礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国政変乱を目的とする殺人は今後も起こる

2017-09-30 01:22:20 | コラムと名言

◎国政変乱を目的とする殺人は今後も起こる

 やや間があいたが、深谷善三郎編『(昭和十八年二回改正公布)戦時刑事民事特別法裁判所構成法戦時特例解説』(中央社、一九四三)の紹介の紹介に戻る。
 この本については、まず、「戦時刑事特別法」の第七条「戦時国政変乱殺人罪」について解説しているところを紹介し、続いて、第一次改正(一九四三年三月)によって付加された第七条ノ二から第七条の五までの条文について紹介する。そのあとさらに、「戦時民事特別法」について解説しているところを紹介しようと考えている。
 本日は、戦時刑事特別法第七条「戦時国政変乱殺人罪」について解説している部分を紹介する(一九~二一ページ)。なお、この第七条は、戦時刑事特別法の公布時(一九四二年三月)からあった規定である。また、「戦時国政変乱殺人罪」という罪名は、礫川による「仮称」である。

第七条  戦時ニ際シ国政ヲ変乱スルコトヲ目的トシテ人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処ス
 前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
 第一項ノ罪ヲ犯ス目的ヲ以ク其ノ予備又ハ陰謀ヲ為シタル者ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 第一項ノ罪ヲ犯スコトヲ教唆〈キョウサ〉シ又ハ幇助〈ホウジョ〉シタル者ハ被教唆者又ハ被幇助者其ノ実行ヲ為スニ至ラザルトキハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
 第一項ノ罪ヲ犯ナシムル為他人ヲ煽動シタル者ノ罰亦前項ニ 同ジ
註解) 本条は「戦時下国政変乱の目的を以てする殺人の罪」である。戦時に於ては極めて鞏固〈キョウコ〉なる政治組織と強力且不変なる政策の遂行とが欠くべからざる要請であり、之を不法に破壊或は阻害せむとする行為、殊に暴力の手段に依るものに付ては極力之が防遏〈ボウアツ〉を図る必要ありと認めたのである、斯かる行為の中でも殺人の方法に依るものは、国政の変乱の目的を達する為に最も効果的な行為だと云ふやうな意識からして従来屡々行はれた所であり、今後も亦行はれる虞れが多分にあり、之を国家的見地から見れば其の危険の最も大なることは言ふ迄もないことである、然るに現在之を特に重く処断すべき規定が存せないので、戦時下殊に斯かる犯罪を防遏するの緊要なるに鑑み、第七条を以て之に対し重き刑を規定し、且事を未然に防ぐ趣旨よりして、予備、陰謀を処罰し、教唆、幇助、煽動等を独立罪として処罰することとしたのである、又他面に於ては、出来るだけ事を未然に防止する趣旨よりして自首減免の規定を設けた次第である。但し第一項第二項の罪には此特典は適用されない(第七条の五)。
 本罪の成立には、(1)主観的要件として「犯人に国政を不法に変乱せしむる目的あること」(2)客観的要件として「被害者は其当時の政治状態から見て国政に非常に重要な関連を有ち〈モチ〉其人を殺すことに因り国政変乱を生じ得る程度の人たる事」を要するのである、然し被害者が重臣大臣次官局長等の如きもののみを指すのではなく国政に重大なる関連を有つ人、例へば政界財界の枢要の地位にある人でも此の意味に於て被害者たり得るのである。
国政」とは、国家の基本的なる政治を意味する、県政自治政なぞは勿論含まれない。
国政の変乱」とは此の国家の基本的なる政治に不法に変更を加へる或は混乱を生ぜしむるの意味である、刑法の「朝憲紊乱〈チョウケンビンラン〉」の用語は憲法の定むる国家の基本的制度を乱すと解されてをり本条の「国政変乱」よりは意義狭きが故に茲に新用語を用ひたのである。
陰謀」とは二人以上の協議画策を意味し、他の個条に「通謀」と云へると其意義に異なる所はない、刑法は政治犯に在りては陰謀なる語を用ひてをるが故に本条も之に従ふたまでである。
 尚本条の先例的立法としては旧刑法第百二十三条、更に刑法改正仮案第百六十七条乃至第百七十一条等である。
国政変乱を目的とする殺人事件起訴数(司法省編) 昭和五年〔一九三〇〕浜口〔雄幸〕総理大臣を狙撃したる佐郷屋留雄〈サゴヤ・トメオ〉外一名に対する殺人未遂事件より最近に至る迄総計百九十人の起訴を見て居る。

