◎都立二中・田代實教諭と「科学技術者動員令」
七・八年前、知人から『立川高校の天体望遠鏡物語』(二〇〇四)という冊子をいただいた。都立二中(府立二中の後身)、都立立川高校(都立二中の後身)で、長く理科教師を勤めた田代實教諭の回想録である。そのときは、ザッと目を通しただけだったが、今年になって読み返してみると、非常に貴重な史話に満ちていることがわかった。
本日は、その中から、大戦末期、田代實教諭が、現職のまま、軍需工場に出向した話、および八王子空襲の話を紹介する。
そうした不安と、緊張のうちに、昭和十九年四月の新学期となった。二中の五年生は、四月下旬には、勤労動員令を受けた。それで、日野町(現在の日野市)の某時計工場へ入所した。次いで、四年生は、六月十四日に勤労動員令を受けた。それで、東中神〈ヒガシナカガミ〉駅の近くにある、陸軍航空工廠へ、又、四年E組だけは、立川市にある立川飛行機株式会社へ行くことになった。(立川高校、七十周年記念誌の、沿革史に、昭和十九年四月に、五、四学年ともに勤労動員されたとあるのは、誤りであって、四年生は六月からのことである。)
私は、この頃、四年D組の学級主任であり、物理、化学などの学科を担当させていただいていた。それで、ある日は、航空工廠へ、ある日は、立川飛行機工場へ、又ある日は、学校へ行って、まだ学校に残留している、一、二、三年生の授業を行っていた。学校の教務室に、発表されている、各教員の日程表によって、私は、三ケ所を巡回していたのである。生徒も、教員も昭和十九年の夏休みは、思いもよらぬことであった。
昭和十九年十一月十四日、私は、勅令第○○号、科学技術者動員令なるいかめしい令状を受理した。それは、現職のまま、公立学校の理科教員、各官庁の技術者の中から、一名づつを動員して最寄りの軍需工場において、兵器の生産に従事せよというのである。私は、生徒と離れて、単独に、立川飛行機株式会社の一員として、入所することになった。この勅令は、時限法令で、六ケ月間というのであった。学校と、生徒とも疎遠になり、天体望遠鏡は、昔のような蜘蛛の巣だらけの、やむなきに至った。一ケ月に一回の俸給日に、学校へ出頭できたのは、せめてもの慰めであった。十二月の俸給日に、ふと、屋上のドームを懐かしげに仰ぎ見ると、真白く輝いていたドームの姿は、哀れにも真黒く塗りかえられていた。二中の校舎が、空襲の目標になるから、ドームを黒色に塗りかえよとの軍の命令であった。
昭和二十年になって、いよいよ空襲が盛んになって、飛行機工場で私は、二、三回運よく空襲から逃れたりした。そして、生きていた。やがて、時限法令であったので、五月二十一日に、動員は解除になって、二中へ立返つた。二中に残留している生徒は、一、二年生のみであった、青梅町の民家工場を陸軍工場として、使用している所に、働いている三年生の監督に、数回行くこともあった。六月十二日、ついに二年生も動員令によって、南多摩丘陵にある、陸軍火薬工廠へ入所することになつた。(このことは、七十周年記念誌には、記入されていない)
本土空襲は、益々激しくなった。昼夜の別なく、日本中、何処が安全で、何処が危ないかということはない。無差別空襲を受けで、日本国中焼土となりつつあった。
八月一日夜、私は、二中の宿直に当てられていた。宿直員は、三人づつ一組になっていたが、その日は一人の先生は何んな理由か学校に来ないので、私と他の先生と二人でその任務につくことになった。火工廠の作業を終えて、仕度してそれから宿直任務へ学校に十七時に着いた。その時立川市が今夜空襲されるかも知れないという、軍情報が、私の耳に入った。不安と緊張とで、落着かなかつた。
もし、二中の校舎が今夜の空襲によって、破壊されるとすれば、あの屋上の天体望遠鏡ともお別れになってしまうのだと思うと、ひたすら二中の校舎の無事安泰を祈らずにはいられなかった。その夜は、幸いに、立川市の一部だけの空襲を受けただけにとどまり、二中の校舎は無事であった。それにつけても、この夜半八月二日、零時半頃から、八王子市及び隣接の農村に至るまで、B29の大空襲をうけ、焼土となってしまったのである。私は、屋上に佇んで〈タタズンデ〉、盛んに炎上し、紅に染まった八王子の大空を、悲痛な思いで眺めたのであった。三月十日明け方の帝都の大空襲と、あの八王子市の大空襲とは、私が、まざまざと眺めて、忘れることのできない、戦争の悲惨であった。 …続く。
(昭和四八年三月二七日記)
文中、「陸軍火薬工廠」とあるが、正式名は、「陸軍火工廠多摩火薬製造所」だったようだ。勅令「科学技術者動員令」については未確認。博雅のご教示を乞う。