礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト55(24・10・31)

2024-10-31 02:31:15 | コラムと名言
◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト55(24・10・31)

 本日は、当ブログへのアクセス・歴代ベスト55を紹介する。
 順位は、2024年10月31日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった日の順位であって、アクセスが多かったコラムの順位ではない。

1位 2016年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 2015年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 2019年8月15日 すべての責任を東條にしょっかぶせるがよい(東久邇宮)
4位 2016年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
5位 2018年9月29日 邪教とあらば邪教で差支へない(佐藤義亮)
6位 2016年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
7位 2023年12月14日 大江健三郎氏は「一本調子」がかなり改まっている
8位 2024年8月17日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト50(2024/08/17)
9位 2014年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁  
10位 2024年7月3日 その一瞬、全身の毛穴がそそけ立った(山田風太郎)

11位 2021年8月12日 国内ニ動乱等ノ起ル心配アリトモ……(木戸幸一)
12位 2021年6月7日 山谷の木賃宿で杉森政之介を検挙
13位 2024年7月4日 「おばさん、日本は負けたんだ」山田風太郎
14位 2018年8月19日 桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5      
15位 2017年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
16位 2021年3月4日 堀真清さんの『二・二六事件を読み直す』を読んだ
17位 2018年1月2日 坂口安吾、犬と闘って重傷を負う
18位 2019年8月16日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(2019/08/16)
19位 2024年8月19日 陛下のために弁護をする余地すらない(近衛文麿)
20位 2018年8月6日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その5

21位 2022年12月30日 読んでいただきたかったコラム10(2022年後半)
22位 2024年8月15日 御座所にはRCAのポータブルラジオが……
23位 2017年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
24位 2023年3月9日 松蔭を斬り、雲濱を葬りたる幕府当局を想起す(愛国法曹連盟)
25位 2023年12月12日 かうした地方を私は一型アクセントの地方といふ
26位 2018年8月11日 田道間守、常世国に使いして橘を求む
27位 2024年9月14日 A・フジモリ元大統領の訃報
28位 2022年8月2日 朝日平吾は昭和テロリズムの先駆か
29位 2024年8月18日 近衛文麿公は、独り晩秋の軽井沢に赴いた
30位 2022年12月20日 「開帳は夜ふけに限る」と敬道師はいった

31位 2017年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
32位 2024年6月19日 国難ここに見る、弘安四年夏の頃
23位 2022年6月22日 大正期における大阪の田楽屋と「おでん」について
34位 2022年12月31日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト108
35位 2017年8月6日 殻を失ったサザエは、その中味も死ぬ(東条英機)
36位 2024年8月22日 この戦争は負けだね(阿部謹也の祖母)
37位 2022年9月20日 太田光氏の「まともな感覚」に期待する
38位 2024年2月16日 宮城長五郎「思想に関する事件の思ひ出」
39位 2024年9月13日 書中の迷信的記事には註解を施さなかった
40位 2022年10月6日 家々に代々伝へて来るのが「モタル」であります

41位 2022年9月22日 坊さんには生活の苦労を知らぬ人が多い(山田孝雄)
42位 2024年7月2日 ラジオが正午重大発表があるという(高見順日記)
43位 2023年1月12日 加藤寛治軍令部長の上奏をめぐる問題
44位 2017年8月13日 国家を救うの道は、ただこれしかない
45位 2022年10月5日 安倍元首相は、「非業の死」を予期していたのか
46位 2024年8月9日 御一新このかた一も欧米、二も欧米で
47位 2024年8月14日 これより謹みて、玉音をお送り申します
48位 2019年8月18日 速やかに和平を講ずる以外に途はない(高松宮宣仁親王)
49位 2024年4月25日 大月康弘さんの『ヨーロッパ史』を読んだ
50位 2024年8月20日 近衛文麿の〝矜恃〟が屈辱よりも死を選ばせた