 戦時刑事特別法第七条でいう、国政を変乱すること目的とした殺人(「国政変乱殺人」、これも礫川による仮称)とは、言いかえれば、国政に関与している人物を狙った「テロ」である。浜口雄幸〈ハマグチ・オサチ〉首相狙撃事件や、二・二六事件が、その典型例と言えよう。
「戦時」には、この種のテロが起こりかねないと予測した上で、それ(戦時国政変乱殺人)を防止しようというのが、第七条の立法趣旨であったと思われる。

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木畑壽信氏を偲んで・その3(青木茂雄)

2017-09-29 02:59:06 | コラムと名言

◎木畑壽信氏を偲んで・その3(青木茂雄)

 昨日未明、青木茂雄氏の「木畑壽信氏を偲んで」の三回目の原稿が届いた。本日は、これを紹介する。以下、すべて、青木氏の文章である。

木畑壽信氏を偲んで(3) 青木茂雄
 ―僕の思考は倫理的である(木畑壽信)―

 1982年冬に『ことがら』2号が発刊の運びとなった。「70年代の言語と経験」というタイトルで特集し、初めて座談会形式の文章を掲載した。座談会の参加者は青木の外に、 木畑壽信、草野尚詩、黒須仁、小阪修平、竹田青嗣、西研、万本学の各氏。2回に分けて座談を行い(と言っても、実際は鍋料理をつつきながらアルコール入りの雑談風だったように記憶している)、それをあとからテープ起こしたものであって、座談というよりはまとまりのない放談のようなものであったと、当時は思っていた。しかし、35年たった現在読み返してみると、当時の時代状況が良く現れていて、自分で言うのも変だが、大変に面白く読んだ。時代の資料としても貴重である。
その座談記事の最後に、小阪修平と木畑壽信がそれぞれに文章を寄せているが、これほどまでに折り合わないと言う文章も珍しい。座談の中ではそれなりに話が通じているのだが、文章にするとここまで違ってしまう。
 そのことと呼応するようにして、2号の冒頭には小阪修平による木畑の「世界との対話」批評が書かれた。「『世界との対話』との対話」という短い文章である。そのうちの一部を紹介する。

「(本歌)僕の思考作用は倫理的である。だから行為に対する決定の基準が倫理的である。(反歌)僕の思考作用は非倫理的である。だから、行為に対する決定の基準に倫理を持ち込まない。
[注]ひっきょう、観念とは自分の観念にすぎぬ。…… ただ、普遍的と称される論理が、しばしば自分の観念に酔っているだけにすぎぬ、というのが、私たちが抜かねばならぬ観念の錯視だと指摘しているだけのことが。若いころ人はしばしば自分の観念に酔う。かくいう私もそうであった。だからそこには、むしろ、観念がいかにわれわれの存在に根深いものであるかが、現れている。私もまた私の観念をおろそかにできぬ。ただ、そこには倫理はないのである。倫理という錯視しかない。…
 倫理ということばについていえば、私は倫理は、経験によって強いられるものだと思う。私の裡に棲む死者たちが、私に倫理のかたちを教える。……」

