礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

自信に富む松岡外相は自ら案を建て……

2021-10-31 03:38:08 | コラムと名言

◎自信に富む松岡外相は自ら案を建て……

 重光葵『昭和の動乱 下』(中央公論社、一九五二年四月)から、「三国同盟 その三」を紹介している。本日は、その二回目。

     二
東京交渉 松岡〔洋右〕外相は、就任匆々〈ソウソウ〉、ベルリンにおける来栖〔三郎〕大使に打電して、三国同盟締結に関するドイツ側の意向を、リッペントロップ外相について、内偵せしめた。リッぺントロップ外相は、直ちにこれに応じ、日本側において機の熟したことを観取して、その信頼するスターマー公使を、個人代表として東京に急派した。スターマー公使は、オット大使とともに松岡外相と会談して、直ちに三国同盟の交渉に入り、イタリアとの関係はドイツにおいて取りはからふ、こととして談は進められた。
 非常に自信に富む松岡外相は、すでに合意に達した政府首脳部の方針にのつとり、みづから案を建て、齋藤〔良衛〕外務省外交顧問を補佐として交渉を進めた。松岡案は、さきに平沼〔騏一郎〕内閣時に、リッペントロップが提案した単純なる一般的軍事同盟と、実質において同一であつた。条約の対象を何国〈ナニコク〉とするかといふやうな問題は、国際情勢の変化せる今日でもあり、すでに完全に解消してゐた。交渉はなんらの故障が起らなかつた。条約の内容は、締約国の一方が第三国より挑発なくして攻撃を受けたるときは、他の締約国は直ちにその攻撃を受けた締約国を援助する、といふ趣旨のものであつて、その援助の方法及び発動は、主権の問題として、各締約国の決定に委せらるることになつてゐた。【以下、次回】

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三国同盟は荻窪会談ですでに合意に達していた

2021-10-30 03:12:23 | コラムと名言

◎三国同盟は荻窪会談ですでに合意に達していた

 本日以降は、重光葵『昭和の動乱 下』(中央公論社、一九五二年四月)から、「三国同盟 その三」の章を読んでみたい。この章は、同書の第七編「日独伊の枢軸(近衛第二及び第三次内閣)」に含まれている(一七~二二ページ)。

荻窪会談 第二次近衛〔文麿〕内閣の最も重大なる使命は、外交方面であつた。換言すれば、いかにしてこの方面の軍部の要望をみたしてゆくか、といふにある。大政翼賛会といふ国内改造に関するナチ版の翻訳は、対外問題としての三国同盟と相〈アイ〉表裏するものであつた。海軍も米内〔光政〕内閣倒れ、山本(五十六)次官が連合艦隊司令長官として出で、及川(古志郎)、豊田〔貞次郎〕次官はもはや三国同盟に異存は云はなくなつた。海軍の実勢力は、南進派の強硬派が大勢を制してしまつたのである。ドイツのことに知識のない、欧洲問題に暗い松岡〔洋右〕外相は、すでに軍部の虜〈トリコ〉となつてゐて、外務省出先の意見を無視して、軍部の判断と意見とに聴従し、ドイツの宣伝をそのまま受け入れた。
 ドイツは、すでに一九四〇年度の英国上陸作戦を放棄してゐた。四〇年度の英国上陸作戦の放棄は、対英上陸作戦そのものの放棄を意味し、いはゆる英国の戦ひは英国の勝利に帰したわけである。その意義を最もよく知つてゐるドイツは、英国侵入は決して放棄せられたものでなく、単に一時延期したにすぎぬことを、世界に信ぜしめんと、百方努力した。ドイツは何時にても、対英上陸作戦に成功する自信を有つてゐる、その作戦は一九四一年には必ず実行する、その時は英帝国の潰滅する時である、と宣伝し、日本にそれを吹き込むことに全力を尽した。また日本はこの形勢を利用して、東南アジア方面に進出して、シンガポールを攻撃し、英帝国の崩壊に際し、十分の分け前を得る権利を獲得すべきである、日本はこの千載一遇の機会を逸しては、機会はふたたび来ぬであらう、とドイツ当局は日本軍部の説得に努めた。
 日本側は、バスに乗り遅れぬやうに行動せねばならぬ、といふ気持で一ぱいであつたので、三国同盟締結の腹案は、組閣を目的とする荻窪近衛公邸における会議で、すでに、合意に達してゐた。この会議には近衛、松岡、東條〔英機〕、吉田〔善吾〕等の諸氏が出席してゐた。さすがに海軍は、この重要決定に苦慮したものと見え、吉田海相は病気となつて職を去り、及川大将が代つて三国同盟に賛意を表した。【以下、次回】

