礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

死刑の執行は殺人を誘発する(木村亀二)

2015-04-30 04:58:09 | コラムと名言

◎死刑の執行は殺人を誘発する(木村亀二)

 木村亀二の『死刑論』(アテネ文庫、一九四九)の紹介を続ける。同書の第四章「ベッカリーアとドストエーフスキー」の第六節を引用してみよう。

  死刑を存置することには、単にそれに効果がないといふ以上に、いろいろの弊害がある。その一〈イチ〉は、誤判によつて無辜〈ムコ〉の者に対し死刑が執行せられた場合には全然回復の可能性がないことである。これは、周知のとほり、従来死刑反対論のもつとも有力な論拠とせられて来たものであつて、ジャン・カラの事件によつてその可能性が論証せられてゐる。もちろん、今日の訴訟手続における証拠法は第十八世紀のそれと比較にならぬほどの進歩はしでゐるが、それでも人間の判断に誤謬がないとは誰も保護し得ない。現にイギリス下院の死刑に関する特別委員会における報告の中には、スレーター事件、ハブロン事件、ベック事件等が指摘せられてゐる。
 その二は、死刑の執行がかへつて殺人行為を刺戟するといふことである。執行の公開が人々の感情に対し死の恐怖を鈍感にし、目的とした威嚇の効果と逆な効果をもたらす結果になつたために、死刑の執行は非公開となつたが、非公開の現代においても印刷物・ラヂオ等を通して為される死刑に関する報道は有力な暗示力を持つとせられてゐる。強力に武装せられた国家に対立せしめられる犯人は、昔ローマにおいて猛獣と闘はせられたグラディアトールのやうな印象を人々に与へ、憐憫〈レンビン〉と同情の対象となり、場合によつては英雄化せられる。それが精神的欠陥を持つた人々に対する強力な暗示となつて殺人を行はしめる〈オコナワシメル〉結果になるとせられてゐる。一九三一年の五月の初めにドイツのケルン市で殺人犯人のキュールテンといふ男が死刑に処せられた。プロイセンでは、その前に最後に死刑が行はれてから三年を経てゐたので、はなはだ珍らしい出来ごとであつた。ところが、この死刑の執行の直後に、プロイセンでは、連続して多数の殺人が行はれたとせられてゐる。これは必ずしも偶然の一致とは見られないと解せられてゐる。
 最後に、もつとも悪い弊害は、死刑によつて、国家が合法的殺人の模範を示し、人命の無視を奨励するといふことである。殺人を犯罪として法律上禁止する国家が法律によつて殺人を肯定し死刑を行ふことは、矛盾であるのみならず、道義的にはもつとも非文化・非人道の行為であり、野蛮への復帰である。死刑は、文化国家への道ではない。

 非公開の処刑であっても、それが殺人行為を誘発することがある。公開の処刑は、それ以上に、殺人行為を誘発するにちがいないという趣旨である。
 これは、首肯できるのである。本年二月二〇日、川崎市の河川敷で、少年らが、中学生の首をナイフで切って殺すという事件があった。これより先の同月一日、イスラム国に捕われていた後藤健二さんの処刑の場面が、画像で配信されるという事件があった。この「公開処刑」が、中学生殺害事件を誘発したであろうことは、ほぼ間違いない。木村亀二の問題提起を、私たちは、真剣に受けとめる必要があると思う。

*このブログの人気記事 2015・4・30

 