明快な論理である。理がどちらの側にあるかは言うまでもないであろう。この文章を読んで、木畑氏は反論するわけでもなく、「批評してもらったことはありがたいのだが…」と短く言っただけだった。論争とはならず、すれ違っただけであった。そう、『ことがら』では議論はあったが論争とはならず、それがしだいに「同床異夢」となり、4年後には解散した。
 さて、2号からは小阪修平の「制度論」の連載が本格化した。連載2回目で「実践論」として、カントの『実践理性批判』の批判を「カントにおける《非在》」として展開した。 私は当時も今も狭義の哲学には不案内かつ不得手であり、『ことがら』の内外で行われていた哲学風の議論は私には疎遠であった。私には「制度論」は当時は良く理解できず、というよりは最初からちゃんとは読まなかったし、読めなかった。ところが、35年経ってあらためて読み始めてみると、当時の小阪修平の構えの大きさがわかるようになった。35年経って、ようやく彼と同じ視界が見えてきたと思っている(「制度論」に限らず、『ことがら』1~8号に掲載された彼の文章はどれも手抜きがなく、水準に達しており、今の時点にたっても読み返す値打ちがある)。おそらく、彼は90年代以降「難解な哲学を水準を落とさずに平易に解く」通常は啓蒙的と言われる文章の書き手として著名であり、それはそれで貴重なものだが、彼の本来の仕事は「制度論」にある。おそらく、老境での仕事として「制度論」の完成を残していたのだろう。小阪修平氏が10年前に還暦そこそこで他界したことは、かえすがえすも残念である。小坂氏ほど《老境》がふさわしい人物はいない、と思っていたのであるが…。10年前の氏の追悼集会では彼の最初の単行本であり三島由紀夫論である『非在の海』が代表的著書として紹介されたが、《非在》という言葉がもしかしたら彼の一番のキーワードなのかもしれない……。
 ところで、『ことがら』の同人ではなかったが、座談に参加するか文章を寄稿したのは、竹田青嗣氏のほかに、作家の笠井潔氏、評論家の小浜逸郎氏、政治思想家の長崎浩氏などである。小浜逸郎氏は「小濱逸郎」として横浜市の教育委員を1期勤め、どういうわけか保守反動派の教育委員長のもとにあって自由社、育鵬社などの問題のある「つくる会」系中学校歴史・公民教科書の「採択」のためにその手足となって奔走した。そのことは消されぬ事実として残っている(2005年8月の横浜市教育委員会の議事録を参照のこと)。「君子は豹変」したのか、それとも元々そうだったのか。
『ことがら』は8号までつづいたが、4号以降は編集担当が輪番された。号を重ねるごとに編集担当者の方針(嗜好)により体裁ががらっと変わるようになった。とくに6号以降は別雑誌のような体裁となった。唯一最初から変わらなかったのが「ことがら」のロゴであったが、これも7号以降変わった。「書きたいように書き、作りたいようにつくる」が『ことがら』の方針であった、つまり恣意性(指向性≒嗜好性)の解放である。
 木畑氏が担当したのは4号、7号だったが、とくに7号には彼の当時の全てが凝縮して表された。表紙のデザインから、目次のレイアウト、各頁の文字の配置まで、すべてをゆるがせにしないもの、として雑誌にした。あまりに彼が細かいことにまでこだわるので私は言った。そんな形式的なことなどどうでもよいじゃないか。スタイルなどは二の次だ、大事なのは内容だ…。それに対して彼が大まじめで答えて言うには、いや形式やスタイルにこそ思想は現れるものだ。このスタイルが僕の思想表現だ…。
 これで木畑氏の人となりが解った気になった。思想とはスタイル、すなわち装いなのだ、と。少なくとも、私とは違う、この人はまったく別の価値観で動いている、と思った。 (つづく)

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たなぞこもやららに拍ち上げ歌ふもあり

2017-09-28 02:05:12 | コラムと名言

◎たなぞこもやららに拍ち上げ歌ふもあり

 高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所、一九三五年七月三版)を紹介している。本日は、その六回目で最後。「高麗郷由来」の紹介も、これが最後。昨日、紹介した部分のあと、改行して(一字サゲなし)、次のように続く。

