求愛が多いにちがいない。そして、「真実を信ずること、すなわち、これを楽しむこと」は驚くほどすくないにちがいない。この極致こそ「人性の至上の善」だとすれば、わが親愛なる日本人はあわれにもそれが欠けているのではなかろうか。このように真実が必要とされているからこそ、最良の政策として、事態を多少ともよくするためには、かれらに利害のあるような具合に真実を示唆し強制しなければならないのである。〈下巻一二七~一三〇ページ〉

 オールコックは、幕末の日本人、特に商人や役人について、このようなことを言っている。これを読んで、幕末に日本にやってきたヨーロッパ人にとって、日本人というのは、そんなふうに見えたのか、とビックリしたいところである。ところが、ビックリするわけにはいかない。
 なぜか。言うまでもない。ここ数年、企業、官僚、政治家などの間に、「うそ」が蔓延しているからである(いちいち例は挙げない)。幕末期から今日までずっとそうだったとは言わない。少なくともここ数年は、日本人の道徳的レベルが、幕末期まで退行してしまった感がある。
「あらゆる階級の日本人のあいだでは、これ以上度をこせば社会的きずなというものが存在できなくなるほど、まったく真実というものが無視されている。」――このように言われて、反論できる企業、官僚、政治家があれば、堂々と反論してもらいたいものだ。
 さて、オールコックの文章を読んで、ひとつ鋭いと思ったのは、うそが横行している困難な状況において、司法が採用している解決策は「拷問制度」だと述べていることだ。「うそ」と「拷問」とをセットで捉えているところが、鋭く、かつユニークである。たしかに、警察というところは、常に、容疑者は「うそ」をついていると考えており、したがって、容疑者に真実を言わせる方法は、拷問以外にはないと信じている。この点に関しては、「幕末期から今日までずっとそうだった」と言えるかもしれない。

*このブログの人気記事 2019・4・26

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