◎米内海相、山本次官は強く三国同盟に反対した
重光葵『昭和の動乱 上』(中央公論社、一九五二年三月)から、「三国同盟 その二」の章を紹介している。本日は、その二回目。
二
日本におけるナチ勢力と三国同盟反対勢力 スウェーデン公使時代から、この問題に密接の関係を持つてゐた急進論者、白鳥〔敏夫〕公使は、日本において、軍部とともに熱烈なる三国同盟論者であつた。板垣〔征四郎〕陸相及び近衛〔文麿〕首相は、彼が外務次官として中央の要部に止まることを欲したが、宇垣〔一成〕外相は、ベルリンにおいて大島〔浩〕武官を大使に任命するとともに、彼を駐伊大使に任命した。大島武官の特使笠原〔幸雄〕少将が、東京から三国同盟交渉に関して、五相会議の承認を齎らすと同時に、大島中将は、駐独新大使として、駐伊白鳥大使と呼応して、この問題の交渉を開始したことはすでに述べた。
海軍においても、末次〔信正〕大将等の反英米の急進派は、何れもナチの謳歌者であつて、三国同盟には異存はなく、我が内務行政は、末次内務大臣の下に、急にナチ化して行つた。軍部を中心とする親独伊、反英米の宣伝は、常識を逸したものであり、新聞及び輿論はこの勢力に専ら追従したがため、三国同盟論は、日本を風靡する有様であつた。しかし、他面、これに対する反対は、政府、上層部及び識者の間には相当強いものがあつた。
近衛内閣〔第一次〕によつて承認せられた、三国同盟交渉の方針は、平沼〔騏一郎〕新内閣において充分意見の纏まらざるままに、従来の方針に基き出先きの活動は継続された。中央と出先きとの意見は、漸次疎隔を来たし、また外務省と軍部との意見は、ますます反撥し、外交の不一致を遺憾なく暴露した。短命なる平沼内閣は、近衛内閣〔第一次〕より引き継いだ三国同盟の交渉に終始した内閣であつた。
三
三国同盟反対 三国同盟反対の中心である、有田〔八郎〕外相の下の外務省においては、白鳥〔敏夫〕大使等軍部に共鳴する一部のものを除くのほか、その主流をなすものの意見は、極めて明白であつた。彼等は、元来枢軸外交に反対であつて、三国同盟についても、また反対であつた。防共協定強化の観念から出た同盟交渉であるならば、その観念を維持し、目標をソ連と事ある場合に限るべきであつて、その他に及ぼすべきではない、若しその目標に英米をも加ふる一般的のものとする場合には、自然に英米を敵視するやうになつて、我が国際的地位を危殆ならしめる、英米との関係をこの上悪化するが如きは、日本にとつては危険であつて、極力これを避けねばならぬと云ふのである。
この事は、国際関係に従事してゐるものや、一般国際常識を有つてゐるものには、極めて見易き事柄であつて、外務省の重要な機関は内外とも挙つて〈コゾッテ〉、この意見であり、日本がまさか、欧洲問題が危機を孕んでゐる際、英(米)仏を敵に廻して、独伊と同盟関係に入るが如き、乱暴な政策を執るものとは考へなかつた。また、日本の上層部には、日英同盟時代の頭を変へてをらぬものが多く、この方面には、ドイツの信用は薄く、ために、ドイツと同盟に立つて、英米との国交を軽んずるやうな方針は甚だしくこれを嫌ひ、天皇陛下は最もこれを排斥された。
海軍は、石油その他の必要物資の入手には非常に熱心で、全体としては、南進政策を決定してはゐるが、直ちに英米と戦争を誘発するが如き政策はこれを好まず、当時の海軍当局、米内〔光政〕海相、山本〔五十六〕次官及び海軍の先輩穏和派は、強く三国同盟に反対した。この反対は、海軍全体が一致して支持した南進政策とは、その本質において矛盾したものである。南進政策は極端論者に引きずられた形であつたが、三国同盟の締結に対対しては、海軍部内の思慮ある人々は、日本海軍の実力及び日本自身の国力にも顧み〈カエリミ〉、大局上の見地に立つて、第二次近衛内閣の出来るまで反対を続けた。
欧洲における風雲は、ムッソリーニ及びヒットラーの対外的急進に伴ひ、益々険悪となり、何時〈イツ〉大国間の戦争が勃発するかも知れざる形となり、日本が、欧洲戦争に引き込まれる契機となるべき三国同盟の締結の愚をなすべからざることは、大局から見て、余りに明瞭なことと考へられた。しかのみならず、三国同盟に対して、国内上層部にも有力なる反対論があるのに鑑み、識者は寧ろ安心してゐる間に、軍部の強引は効を奏し、ドイツに対する深入りは抜き差しならぬ程度にまで進んで行つた。【以下、次回】
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