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新聞の多くは刺戟的記事を載せて軍部に迎合した

2021-10-29 01:28:07 | コラムと名言

◎新聞の多くは刺戟的記事を載せて軍部に迎合した

 重光葵『昭和の動乱 上』(中央公論社、一九五二年三月)から、「三国同盟 その二」の章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

     五
五相会議と三国同盟賛否 五相会議は、開かれるごとに、同様の議論を繰り返して結末はつかず、新聞の多くは、宣伝入りの刺戟的記事、論評を載せて、軍部に迎合した。満洲事変以来、識者は漸次姿を匿し、新聞雑誌は、どれも、これも軍部の意向を迎ふるにただこれ急であつて、軍に対する反抗気勢は弾圧を怖れて、何処にも表面には現れなかつた。かやうな一般情勢にあつたにも拘らず、裏面における反対勢力は、決して弱いものではなかつた。天皇は三国同盟には強く反対され、元老上層部も、また在外使臣も、反対の意見が圧倒的であつ た。五相会議は、数十回にわたつて開かれ、有田〔八郎〕外相は終始よく奮闘し、米内〔光政〕海相はこれを支持して、全面的同盟には強く反対した。
 しかし、五相会議が七十回以上も続けられ、親独運動が激烈となるとともに、政府の態度も、とかく軍に押されがちであつて、平沼首相は、ヒットラーに親交の電報を発したりした。欧洲の形勢の切迫するにつれ、リッペントロップ外相の大島〔浩〕大使に対する交渉促進に関する督促は、甚だ急なるものがあつた。
 日本政府は、ドイツ側の意向をも斟酌〈シンシャク〉して、形式上一般的同盟、即ち締約国の一方が、第三国より挑発なくして攻撃を受くるときは、他の締約国は直ちにこれを援助する義務がある、と云ふ形式の条約に同意するも、その第三国と云ふのは、ソ連に限るとか、または援助の時期方法及び形式は、各締約国自身が独自の見地により決することとしようとか、あるひは条約文の解釈によつて問題を切り抜けんともしたが、ドイツを満足せしむることは出来なかつた。軍中央部は、三国同盟締結に重きを置き、第三国がソ連であらうと、満洲事変以来日本に敵意を示して、現に支那を極力援助してゐる英米であらうと、戦争の場合には、他の締約国に当然軍事上の授助義務を発生せしむべきであつて、最近の支那における情勢から見ても、英米とソ連とを区別して考ふる必要はないとして、戦争と云ふことを極めて軽率に見た意見であつた。交渉の任に当つてゐた大島大使は勿論、白鳥〔敏夫〕大使も、三国同盟成立によつて、英仏は屈服すると云ふドイツの主張に同調した。
 意見が纏らぬ間に、欧洲の形勢は急転して行つた。ドイツは、ミュンヘン〔会談〕後間もなくチェッコを合併し、更にポーランドに侵入するに当つて、三国同盟交渉の主たる対象として、談が始められたそのソ連との間に、不可侵条約を締結してしまつた。英仏はドイツに対して宣戦した。ここにおいて、日独伊三国同盟の交渉は、ベルリンで空中分解をしてしまつた。
 平沼内閣は、欧洲政情は複雑怪奇であると声明し、ドイツに対し、ソ連との不可侵条約締結は、防共協定に違反すると抗議して、退陣するに至つた。欧洲情勢を十分に考慮しなかつた三国同盟の交渉は、これまで木を見て、森を見ないやうなものであつた。爾後欧洲におけるドイツの勝利のみに眩惑されて、世界の情勢を無視した三国同盟論は、森を見て山を見ざるやうなものとなつて行つたのである。
平沼内閣によつて、複雑怪奇とされた欧洲の形勢は、果してどんなものであらうか。