51位 2021年8月14日 詔勅案は鈴木首相が奉呈して允裁を得た
52位 2023年11月14日 名古屋城のシャチホコから金をはがした金助
53位 2021年3月5日 ある予審判事が体験した二・二六事件
54位 2022年8月17日 帝国憲法の条規中、絶対的に変更すべからざるもの
55位 2024年8月28日 事件の舞台は、那珂郡長倉村の蒼泉寺

*このブログの人気記事 2024・10・31(8・9・10位に極めて珍しいものが入っています)
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  • 服部之総の随筆「武鑑譜」を読む
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  • 服部之総著『moods cashey』(真善美社)を読む
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  • 文部省教学局編纂「日本精神叢書」既刊一覧
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近衛文麿の「中間内閣論」に学ぶ

2024-10-30 00:46:46 | コラムと名言
◎近衛文麿の「中間内閣論」に学ぶ

 当ブログは、2019年9月9日に、「近衛文麿と昭和19年7月2日付文書」を記事を掲載した。本日は、この記事の主要部分を再掲させていただきたい。

◎近衛文麿と昭和19年7月2日付文書

 共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月二日「午後七時」の日記を紹介する。

同日(七月二日)午後七時
  代々木へ松平〔康昌〕秘書官長の来訪を求め会見
 
 まず予より岡田〔啓介〕大将の話を伝達したる上、木戸〔幸一〕内府の参考として今日までの予の考えをまとめたる左の文書を手交す。
    文書全文
 サイパン戦以来、海軍当局は連合艦隊はすでに無力化せりといい、陸軍当局もまた戦局全体として好転の見込絶対になしというに一致せるものの如し。即ち、敗戦必至なりとは陸海軍当局の斉【ひと】しく到達せる結論にして、只【ただ】今日はこれを公言する勇気なしという現状なり。
【一行アキ】
 此の際、陸海軍統帥首脳をして率直に右の事実を確認せしむる事急務なり。その方法としては、事統帥に関するをもって 陛下より厳然たる書面の形式に て御下問あらせらるること至当とす。
【一行アキ】
 右の御下問に関し、次の場合考えらる。
一、直ちに辞表捧呈。
二、恐懼【きようく】聖断を仰ぐ
三、敗戦の責任を恐れ、明確なる奉答を避く。
以上の中、三の場合には有耶無耶【うやむや】に終らず、あくまで御追究を必要とす。
 現内閣辞職の場合には直ちに皇族(高松宮〔宣仁親王〕を最適任とす)に組閣の大命を降され、新内閣の輔弼により時を移さず停戦の詔勅を下し拾う。
【一行アキ】
 現内閣辞職したる後、一時、戦争継続を標榜【ひようぼう】する中間的内閣を組織せしむる案は、左の理由により不得策。
一、敵側は東條をもってヒットラーと相並び戦争の元兇【げんきよう】なりしとし、攻撃を彼一身に集中しつつあり。他の責任者出で戦争を継続する時は、責任の帰趨【きすう】不明となり、その決果は累【るい】を皇室に及ぼすベし。
二、東條は昨今、倒閣陰謀を口にしつつあり。中間的内閣出づれば、此陰謀説は必ず喧伝【けんでん】せられ、一層混乱を起すべし。
三、戦争を継続せば、戦局は益々不利となること明白なるにより、国民は東條去りしため敗戦となれりとし、新内閣に信望を繋【つな】ぐ事極めて困難ならん。
 なお、以上二及び三の理由により東條辞職の場合は辞職理由(敗戦の責任)を明確にする必要あり。もし此点明瞭ならず(たとえば病気等の理由)且【かつ】、御慰労の勅語等賜わるとせば、次の内閣は皇族内閣たると中間内閣たるとを問わず、極めてやり難くなるべし。東條万一不慮の災禍に仆【たお】れたる時も、その辺の手心慎重を要す(たとえば、国葬、誄【るい】詞等の問題)