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映画『暗黒街のふたり』とギロチン刑の廃止

2015-04-29 07:01:44 | コラムと名言

◎映画『暗黒街のふたり』とギロチン刑の廃止

 昨年の夏に、『暗黒街のふたり』という映画を見た。アラン・ドロンとジャン・ギャバンが共演する一九七三年のフランス映画である。劇場で観賞したわけではなく、二束三文で入手したビデオを見たのである。
 この映画のラストは、アラン・ドロン演ずる殺人犯が、ギロチンで処刑される場面で終わる。この映画が公開された当時、フランスでは、ギロチンによる死刑執行がおこなわれていた。すなわち、この映画には、そうした「死刑」制度に抗議するという意図があったように思う。
 映画の冒頭は、ジャン・ギャバンが、刑務所の塀に沿って歩いているシーン。そこに彼のナレーションがかぶる。「フランスの刑務所ではまだ、死刑の執行にギロチンが使われる。小型の移動式のが執行地に運ばれるのだ」と。この言葉が、ラストシーンの伏線になっているわけだ。
 ジャン・ギャバンは、日本でいうと保護司のような地位にあり、銀行強盗で服役しているアラン・ドロンを、早期出所させる働きかけをおこなっている。この日も、アラン・ドロンに面会するために、刑務所を訪れたのである。
 ジャン・ギャバンの尽力で、アラン・ドロンは、早期出所をはたすが、出所後の彼を、執拗に追い回していた刑事がいた。ある日、アラン・ドロンは、この刑事と争い、ついに殺してしまう。
 裁判の結果は死刑。裁判のシーンも興味深かったが、紹介は省く。それでいよいよ、処刑のシーンである。ジャン・ギャバンも、処刑に立ち会っている。
 ギロチンの前まで連れてこられたアラン・ドロンは、理科室にあるような小さな木の椅子に座らされ、両脚を細い紐で椅子に固定される。手も後ろ手に縛られる。ワイシャツの襟の部分が、大きなハサミで切りとられる。さらに、両肩がムキ出しになるまで、ワイシャツは引き下げられる。この状態で、アラン・ドロンが、頭を前に突き出す。木枠で首が固定される。と、まさに間髪を容れず、巨大な刃が落ちてくる。
 この映画を見たあと、インターネットで調べてみたところ、フランスで、ギロチンによる最後の死刑が執行されたのは、一九七七年九月一〇日だったという。映画公開から四年後である。また、フランスが死刑制度そのものを廃止したのは、さらにその四年後の一九八一年であったという。この映画が、ギロチン刑廃止のひとつのキッカケになった可能性も否定できないだろう。
 ところで、昨日、紹介した木村亀二『死刑論』(アテネ文庫、一九四九)によれば、フランスは、第二次世界大戦勃発の時点において、ギロチンを二台しか保有していなかったという。そのうち一台は、大戦中に爆撃で破壊され、戦後、現存する一台がパリに据えつけられたという。
 こうしたことから、木村は同書において、フランスにおけるギロチン刑あるいは死刑そのものを「瀕死の刑罰」と位置づけた。しかし、この木村の「予想」にもかかわらず、ギロチン刑は、一九七七年まで延命したのである。なお、ジャン・ギャバンのナレーションによれば、『暗黒街のふたり』が製作された当時、地方の刑務所で死刑が執行される場合には、小型の移動式のギロチンが使用されたという。だとすれば、この移動式ギロチンは、戦後になって新たに作られたものということになるか。

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フランス革命におけるギロチンの意義

2015-04-28 09:35:22 | コラムと名言

◎フランス革命におけるギロチンの意義

 刑法学者・木村亀二(一八九七~一九七二)の『死刑論』(アテネ文庫、一九四九)は、小篇だが、なかなかの名著である。今日読んで、なお、得るものが多い。
 何よりも主張が明白である。木村は、死刑廃止論者であって、日本国憲法の第三一条は、改正する必要があると説いている。すなわち、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」という条文を、「何人も、法律の定める手続によらなければ、刑罰を科せられない」と、改正すべきだというのである(同書五六ページ以下)。こういった「憲法改正」論者は、きわめて稀有だと思う。
 また木村は、フランス革命時における「死刑」をめぐる議論を紹介しているが、これもまた、興味深い。これを読んで私は、いわゆる「ギロチン」には、死刑に執行方法における身分差別を撤廃するという意義があったことを初めて知った。
 本日は、同書の一五ページから一六ページまでを引用してみよう。

