礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

武蔵製作所は日本最大の航空機用発動機工場だった

2025-02-28 00:58:53 | コラムと名言
◎武蔵製作所は日本最大の航空機用発動機工場だった

 斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」について、その要所要所を紹介している。
 本日は、その二回目で、「新宿駅午前一〇時一〇分」の項の後半部分を紹介する。同項の前半部分は割愛した。

 やがて四一九列車は新宿駅を静かに走りだした。守矢日出男の体験記(当日のことを翌六日に思い出して書いた日記をもとにして書かれている)によると、二〇分ぐらいの遅れだったというから午前一〇時三〇分ぐらいの出発だったらしい。
 七月に入って米陸軍戦闘機P51は、東京・八王子市内だけでも六日、八日、二八日の三回にわたって来襲し、一〇日と三〇日には艦載機が東京の北多摩・南多摩・西多摩の三多摩一円を空襲している。また八月五日の二日前の八月三日午前中にも関東地方に約一二〇機のP51が現われ、都内をはじめ各地に機銃掃射を加えて、都内では死傷者が出ていた。
 またこの五日には、警戒警報が夜中に一回と朝の八時八分に出され、午前九時一三分に解除されていた。警報が出ていなかったとはいえ、小型機がいつ襲って来るかもしれない中での出発だった。午前一一時前後に多摩地区を通過するこの列車は、遅れた場合、昼ごろになるとあらわれたP51の銃撃を受ける危険性は高かった。
 新宿駅を出発した四一九列車は、大きく左にまがって中野駅をめざした。右側に見える淀橋〈ヨドバシ〉市場をはじめ、東中野駅から中野駅一帯は焼きつくされており、焼け野原の中には粗末なバラックが建っているのを見ることができた。中野区や杉並区など区部は四月一三日の空襲で本格的な被害を受け、五月二五日の大空襲では中野区は区内の「大半を焼失し、壊滅的な戦災をうけ」ていた(『中野区史 昭和編一』)。乗客のなかには家を焼かれたため疎開をした人も多かったから、こうした惨状は他人〈ヒト〉ごととは思えなかったであろう。
 列車は、中野駅を過ぎると、その先はほぼ一直線に続く線路を高円寺、阿佐ケ谷、荻窪、西荻窪と過ぎ、西にむかつてひた走った。この付近は現在のように高架ではなく、線路は地上を走っており、その線路の両側にはもともと二階建の貸家か建てられていた。しかし、線路から一定の距離内が、空襲に備えた「交通疎開空地〈クウチ〉」として強制疎開地域に指定されたことにより、この年の初めにほとんどの建物が壊されたため、線路の周囲は空き地となっていた。その中を四一九列車は走っていった。
 三鷹駅を過ぎる頃から線路のまわりには畑や雑木林がひろがり始める。しかし静かな畑作〈ハタサク〉地帯だったこの武蔵野合地にも、昭和一〇年代以後次々に軍需工場が建てられており、軍需工場地域となりつつあった。多摩地区の各市町村ではこうした工場に勤める人が増え、人口も急増していた。
 その代表的工場が三鷹駅の北側にあった中島飛行機武蔵製作所である。一九三八年四月に陸軍機用航空機の発動機(エンジン)を製造するために武蔵野製作所として竣工したこの工場は、一九四三年に隣の多摩製作所(海軍機用航空機の発動機工場として一九四一年に設立)と合併して武蔵製作所となり、徴用工や動員学徒などを含めると、従業員は最も多い時で四万五〇〇〇人をほこる、日本最大の航空機用発動機工場として世界にその名を知られていた。そのため、B29の本土空襲では第一の攻撃目標となり、一九四四年一一月二四日を最初にこの四五年八月までに一〇回以上にわたって空襲をうけていた。そこで製作所ではこの年の初めごろから工場の疎開をはじめ、東京都南多摩郡浅川町(現・八王子市初沢町〈ハツザワマチ〉、高尾町など)、栃木県の大谷〈オオヤ〉、福島県福島市の信夫山〈シノブヤマ〉に作られていた地下工場などへ、設備や機械、従業員を移していた。そしてこの八月ごろには調質〈チョウシツ〉工場の一部を除いてほとんど疎開は終わり、疎開先での生産が始まっていた。
 浅川町の地下工場は、湯の花〈イノハナ〉トンネルの現場から二キロメートルほどしか離れていないかったこともあって、湯の花トンネルの空襲には関係が深い。
 まず、この工場で働くことになっていた女子工員の一人が、この空襲で犠牲になった。また、厚生部の従業員と学徒勤労動員をうけていた中学生は負傷者の救護にあたり、武蔵製作所の疎開の輸送を担当していた大和運輸などでは、死者や負傷者の運搬にあたることになる。負傷者の一部は、隣の元八王子村に疎開していた武蔵製作所武蔵病院に運ばれ手当てを受けている。さらに浅川の工場内では、骨箱〈コツバコ〉を作ったりもしている。武蔵製作所の疎開によって浅川町の町は一変させられたが、一方で、もし中島が来ていなかったならば、湯の花トンネルの空襲の救護活動で、後に述べるような対応ができなかっただろうとも言われている。〈43~45ページ〉