禅阿の弟慶弁は、諸国名山修行の後、鶏足寺に留まつて、大般若経、法華経等を書写した。法華経は聖天院に納め、失火の際焼失したが、大般若経は現に高麗神社の神庫にある。第二七代豊純は「源家の縁者」なる、駿河岩木僧都道暁の女を迎へて室とした。これが高麗家に於て国人と結婚した始めである。系図に「当家者是迄高麗従来之与親族重臣計縁組仕来処深有子細迎駿河岩木僧都道暁女為室依為源家縁者従是幕紋〈マクモン〉用根篠〈ネザサ〉」とある。是迄何故に国人と結婚しなかつた乎〈カ〉、又如何なる仔細あつて源家の縁者を迎へた乎、窺知〈キチ〉することが出来ない、又道暁が如何なる身分のものかもわからないが、投下以来、進出の自由であつた奈良平安の際にも、高倉福信一門の外、功名場裡に馳趨せず、武蔵七党時代にも雌伏してゐた高句麗部族が、高麗家の此の結婚以来、活動を始めた様に思はれる。
 二十八代永純の壮時、高麗家は古今を通じての最大不幸に遭遇した。それは後深草天皇の正元元年(紀元一九一九年)《西暦一二五九》の十一月に失火して、故国より持ち来れる貴重な宝物古記録の大部分が灰燼に帰したことである。高麗氏の古系図も此時焼失したので、一族老臣を始め、高麗の百苗が集まり、諸家の旧記を取調べて編成したのが、現在高麗家に伝はる系図一巻である。而して此系図の記載法が、日本古来の系譜記載様式と異つて、非常に勝れてゐるとは、文学博士重野成齋《安繹》氏の言はるゝ所である。三十代行仙の弟三郎行持、四郎行勝の両人は鎌倉の北条氏に仕へたが、北条氏没落の時、東勝寺に於て討死した。三十二代行高は、延元二年《一三三七》秋宮方となり、新田義興の招きに応じて、北畠顕家の鎌倉攻めに参加した。時に年僅に十九歳であつたといふ。爾来正平九年《一三五四》河村城の陥落する迄、新田氏と運命を共にした。行高の弟左衛門介高広、兵庫介則長の両人も亦兄に従ひ奮戦して、高広は討死し、則長は流矢に当つて陣没した。
 此の貴重な文献高麗氏系図は、良道(高麗王四十四代の孫)の死後、良賢の代に至り、故あつて親戚人間郡勝呂郷〈スグロゴウ〉なる勝呂氏に預けられて、其侭十代を経過したが、明治に至り、井上淑蔭〈ヨシカゲ〉、加藤小太郎二氏が勝呂美胤に返却を勘められたので、美胤は之を高麗大記に返した。井上淑蔭翁が其時の模様を記した文章があるから左に掲げる。
 凡〈オヨソ〉物の物の差誤、事の不平などいとしたゝかなるも、其の本を推し尋ぬれば僅〈ワズカ〉毫厘《毫釐》の際〈キワ〉より起る大かたの習ひなれど、高麗氏の系譜の入間郡塚越邨神官勝呂家に伝へたるは、如何なる故ならむ。古老の談に、何れの昔なりけん勝呂家嗣子無く、高麗氏より義子〈ギシ〉したる事ありと。されど家の重宝を容易に攪ふ《ママ》べきならねば、彼れいさゝけ《聊け》の縁故ありて、其のまゝ勝呂家に伝はれるにも有りぬべからむ。