 二 ギロチンの歴史とその運命
 一 ロベスピエールの死刑廃止論は死刑廃止論のためには、皮肉ではあるが、名誉ではない。しかし、名誉ではないが、必ずしも効果がないではなかつた。国民議会は死刑の廃止を議決するには至らなかつたが、その執行方法を単一化し、一七九一年の刑法第二条には、「死刑は単純な生命の剥奪とし、死刑の宣告を受けた者に対しては何らの残虐を加へることが許されない」とし、第三条には、「死刑は斬首とする」とせられた。
 二 死刑の執行方法の単一化といふことは、今日の人々には、別にめづらしいことではなく、当然のことのやうに感ぜられるかも知れないが、死刑の歴史においては画期的な事実であつた。といふのは、刑法の歴史においては、死刑の執行方法は人間の残虐性が工夫・発明し得るところの、あらゆる形式を採つて来たのであつて、その方法は斬首・車裂き〈クルマザキ〉・絞首・石による撃殺・磔刑〈タッケイ〉・溺殺〈デキサツ〉・火刑・生き埋め・四つ裂き〈ヨツザキ〉・墜落殺等、十指をもつてしても数へ切れない。しかも、それが犯罪の種類に従つて執行方法を異にして同一刑法の中に規定せられてゐたのてある。例へば、一九三二年の、ドイツ皇帝カール五世の刑法典たるカロリナ法典の規定してゐるところでは、反逆罪に対しては四つ裂きの刑、放火・通貨偽造に対しては火刑、謀殺・毒殺に対しては車裂きの刑、嬰見殺に対しては生き埋めの刑、故殺・強盗・騒擾・強姦・堕胎等に対しては絞首刑、侵入窃盗や累犯窃盗に対しては絞首刑が規定せられてゐた。フランスでも、油ゆで・生き埋め・四つ裂きの刑が古くから行はれ、第十八世紀には、普通の犯罪については、庶民に対しては絞首、貴族に対しては斬首といふ区別が保存せられ、さらに、尊属殺・毒殺・放火・反自然的犯罪に対しては火刑が用ひられてゐた。わが国でも同様に、徳川時代には、その御定書百箇条〈オサダメガキヒャッカジョウ〉では死刑の執行方法が区別せられ、一般庶民に対するものとしては鋸挽き〈ノコギリビキ〉・磔〈ハリツケ〉・獄門・火罪・死罪・下手人〈ゲシニン〉の種類が定められ、士分に対しては斬首の一種・切腹が用ひられてゐた。
 このやうに、死刑の執行方法が多様に差別づげられてゐた上に、さらに、既に右によつても知られるやうに、その執行方法には身分的区別が附せられ、フランスでは庶民に対しては絞首刑が、貴族に対しては斬首刑が、又、わが国では士族に対しては特に斬首の一種・切腹が用ひられた。わが国での、右の死刑執行方法の身分的差別は明治維新以後まで維持せられ、明治三年の新律綱領では士族に対して死刑を言渡すときは自裁に処し、自ら屠腹させることとなつていた。【以下略】

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敵討は、公権力に代わって法と正義を実現する行為

2015-04-27 04:22:35 | コラムと名言

◎敵討は、公権力に代わって法と正義を実現する行為

 昨日の続きである。長谷川伸の「敵討考〈カタキウチコウ〉」という文章を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 昨日、引用した部分のあと、改行した上で、次のように続く。