【一行アキ】
 停戦の詔勅に付ては三案あり。
一、世界各国に向い、人道の立場より戦争終結を御提唱になる事。
二、宣戦詔勅に示されたる戦争目的(英米等の経済的包囲を撃破)を達成したるにより、停戦すと仰せらるる事。
三、戦局の推移に鑑【かんが】み、これ以上国民に犠牲を強【し】いる事は歴代君臣の情義に照し忍びざる旨を宣【のたま】わせらるる事。
 以上一及び二は却【かえつ】て世界の嘲笑を招くおそれあり。三を最善と考う。これにより皇室と臣民との関係を良好にし、思想悪化、革命勃発による国体の危機を多少にても緩和し得べきか。
【一行アキ】
 停戦は速やかなるを要す。但、速やかに停戦することにより和平条件を多少にても緩和し得べしと期待するは誤なり。停戦即無条件降伏と覚悟せざるべからず。人往々余力ある間に速やかに和平すべしという。彼【か】の艦隊を無疵【むきず】のまま残し置くべしとの説は、かかる考えより出発せるものならん。然れども、これは英米の戦争目的を十分認識せざるものなり。彼等の目的は日独の戦争力を剰【あま】す所なく撃破して再び第一欧洲戦争の轍【てつ】を踏まざらんとするにあり。故に余力あるを頼みて条件の緩和を図らんとするは甘き考えなり。
【一行アキ】
 速やかに停戦すべしというのは只々【ただただ】国体護持のためなり。サイパンにおける敵基地完成せば、今月中にも我国六十余州はことごとく空爆圏内に入るベく、さらに連合艦隊無力化の結果は何時本土上陸作戦の開展を見るやも図られず。その場合における人的、物的損害はけだし支那事変以来の消耗の幾十倍、幾百倍に上るべし。かかる事態ともならば最憂慮せらるるは国体の問題なり。現に当局の言明によれば皇室に対する不敬事件は年々加速度的に増加しおり、又、第三インターは解散し、我国共産党も未だ結成せられざるも、左翼分子はあらゆる方面に潜在し、何れも近く来るべき敗戦を機会に革命を煽動【せんどう】せんとしつつあり。これに加うるにいわゆる右翼にして最強硬に戦争完遂、英米撃滅を唱う者は大部分左翼よりの転向者にして、その真意測り知るべからず。かかる輩が大混乱に乗じて如何なる策動に出づるや想像に難【かた】からず。故に敗戰必至と見らるる場合、見込なき戦争を継続することは国体護持の上より見て最危険といわざるべからず。即時停戦は此意味において緊要事なり。
【一行アキ】
 もし即時停戦が真相を知らざる軍人及び国民に異常の衝動を与え、動揺のおそれ濃厚にして皇族内閣をもってするも、これが統制困難なりと認めらるる場合には、やむを得ず中間的内閣を組織せしむべし。但、その内閣は、従来主戦論を唱え来れる強硬分子をもって組織すべし。既述、中間内閣反対理由の中に二及び三は強硬分子内閣ならば幾分その要を除かるべし、もし、これと反対にいわゆる穏健分子をもって組織せば、パドリオ政権として排撃せられ、ほとんど問題とならざるベし。
【一行アキ】
 かかる強硬分子より成る中間的内閣が対内政策上、即時停戦不可能と認むる時は連合艦隊を出動せしめて、最後の決戦を行わしむべし。此決戦の結果、敗北明瞭とならば、その時停戦するも遅からず。此場合には、皇族内閣の出現を またずして万事解決す。是もまた一案か。

  昭和十九年七月二日     以上

 本日は、2019年9月9日の記事の主要部分を再掲する形で、近衛文麿の「昭和19年7月2日付文書」(仮称)を紹介した。
 これに、若干の補足をおこなう。近衛文麿がこの文書を作成した時点の首相は、東條英機である。東條内閣は、同月18日に総辞職している。近衛は、内大臣・木戸幸一の参考に供すべく、この文書を作成した。文書を手渡した相手は、内大臣秘書官長の松平康昌である。
 近衛の言う「中間内閣」とは、即時停戦を目指す敗戦内閣ではなく、また、東條内閣の性格・政策をそのまま引き継ぐ内閣でもない、その中間の内閣という意味であろう。史実に照らすと、東條内閣が総辞職したあと、小磯「中間」内閣がこれに続き、さらにこれを、鈴木「敗戦」内閣が受けたのであった、
 