「三国同盟 その二」はここまで。明日は、引き続き、「三国同盟 その三」を紹介する。

今日の名言 2021・10・29

◎欧洲政情は複雑怪奇である

 平沼騏一郎の言葉。三国同盟を推進していた平沼内閣は、平沼首相のこの言葉を残して退陣した。上記コラム参照。

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昭和天皇、板垣陸相を叱責(1939)

2021-10-28 01:50:02 | コラムと名言

◎昭和天皇、板垣陸相を叱責(1939)

 重光葵『昭和の動乱 上』(中央公論社、一九五二年三月)から、「三国同盟 その二」の章を紹介している。本日は、その三回目。

     四
三国同盟の昻進 三国同盟の交渉は、軍を中心に、内外にわたつて、揉み抜いた。平沼〔騏一郎〕内閣は、遂に一九三九(昭和十四)年五月二十日及び六月四日の五相会議において根本国策なるものを審議し、ドイツとの関係を、更に緊密化するための交渉を開始することを決定した。しかし、ドイツとの関係を緊密にする具体案に至つては、決して意見が一致してゐた訳ではなかつた。無条件に三国同盟を支持する軍部派の意見と、同盟の目的を対ソ問題に限定せんとする外務省側の意見とは、最後まで調和せず、寧ろ個人的感情問題にまでなつた感があつた。 
 大島〔浩〕大使は、軍中央の意向を受けて、三国同盟の成立に向つて熱心に交渉し、ドイツ測の意見の如く、一般的同盟条約の形式を採用することを進言し、また東京出発の際、軍の意のあるところを熟知してゐた白鳥〔敏夫〕大使は、陸海軍武官とともに、側面より援助し、この案に反対した有田〔八郎〕外相に対抗して、訓令をも無視して行動した。出先両大使の活動は、東京外務本省の考へ方とは非常に喰ひ違ひ、越軌の行動ありとさへ云はれた。いづれも皆、軍部と連絡した上の行動と見られたので、天皇は、板垣〔征四郎〕陸相に対して、天皇の憲法上の外交大権は、軍の干渉すべきものではない、と叱責せられたくらゐであつた。
 国内においては、三国同盟の締結運動は露骨に行はれ、その余勢は、反英示威運動となつて、何時〈イツ〉治安をも紊す〈ミダス〉に至るかも知れぬやうになつたので、木戸〔幸一〕内相は、平沼首相に対して、何とか問題に結末をつけねば、帝都の秩序を保つことが出来ぬかも知れぬ、と警告するに至つた。
 満洲事変以来、無責任なる右翼と、計画的なる左翼との合作になる反英運動の行列は、英国大使館に押しかけるに至つた。冷静な批判に欠けた、かやうな狂乱行為は、大国民として恥づべきことであつたが、もはや軍部も一般人も、甚だしく思ひ上つた状態にゐたのは是非ないことであつた。【以下、次回】

