礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

七機撃墜は、地上高射砲部隊からの報告

2023-05-31 03:54:36 | コラムと名言

◎七機撃墜は、地上高射砲部隊からの報告

 藤本弘道著『踊らした者――大本営報道秘史』(北信書房、1946年7月)から、「四・一八空襲」に関する記述を紹介している。本日は、その三回目。

 然しともかくも二機は撃墜されたとして、他の七機はどこから撃墜の公算が生れたかといふのに、それは地上高射砲部隊からの報告によつてゐたのである。
 たしかにあのときの空襲は不意を衝かれたものであつた。一般都市民はもとより、軍各部隊も相当以上に動揺狼狽したことは確実である。その中でともかくも邀撃〈ヨウゲキ〉態勢を整へて市街地周辺の高射砲部隊は来襲機に対して煙幕を張つたのである。
 その砲弾を避けて、米機は上昇し或ひは急降下した。そして砲煙の中を縫つて降下するものはともすれば砲弾にあたつて墜落して行くやうに見え勝ちのものである。そのときに発する排気ガスは益々さうした判定条件に過誤の条件を強くさすのである。特に高射砲による邀撃戦に経験の少い当時の高射砲部隊の将兵にとつては、功名にあせる心も手伝つて撃墜と判定しがちである。而も航空機の移動性は早く視界は市街地の特有として狭いのであるから撃墜したと思ひこむ率は愈々多くなるわけである。それに加へて高射砲陣地は一箇所だけではなく方々にあつたのであるから、同じ一機をさうした方法と見方で撃墜として二箇所の高射砲陣地から報告して来る場合もあつた。
 その報告を基礎にして、かなりあわてて発表した結果は、二機撃墜は確実としても結局九機撃墜の不確実戦果が生れて来たわけである。
 かうした、いはば万人注視のなかで行はれた戦闘に於いてさへ、航空戦果の確実性といふものは、かかる不確実を生むに至るといふ好い実例を生んでゐるのである。

『踊らした者――大本営報道秘史』のうち、「航空戦報道秘話」の章からの引用はここまで。
 なお、同書の巻末には「雑話集」というものがあり、そこに「四・一八空襲余談」という一文が収められている。明日は、これを紹介してみたい。

*このブログの人気記事 2023・5・31(9位になぜか木柄の留公)

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敵機は必ず海中に墜落した(梅川少尉)

2023-05-30 03:40:46 | コラムと名言

◎敵機は必ず海中に墜落した(梅川少尉)