 本日、この「昭和19年7月2日付文書」を再掲したのには、もちろん理由がある。――今回の総選挙における与党大敗の結果を見て、菅内閣・岸田内閣は、近衛のいう「中間内閣」だったのではないか、これを受けて、総選挙で大敗した石破内閣は、「敗戦内閣」と言えるのではないか、と考えたからである。この場合、安倍内閣は東條内閣に、菅内閣・岸田内閣は小磯中間内閣に、石破内閣は鈴木敗戦内閣に、それぞれ相当する。
 なお、近衛が、「東條万一不慮の災禍に仆れたる時も、その辺の手心慎重を要す(たとえば、国葬、誄詞等の問題)」と言っている点に注意したい(下線)。近衛は、万一、東條が「不慮の災禍に仆れた」場合でも、「国葬」などは「慎重を要す」としている。東條における「敗戦の責任」がアイマイになるので、という論理である。この論理からすれば、不慮の災禍に仆れた安倍元首相を国葬にしたことは、今回の「敗戦」(与党大敗)を受けて考えると、その責任をアイマイにすることになったと言えるだろう。

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「武鑑譜」から「官員録」へ

2024-10-29 03:39:52 | コラムと名言
◎「武鑑譜」から「官員録」へ

 服部之総著『随筆集 moods cashey』(真善美社)から、「武鑑譜」という随筆を紹介している。本日は、その後半。

 十五年めの明治十七年、あんたんたる農業危機をバックとする自由民権運動の革命化に備へて、違警罪即決例、爆発物取締規則と共に華族令が布かれ〈シカレ〉、公侯伯子男と雛【ひな】壇づけられた中へ、成上り官僚の重信朝臣や博文朝臣が頑丈な肩幅を割りこんできたかわりには、明治二十二年の発布を約束されてゐる欽定憲法の中で、十五年前から彼等が喪失したきりの政治的発言権の特等席を、「準備してありますよ」と、耳うちされたことでもある。
 その光輝ある第一議会が開かれる明治二十三年の二月の、京橋の博公書院の発行で、武鑑でおなじみの須原屋茂兵衛や出雲寺万治郎が販売書林として名をつらねてゐる「改正官員録、甲」といふ一冊もここにある。和紙四つ折百八十六丁、五号活字二段組でぎつしりつまつているのが、内閣総理大臣兼内務大臣陸軍中将従二位勲一等伯爵山県有朋を筆頭とし、監獄石川島分署看守副長十等野口正義を末尾とするところの、当年の大日本帝国文武百官の一覧簿をなしてゐるのだからみものである。
 まつたく、わたしはこの一冊を入手してこのかた、ここに盛られた人数を数へあげてみたいという衝動にいくたびか駆られたことを告白する。内閣、枢密院、宮内省外務省以下各省、と目次風に披露しただけではピンとこないだらう。だが、たとへば陸軍省の欄では本省から憲兵隊から参謀本部監軍部はもとより、近衛、第一乃至第六師団の全部について、各連隊もしくは特科大隊にわけて士官候補生以上はすべて記されてをり、海軍などは軍艦別にして上等兵曹、機関師、船医師まで記されてゐるのだから、「防諜」の恐怖耳底〈ジテイ〉に存する者は顚動するであらう。警視庁と各警察は警部補まで、この調子で裁判所、大学、高等中学校からはては官営工場たる富岡製糸所にいたるまで、およそ「官員」たる者の一切がつくされ、その全部に位階勲等があり、巻頭の年俸表月俸表と対比すればただちに各人の俸給がわかり、おまけに長と次長のつく者については住所まで書かれてゐるのである! そのサンプルを、秘書官原敬〈ハラ・タカシ〉や三等技師下後藤新平や、奏任五等珍田捨巳〈チンダ・ステミ〉等々について示せば興味はつきぬだらうが紙数がつきた。
 ところで、この書こそまさに固有名詞として集計された明治官僚制そのものであつた。徳川時代の官僚名簿は「武鑑」とよばれたが、陸海軍まで網羅した明治官僚簿が「官員録」と表題されてゐたことは、ことの本質にふれてゐるとも云へるのである。〈173~176ページ〉

