◎死刑の執行は殺人を誘発する(木村亀二)
木村亀二の『死刑論』(アテネ文庫、一九四九)の紹介を続ける。同書の第四章「ベッカリーアとドストエーフスキー」の第六節を引用してみよう。
六 死刑を存置することには、単にそれに効果がないといふ以上に、いろいろの弊害がある。その一〈イチ〉は、誤判によつて無辜〈ムコ〉の者に対し死刑が執行せられた場合には全然回復の可能性がないことである。これは、周知のとほり、従来死刑反対論のもつとも有力な論拠とせられて来たものであつて、ジャン・カラの事件によつてその可能性が論証せられてゐる。もちろん、今日の訴訟手続における証拠法は第十八世紀のそれと比較にならぬほどの進歩はしでゐるが、それでも人間の判断に誤謬がないとは誰も保護し得ない。現にイギリス下院の死刑に関する特別委員会における報告の中には、スレーター事件、ハブロン事件、ベック事件等が指摘せられてゐる。
その二は、死刑の執行がかへつて殺人行為を刺戟するといふことである。執行の公開が人々の感情に対し死の恐怖を鈍感にし、目的とした威嚇の効果と逆な効果をもたらす結果になつたために、死刑の執行は非公開となつたが、非公開の現代においても印刷物・ラヂオ等を通して為される死刑に関する報道は有力な暗示力を持つとせられてゐる。強力に武装せられた国家に対立せしめられる犯人は、昔ローマにおいて猛獣と闘はせられたグラディアトールのやうな印象を人々に与へ、憐憫〈レンビン〉と同情の対象となり、場合によつては英雄化せられる。それが精神的欠陥を持つた人々に対する強力な暗示となつて殺人を行はしめる〈オコナワシメル〉結果になるとせられてゐる。一九三一年の五月の初めにドイツのケルン市で殺人犯人のキュールテンといふ男が死刑に処せられた。プロイセンでは、その前に最後に死刑が行はれてから三年を経てゐたので、はなはだ珍らしい出来ごとであつた。ところが、この死刑の執行の直後に、プロイセンでは、連続して多数の殺人が行はれたとせられてゐる。これは必ずしも偶然の一致とは見られないと解せられてゐる。
最後に、もつとも悪い弊害は、死刑によつて、国家が合法的殺人の模範を示し、人命の無視を奨励するといふことである。殺人を犯罪として法律上禁止する国家が法律によつて殺人を肯定し死刑を行ふことは、矛盾であるのみならず、道義的にはもつとも非文化・非人道の行為であり、野蛮への復帰である。死刑は、文化国家への道ではない。
非公開の処刑であっても、それが殺人行為を誘発することがある。公開の処刑は、それ以上に、殺人行為を誘発するにちがいないという趣旨である。
これは、首肯できるのである。本年二月二〇日、川崎市の河川敷で、少年らが、中学生の首をナイフで切って殺すという事件があった。これより先の同月一日、イスラム国に捕われていた後藤健二さんの処刑の場面が、画像で配信されるという事件があった。この「公開処刑」が、中学生殺害事件を誘発したであろうことは、ほぼ間違いない。木村亀二の問題提起を、私たちは、真剣に受けとめる必要があると思う。
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