 藤本弘道著『踊らした者――大本営報道秘史』(北信書房、1946年7月)から、「四・一八空襲」に関する記述を紹介している。本日は、その二回目。

 その不確実発表は何処から生れたか。
 九機も撃墜された米機の残骸を誰一人も確認してゐない。またその墜落したのではないかと思はれる様子をも都民の誰もが見てゐなかつた。
 同月二十二日の各新聞紙上にこの空襲に関して陸軍省にもたらされた報告として、○○部隊梅川少尉談として、
《十八日午後零時五十分頃水戸飛行場上空を飛行中低空南進せんとする敵のロツクヒード・ハドソンと思はれる一機を発見、私は直ちに敢然これに攻撃を加へ、南方に逃げんとする奴を飽くまで喰ひ下つて追跡、石岡東方上空で高度百メートル以下に追ひ詰め射撃した。敵機はガソリンを機体後方に吹き流しつつ更に千葉県干潟〈ヒガタ〉飛行場上空で大火災を起し、漸次低空に降下海上に逃れ始めた。私はこれを何処迄も追はうと思つたが、自機の燃料の関係で残念乍ら追撃を断念したため墜落を確認することが出来なかつたが、あの状態より判断して敵機は必ず海中に墜落したことと思ふ。》
とあり、次いで○○飛行部隊戦闘経過の慨要報告として、
《十八日午後零時十二分水戸上空に敵機二機現るの情況報告に接し、直ちに出動、京浜上空にて待機中、同一時過ぎ、高度一千メートル以下にて西進中の米機ノース・アメリカンB25と覚しき敵双発一機を発見、品川沖二キロ附近より編隊は猛然これに攻撃を開始す。周章狼狽せる敵機は高度を低下せるも、この時○○附近より高射砲の攻撃を受け、さらに超低空にて退避せんと、城西地区より相模方面に回避しつつ敵は小癪にも機銃を以て応戦、高度百メートル以下にて○○河に沿うて海上に出づ。わが急追を恐れ、残存爆弾を数発海上に捨て上昇を開始す。この機を逸せずわが方は猛然攻撃し、伊豆大島に近き海上高度千五百メートル附近にて敵機の右発動機に黒煙の揚るのを認む。この頃より敵機は徐ろに〈オモムロニ〉機首を下げつつありしが、瞬時にして急速に前方にありし断雲中に姿を没し去れり。当時の情況より見て爾後遠く逃走し得ざることは疑ひを容れず海上に撃墜されたものと判断す。》
とある二報告を掲載して、その本文に、
《これらの報告を綜合すると、相次ぐ敗戦の申訳に我が本土の空襲を狙つた米機は、何等その目的を果すことなく辛くも海上へ逃げ去るつたといふものの、その殆どが太平洋の藻屑となつたことは疑ふ余地がないのである。》
 と書いて『九機撃墜』戦果の裏付けを一般国民に対して行つたのであるが、この二報告を何故新聞に掲載しなければならなかつたかといふ理由は別問題として、この報告そのものは懸値〈カケネ〉なしのもので、むしろ東部軍に報告され発表された戦果の確実性のあるものであるといへるが、それとても内容を熟読すれば判るやうに絶対的確実なる戦果とは言ひ得ないのである。〈86~89ページ〉【以下、次回】

 ドーリットル空襲で用いられた航空機は、全機、ノース・アメリカンB25ミッチェルであった。梅川少尉は、そのうちの一機を発見し、これについて「ロツクヒード・ハドソン(Lockheed Hudson)と思はれる」と報告した。この両機は、ともに双発動機、双垂直尾翼であって、外見がよく似ている。

*このブログの人気記事 2023・5・30(9位の変体仮名は久しぶり)

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四・一八空襲にともなう東部軍司令部発表

2023-05-29 02:02:17 | コラムと名言

◎四・一八空襲にともなう東部軍司令部発表

 国立国会図書館のデジタルサービスで、藤本弘道著『踊らした者――大本営報道秘史』(北信書房、1946年7月)という本を閲覧していたところ、「四・一八空襲」に関する記述を見つけた。
「四・一八空襲」とは、1942年(昭和17)4月18日に、米軍がおこなった本土初空襲のことである。今日では、指揮官の名前を取って、ドーリットル空襲と呼ばれることが多い。
 同書は、「愚かなる大本営発表」、「陸海軍報道不協調」、「航空戦報道秘話」などの章からなるが、「航空戦報道秘話」のところに、「四・一八空襲」に関する記述がある。早速、これを引用してみよう。