 服部之総の「武鑑譜」は、青空文庫にも収められている。岩波文庫『黒船前後・志士と経済他十六篇』(1981)を底本にしているとあり、現代かなづかいが使われている。改行や句読点においても、『随筆集 moods cashey』所収のものとは、若干の異同がある。
 なお、岩波文庫『黒船前後・志士と経済他十六篇』の解題によれば、「武鑑譜」の初出は、『文藝春秋』1947年(昭和22)7月号だという。

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服部之総の随筆「武鑑譜」を読む

2024-10-28 01:31:48 | コラムと名言
◎服部之総の随筆「武鑑譜」を読む

 服部之総著『随筆集 moods cashey』(真善美社)の紹介を続ける。
 同書には、計10本の随筆が収められているが、その九番目に置かれているのは、「武鑑譜」である。これを前後二回に分けて紹介したい。

     武 鑑 譜

 徳川時代を通じておこなはれていた「武鑑」について、いまの若い人たちは知ることが少いであらう。戦争まへまでは、古書展でもさまで珍しがられず、古地図などにくらべて値も安かつた。銀座の松坂屋まへの露店に、十数年古本をあきなつてゐる山崎さんなどは、この方面が好きで、いつも何冊か仕入れてゐたが、値は特別に安かつた。もつともそれは、わたしの漁る〈アサル〉ものが珍品として値の高い古い時代のものでなく、当時ざらにあつた幕末から明治初年のものにかぎられてゐたせいもあらう。終戦後も、山崎さんの露店は、嬉しいことにそのままもとの位置に復活してゐるが、幕末ものさへすでに珍奇となつた。
 一口に武鑑といふが、大名や幕府役人の全部について巨細〈コサイ〉にしるした四冊ないし五冊ものの大成武鑑だの慶応武鑑だのと銘うつたもの、それの省略懐中本〈カイチュウボン〉で二寸に四寸五分ほどの一冊本、同じ型で頁数八九十丁、慶応二年須原屋茂兵衛〈スハラヤ・モヘイ〉版「袖玉〈シュウギョク〉武鑑」といふのは、大名については記さず幕府官僚のみについての武鑑である等、いろいろの種類があり、版元も、日本橋一丁目の上記須原屋茂兵衛は有名だが、横山町一丁目の出雲寺万治郎〈イズモジ・マンジロウ〉以下この道の老舗がある。
 ところで、さきに幕末から明治初年にかけての武鑑と書いたのを奇異に思はれたむきもあらう。版籍奉還がおこなはれた明治二年七月までは、幕府はなくなつて朝廷が旧幕領を直轄したといふだけで、諸大名は旧体制のまま残つてゐたのであり、版籍奉還ののちになつても、大小名の名目が知藩事〈チハンジ〉とかわり独立の封建領主が形ばかり天皇制の官僚となつたといふまでのことである。この時代の珍重すべき武鑑は――もはや武鑑とはいはず藩銘録と題されてゐるのだが、わたしの手もとにあるのは明治三庚午年初春荒木氏編輯、御用書師和泉屋市兵衛〈イズミヤ・イチベエ〉、須原屋茂兵衛共同出版の、袖珍〈シュウチン〉十九丁ものである。
 それは藩名をイロハ順に編別したもので、イの一番は厳原(イツハラ)藩、対馬十万石の宗従四位〈ソウ・ジュシイ〉〔宗重正〕、むろん徳川時代に厳原などといふ藩名はなかつた。以前の長州藩松平大膳大夫はここでは山口藩毛利従三位〈モウリ・ジュサンミ〉〔毛利敬親〕であり、前将軍家は、シの部の筆頭に静岡藩、駿河七十万石徳川従三位〔徳川家達〕とあるのがそれだ。武鑑で大名は壱岐守〈イキノカミ〉、伊賀守〈イガノカミ〉、周防守〈スオウノカミ〉、であつたものが、ここではすべて正二位〈ショウニイ〉から従五位〈ジュゴイ〉にいたる廷臣としての序列でならんでゐる。武鑑の御老中の欄に交替した譜代大名はおおむね従五位のならび大名と化しており、正二位は広島の浅野〔長勲〕ただ一人、かれは討幕派諸大名中の長老である。薩長〈サッチョウ〉は従三位、土肥〈ドヒ〉は従四位、これに対して、この「藩銘録」には出てこない中央新官僚政府の指導者たちは、版籍奉還直後明治二年七月の官制改革いらい、たとへば大隈〔重信〕は、「民部大輔〈タイフ〉兼大蔵大輔従四位守〈ジュシイシュ〉菅原朝臣〈スガワラノアソン〉重信」と下手くその筆で署名したのである。
「馬鹿にしている!」
と藩銘録のお歴々はつぶやいたにちがいない。このとき彼等はおしなべて華族といふ身分を与へられたのであるが、そのかわりにそれまで彼等が中央政治に参与する仕組であつた「上局会議」も廃止され、政治の面では完全な無力者となつてしまつてゐた。「知藩事」での地位さへも、この藩銘録のでた明治三年の十一月には、一同東京居住を命ぜられたから、廃藩をまつまでもなく名目だけのものとなつたのである。〈170~173ページ〉【以下、次回】