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山梨や長野へ向う人たちが新宿駅にやってきた

2025-02-27 00:01:14 | コラムと名言
◎山梨や長野へ向う人たちが新宿駅にやってきた

 斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)の紹介を続ける。
 本書中の白眉は、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」ではないだろうか。
 そこには、当日、どういう人たちが、どのような事情で、この列車に乗り込むことになったのかということが、克明に描かれている。その全文を紹介したいところだが、29ページ分もあるので(29~57ページ)、ここでは、その要所要所を紹介してゆくことにしたい。
 以下は、「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」の節の「八月五日、快晴」の項の前半部分である。同項の後半部分は、割愛した。

一、長野行き四一九列車、悲劇への出発

 八月五日、快晴
 一九四五(昭和二〇)年八月五日、快晴、朝から暑かった。
 国鉄中央本線は八月二日の八王子空襲で不通になって以来、三日ぶりに全面的に開通した。そのうえ戦時中とはいえ日曜日ということもあり、山梨や長野へ向かおうという人が、朝早くから新宿駅にやって来ていた。新宿駅はこの時、五月二五日の空襲で「西口のコンコースは全焼、ホームは東京駅同様屋根がなくなり鉄骨のみ、ホームに立つと青空がおがめ」るよう(『鉄道と街・新宿駅』)なありさまであった。
 一九三三(昭和八)年から運行が始まった中央線の長野、山梨方面への中距離列車は、三五年ごろには二番線が中央線列車の到着ホームで、三番線が出発―ムだったというから、乗客はこの時も三番線ホームに集まってきたのであろう。
 彼らが乗ろうとしていた一〇時一〇分発、長野行き四一九列車の機関士は八王子機関区の鈴木頼之、車掌は女性だったといわれている。
 乗客のほとんどはリユックサックや風呂敷などなにがしかの荷物を持ったり背負ったりしていた。それには貯金通帳や現金などの財産、故郷や疎開先に待つ家族、知人などに届けるための食料や衣類などのおみやげがつまっていた。物不足の時代だったからどれも生活に欠かせない大切なものばかりだった。
 乗客の中には兵隊の姿も多かった。兵隊には部隊に屈ける電線などの物資を持っているものもいた。
 兵隊を除くとほとんどの人は、苦労してやっと手に入れた切符で乗ろうとしていた。というのも、当時は列車の本数が削減されていたうえ、大混雑をさけ、運行を円滑にするために切符の発売そのものが駅で制限されており、なかなか買うことができなかったからである。
 当時の旅客は「通勤旅客」、「軍公務旅客」、「国策集団旅客」、「軍隊」、そして「一般旅客」の五種類に大別されていた。
 ちょうどこの年の六月一〇日、国鉄では大幅な時刻改正を行い、軍事輪送を確保するために旅客列車を三割も減らしていた。戦争末期でもあり、軍隊はもちろんのこと、通勤旅客や軍公務旅客などはできるだけ輪送を確保するものとされたから、乗客として減らす対象となるのはすべて一般旅客となり、三割どころか五割、あるいはそれ以上になると推定された。国鉄ではなるべく私的な旅行を避けるように繰り返し呼びかけていた。
 乗車を制限するため、乗車券は「軍公務公用旅行」と「一般旅行」に分けて各駅に割り当てられ、その日の割り当て枚数に従って順次発売されていたから、一般旅行客が乗車券を手に入れるのは大変だった。もちろん、私的な旅行でも緊急の用務だった場合は、主要駅に配置されている旅行統制官に申し出て審議をしてもらい、必要と判断された場合には乗車券を発売してもらえることになっていた。しかし実際は、駅で長いこと並んでやっとのことで切符を手に入れたり、知人に頼んで手に入れたりしていたのである。〈29~31ページ〉