 現地より中央へ報告して来る場合、その責任者である現地部隊長と参謀長とは、実際戦闘に参加した将兵の直接報告を基礎に戦果を審査確認したるのちに報告して来るのであるが、その部隊長達の人格がこの報告に反映する面は重大なるものがあると考へなければならない。戦果を内輪に見積もる人と誇大に考へる人と、その性格はかなりその判定に影響をあたへる。而も日本の軍人教育に於いては、部隊長の下した断には絶対的の権限が付与されてゐるのであるから、その影響は二倍にも三倍にも重要さを加へる結果となるのである。ここにその過失の一要点が存生〈ゾンジョウ〉してゐるのである。
 次に考へられるのは、その最初の戦果報告者が正確であるか否かといふ問題である。地上戦闘の場合は、その結果はそこに具体的な現象或ひは證拠となつて数人或ひは数百人の眼によつて判然と示される。戦場の各部隊の進退や戦線凹凸がそれを示し、敵軍の遺棄死体や鹵獲品(ロカクヒン)の実数がそれを明示する。然し航空戦となるとさうは決定しかねるのである。戦場は常に遥か離れた空間に於いて行はれるのが普通である。而もその戦闘場面は無限に近い程の移動性を持つてゐる。従つて、その戦闘が地上部隊から確認出来る空中に於いて開始された場合でも、その移動性によつて、戦果は地上で確認出来ない場合が無数にあるのである。その戦果確認は結局その戦闘者自身、即ち航空機搭乗者自身の判決にまたねばならぬ結果となるのである。そしてその判決が果して正確なものであるか否かは、相当疑問となる場合が多い。その好い実例は、昭和十七年〔1942〕四月十八日午後零時半頃から約一時間にわたつて、東京・名古屋・神戸などが太平洋戦争勃発以来始めて米機によつて空襲された、あの所謂八・一八空襲騒動の戦果報告にみることか出来る。
 あの日の午後二時の東部軍司令部発表に、
《午後零時三十分頃敵機数方向より京浜地方に来襲せるも我が空、地両防空部隊の反撃を受け逐次退散中なり。現在までに判明せる撃墜機数は九機にして我が損害は軽微なる模様なり。》
とあつた。その戦果『九機撃墜』なるものが何処から割出されてゐるかといふことがこの場合の実例となるわけである。
 この戦果に就いてはその後なんの公示もされなかつた。その翌々日〔4月20日〕この空襲に就いて詳細に調査した結果を三項目にわたつて『大本営発表』したのであるが、それにも戦果に就いては一言も触れてゐない。
 といふことは、この戦果が不確実そのものであつたからだ。〈85~87ページ〉【以下、次回】

 この記述によって、この本土初空襲に関しては、空襲の当日、東部軍司令部から、「撃墜機数は九機」という発表がなされたことを知った。

*このブログの人気記事 2023・5・29

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先生は一切指を差してはいけないと注意された

2023-05-28 03:11:43 | コラムと名言

◎先生は一切指を差してはいけないと注意された

 田中耕太郎『教育と権威』(岩波書店、1946)から、エッセイ「新渡戸先生と倫敦の思ひ出」(初出、1939)を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
 昨日、紹介した部分のあと、三段落分を割愛して、次のように続く。

 ある朝、連盟事務所に先生を訪問した。先づ日本でやるやうに外套を脱いだ。先生はそれを制止して、主人が脱げと云ふ前に脱ぐことは相手の迷惑を顧みず長く居すわることになるからそれはいけないと注意せられた。一体日本人は外套のまゝでゐることを相手に失礼と思ふ習慣があり、冬寒いのに玄関などで外套を手にもつて挨拶してゐるのを見受ける。煖房の不完全な教会などで外套を脱がせる所もあるが、それは全く不必要であり且つ健康に有害である。
 先生と往来を散歩してゐた。先生はこゝは何と云ふ街だと問はれた。私は四角〈ヨスミ〉の建物の標識を指差して、「何々街です」と答へた。先生は一切指を差してはいけないと注意された。世間の人の目につくやうなことは一切差し控へなければならないのが西洋の紳士道である。先生は「君は指を差す位でまだよいが、先達〈センダッテ〉やつて来た友人T君(某議院議員)の如きステッキを振り廻すので閉口した」と附け加へられた。
 人の前で髮をなでたり、頭をかいたり、顔を摩擦することも一切いけないことである。日本の紳士が往々やるやうに鬚をひねくる癖など大禁物である。客に招かれたとき見なりを整へることも玄関の所で済ませて行き、その後は襟飾などに手を触れてはならない。先生は私がパンシオンの他の客と一緒の食卓で一瞬間茶碗に匙をつけつ放しにしておいたことも決して看過しなかつた。
 私は内心英国流の紳士道に反抗的の不満を感じながらも、先生の教を出来るだけ忠実に実行しようと努力した。先生もその努力を認められたと見えて、二三週間の後「君には話せば話すだけの効能がある」とおほめに与り、その後も引続いて一層遠慮なく警告せられた。
 かゝる細心の注意は或は一派の人々はこれを卑屈と非難するであらう。何も外国人の前に小さくなつてゐる必要はない。大威張で日本人らしく振舞へばいゝではないかと。さう云ふ人々は多く日本に於て日本人としての礼儀作法も実行してゐない連中である。彼我〈ヒガ〉風習を異にしてゐても帰する所は他人に迷惑をかけぬとか、不快を感ぜしめないとか、弱者をいたはるとか云ふやうな共同生活の道徳から来てゐることに於て変りはない。その標準に従つて行動すれば、些細なことは知らないでも大過を犯すことはないのである。
 我々は近年学生間に於て日本人としての礼儀やたしなみが著しく頽廃してゐるのに気がつく。途中で教師に逢つて知らぬ顔をしたり、レストランで帽子のまゝで食事をしたり、電車やバスの中で老人や予供を立たせて平気で座席に頑張つてゐたりする学生を多く見うける。私は小中学校に於ける薫育が不徹底ではないかと推測する。近来の精神主義運動が抽象的な掛け声のみではなく、さう云ふ日本人としての紳士道の実践に一層力を致すこと切望せざるを得ない。これに関連して私は真の日本人として日本精神を理解体得してゐられた、故新渡戸博士を想起するものである。 (昭和一四年四月二四日、「文藝春秋」所載)