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Moods cashey は「ムヅ カシイ」

2024-10-27 02:35:21 | コラムと名言
◎Moods cashey は「ムヅ カシイ」

 服部之総の随筆集『moods cashey』(真善美社)(初版1947)から、「Moods cashey」という随筆を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 パスク・スミス氏の著書にはこの『チェリー・ブラッサムス』という掲載雑誌のナンバーも年号も記載されてゐないので、この珍奇の資料のデートは内容から判断するほかはない。右文中に「日本帝国政府の紙幣」と書かれてゐるからといつて、明治以後のことだとするのはあたらない。条約はタイクンすなはち将軍の名で締結されてゐるけれども、外国側でそのタイクンのことを「日本皇帝陛下」と記した例は、一八五五(安政二)年十月十四日長崎で調印された日英仮条約の前文に、その言葉が用ゐてあるのでも知れる。したがつて、幕府発行の紙幣のことを「日本帝国政府の紙幣」と記載したとしても、文献のデートを疑ふ理由にはなるまい。
 それにしてもこの文献が慶応三年以前のものでないことは、さきに述べたところから明らかである。してみると、横浜開港いらい八年の歳月を経てをり、ヨコハマ・ジャパニーズも、独自の風格をとゝのへたものとしなければならぬ。事実それは、ととのへてゐる――
 Physician=Doctorsan
 Dentist=Hahdykesan
 Banker=Dora donnyson
 銀行家が「弗〈ドル〉旦那さん」はよいとして、海上保険検査員のことを Serampan funney high kin donnyson にいたってはいう言葉がない。
 大使=Yakamash'sto
 兵士=Ah kye kimono sto
 大使は租界の絶対権者だから、やかましい人に違いない。横浜の英国駐屯軍は赤い制服を着て「赤兵」と呼ばれていた。
 それにしても水兵の Dam your eye sto はどう解すべきであらうか? ずいぶん私は頭をひねってみるのだが、その解答は、単語欄に見出された左の言葉におちつくほかはないのである――
 Difficult=Moods cashey

 歯医者がなぜ Hahdykesan(ハーヂケサン?)なのか、海上保険検査員がなぜ Serampan funney high kin donnyson(サランパン フネ ハイキン ダンナサン?)なのか、さっぱりわからない。
 この随筆には「オチ」がある。水兵がなぜDam your eye stoなのか、頭をひねってもわからない、これは難しい=Moods cashey(ムヅ カシイ)。ということで、Moods cashey を以て、随筆のタイトルとしたのである。

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