◎祝田橋、日比谷交叉点を経て朝日新聞本社にゴールイン
雑誌『自動車の実務』第三巻から、宮本晃男の「東日本一周ドライブから」という連載記事を紹介している。本日は、その一〇回目(最後)。本日、紹介するのは、連載第五回(第三巻第五号、一九五三年五月)の後半。
広々とあきるほど平らな関東
黒磯、西那須野を過ぎるころ操向がやや不安定になってきたので、降りて点検してみると、右前輪のタイヤが少々へこんでパンクらしい。
悪路で釘が1本ささったのだった。約5分間で予備車輪と取りかえ、氏家〈ウジイエ〉を経て宇都宮に入った。要するに一周旅行中の故障はこのパンクだけであった。
氏家の近くで宇都宮のトヨタ販売のトヨペットが迎えに見えていた。
関東に入って感じることはさすが大平野といった感じである。
道も平坦でまっすぐなところが多く、コンクリートやアスファルトほそうのところもあるが、砂利道は土けむりで前の車も見えないような始末であった。
しかし深谷の辺りから東京まではさすが立派なほそう道路で、京浜国道のようなところもある。
このような道になると、東北の山道にくらべて、いかにも平々凡々で、運転していても興味が薄い。坂やカーブがないだろうかなど苦心して走った木曾路や信州路、山形、福島、青森、十和田などのせまい急な道が懐かしくなる。
人間なるもの実にわがままなものだと橋本哲人と大笑した。
宇都宮の栃木荘〔10月23日〕、前橋の白井旅館〔10月24日〕に各々一泊、10月25日(土)朝9時前橋を出発、高崎市中行進や高崎 トヨタの歓迎を受けていよいよ最終コ—スを走った。
宇都宮も、前橋も戦災を受けた都市であるが、いずれも復興の跡もめざましく特に各地であう中学、小学校の男女生徒や新聞社やトヨタ自動車関係者の元気で落付いた様子は、民主化の一端もうかがわれてうれしかった。
向上した戦後の自動車人
特に昔自動車関係の職業にある人たちには素質の低い人が多いようにいわれていたが、戦後は全然このような人は見られず、各デーラーの営策や整備関係の人々が品よく立派な人格者が多くなったことは、日本の自動車界にとってうれしいことであると思った。
熊谷近くも、新らしく区画整理され、立派な四車線以上の巾広い道が畠のまん中を走っている。しかしいまだほそうされないところも処々ある。
お蔭で左右の田畑の作物も林の木も土やほこりで葉の色も見えない。
大宮近くで東京の朝日新聞本社から朝日の旗をひらめかせた陸王オートバイの単車が出迎られたのに会った。
オートバイは早速浦和まで来ている朝日のニュースカーに伝令に帰って行った。
中仙道の傍にある埼玉トヨタも黒山の人だかりで島田社長以下の大歓迎を受けた。島田氏は筆者が昭和5年〔1930〕はじめて自動車を習った頃、いろいろカタログや説明書を下さって教えてもらった人である。
小憩の後オートバイやニュースカーの先導で浦和市内を一周、やがて荒川の志村橋〔ママ〕を越え、板橋、巣鴨、東大前、気象台前、宮城前を通過した。
空からは朝日のセスナ機がビラを撒きながら出迎え、オートバイやニュースカーの後には各型のトヨペットと、美しい東日本一周国産乗用車トヨペット小学生朝日新聞の文字や図案で飾ったトヨタ大型有蓋トラックなど延々と行列行進した。
予定時刻にゴールイン
正4時祝田橋、日比谷交叉点を経て本社玄関前に入った。数千の群集のどよめき、小学生たちがふる朝日の旗の波の中で筆者は走行距離計の数字をノートに記し、同時にまわりの歓迎に答えながら記録写真のシャッターを切った。
バルコニーからマイクロフォンを通して橋本記者と挨拶した。国産乗用車トヨペットで 東日本一周の感覚を率直に報告し、日本人は日本民族の作った自動車も愛用してほしいことを願った。
東京都に入ってしみじみ感じたことは、人々特に子供が交通道徳をよく守っていることである。
地方に出ると対面交通も通行順位も守られないが、さすが東京の子供達はよく訓練されている。
そしてさすが日本の中心であるとの感が深い。
家族に迎えられて家路の車の中で、お世話になった東日本の人々、美しい祖国日本の姿、意義ある催しをされた朝日の人々、心から協力をおしまなかったトヨタ自動車の人々、黙々として自動車の整備に精逸する人々、悪路に重いトラックのハンドルをにぎって運輸の重責をはたす人々、雨と風にさらされながら、シャベルやツルハシで国道を守る人々、そして私達2人を歓迎し、おとなしく私たちの話を聞いて下さつた可愛い青年少女たちの姿が、走馬燈のように私の頭の中を往き来した。
明日からもまた私の好きな自動車で、なんとか人々のお役に立ちたいと念じながら、静かな我家の眠りについた。
(…五回にわたっての東日本一周ドライブも無事帰京いたしましたので本稿を以て終ります)
文中の「橋本哲人」は、いかにも、橋本記者のフルネームのようだが、文脈からすると、「哲学者たる橋本記者」といった意味らしい。
埼玉トヨタの「島田社長」とは、たぶん、埼玉トヨタの創業者・嶋田光衛(しまだ・みつえ)のことであろう(一九〇二~一九九三)。
「荒川の志村橋」とあるのは、「荒川の戸田橋」の誤記か。「気象台前」とは、中央気象台前のこと。中央気象台は気象庁の前身で、当時は、千代田区竹平町にあった。
浦和から朝日新聞本社にいたるルートは、中山道(国道17号)、白山通り(国道17号)、本郷通り(国道17号)、順天堂前、御茶ノ水駅前、明大通り、千代田通り、気象台前、内堀通り、祝田橋交差点、晴海通り、日比谷交差点というものだったと思われる。
明日は、話題を変える。
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