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八王子市は8月2日未明に大空襲を受けていた

2025-02-26 01:37:42 | コラムと名言
◎八王子市は8月2日未明に大空襲を受けていた

 斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第5章の「三、旅客列車の削減と四一九列車の運行」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 八王子への小型機の空襲
 湯の花〈イノハナ〉トンネルがある浅川町や八王子市では、この空襲までにしばしば小型機の空襲にみまわれていた。P51は伊豆諸島に沿って北上し、途中から分かれて関東各地に侵入したが、相模湾から入って相模平野を北上してくるコースにあたるためであった。
 二月一七日の艦載機の初来襲の時には、八王子の小宮町〈コミヤマチ〉高倉、旧元八王子村、旧由井村小企比〈コビキ〉、旧由木村中山などで機銃掃射をしたり爆弾を落としたりして、その恐ろしさを市民にしらしめた。しかし、中央本線の列車などへの攻撃はなかった。
 P51が初めて八王子を空襲したのは一九四五年五月二五日だった。この日お昼ごろ、浅川駅とその周辺が北方から現われたP51の機銃掃射をうけ、駅の南側にあった日本発送電倉庫と近くの山林から火災が発生した。当時、この駅の南西側一帯の山々には中島飛行機武蔵製作所が地下工場を建設しており、それをねらったと考えた人もいた。八王子のようにまわりを山にかこまれた地域では、小型機は轟音とともに突然に山かげからあらわれたから、人々は隠れるの準備も十分にできないまま銃撃にさらされたのである。
 その後もP51による空襲は続き、六月一一日の空襲では八王子市内が機銃掃射を受け、七月六日には市内への銃撃のほか、焼夷実砲により旧加住村〈カスミムラ〉高月〈タカツキ〉円通寺が焼失した。
 さらに七月八日には浅川駅でドラム罐を積んでいた停車中の貨車が銃撃を受け、火災が発生、駅員一名が重傷、二名が軽傷を負い、子どもひとりが負傷した。旧元八王子村でも隣保館〈リンポカン〉に集団学童疎開で来ていた品川区立原国民学校初等科四年生の神尾明治〈カミオ・アキジ〉が亡くなった。(このことについては古世古和子〈コセコ・カズコ〉『ランドセルをしょったじぞうさん』として知られている)
 七月二八日には、旧元八王子村で元八王子村国民学校が銃撃を受け、横山村では焼夷実砲で民家一戸が焼失している。東京都西多摩郡西秋留村〈ニシアキルムラ〉(現・秋川〈アキガワ〉市)では、やはり学童疎開中の岡崎和雄が銃撃で亡くなっている。
 このように、七月に入るとP51は八王子市内外にも頻繁に来典し、交通機関や学校なども 狙って機銃掃射を繰り返したのである。
 一方、この年の六月からは中小都市空襲が始まり、地方の主要都市が空襲を受けていったが、ついに八王子市も八月二日未明にB29、一六九機による大空襲を受けた。市街地の八六パーセントが焼け野原になり、小型機が飛来した時に姿を隠す建物は焼けのこった土蔵ぐらいしかなくなってしまった。
 早くも翌日の三日にはP51が飛来し、市内八日町に銃撃が加えられたといわれる。
 そして八月五日を迎えたのである。〈258~260ページ〉

