礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

少年時代から長く金氏の薫陶を受けた(木村義雄)

2024-05-31 01:41:06 | コラムと名言

◎少年時代から長く金氏の薫陶を受けた(木村義雄)

 木村義雄著『木村義雄実戦集』(誠文堂、1930)を紹介している。本日はその三回目。
 本日は、「平手篇」の十四番目にある「八段 金易二郎氏との対局」(大正十四年)から、【前詞】のところを紹介してみたい。

 大正十四年/東西大棋戦/於 朝日新聞社
 平 手
 八段 金 易二郎/先 七段 木村義雄

〔棋譜、略〕

【前 詞】現在の新聞将棋には時間制度が設けられてゐる。七八段は各自十二時間つまり一局二十四時間限度とし、五六段を各自十時間と定【き】められてゐる。この外【ほか】名人は七八段より一二〈イチニ〉時間適宜に多く持たれることになつてゐる。四段以下はこれに準じ、八時間以下の持【もち】時間を段位に依つて適宜に応用されてゐる。仲間うちの決めであつて考慮の比較的早い人もあるし、長案でなければ指し難【にく】い方も大勢のうちには居【ゐ】られるので、杓子定規の規定でなく、対局者に依つて、その時に、適宜に幾分の延長は認められてゐる。こゝまでに到つたのは、大分議論もあつたが、時間制度といふものが設けられた初めは、七八段が各自八時間であつた。処【ところ】が、これは高段としては稍【やゝ】無理の嫌ひのある短時間で、時代に適応した時間制度だとは云へ、余りに短いとの意見が多く、延【ひ】いては将棋其物にも影響を及ぼすことが多いから今少し延長してはどうかとの意見を持つてゐるものが多くなつて、現在の制度に改正されたのであるが、この空気を作つたのは、この対局〔金・木村の平手戦〕が実際問題に触れたことが大きな原因をなしてゐた。私が七段になつてから相当時を経て、金【こん】氏と香落【きやうおち】から半香【はんきやう】に直【なほつ】た確か最初の平手番【ひらてばん】である。私が先輩である金氏の棋風を批評することは僭越であるかも知れないが、批評でなく、感じた侭を述べさして貰へば、第一は非常に真面目で一手たりとも軽忽【けいそつ】には下さない、指した一手には必ず含蓄があつて、よく味【あぢは】ふと、どつしりとした力を含んで学ぶ可【べ】き所が非常に多い。相手を見て作戦したり、敵の手段に依つて策を弄す風が見えない。私は少年時代から長く実際の薫陶を受けた関係から、私の棋風が大分金氏に似てゐると、故人になられた村越〔為吉〕六段などは屡々云はれた。名人〔関根金次郎〕と金八段の棋風がよく似てゐるのであるから、これに感化されたことは今になつて幸ひであると、当時を懐【おも】つて感謝してゐるのである。〈165~167ページ〉

〔後略〕

 若干、注釈するが、将棋に詳しいわけではなく、インターネット情報に基いた注釈にとどまる。昭和初年における「名人」とは、九段に対する名誉称号。当時の名人は、関根金次郎(十三世名人)。
 金易二郎(こん・やすじろう)は、関根門下で、木村義雄の先輩に当たる。1924年(大正13)に八段、1947年(昭和22)に引退、1954年(昭和29)に名誉九段を贈呈された。
「半香」とは、平手と香落ちという二番一組の対局のこと。このとき、金八段と木村七段は、半香で対戦したが、本書で紹介されているのは、そのうちの平手戦である。木村の記述によると、この平手戦で、「時間制度」に関わる問題が発生した模様だが、詳細は不明。

*このブログの人気記事 2024・5・31(8位になぜか山本有三)

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序盤は、研究の深い金子氏の術中に陥ったが……

2024-05-30 03:00:37 | コラムと名言

◎序盤は、研究の深い金子氏の術中に陥ったが……

 木村義雄著『木村義雄実戦集』(誠文堂、1930)を紹介している。本日はその二回目。
 本日は、「平手篇」の二番目にある「四段 金子金五郎氏との対局」(大正九年九月)から、【総評】のところを紹介してみたい。【 】は原ルビ、〔 〕内は引用者の注を示す。