 敵討〈カタキウチ〉には探偵的なカンが必要で、これがないからだろう、敵討に出立〈シュッタチ〉して、それなりになった例もちょいちょいある。探偵的なカンが悪いために返討〈カエリウチ〉になった例もある。それから敵討とは前に説明したごとく、収入なしの支出ばかり、しかも期限などいつ終るとなきことである。
 敵討は成功するか不成功におわるか最後のドン詰りまでわからない。健康で探偵のカンがあって、とにかくも生抜いてきて、名乗りかけて勝負に突入したら返討になったということがある。越前の雑賀新五左衛門〈サイガ・シンゴザエモン〉が返討したのがそれだ。大坂の松本雅楽ノ助〈ウタノスケ〉がまたそうで、江戸で討手〈ウッテ〉を六人返討にした金田利兵衛〈リヘエ〉もそうである。この種の例はほかにまだある。闇から闇へ消えた事実もまたすくなくないだろう。
 そうして幸運にも敵討に成功すると、ブームが来る。石井源蔵兄弟でも江戸の評判、諸国の評判、なかなか盛んなもので、詩歌を贈られ文章を贈られ、当時としての小説にもされた。だがプームはやはりブームで、たちまち忘れ去られる。それは石井兄弟に限らない。敵討の名声はブームに過ぎないといっても失当でない。そンなことよりも敵討に長くかかった者の最大の不幸は、世事は知ったが知識を磨がく〈ミガク〉時間をもたない、経験はするが学間を究める時間をもたない、つまり中学・高校・大学とこの学校経歴の年ごろを、自活と探偵と闘争仕度〈ジタク〉に、全部つかうということである。
 手ッとり早くこれをいえば、敵討ぐらい間尺〈マジャク〉に合わないことはない。物語などでは敵討したものは諸侯が争って抱えたとなっているが、それは話を芽出度く〈メデタク〉したのに過ぎない。敵討したということよりも、討人その人の人物と、紹介者の力しだいで就職できたろうが、敵討のために大禄〈タイロク〉で抱えられたり、栄達の道へのッかるということはない。
 しかし、間尺に合わないだらけの敵討に、没頭して悔いないのは、スリルを味うためでは勿論ない。〝法〟の代行者として死刑の執行に、自分の生命を賭けて闘うことに、深く重い意義を感ずるからである。石井兄弟の場合でいえば、幕府は殺人犯の源五冶衛門を検挙せず処刑もしない。犯罪が行われた大坂でも町奉行所は手が出せない。亀山の板倉家の士となっていたのではどうも出来ない、亀山城下で町人になっていたとしても、そのころの制度では大坂の町奉行所の権限外である。しからばどこに犯人処刑の権限があるかというと、どこにもない。あるはただ被害者の子のみ。だから敵討とは〝法〟の実行者である。法とは正義ということだから、討人〈ウッテ〉は満足して青春を犠牲にした。前髪のある若衆で敵討の旅に出て、目的を遂げて戻ってきたときは禿頭〈トクトウ〉であった例は久米幸太郎だけではない。
 そしてその人たちはそうなった事を後悔していないのである。
 日本の敵討は諸外国にあった復讐とは、根本義が異っているので、私は敵討に復讐という文字をつかわない。讐〈アダ〉を復すのではなく、罪を正したのだから、報復の感じが出ているこの言葉をつかわないのである。
 松平伊豆守(信綱)が仙台藩に人を推薦したとき、「妻敵(めがたき)討ちなどせぬ者に候」といった逸話が、基本的な価値をもって昔はひろく伝わっていた。
 私の集めた妻敵討ち〈メガタキウチ〉記事はわずかに十一件に過ぎない。その中で、近松門左衛門の取材するところとなると、後世におよび、京都堀川の妻敵討ち、大坂高麗橋〈コウライバシ〉の妻敵討ちなど、甲乙丙丁いろいろの作家によって作り換えられ、それぞれの二人の男と一人の女とは、なんとかかとか、思わぬ擁護をうけ、同情を寄せられている。山城葛野〈ヤマシロ・クズノ〉の妙成寺の妻敵討ちは、討たれる男が緋縮緬〈ヒヂリメン〉の下着、綾縞〈アヤシマ〉の袷〈アワセ〉の上着で決闘して殺され、女は夫のために刺殺された。多分そのとき女は、駆落ち相手の男とおなじ衣裳であったろうと思える。近松が取材したら、これなど今も作者がいろいろに作り換えることだろう。
 妻敵討ちなどせず、手際よく離縁するのがよろしいとされたからだろうか、私の集めた限りでは安永九年(一七八〇)の渡辺金十郎のことからアトの妻敵討ち記事はない。
 敵討の禁止は明治六年(一八七三)二月七日布告され実施された。法が日本全国で十分な秩序をとられたとき、敵討などあるべきでない、禁止は当り前である。であるから法的秩序が不十分であった時代には敵討が役立ったのである。
 その敵討が日本独特の発達と実践とをみたことは知っていてもらいたいものである。
 (読売新聞社刊「日本の歴史」第八巻、昭和三十五年六月所収)

