◎限度を超えた抗戦は自暴自棄(クラウゼウイッチ)
この間、中村正吾秘書官、および黒木勇治伍長の「日誌」によって、七一年前(一九四五年)の「今ごろ」の出来事を紹介している。出典は、それぞれ、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)、および黒木雄司著『原爆投下は予告されていた』(光人社、一九九二)である。
本日は、『永田町一番地』から、四月三〇日の日誌を紹介する(二〇二~二〇七ページ)。なお、『永田町一番地』の日誌は、このあと、五月七日まで飛んでいる。
四月三十日
トルーマン大統領は記者団との会見で、公式発表が出来る時が来れば、欧洲戦争の終末を報告するであらうと言明し、一方、チャーチル首相は、今週中に下院で欧洲戦争終結について重要報告を行ひ得るであらう、と声明した。英政府の全閣僚に待機命令が発せられた。
【一行アキ】
朝日新聞チユーリッヒ特派員は次の如く打電して来た。
米英ソ三国がヒムラーの降伏申入れを受諾してもしなくても欧洲戦は遅くとも二週間の中〈ウチ〉に終るであらう。従つて、東亜が第二次世界大戦に残された唯一の戦争となるので世界の眼は日本に注がれてゐる。日本は今や孤立してゐるばかりでなく日本の動きは事実上外部からの推測を全く許さないために世界各国の深甚なる関心を呼び起してゐる。日本の動きは米英にとつても中立国にとつても絶対的な謎とされてゐるが、欧洲戦終了後日本が担ふ軍事的重荷が恐ろしく増大するであらうといふ点ではすべて観測が一致してゐる。ぷマーシャル米参謀総長は最近「米国は過去一ケ年の間に、欧洲から太平洋に廻送する大兵員物資の急速輸送計画案を作成した」と言明し、ワシントン発ユー・ピー電は右に関し次の如く報じてゐる。
【一行アキ】
「米国はすでに兵員物資の廻送を開始した。ドイツ軍の抵抗が早く崩壊した結果、この廻送は予想よりも四ケ月早く開始された。特に東亜における基地拡大に必要な重要なる米軍部隊はすでに欧洲を引揚げた。有力な空軍もすでに引揚げ、目下欧洲にある米国の軍需物資の中〈ウチ〉七割も太平洋に廻送されんとしてゐる」
【一行アキ】
米国から来る情報はすべて米国が太平洋に厖大な増援部隊を送らんとしてゐることのみでなく、米国民が好んで使ふ文句を引用すると「米軍が東京に進軍するまで」出来るだけ早い速度で戦争を遂行せんとしてゐることを確認してゐる。
この引用文句は決して空想的なものではなく米国が日本の動きを推測することが出来ぬため一層彼等はこれを真の作戦目標としてゐるのである。米国を短期終結を目指す作戦計画は本格的な英国の対日戦参加を阻止せんとする意図に基くのであるが、英国としても東亜における威信と政治経済上の権益を確立するためには軍事的努力を惜まないであらう。だから英国が今後さらに大艦隊を対日戦に参加させることは不可避と見てよい。
【一行アキ】
では、英艦隊のほかに現在米国が有する艦隊勢力はどの程度かと言ふと、三十日、フオレスタル米海軍長官は右に関し、目下米国の有する海軍勢力は戦艦二十三隻、制式空母二十六隻、護送空母六十五隻、駆逐艦三百八十六隻、護送駆逐艦三百六十八隻、潜水艦二百四十隻であると言明した。
われわれとしては、英艦隊を含めるとこの数字よりも有力な艦隊がやがて太平洋、東支那海に作戦し来る〈キタル〉ことを期しこれに備へねばならない。日本の負ふべき軍事的負担は恐るべきものとなるであらう。だがこれだけではない。恐らくアジアの歴史に決定的な影響を及ぼすだらうと思はれる新しい軍事的要因がその有力な姿を東亜に現はし始めた。その要因とはソ連の動きである。ソ連の日ソ中立条約不延長の通告は日本にとつて全く新しい軍事情勢を作り出すであらう。