 大正九年九月/優勝争ひ棋戦/於 国民新聞社楼上
 平 手
 四段 金子金五郎/先 四段 木村義雄

〔前略〕

【総 評】この将棋は、私の過去の歴史に、慥【たし】かに光輝を放つ一局であると信ずる。当時は、関根〔金次郎〕名人を主催とする東京将棋倶楽部と、土居〔市太郎〕八段を中心とする将棋同盟社、尚、それに、大崎〔熊雄〕氏、溝呂木〔光治〕氏一派の将棋研究会の三派に別れてゐて、各自【おのおの】、受け持の新聞以外、他の棋士とは、殆んど手合【てあひ】がなかつた。(研究会と、同盟社とは、この当時既に新聞将棋で戦つてゐた。)稀に、大会とか、特別の手合以外は指す機会がないのであつた。当時の昇段は、現在の様【やう】に、合議的な方法ではなく、昇級の場合は、何でも他の派の者に勝たなければ、許されなかつたし、棋士自身も、此の気持が多分にあつたと思ふ。関根派の新進としては、私と、小泉〔謙吉〕四段があり、同盟社には金子〔金五郎〕四段、研究会としては、飯塚〔勘一郎〕四段があつて、比較的当時の棋界を賑はしてゐた。国民新聞社に関係のあつた故佐藤功【いさを】氏の奔走に依つて、新進棋士の争覇戦【さうはせん】と云ふ意味の下【もと】に、私と金子氏と飯塚氏の三人が各派から選ばれたのである。この対局は金子氏と飯塚氏が戦つて、金子氏が勝つた後に、第二回戦として対局したものである。さう云ふ状態であつた為と、四段当時の潑溂とした元気に敵愾心を煽つて非常に熱心に戦つた。当時の新聞社が写真を掲載する等【など】は、棋界が不振であつた事にも依るが、多くは、阪田〔三吉〕が上京した折の特別手合とか、関根名人と、井上〔義雄〕八段との手合など以外にはなかつた。それを堂々と然も大きく写真を掲げてくれたのは、対局者が熱心であつた気持に動かされたのと、対局其物が当時の人気を煽つたからである。土居八段も溝呂木七段も来場して、その特別な扱ひを羨望した位【くらゐ】である。対局に先立つて、私は先輩に「金子氏は、平手【ひらて】将棋の相懸【あひがゝり】戦には特に深い研究があつて、この順を選ぶ事は作戦上考へ物である。」と云はれたのである。然し、勉強中、困難を避ける事は、却つて自己の進歩と技倆の錬磨を阻【はば】むものであると考へて、先手後手に拘らず相懸の戦法に依るつもりであつた。もう一つの原因は、貧困当時祖母に死なれたので、父から非常に発奮をする様、訓戒された事もあるのである。序盤の形勢は、研究の深い金子氏の術中に陥り、やゝ難色があつたが、金子氏の三三歩成【なる】の手順前後から、僅かに、挽回した形で、以下、努力した結果、中盤戦の八五歩と打つたあたりでは幾分得意でゐたが、五三歩と打たれてからは、更に混戦模様となつて、自信は持てなかつた。然し、五七歩と追求した時、金子氏が同飛と取つたので、五五香打【きやううち】以下手順に有利な局面となつて、幸ひしたが、今、棋譜を調べて当時を想ひ起すと、指した手の善悪は別として、熱心な、真実な、本当に、一局に精神を打ち込んだ後が現はれてゐて気持がいゝものである。この対局の時は、時間制度もなかつたから、金子氏も私も、随分長案してゐる。三日目は、徹夜で行【や】つて、勝敗を決したのは、確か、三時半頃【ごろ】であつたと記憶してゐる。〈24~26ページ〉

*このブログの人気記事 2024・5・30(8・9・10位は、いずれも久しぶり)

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関根門下の双璧、木村義雄と根岸勇

2024-05-29 03:45:25 | コラムと名言

◎関根門下の双璧、木村義雄と根岸勇

 本年1月21日、当ブログに、「そう言えば一度、怖い目に会った(山本茂男)」という記事を寄せ、その中で、山本茂男さんのうエッセイ「茅ケ崎だより――最近の木村十四世名人」の一部を紹介した。
 そのエッセイの中で、山本茂男さんは、木村義雄名人について、次のように語っている。

 そう言えば一度、怖い目に会った。昭和五二年〔1977〕の初夏『木村名人実戦集』を全三巻として出版する計画をたずさえてうかがったときのことである。棋書研究家の越智信義氏に同道を願って、茅ケ崎のご自宅へ伺候した。
 当初の考えは、既に発表された新聞や雑誌の解説によって木村将棋を集成してみようというものであった。菅谷北斗星〈スガヤ・ホクトセイ〉氏、金子金五郎〈キンゴロウ〉氏の観戦記、それに名人御自身の筆になる自戦記もある。あれこれ集めれば、一五〇局にはなるだろう。脳血栓という病の予後のことであり、書き下ろしの解説など思いもよらないことであった。