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8月5日午前5時、中央本線が全面開通

2025-02-25 01:31:02 | コラムと名言
◎8月5日午前5時、中央本線が全面開通

 斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第5章の「三、旅客列車の削減と四一九列車の運行」を紹介している。本日は、その二回目。

 この空襲にあった長野行き四一九列車は、削減されなかった列車のひとつであった。また、六時一〇分発名古屋行き五〇一列車に続いて一〇時一〇分に出発するため、比較的利用しやすかった。
 しかし、整備の遅れなどで遅れたり、空襲で運行が妨げられることもしばしばあり、ちょうどこの時も八月二日の八王子空襲で八王子駅などが被害を受けて一部不通となり、四一九列車は四日まで運行されていなかった。
 この空襲では八王子駅構内で本屋〈ホンオク〉、信号扱い所、車掌区、保線区などが焼け、八王子―浅川間の線路が五カ所四六〇メートルにわたって破壊され、枕木が四五〇本焼けた。
 二日の午後九時になって立川―豊田間で運転が再開され、三日の午前九時には豊田―八王子間で蒸気列車が運転され、四日は始発電車から八王子まで運転された。しかし八王子―西八王子間は依然不通のままだった。
 軌道と枕木を交換するなどの応急補修をして五日の午前五時にようやく全面開通し、新宿駅から六時一〇分発名古屋行きの五〇一車が運転された。四一九列車も三日ぶりに運転されることになった。(鴨原吉之助『国鉄の空襲被害記録』、「読売新聞」など)
 四一九列車は、ED16-7号電気機関車が客車七~九両ぐらいを引く列車だった。
 牽引していたED16型機関車は、中型国産機の標準形式として設計され、急勾配の路線用として、幹線用制式機閲車EF52と共に作られた。それまでの機関車の運転台が、輸入機関車の基準で作られ運転しにくかったのに対し、このED16は当時の日本人機関士の体型に沿って作られていたから運転しやすく、運転を楽しみにしていた機関士もいた。
 東海道本線のあとに行なわれた中央本線、上越線の電化に合わせて一九三一(昭和六)年から日立、三菱、芝浦、川崎の四社が一八両製造し、このED16-7は芝浦製だった。
 そして一九三一年五月一三日の東京を振り出しに、国府津〈コウヅ〉、水上〈ミナカミ〉、八王子などの機関区を経て、一九四三年四月五日には甲府機関区に移り、空襲にあった時は甲府機関区に所属していた。
 その後、一九五三年四月五日には八王子機関区、五九年には西国立〈ニシクニタチ〉支区(西国立支区は六三年に機関区に昇格して立川機関区と改称)と移った。(『鉄道ビクトリアル』一九六三・九・一)一方、一九七七年までにすべてのED16が立川機関区に集められ、青梅、五日市、南武線の貨物輸送に使われた。そのほとんどがタンク輪送と奥多摩や五日市から産出される石灰石〈セッカイセキ〉輸送だった。
こうしてED16は半世紀も働き続けたあと、7号は一九八一年二月一二日、国鉄の大宮工場で解体され、その他のED16も前後してすべて解体された。
 ED16は最高時速六五キロメートルとさほど出ないかわりに牽引力が強く、上越線、中央本線の「山線」、つまり勾配が急な地域で貨物列車を引いていた。しかし、戦局が悪化してくると、機関車を旅客列車用、貨物用と区別して連転している余裕がなくなり、この機関車も旅客用に使われていたのである。
 当時の中央本線の旅客列車は、勾配と機関車の関係で客車は最大でも九両しか連結されていなかった。その客車も「木製車のオンパレードの中に申し訳け程度の半鋼鉄車が入ってい」たという。(『鉄道と街・新宿駅』)多くの方の証言からすると、この列車には七両から九両が引かれていた。〈256~258ページ〉【以下、次回】

