◎先生の文章には句読点を施さないのが原則で……
昨日の話のつづきである。福澤諭吉著『福翁百話・百余話』(改造文庫、一九四一)から、富田正文による「校訂後記」を紹介する。
校 訂 後 記
「福翁百話」は、明治二十六年〔一八九三〕福澤先生六十歳の時に起稿し、翌年脱稿したものである。福澤先生の人物事績と其の生涯に就ては、既に大小さまざまの伝記研究書等が出版せられてゐて、世に周く〈アマネク〉知られてゐるところであるから茲に記さないが、先生は天保五年十二月十二日〔一八三五年一月一〇日〕に生れ明治三十四年〔一九〇一〕二月三日六十八歳を以て世を去つたのであるから、此の書は先生の晩年に及んで成つた著作である。
従つて先生の思想文章ともに最も円熟の境に入り、しかも其の当時は身体極めて健康で意気旺盛、一管〈イッカン〉の筆を以て自から我国文明の指導に任じようとの熱意はいよいよ熾烈〈シレツ〉を加へてゐた時代で、加ふるに我が国運は維新以来の経営施設宜しきを得て、政法具はり〈ソナワリ〉商工興り、将に東洋の先進国として崛起〈クッキ〉しようとする隆々たる勢を示してゐた時である。此の時運に鑑みて、先生は多年昌道して来た文明独立の主義に立脚して、其の宇宙観より個人の居家処世〈キョカショセイ〉の道、学問文化の方向、国家の独立、立国の基礎に至るまで、凡そ人生百般の問題に関する所見を論じ尽さうとして、想を練り筆硯〈ヒッケン〉を新にして起稿したものである。
先生は如何なる長篇の文章でも、全篇完結の上でなければ発表しないことにしてゐたので、此の百話も明治二十六年に稿を起して二十七年〔一八九四〕の春に脱稿し、いよく其の主宰してゐた「時事新報」の紙上に発表しようといふ手順になつたとき、偶ま〈タマタマ〉其の晩春初夏の交より朝鮮に東学党の乱が起り、日支両国の間が極めて切迫した情勢になつて来たので、先生は其の公表を一先づ見合せ にして、日々出社して自から社説の筆を執り、いよいよ日清開戦となるや、筆に口に又その公私の行動に於て、国論を指導し民心を鼓舞激励して、軍国の事に日夜寝食を忘るゝの有様であつたが、戦雲漸く収まり戦後の事も先づ落着いた明治二十九年〔一八九六〕の二月十五日の紙上に、本書巻頭の序言を掲げて予告し、翌三月一日から始めて之を公にすることになつたのである。一週二三回づゝの割合で翌三十年〔一八九七〕七月四日の紙上で第百回を完結し、同月二十日四六判本文三百八十五頁の単行本として時事新報社から初版が刊行せられた。
「福翁百余話」に就ては本書第二二九頁に収めた石河幹明〈イシカワ・カンメイ〉氏の題言中に詳か〈ツマビラカ〉であるから茲に再び贅しないが、其の第一話より第十四話までは明治三十年〔一八九七〕九月一日より翌三十一年一月一日まで、第十五話より第十九話までは三十二年〔一八九九〕一月一日より二月十一日まで、いづれも十日目に一篇づゝ一の日に掲載せられたもので、先生は明治三十一年〔一八九八〕九月二十六日の午後脳溢血の大患に罹り、間もなく病症はやゝ軽快に赴いたが、爾後再び自から筆を執つて論説を記すことはなかつたのであるから、此の百余話の原稿も新聞社の人々が極めて珍重し大切にして時々紙上に掲載したものであらうと思はれる。第十四話と第十五話との間に一年間の休載のあつたのは、此の間に「福翁自伝」「女大学評論」「新女大学」等が掲載せられた為である。
先生は明治三十四年二月脳溢血が再発して遂に逝去した。百余話は先生の没後同年四月二十五日、百話と全く同じ体裁で本文九十八頁の四六判小冊子として同じく時事新報社から初版が刊行された。其後此の両書はそれぞれ別々に数十版を重ね、又両書の名を併記した合本として、或は又単に「福翁百話」の書名の下に附録として百余話を収めた形に於て、いづれも時事新報社から出版せられて広く世に行はれた。今度本文庫に収めるに当つては、時勢の変遷により今日に於てはやゝ適切ならずと思はれ数篇を削り「福翁百話・百余話」と名づけたが、削除に就ての責〈セメ〉は総て校訂者の負ふところである。
掲載の本文に就ては両書とも初版本に拠り異版数種を照合して誤植を正した。たゞ熟語や仮名遺は、今日の正字法で誤〈アヤマリ〉となされてゐるものでも、厳に先生の用法に従つて敢て動かさないことにした。先生は少年の時に十分に漢学を修め、文字の異同、文章の巧拙等に就ては深い素養を持つてゐたのであるが、其の著訳の文章は常に平易通俗を旨とし、努めて難文字を弄ぶことを避け、例へば「上る、登る、攀る、昇る」「修、脩」「赴、趣」「やう、よふ」等の如き読み方の同じな文字や仮名遺の差別に就ては、殊更に無頓着に附したものゝやうである。それから本文庫版は最初新聞に発表された関係上、大半の漢字に振仮名が施されてあるが、本文庫版では大部分これを省略した。又先生の文章には句読点を施さないのが原則で、特殊な場合に限り稀にこれを見ることがある程度に過ぎないのであるが、本文庫版では、現今の読者の便宜を思ひ全部に亘り校訂者の責任に於て新に句読点を施した。
尚ほ学友昆野和七〈コンノ・ワシチ〉氏は本文庫版刊行に当り、異版数種の比較校訂、校正刷の閲読等、終始熱心な助力を寄せられた。記して深く感謝の意を表する次第である。
昭和十五年〔一九四〇〕九月 富 田 正 文 記