 文中に、「名人御自身の筆になる自戦記」という言葉がある(下線)。本年1月に引用したときは、注釈できる基礎知識がなかったが、これは、1930年(昭和5)に誠文堂から発行された木村義雄著『木村義雄実戦集』のことである。
 実は先日、世田谷区内の古書店で、その『木村義雄実戦集』を入手した。本文658ページ、古書価300円。奥付を見ると、「昭和五年八月五日発行」、「将棋大全集/木村義雄実戦集」、「非売品」、「発行者 小川菊松」などの文字がある。
「将棋大全集」というのは、1930年以降、誠文堂から発行された全集で、全12巻とされる(インターネット情報)。国立国会図書館のデータによると、「木村義雄実戦集」は、その第一巻にあたる。なお、国立国会図書館に収蔵されているのは、全12巻のうち、第一巻から第六巻までの6巻のみである。
 さて、『木村義雄実戦集』は、「序」、本文(自戦記)、「自叙伝略」から成っている。本文(自戦記)はさらに、「平手篇」「香落篇」「角落篇」「飛落篇」に分かれる。
 それぞれ、非常に興味深いが、本日は、「平手篇」の冒頭にある「二段 根岸勇氏との対局」から、【註】のところを紹介してみたい。〔 〕内は、原ルビを示す。

 大正八年三月九日/東京朝日新聞掲載/於 麹町平河町 関根八段宅
 平 手
 二段 木村義雄/先 二段 根岸 勇

〔前略〕

【註】根岸氏は私〔わたし〕と同僚で同じく現名人〔関根金次郎〕の薫陶を受けた。二段当時は、実を云ふと、根岸氏の方が私より強かつた。然し、私は家が貧困であつて、早くから手助けをしなければならない為に、当時やつと初段位〔ぐらゐ〕であつたと思ふ力だつたが、二段から新聞将棋が指せるといふので、前途進歩の見込があるからと云ふ意味で特に二段を授けられてゐたのである。それでも大駒落〔おほごまおち〕となると力の懸隔が甚だしいから存外好成績を収めてゐた。年が同じ十六歳で、根岸氏にかゝると何時〔いつ〕でも負かされた。悔しいが「実際問題として力が不足なのだから、この上はうんと勉強して根岸氏に勝つより外〔ほか〕はなく、根岸氏を破らなければ、如何〔いか〕に好成績を収めても昇段する資格はない。」と決心して、その後非常な努力をした結果、数局後は稍々〔やゝ〕勝味〔かちみ〕が現はれた。根岸氏があつて、この時に発憤した気持がそれからずつと後〔のち〕まで教訓となつて、この当時の事を思ひ出すと、云ひ知れぬ心強さを覚えて勉強する気持になる。根岸氏は病〔やまひ〕を得られて、四段にして帰郷されたが、全くの好敵手を失つた当時は寂しかつた。現在の様〔やう〕に棋道が長足の進歩をして、空前の隆盛を来した時根岸氏の姿が棋界に見えないのは返すがへすも残念である。兎に角私が現在の栄誉を荷ひ得たのも当時に根岸氏と云ふ好敵手がなかつたら、かく早くはなかつたであらうと思ふ。〈13~14ページ〉

 インターネット情報によれば、根岸勇四段は群馬県出身で、年齢は木村義雄と同じ。木村とともに関根門下の双璧と称されていたが、脳をわずらって早世したという。

*このブログの人気記事 2024・5・29(9位の終戦は久しぶり、8・10位に極めて珍しいものが)

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礫川ブログへのアクセス・歴代ワースト35(2024・5・28)

2024-05-28 02:16:19 | コラムと名言

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ワースト35(2024・5・28)

 本日は、当ブログへのアクセス・歴代ワースト35を紹介する。
 順位は、2024年5月28日現在。これは、あくまでも、アクセスが少なかった日の順位であって、アクセスが少なかったコラムの順位ではない。なお、ブログ開設当初のデータが、ほとんど残っていないので、正確な順位というわけではない。

1位 2023年12月4日  ここの調査は君一人でやってくれないか(平山輝男)
2位 2024年4月22日 少数の白色人種の国際支配は困る(松井石根)
3位 2023年8月31日  枢密院本会議を休会し陛下の録音放送を拝聴した
4位 2024年5月17日 天皇機関説を倒閣運動の具にした政友会
5位 2023年12月3日 橋本進吉博士の薦めに従い國學院大學で国語学を専攻
6位 2024年2月6日 【この日、記事の更新なし】
7位 2024年5月20日 OCRソフトで表示された漢字(2024/05/20)
8位 2023年7月1日 日本の社会は情をもって成り立つ(内村鑑三)
9位 2020年9月26日 【この日、記事の更新なし】
10位 2024年1月12日 OCRソフトで表示された漢字(2024/01/12)