 昨日、紹介した部分も興味深かったが、本日、紹介した部分は、それ以上に興味深い、というより、非常に考えさせられる指摘を含んでいる。
 長谷川伸の指摘によれば、敵討〈カタキウチ〉という行為には、法的な手続きによっては死刑の執行がなされないカタキを、被害者の親族が、その死刑の執行を代行する意味があったという。いわば、敵討の討手〈ウッテ〉とは、公権力に代わって法を執行し、正義を実現する者ということになる。
 ここから、ふたつのことを考えた。敵討の討手が、その全人生を敵討のために犠牲にすることがあったという。こうした討手の生きかたを支えたものは、敵討という行為が、法の代行であり、正義の実現であるという使命感であったのかもしれない。この使命感は、一種のエートスといってよいだろう。昨日も述べたが、人は、何らかエートスなしには、みずからの健康を保ったり、勤勉性を維持したりするのは、難しいように思う。石井源蔵・半蔵兄弟の健康と勤勉を支えたのは、こうした使命感=エートスだったのではないだろうか。
 もうひとつ、考えたのは、このように、江戸期数百年の長きにわたって、公権力が、個人に「法の代行」を委ねたということは、日本人の意識やメンタリティに、多大な影響を及ぼしたのではないかということである。
「天に代わりて不義を討つ」というのは、昭和期の軍歌の一節だが、こうした発想は、日本人には特異なものではない。つまり、公権力が正義を実現できない場合は、個人あるいは結社が、その正義を実現することが許される、いや、実現すべきだという発想である。
 江戸時代のカタキウチ、「忠臣蔵」事件、幕末期に続発したテロル、明治初年の要人暗殺、昭和維新という名のテロル、今時大戦中の軍部の独断専行、等々の背後には、つねに、そうした発想があったのではないだろうか。

*このブログの人気記事 2015・4・27

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カタキウチは健康でないと仕遂げられない

2015-04-26 10:01:47 | コラムと名言

◎カタキウチは健康でないと仕遂げられない

 最近、現代のエスプリ『忠臣蔵と日本人』(至文堂、一九七九)に載っていた、長谷川伸の「敵討考〈カタキウチコウ〉」という文章を、興味深く読んだ。
 長谷川伸〈シン〉という人は、作家として有名だが、歴史を素材とした評論にも、見るべきものがある。文章が平易で、記述は素材中心、読みやすく説得力がある。この、「敵討考」という文章についても、もちろん、そうした特色が指摘できる。
 少し、引用してみよう。