其はいかにまれ、高麗王の遠裔衍純主教職を奉仕し、勝呂氏また同官、余《井上淑蔭》もまた其のすぢにて、常に隔て無く交らふに依り、とかくして其の家に収むる事とはなれり。明治七年《一八七四》甲亥八月十一日、此日天朗かにして、不尽の神山《富士山》、下つ群山、手かくばかりいとけさやかに、庭の松萬世よばひ、簷〈ヒサシ〉の雀千代と音なふ《チヨと鳴く》。わが遥岳邇水楼に置酒す。集へる人々は、東駒衍純主勝呂美胤子自余二家の親族五六人、勝呂氏懐〈フトコロ〉より一軸を交与す。高麗氏おし戴きて披き〈ヒラキ〉見る。人々悦ぶこと限りなし。おのれ觴〈サカズキ〉を挙げて、時ありてもとの瀬を行く水くきをおもへば清き高麗の川浪と歌へば、勝呂氏六絃の琴を合せたり。高麗氏も筆執りて系譜離家幾許年、祖宗履歴似沈淵、君教浮出添金玉、并照本枝永世伝、傍なる人壁に立てたる月琴を弾く。から歌には調〈シラベ〉細かにていとつきづきし《ふさわしい》を、人々感けて〈カマケテ〉聞き居たり。盃あまた度〈タビ〉めぐるにひとびと酔ひすゝみて、懐より短笛とり出でゝ吹くもあり。手掌憀亮〈タナゾコモヤララニ〉拍上げ〈ウチアゲ〉歌ふもあり。翁もほとほと舞ひ出でぬべし。日影花やかに秩父嶺にかゝるに、いざ家路をと人々そゝめく。此ころ書きすさびたる三韓沿革考の机上なるを、高麗氏見て、是れは我が遠祖の故国の事なりとて懐しむ。其中に承らまほしきことも多かり、今宵は宿り給へととゞむれど家にえさらぬことあり、又のどかにを、とてあゆひ《足結》の紐むすぶ。今日は中の十日《中旬》の初めなれば、夕月もさやかにて、道のほどもたづたづしからじとて、やをら立ちいづ。終日の愉快忘れがたしとて、拙き筆にかくなむ。 
             権大講義 藤 原 淑 蔭 識
 顧みるに高句麗先民の皇国に投化してより茲に千二百有余年、物換り星移つて、世界の歴史も幾〈イク〉変転し、日鮮の関係も亦親疎さまざまの時代を経て、遂に併合一家の状たる今日に立ち到つたのであるが、思へば奇しくも尽きせぬ因縁であつたと言ひ得るであらう。
 かく内鮮《日本と朝鮮》一家の今日に於ては、この奈良朝以来、我国文化に貢献する所甚だ大にして、加ふるに武蔵野開拓の功績顕著なる高麗人の遺跡こそは、単に歴史的文化的価値の上からのみならず、あらゆる意味に於て、十分に尊重されなければならないのであるが、明治二十九年《一八九六》、この由緒深き高麗の郡名を廃されて以来、いまだに復活されないのは、かへすがへす残念な次第である。
 高麗村は東京を距る十二里、川越の西四里の所にあり、高麗神社及び聖天院の所在地なる大字新堀字大宮は、武蔵野線《武蔵野鉄道》高麗駅より十八町、同飯能駅より約一里半、又八高線高麗川駅より約十八町の所にある。
 高麗氏系図に見ゆる高句麗系姓氏は左の如くである。
 高麗、高麗井(駒井)、井上、新、神田、新井、丘登(岡登、岡上)、本所、和田、吉川、大野、加藤、福泉、小谷野、阿部、金子、中山、武藤、芝木。