【一行アキ】
そしてこれは米英軍の太平洋への兵力廻航と満洲に対する脅威増大といふ二点で日本にとつて決定的に不利な情性を齎すであらう。中立国筋では有力な新要因たるソ連を含む米英軍と日本との兵力量の差異は米英ソ三国とドイツの兵力量の差と同じか或はそれ以上と信じてゐる。ドイツは国内全都市と生産施設が完全に潰滅するまで戦つた。しかしながら中立筋の軍事専門家はこの戦争遂行政策を批判するに当つて一様にクラウゼウイッチの有名な次の文句を引用してゐる。
「戦争において勇気と耐久力が如何に高く評価されようと、また勝算少い時でも全力を挙げて勝抜かんとせぬ者はないけれども、抗戦には或る限度がありそれを超えて頑張るのは自暴自棄の行為といはねばならない」ナポレオンでさへ「人がこの世で犯し得る最大の犯罪は生命を彼の指揮と名誉に捧げてゐる人々を故意に殺すことである」といつてゐる。
六ケ年にわたる欧洲戦で全欧洲人の常識となつた戦争倫理学ともいふべきものを引用してみよう。この見解は欧洲の全軍事専門家が一様に支持してゐるもので大要次の如くである。
「戦時において目的の遂行といふことは勝利を獲得するということと同一ではなく国家社会の最終的保護といふこととも必ずしも合致しない。かくて軍隊の戦闘力を低下せしめ国家の将来を傷ける〈キズツケル〉如き単なる名誉のための戦闘行為は正しくないばかりでなく戦争本来の使命にも悖る〈モトル〉ものである。戦争は一つの主義の下に戦はるべきものであり、勝つても負けてもそれは建設的な性格をもつものでなければならない」
今や世界の眼は日本と日本国民に向けられてゐる。クエベック会談において故ルーズヴェルト大統領やチャーチル首相が日本を「太平洋の野蛮国」呼ばはりしたのも拘はらず欧洲は明治時代に全世界を驚倒せしめた日本国民の建設的能力及び思考力を高く評価したことを忘れてはゐない。米英が反日宣伝に躍起となり欧洲各国をして日本のこの国際的な面を忘れしめんとしてゐる矢先、鈴木〔貫太郎〕首相が故ルーズヴェルト大統領の政治的手腕を礼賛したとの放送が伝へられたことは欧洲諸国に多大の感銘を与へ、日本国民の最も人間的な面に対する認識を新たにせしめた。その効果は、精神的にも肉体的にも徹底的に疲れ果てた欧洲各国の間に共感を呼び起した。
然し、米国の東亜に対する主義は英帝国のそれと同様なほ少しも変更されてゐるわけではない。米英両国が対日戦において各自必死になつてゐることは事実で、さらにこれとは別に東亜において新たなしかも決定的な政治的、軍事的要素が生じて来た。即ちソ連の東亜に対する異常なる関心である。この戦争の多面性は対独戦における米英ソ三国の関係が純粋に軍事的であちたといふ特質とは異つた特殊な様相を招来しつつある。
以上の情勢に鑑みて日本の指導者に今日最も要望される軍事的勢力のみでなく更に加へるに政治的機略と異常なる政治的手腕である。中立筋の観測者達は太平洋戦争の錯綜した多面的な政治的様相は日本の外交政策に或る行動の自由を必ず与へるに相異ないと信じてをり、若し日本の指導者達が偉大なる政治家的叡智をもつて勇敢な構想の下に主導権をとるならば必ずや報いられるところがあるだらうと信じてゐる。
【一行アキ】
このチユーリッヒ特電はもちろん当局の検閲の結果、紙上掲載が差し止めとなつた。いふまでもなく、欧州戦争を身近かに感得し体験する欧州の中立国スイスにあつては、日本が想像するより遙かに深刻にドイツが敗北した事実を眼の当りにしないわけにいかない。徹底的な破壊とドイツ国内の混乱が、未曽有の惨憺たる戦禍として映じてゐるのであらう。日本はこのドイツの轍を踏むかどうか。