今日の名言 2021・10・28

◎天皇の憲法上の外交大権は、軍の干渉すべきものではない

 昭和天皇の言葉。昭和天皇は、三国同盟の成立に向けて、軍部に越軌の行動があったと見て、板垣征四郎陸相に対して、こう叱責したという。上記コラム参照。

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米内海相、山本次官は強く三国同盟に反対した

2021-10-27 01:46:49 | コラムと名言

◎米内海相、山本次官は強く三国同盟に反対した

 重光葵『昭和の動乱 上』(中央公論社、一九五二年三月)から、「三国同盟 その二」の章を紹介している。本日は、その二回目。

     二
日本におけるナチ勢力と三国同盟反対勢力 スウェーデン公使時代から、この問題に密接の関係を持つてゐた急進論者、白鳥〔敏夫〕公使は、日本において、軍部とともに熱烈なる三国同盟論者であつた。板垣〔征四郎〕陸相及び近衛〔文麿〕首相は、彼が外務次官として中央の要部に止まることを欲したが、宇垣〔一成〕外相は、ベルリンにおいて大島〔浩〕武官を大使に任命するとともに、彼を駐伊大使に任命した。大島武官の特使笠原〔幸雄〕少将が、東京から三国同盟交渉に関して、五相会議の承認を齎らすと同時に、大島中将は、駐独新大使として、駐伊白鳥大使と呼応して、この問題の交渉を開始したことはすでに述べた。
 海軍においても、末次〔信正〕大将等の反英米の急進派は、何れもナチの謳歌者であつて、三国同盟には異存はなく、我が内務行政は、末次内務大臣の下に、急にナチ化して行つた。軍部を中心とする親独伊、反英米の宣伝は、常識を逸したものであり、新聞及び輿論はこの勢力に専ら追従したがため、三国同盟論は、日本を風靡する有様であつた。しかし、他面、これに対する反対は、政府、上層部及び識者の間には相当強いものがあつた。
 近衛内閣〔第一次〕によつて承認せられた、三国同盟交渉の方針は、平沼〔騏一郎〕新内閣において充分意見の纏まらざるままに、従来の方針に基き出先きの活動は継続された。中央と出先きとの意見は、漸次疎隔を来たし、また外務省と軍部との意見は、ますます反撥し、外交の不一致を遺憾なく暴露した。短命なる平沼内閣は、近衛内閣〔第一次〕より引き継いだ三国同盟の交渉に終始した内閣であつた。

     三
三国同盟反対 三国同盟反対の中心である、有田〔八郎〕外相の下の外務省においては、白鳥〔敏夫〕大使等軍部に共鳴する一部のものを除くのほか、その主流をなすものの意見は、極めて明白であつた。彼等は、元来枢軸外交に反対であつて、三国同盟についても、また反対であつた。防共協定強化の観念から出た同盟交渉であるならば、その観念を維持し、目標をソ連と事ある場合に限るべきであつて、その他に及ぼすべきではない、若しその目標に英米をも加ふる一般的のものとする場合には、自然に英米を敵視するやうになつて、我が国際的地位を危殆ならしめる、英米との関係をこの上悪化するが如きは、日本にとつては危険であつて、極力これを避けねばならぬと云ふのである。
 この事は、国際関係に従事してゐるものや、一般国際常識を有つてゐるものには、極めて見易き事柄であつて、外務省の重要な機関は内外とも挙つて〈コゾッテ〉、この意見であり、日本がまさか、欧洲問題が危機を孕んでゐる際、英(米)仏を敵に廻して、独伊と同盟関係に入るが如き、乱暴な政策を執るものとは考へなかつた。また、日本の上層部には、日英同盟時代の頭を変へてをらぬものが多く、この方面には、ドイツの信用は薄く、ために、ドイツと同盟に立つて、英米との国交を軽んずるやうな方針は甚だしくこれを嫌ひ、天皇陛下は最もこれを排斥された。
 海軍は、石油その他の必要物資の入手には非常に熱心で、全体としては、南進政策を決定してはゐるが、直ちに英米と戦争を誘発するが如き政策はこれを好まず、当時の海軍当局、米内〔光政〕海相、山本〔五十六〕次官及び海軍の先輩穏和派は、強く三国同盟に反対した。この反対は、海軍全体が一致して支持した南進政策とは、その本質において矛盾したものである。南進政策は極端論者に引きずられた形であつたが、三国同盟の締結に対対しては、海軍部内の思慮ある人々は、日本海軍の実力及び日本自身の国力にも顧み〈カエリミ〉、大局上の見地に立つて、第二次近衛内閣の出来るまで反対を続けた。
 欧洲における風雲は、ムッソリーニ及びヒットラーの対外的急進に伴ひ、益々険悪となり、何時〈イツ〉大国間の戦争が勃発するかも知れざる形となり、日本が、欧洲戦争に引き込まれる契機となるべき三国同盟の締結の愚をなすべからざることは、大局から見て、余りに明瞭なことと考へられた。しかのみならず、三国同盟に対して、国内上層部にも有力なる反対論があるのに鑑み、識者は寧ろ安心してゐる間に、軍部の強引は効を奏し、ドイツに対する深入りは抜き差しならぬ程度にまで進んで行つた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・10・27(9位になぜか映画『或る夜の出来事』)

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