◎これじゃ東條とどれだけ違うのだ(原嘉道)
この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一昨日、昨日に続いて、一九四四年(昭和一九)七月一八日の日記を紹介する。昨日、紹介した部分のあと、改行せずに、次のように続く。
最後に予備よりも一人候補者を出すべしということとなり、米内〔光政〕大将、
小磯〔国昭〕(大将、現朝鮮総督)はどうだろう。
と提案し、
自分の内閣にいたので彼の人物力量はよく知っている。
とて、推讃の言葉を述べ、平沼〔騏一郎〕男もまた、米内大将同様、自己の内閣に閣僚たりし関係上、大いにこれを推称し、阿部〔信行〕大将も、
手腕はたしかに寺内〔寿一〕、畑〔俊六〕以上だ。
と保証す。若槻〔礼次郎〕、岡田〔啓介〕両氏は、
小磯という人は知らない、米内、平沼両君が褒めるのなら結構だろう。
と賛成し、最後に平沼、米内両氏より候補者の順位につき、
寺内第一、小磯第二、畑第三ということにしてもらいたい。
という希望あり、異議なく右に決定す。この時原〔嘉道〕氏は「これじゃ東條とどれだけ違うのだ」と不満足の意を述べ、岡田、広田〔弘毅〕両氏 も「同感だ」という。此において木戸〔幸一〕内府は、
原君の気持は判るが、事を運ぶには、誰か人を決めなければならないから仕方がない。従来の組閣は、組閣本部へ家の子郎党を集めてやるに過ぎないから、どうしても小さなものになって仕舞うが、今度は組閣に当り、重臣に相談して作るという形にしたらどうだろう。
という。若槻男、
組閣に重臣が干渉しては、受け手がないだろう。
と危む〈アヤブム〉。木戸内府、
干渉はいけないが、重臣が組閣に協力した形にすれば世間にもっと大きく映ると思う。その方法を考えて見ることにしよう。
(註、たとえば陛下の御言葉又は内大臣としての希望を付するの意)
かくて、此の間お菓子を頂戴したるのみにて晩餐【ばんさん】を喫する暇もなく、会議を続行すること実に四時間に及び午後八時散会せり。
同十一時過ぎ、松平〔康昌〕内大臣秘書官長より電話あり。
第一候補寺内呼戻しのため東條陸相に相談したら、東條は作戦上困るという返答をしたので第二候補小磯対し、今夜御呼び出しの電報を打った、と。
注1 西溜の間 昭和二十年〔一九四五〕五月二十五日の東京大空襲で焼失した宮殿(明治宮殿)にあった一室で、陪食、拝謁する諸員の控室だった。
注2 宇垣一成【略】
注3 畑俊六【略】
注4 七月十八日の重臣会議については「木戸日記」に詳細に記されている。本筋に違いはないが発言順、発言者が二、三「近衛日記」と違う。「木戸日記」では、寺内案は米内大将が、梅津案は阿部大将が、畑案は木戸内府が最初に提案している。
この日の議論で、枢密院議長の原嘉道は、「これじゃ東條とどれだけ違うのだ」と発言している。これは、まともな反応である。原は、近衛ほか重臣会議の主流が、「従来主戦論を唱え来れる強硬分子」によって組織される「中間的内閣」を目論んでいることを、まったく知らないのである。「中間的内閣」(中間内閣)については、今月九日のコラム「近衛文麿と昭和19年7月2日付文書」で紹介した「昭和一九年七月二日付近衛文書」(仮称)を参照のこと。