 以上が、「高麗郷由来」の末尾の部分である。
 ちなみに、ブログ「韓郷神社社誌」の「②『高麗神社と高麗郷』」は、この末尾の部分を紹介していない。高麗澄雄編『高麗神社と高麗郷』では、この部分がカットされていたのではないかと推測するが、あくまでも推測である。

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高麗氏の宝物史料は1259年の出火で焼失

2017-09-27 04:17:39 | コラムと名言

◎高麗氏の宝物史料は1259年の出火で焼失

 高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所、一九三五年七月三版)を紹介している。本日は、その五回目。本日は、昨日に引き続き、「高麗郷由来」を紹介する。昨日、紹介した部分のあと、改行して次のように続く。

 高麗王の武蔵野入りは、高句麗滅亡を距る四十年後で、王も可なりの高齢であつたであらう。高麗郡に着くや、居を日高市大字新堀字大宮の、今社殿の在る所に卜〈ボク〉して、全郡を統べ〈スベ〉られたが、其の後幾〈イク〉星霜を経、某年某月を以て、遂に日本に於ける新封土の高麗に逝いた〈ユイタ〉。故国を去る時は、日本の援け〈タスケ〉を借り、義軍を率ゐ故土に還つて光輝ある高句麗王国を再興せん、と心中固く期したことであらうが、時勢の推移は如何ともし難く、故国回復の希望も全く絶えて、武蔵野の一隅にあへなくなられたのであらう。其の心事は実に聞く人の暗涙を誘ふのであるが、但だ、朝廷の優遇が尋常でなく、且つ郡民の尊敬を一身に集めた事は、王の家系と、功績と、人格と、慈愛とに因るものではあるが、せめてもの慰めであつたであらう。有為の才能を有し乍ら、富貴栄達〈フウキエイダツ〉を願はずして、一意郡民の幸福を謀り、一身を犠牲にせられた首長高麗王の訃〈フ〉を聞き伝へた高麗郡民は、貴賤老若悉く来つて其の卒去を悲しみ、泣いて尊骸を葬り、又霊廟を建てて高麗明神と崇めた事は、高麗氏系図に詳か〈ツマビラカ〉である。
 国難を避けて、東国武蔵の一隅に、せめてもの安住地を見出した高句麗亡命の王臣一同が、故山扶余〈フヨ〉の地を偲ぶよすがにもと、秩父連山を後にして遥かに大武蔵野を展望する高麗の郷を選んだのは故あることと言はねばならぬ。
【このあと、約四ページ分を割愛】
 高麗氏は、若光没後、長子家重が家継いで以来、今日まで実に五十七代嫡々相伝へ、連綿として正系を保つてゐるので、当然幾多の史料が保有されて居るべき筈であるが、惜しい哉〈カナ〉「正元元年《一二五九》十一月八日大風時節出火系図□高麗持来宝物多消失。因之一族老臣高□□、新井、本所、新、神田、中山、福泉、吉川、丘登、□□、大野、加藤、芝木、等始高麗百苗相集諸家故記録取調系図記置也」と高麗氏系図にある如く、貴重な宝物史料が災禍の為めに概ね焼け失はれて、現在に伝はるものの甚だ尠いのは遺憾の至りである。【このあと、約三ページ分を割愛】
 高麗氏系図は別に全文を掲載するが、高麗氏先世の事歴の大略を挙ぐれば、次の如くである。
 高麗氏は、若光王姓を賜はり、蔭位〈オンイ〉二世にして庶流となつた。若光卒して長子家重世を継いだ。十四代一豊の時、高麗明神に大宮号を許され、高麗大宮明神と号し奉り、同時に高麗氏は神職となって大宮司と称した。二十三代純秀は、園城寺〈オンジョウジ〉の行尊〈ギョウソン〉が、諸国行脚の途次、高麗明神に杖を留めた際に、その勧めにより、修験道に入り、高麗寺麗純と改め称した。
  参考 篠井【さゝゐ】観音堂寺記の内に「七十四代鳥羽帝之御宇永久年中園城寺行尊欲再開小角《役小角》之旧迹経歴諸山下東方為訪高麗明神之旧祠路出于此即逢行阿問其所由云々」の句がある。
麗純に五人の子があったが、第三子高純が家を継ぎ、其弟禅阿阿闇梨が下野足利(小俣)鶏足寺政所となつた。鶏足寺は東大寺の定恵〈ジョウエ〉和尚が勅命を奉じて建立したもので、当時海内有数の名刹であつた。
  参考 中央史壇昭和二年《一九二七》一月号文学博士宮地直一〈ミヤジ・ナオカズ〉氏「高麗明神の大般若経に就いて」の文中次の一節がある。「鶏足寺は此〈ココ〉に言ふ如く下野足利郡小俣村にある真言宗の巨刹で、古来東国に於ける有数の霊域として又一面学問的道場とせられたところ、系図にいふ禅阿は、同寺に蔵する弘長三年《一二六三》二月在銘の洪鐘(国宝)に「建保乙亥(三年)《一二一五》僧禅阿勧進諸方三尺鋳之」とあるものと同一人で、又慶弁は禅阿の縁故から、此所に足を留めて浄行を専らにしたのであらう」【以下、次回】

 途中、二か所、諸割愛した部分があるが、気になる方は、ネット上で、ブログ「韓郷神社社誌」の「②『高麗神社と高麗郷』」を参照していただきたい。

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高句麗王族なるが故にコキシの姓を賜った

2017-09-26 04:46:11 | コラムと名言

◎高句麗王族なるが故にコキシの姓を賜った

 高麗明津編『高麗郷由来』(高麗神社社務所、一九三五年七月三版)を紹介している。本日は、その四回目。本日は、昨日に引き続き、「高麗郷由来」を紹介する。昨日、紹介した部分のあと、改行して次のように続く。