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斉藤勉さんの『中央本線四一九列車』を読む

2025-02-24 03:23:01 | コラムと名言
◎斉藤勉さんの『中央本線四一九列車』を読む

 2月14日の東京新聞記事は、カラー写真が四つも付いている。そのうちのひとつは、慰霊碑の前に立つ、「慰霊の会」の会長・斉藤勉さんの写真である。
 ウィキペディアには、「湯の花トンネル列車銃撃事件」という項がある。同項によると、斉藤勉さんには、『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)という著書がある。
 先週、私は、国立国会図書館に赴き、その『中央本線四一九列車』を閲覧してきた。取材、調査のゆきとどいた労作であった。
 引用・紹介したい箇所はたくさんあるが、本日以降、第5章「小型機の列車空襲」の「三、旅客列車の削減と四一九列車の運行」を、何回かにわけて紹介してみたい。

三、旅客列車の削減と四一九列車の運行

 列車の削減
 国鉄の列車・電車の運行は戦局の悪化とともに混乱しはじめ、その混乱に空襲が拍車をかけていた。
 一九四四年八月一六日には政府は応急運輸措置要綱を定め、輸送の円滑化をはかるため計画輸送の徹底がはかられたが、空襲に備えて疎開輸送が要請されたこともあって、計画輸送は空襲が本格化する前から混乱していた。
 年が明けてから運輸通信省鉄道総局は、防空に加えて来るべき本土決戦に備えての義勇隊組織への移行準備を始めていた。二月になって、木土決戦準備が本格化し、組織の改変や施設の強化が求められたのに対し、大都市空襲によって幹線輸送が麻痺し、通勤、輸送施設が大きな打撃をうけた。さらに、小型機の空襲によって列車の運行自体が危険になっていった。このため、鉄道の計画輸送などはできず、「運行計画にもとづく列車の輸送自体が不可能となった。政府・軍部は六月ごろから本土決敝に備えて鉄道施設の軍事体制化を進めようとしていたが、疎開輪送を強化することなど貨物や人員の輪送の各種の緊急要請が繰り返し出されたために、これらが錯綜して軍事化も進められなかった。
【一行アキ】
 全体としてみれば、空襲と本土決戦準備と、そして個々に生じて来る輪送要請と、この三者が、国鉄・私鉄の輪送体制を混乱におとし入れ、輪送力を麻痺させる原因となって いった。すでに計画輪送を突施することすら不可能となり、いわば「その日暮し」の輪送 体制をとるほかないという追いつめられた状態が全国にひろがっていくのである。(原田勝正『日本の鉄道』)
【一行アキ】
 そうしたなかで旅客列車は運転本数が大幅に減らされていった。
 一九四五年五月一日には「大空襲下における陸上輪送力の確保に関する要綱」に基づいて全国で第一次旅客列車削減が実施され、六月一〇日には第二次の削減が実施されて設定キロ数は二六万キロ前後となり、一九四二年一一月の設定キロ数から六〇パーセントの削減となった。
 時刻表の改正は一九四二年一〇月をはじめに、この年の六月一〇日までに八回行なわれ、その都度旅客列車は減らされた。六月一〇日の改正では、一九四二年に対して四〇パーセントの減少となり、これは二〇年前、つまり一九二二、三年の状態と同じだった。急行列車は東海道本線の東京―下関間の一本を除いて全廃され、中距離、長距離列車の所用時間も増えた。(『週報』昭和二〇年六月、四四九号)
 中央本線では一九四四年一二月一日には、新宿駅発の下り列車は午前六時二〇分の塩尻行列車を最初に甲府行が三本、提野行が四本、松本行が一本など計一〇本あり、八王子からも塩尻、大月、長野行きがそれぞれ一本ずつ出ていた。しかし、この年七月一日になると、八王子からの本数は変わらなかったものの、新宿駅発は名古屋行と長野行が各二本、松本、甲府、大月行がそれぞれ各一本の計七本に減らされていた。(東亜交通公社発行の時刻表による)〈254~256ページ〉【以下、次回】

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