11位 2023年7月2日 日露戦争より余が受けし利益(内村鑑三)
12位 2023年12月1日 平山輝男博士とアクセント分布の研究
13位 2023年6月13日 日本人は暇つぶしの娯楽に耽っている(M・W・ヴォーン)
14位 2023年9月1日 九月一日忘られず(大正震災かるた)
15位 2024年3月22日 『民法典との訣別』では、検索結果0件
16位 2023年11月28日 朝夕の往復だけで7~8時間を要した
17位 2017年12月23日 成功の秘訣は万人に率先して実行すること
18位 2024年5月1日 神泉苑の池には神龍が棲んでいる 
19位 2024年4月18日 西園寺公望、シュタインから国家有機体説を学ぶ
20位 2015年8月17日 大谷美隆「ナチス憲法の特質」(1941)を読む

21位 2015年8月11日 総統、あなたはアーリア系ですか(1945/04/29)
22位 2024年4月17日 天皇は国家の元首云々は即ち機関なり(昭和天皇)
23位 2016年6月16日 日本人は血縁が等しい大家族民族(古畑種基)
24位 2016年6月19日 我国都市における防空上の二大弱点
25位 2024年4月19日 機関説を悪いと断言する必要はない(渡辺錠太郎)
26位 2024年4月21日 但し憲法の担当はできなかった(成宮嘉造)
27位 2024年5月19日 OCRソフトで表示された漢字(2024/05/19)
28位 2024年4月20日 礫川ブログへのアクセス・歴代ワースト40(2024/04/20)
29位 2014年8月15日 煩を厭ひてすべてはしるさず(滝沢馬琴)
30位 2024年5月7日 予ノ國體論ハ今ハ孤城落日ノ歎アルナリ(穂積八束)

31位 2015年1月8日 伊藤昭久さん、田村治芳さん、松岡正剛さん
32位 2015年12月25日 大佛次郎『ドレフュス事件』は、なぜ龍頭蛇尾なのか
33位 2016年6月23日 生長の家、安倍晋三首相の政治姿勢を批判
34位 2015年9月7日 松川事件、現場に停車した一台のトラック
35位 2015年12月23日 ドレフュス事件とデュ・パチイ・ドゥ・クラン少佐

*このブログの人気記事 2024・5・28(9位になぜか高田保馬)

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「反民主主義映画」とされた『虎の尾を踏む男達』

2024-05-27 02:46:38 | コラムと名言

◎「反民主主義映画」とされた『虎の尾を踏む男達』

 昨日の話の続きである。
 映画『虎の尾を踏む男達』をめぐって、黒澤明監督が日本の検閲官らと争ったというのは、本当にあったことだろう。しかし、〝日本の検閲官が、撮影中の日本映画の報告書から「虎の尾――」だけを削除した〟。その結果、この映画が「上映禁止」になったとする黒澤監督の証言は、信ずるに足らない。ウィキペディア「虎の尾を踏む男達」の項に、次のようにあるからである。

 本作はGHQの検閲により、義経と弁慶の主従の忠義を描いていることから、GHQが日本政府に出した「反民主主義映画の除去」の覚書に沿った「反民主主義映画」の1本に選ばれ、上映許可が認められなかった。1952年3月3日、反民主主義映画に認定された映画のうち、CIE〔民間情報教育局〕の通達による第一次解除映画の1本に含まれ、ようやく上映の禁が解かれた。同年4月24日に一般公開された。

 映画『虎の尾を踏む男達』の完成は、1945年(昭和20)9月だったとされる。この段階では、まだ、日本の検閲官による映画の検閲が続いていたようだ。一方、G・H・Q当局も、映画の検閲を初めていたらしく、『虎の尾を踏む男達』については、これを「反民主主義映画」と認定したもようである。黒澤監督自身、〝「虎の尾――」は、G・H・Qから、上映禁止を喰った〟と述べていることに注意しておきたい。
 さて、日本の検閲官らが、『虎の尾を踏む男達』という作品を否定し、これを葬ろうと意図していたのは事実だと思う。黒澤監督が、自分の映画は日本の検閲官らによって葬られた、と感じたのも事実に違いない。そして、G・H・Q当局が、この作品を「反民主主義映画」と認定し、上映禁止にしたことも事実なのである。
 これら三つの「事実」を統一的に説明する方法はないのか。実は、ひとつだけある。――日本の検閲官が、この作品は「反民主主義」的である旨、G・H・Q当局に申告した、と捉える場合である。「権力」に対し従順な官僚の本質を考えたとき、そのように捉えることは、必ずしも見当はずれではないと思うが、いかがなものだろうか。

*このブログの人気記事 2024・5・27(9・10位に極めて珍しいものが入っています)

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