 さてここで石井源蔵兄弟の場合はこうなる。源蔵が幼く、弟半蔵がさらに幼いとき、大坂城代の青山侯の士である父の石井宇右衛門〈イシイ・ウエモン〉が暗殺された。殺したのは赤堀源五右衛門〈アカボリ・ゲンゴエモン〉で、殺害の原因は逆恨み〈サカウラミ〉であった。
 敵討〈カタキウチ〉の作法のごとく、父宇右衛門の敵討に、長男の三之丞〈サンノジョウ〉と次男の彦七〈ヒコシチ〉とが、家来の庄太夫と孫助とをつれて大坂を出た。これからは主従四人が一体となって探偵に従事するので、四人とも旅行中の町人に変装し、変名し、敵〈カタキ〉の源五右衛門を探したが知れない。そこで敵の養父を殺した。「わが父を殺すにあたって謀議にあずかった者」という理由である。これから後、敵の源五衛門と討人の三之丞兄弟との間に、追うものと追われるものの手段と謀略の競争が八か年つづいた。その間じゅう、敵の方がいつも討人の方を翻弄した。八か年とは敵討出立〈シュッタチ〉の延宝元年(一六七三)十月から天和〈テンナ〉元年(一六八一)一月までのことを大ざっぱにいったのである。
 敵討の費用一切は自弁である。収入なしの支出ばかりなので、二、三年とはたたないうちに、手持ちの費用が乏しくなる。そこで親族縁者から援助を乞うのだが、それにも限度がある。敵討出立のとき有縁無縁のものが寄せた餞別〈センベツ〉のごときは、とッくになくなっている。芝居にある「大晏寺堤〈ダイアンジヅツミ〉」「天下茶屋〈テンカジャヤ〉」に討人が乞食〈コジキ〉になっているのは、本物の討人の窮迫を端的にみせたものである。
 前にいった八か年の間に、弟の彦七は敵討に絶望したのだろう、失踪した。従者の庄太夫も彦七について出て行ってしまった。この二人の消息はこれで絶えた。
 三之丞は親類の美濃不破〈ミノ・フワ〉の室原〈ムロハラ〉村の豪農犬飼清雲〈イヌガイ・セイウン〉方で、広島の親類へ借金」にやった忠僕孫助が、帰り着くのを待っている天和元年一月下旬、武装した敵の源五右衛門に襲われ、風呂から出たばかりのところを斬殺された〈キリコロサレタ〉。
 三之丞の弟源蔵は、兄が返討〈カエリウチ〉になった翌年(一六八二)の秋、父と兄の敵討のために広島を出て、以来五か年のうちに、自力で一切の費用を稼ぎ出し生き抜いた。これを別な方面からいうと、源蔵は一日十五里ずつ連日歩いて平気だ、暑中に炎天下を歩きつづけて日射病などに罹らない〈カカラナイ〉、寒中に野宿をつづけても病気しない、食い溜め〈クイダメ〉ができて、飢渇〈キカツ〉に参らない、熟睡と仮眠のつかい分けができるから、眠り不足ということがない。ひとりこれは石井だけのことではなく、敵の討人〈ウッテ〉はすべてこうであった。言葉も数か国の方言と訛り〈ナマリ〉とを自在にコナせ、小間物〈コマモノ〉行商・鏡磨き・茶売り・人足・紙売りを一人前にやり、博徒の群れにはいっても一人前であった。三之丞・彦七の敵討出立からいうと、ながきにわたるのだから、親類縁者の協力も、そうそうは続けられなくなる。そこで源蔵は自力で生活し、単独で敵を探索するのである。
 十八歳になったとき半蔵は、広島から京都に出て、京の外れにある忠僕孫助方で、江戸から引返してきた兄源蔵に会ったとき、孫助が探知した敵の源五右衛門が百五十石で伊勢亀山藩に仕え、赤堀水之助といっていることを兄弟に知らせた。これで敵討にあたって、最も厄介な敵の所在探しが一応のところ終った。
 源蔵・半蔵兄弟は敵の居どころが判明してから、亀山城内で敵討をするまでに、十三か年かかった。そのあいだ兄弟は、人足となり行商人となって自活し、江戸の亀山藩邸の御長屋住居の藩士の使用人になるのに、弟半蔵は八か年かかり、兄源蔵は十二か年かかり、兄弟二人が亀山に同時に居られるようになったのがその翌年であるから、半蔵からいえば九か年、源蔵からいえば十三か年かかって、ようやく敵に近づいた。
 敵討の作法として、敵に対したときまず、犯罪を認めさせることである。源蔵・半蔵兄弟の場合は、亀山城二の丸〈ニノマル〉石坂門で赤堀水之助を待受けて、兄源蔵が「我は石井宇右衛門の伜〈セガレ〉ども、親兄の敵」と呼びかけてから勝負にはいっている。徳川期といえども、敵討は証拠と証人なくしては成立せず、さらに大切なことは、勝負の場に突入するとき、討人は敵に自供させなくてはならない。
 兄弟が京都へ一たびは引揚げ、ついで江戸へ行ってたことは前にいった。
 敵討のうちこれは極端な例だが、遠藤竹太郎の敵討は父子二代にわたって三十年かかり(文化十三年・一八一六)、山崎善六は十五歳から、四十六歳までかかって敵討した(寛保二年・一七四二)、久米幸太郎は十八歳で出立して四十八歳で敵を討った(安政四年・一八五七)、とませ〔女性の名前〕の相馬の敵討は五十三か年後のことだという(嘉永六年・一八五三)。二十余年とか十余年とかはザラだ。つまり健康でないと仕遂げ〈シトゲ〉られない。それと同様に、敵が健康でないとひどいことになる、その例がちょいちょいある。【以下、次回】

 敵討〈カタキウチ〉を仕遂げるためには、自分もカタキも健康でなければならないという指摘には、なるほどと思った。また、長谷川伸は、ここでは、あえて強調していないが、敵打を仕遂げるためには、仕遂げる側が「勤勉」である必要もあると思った。
 勤勉には、それを支えるエートスというものがあるというのが、マックス・ウェーバーの説だが、敵討にも、それを支えるエートスが必要不可欠なのではないだろうか。石井兄弟が健康であり、勤勉であったのは、敵討という目標があり、その目標を達成することに全てを投入するという生きかたを支えるエートスがあったからに違いない。【この話、続く】

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