 国土を蹂躙された高句麗王族とその遺臣とが、難を避けて日本に来た事は、従来の関係から見て、極めて自然の事である。高句麗の貴賤が続々と海を渡って我国に亡命し来つたことについて、当時の史書には、何等記す所はないが、それは、書紀天武天皇十四年《六八五》二月の条に「丁丑朔庚辰大唐人百済人高麗人并百四十七人賜爵位」とあり、同じく
書紀持統天皇元年《六八七》の条に「三月乙丑朔己卯以投化高麗五十六人居于常陸国賦田受稟使安生業」と見え、更にまた続日本紀元正天皇の霊亀二年《七一六》五月の条には「辛卯以駿河甲斐相模上総下総常陸下野七国高麗人千七百九十九人遷于武蔵国置高麗郡焉」と明記されてあることによつて、十分に推知されるであらう。
 按ずるに、亡命高句麗人は、来朝当初に於ては各地に分属せしめられて居たものであらうが、後になつて、寧ろ之を一地方に聚落せしむることが、彼等を遇する適当なる道であり、また彼等を慰むる所以でもあると考へられ、更に又、未開拓の茫漠たる大武蔵野を、彼等に開拓して貰ふことが、最も策の得たるものと考へられたのであらう。かくして新に置かれたのが高麗郡であつた。そして此の高麗郡に移された高句麗人の首長となって彼等を統率したのが、続日本紀文武天皇大宝三年《七〇三》四月の条に「乙未従五位下高麗若光賜王【こきし】姓」とある高麗王若光その人であつたのである。高麗王若光に関する文献としては、右続日本紀と高麗氏系図との外に徴すべきものは無いが、伝説によれば、若光の故国を去って皇国に投化するや、一路東海を指し、遠江灘より更に東して伊豆の海を過ぎり〈ヨギリ〉、相模湾に入つて大磯に上陸した。さうして邸宅を化粧【けはひ】坂から花水橋に至る大磯村高麗の地に営んで、其処に留まり住んだが、間も無く我が朝廷より従五位下に叙せられ、次いで大宝三年には王【こきし】の姓を賜はつた。ここに謂ふ「姓」は、鎌足〈カマタリ〉に於ける藤原、秀吉に於ける豊臣等の謂はゆる苗氏とは其の性質を異にし、臣〈オミ〉、連〈ムラジ〉、朝臣〈アソン〉、真人〈マヒト〉等と同じき謂はゆるかばねの姓であって、若光が高句麗王族なるが故に、特に王【こきし】の姓を賜はつたものと思はれる。「こきし」は王を意味する朝鮮語である。さるほどに若光が王の姓を賜はつてから十四年目の霊亀二年丙辰に至り、駿、甲、相、両総、常、野、七国在住の高句麗人に對して、武蔵野の一部を賜ふ旨の優詔が降つた。同時に若光は高麗の郡令に任ぜられたので、やがて大磯を去つて武蔵高麗郡に赴いたが、その後も大磯の国人等は、長く王の徳を慕ひ、中峯の顛〈イタダキ〉に高来〈タカク〉神社上の宮を齋き〈イツキ〉、又その麓には下の宮を建てて高麗王の霊を祀つた。そして隔年七月の大祭には、飾船二艘を沖に出して、鰒【あはび】採りに鰒を採らしめ、それを船中で調理して神前に供へ、舟子たちは祝歌を唱へて式を執り行ひ、王の高徳を欽仰〈キンギョウ〉したといふことである。舟子の唱へる祝歌は次ぎの如きものであつた。
 抑々権現丸の由来を悉く尋ぬれば、応神天皇の十六代の御時より、俄に海上騒がしく、浦の者共怪しみて、遥かに沖を見てあれば、唐船急ぎ八の帆を上げ、大磯の方へ棹をとり、走り寄るよと見るうちに、程なく汀〈ミギワ〉に船は着き、浦の漁船漕ぎ寄せて、かの船の中よりも、翁一人立ち出でて、櫓に登り声をあげ、汝等それにてよく聞けよ、われは日本の者にあらず、諸越〈モロコシ〉の高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れ来て、大日本に志し、汝等帰依する者なれば、大磯浦の守穫となり、子孫繁昌と守るべし。あらりありがたやと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上らせ給ふ。御代よりも権現様を載せ奉りし船なれば、権現丸とはこれをいふなれよ。ソウリヤヤンヤイヤン。
 高麗王は今もなほ大磯の里人に崇敬され、高来神社の祭典は、古式によつて盛大に行はれて居るのである。【以下、次回】

 文中に、「若光が高句麗王族なるが故に、特に王【こきし】の姓を賜はつた。「こきし」は王を意味する朝鮮語である。」(下線)という部分がある(【こきし】は原ルビ)。
 これについて、インターネット上で情報を求めてみると、金井孝利編『韓国時代劇・歴史用語事典』(学研パブリッシング、二〇一三)の「鞬吉支 コンギルチ」の項が参照できた。それによれば、コンギルチは、百済において、一般庶民による王の称号で、コニキシ、コンキシと発音されることもあったらしい。
 高句麗の王族に対して、当時の朝廷は、百済における一般庶民による王の称号「コキシ」を賜ったのだと、一応、理解できる。このことについては、いろいろな説明が可能だと思ったが、機会を改める。

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