 明日は、ドーリットル空襲に話題を振ります。

*このブログの人気記事 2023・5・28(田中耕太郎関係が四つも入っています)

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新渡戸先生にスウェタを買えとすすめられた

2023-05-27 00:28:01 | コラムと名言

◎新渡戸先生にスウェタを買えとすすめられた

 田中耕太郎『教育と権威』(岩波書店、1946)から、エッセイ「新渡戸先生と倫敦の思ひ出」(初出、1939)を紹介している。本日は、その二回目。
 昨日、紹介した部分のあと、三段落分を割愛して、次のように続く。

 先生は夕食の後によくスタウト〔黒ビール〕を飲んでゐられた。私はスタウトと云ふ名を先生から教はつた。私は先生は厳格なクリスチャンだから酒なんか飲まれないと思つてゐたから、これはいさゝか意外に思はれた。然し先生の人間らしさをかういふ所にも見出して一層親しみ易く感じた。先生には不眠症の傾きがあつたと見へて、これを飲むとよく眠れると云はれた。私はその後今日に至るまで、ホテルに宿泊しなければならないやうな機会に、自分が不眠症とは凡そ縁遠いのに拘らず、時々スタウトを命じて倫敦に於ける新渡戸先生を偲ぶのである。
 スウェタをチョッキの上に着ることはその頃まで日本にはまだ大して流行してゐなかつた。先生が着ると暖いから是非買へとすゝめられ、私は先生が着てゐられるものの半値位の品を買つた。それは二十年にもなるのに今日まだ用を為してゐる。流石〈サスガ〉は英国製のものだけあつて丈夫である。同様に先生に是非必要だとすゝめられた大枚二十ギニイも出して買つた燕尾服は留学生の身分として滞欧三年間全然着用する機会がなく、それは帰朝後十何年も箪笥の中に不遇をかこつてゐた次第である。
 先生の倫敦に於ける独身生活は実にのびのびしたものであつた。よく日本食や支那飯を喰べに行かれ、私もその都度御伴をした。先生が案外バタ臭くないことも私には新発見あつた。劇場にも随分よく一緖に出かけた。先生は沙翁劇〔シェイクスピア劇〕が好きであつた。私などには不相応に高い劇場の切符の方は先生が買はれ、私の方では安価なコンサートの切符を受け持つた。但し先生は私がしつこくすゝめたのに拘らず音楽に大して関心を示すやうになられずに終つた。沙翁劇が外〈ホカ〉でやつてゐないときは、我々はそれが何時でも見られる河向ふのオールド・ヴィックに出かけたものである。そこでヘンリー四世とかリチャード三世と云つたやうな他ではあまり見られないやうなものも見ることが出来た。
 かうして私は先生と全く心置きなくなつてしまつた。先生は銀製の物が好きであり、よく銀器店を素見した。先生はナプキン・リングを交換しようと云はれた。先生からいたゞいたのをその後愛用してゐたととろ、南伊のアマルフィの宿屋に置き忘れ、返送してくれるやうに送料付でたのんでやつたが、全然音沙汰がなかつた。かゝる好個の記念品を失つたのは返す返すも残念である。〈135~137ページ〉【中略をはさんで、次回】

*このブログの人気記事 2023・5・27(10位に極めて珍しいものが入っています)

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