◎日銀券搬出の件で、日銀に渋沢敬三総裁を訪ねる
『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960)から、田中鐵三郎の手記「終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その二回目。
2 空襲下の業務と支店の被害
五月二十九日は朝から横浜一円に大空襲を受けた日であります。黒煙は房総につながり天ために暗くなつたほどです。六月一日〔朝鮮〕銀行の定時株主総会があり、別段のことなく直ちに終了。五日は朝神戸に米機三五〇の来襲を受け神戸支店全焼すとの報がありましたので、六日星野副総裁が京城に向う途中神戸に下車して善後措置をとることにしました。七日朝には大阪に約二五〇機の来襲があり、わが大阪支店も猛火に包囲されて一時危険に瀕しましたが、さいわいこれは焼失を免れました。当時空襲と悪天候とで交通は次第に不自由となり、極力連絡にことかかぬよう努力を払つておりましたが、昼となく夜となく空襲がますますひんぱんとなり、私の丸の内ホテルの居住もいろいろ不便を感ずるようになつたのです。それで六月四日から後はしばしば銀行の二階にベッドを置いて寝ることにしましたので、それからは燈火官制を完全にした部屋で夜間の執務が出来ることになりましたが、行内の各位には何くれとお世話をかけたことは恐縮の至りでありました。
その後米機の来襲はいよいよひんぱんで終日絶え間なきこともあり、その編隊もだんだん大規模となりまして、関東周辺、海岸地区、東北、関西、九州とひんぴんとして空襲の被害が伝わつて来ます。六月十九日夜には福岡支店が全焼し、七月二日には下関支店も消失しました。かくのごとくわが内地支店も空襲の犠牲となるに至つたのでありますが、各店の業務はいちはやく移転先を求めてそれぞれ数日ならずして復活が出来ました。
3 半島経済保全への措置
通信、交通の不便が一般経済の運行にはなはだしく支障をもたらすことはいうまでもありませんが、金融の疎通を図るため内地全般にわたつて七月一日から普通預貯金を、それがいずれの銀行の分であつてもいずれの銀行でも支払うということになり、その決済は日本銀行でやることになりました。朝鮮では当時急務といたしましたことは、何よりもまず兌換券〈ダカンケン〉発行元の補給ということでありました。内地で印刷していた朝鮮銀行券の半島への搬出が不自由となり、船便をさがしてその積出可能量と時日と場所とを勘案し、適切な運送をやらねばならぬことが一苦労でありました。そこで鮮銀〔朝鮮銀行〕では内地から印刷機械を取り寄せて京城で印刷することに計画をたて、これを据え付ける工場も決定しましたが、肝心な機械の運搬がなかなか思うように行きません。あるいは新潟に運び、あるいは大阪に運び、中には港に着いてから折あしく空爆に逢つて損害を受けた部分もありました。それで万一の場合には日銀券を持ち出す用意も必要であるので、六月二十九日渋沢〔敬三〕日銀総裁を訪問してあらかじめ急に応じて日銀券を朝鮮に使わせてもらうことを依頼したのであります。
前述のように空襲に加うるに天候の具合も悪くて羽田飛行場からの出航は極めて不規則となり、羽田までむだ足を運ぶこともやむをえなくなりましたが、やつと七月十三日午前、小雨をついて私は羽田から飛び立ちました。機はコースを北方へとつて日本海に出ましたが、機械の調子が悪くなつて米子に着陸、修理と調整とに時間をつぶしたので夕闇をついて午後七時過ぎとなつてようやく京城に着いたこともあります。当時半島はたまに少数機による空襲を受ける程度でありましたが、疎開や防空の準備は進捗していました。経済界は物資消費が規制される一面、生産の強化と必要企業の新設助長を図るほか、金融界においては通貨の膨脹を抑制して通帳払い、振替払いの徹底を期し、あるいはまた鮮銀と市中銀行と負担を折半〈セッパン〉して抽籤割増金付預金制度を創設し遊資を吸収するなど、経済の動きと金融との足並みはすこぶる円滑に経過することを得たのであります。なお鮮銀としては戦時経済研究会を継続開催しまして財界との連絡を密にし、民生の安定を目標として諸般の措置が時宜に適するよう努力していたのでありました。しかしながら、内地との交通運輸がますます不如意〈フニョイ〉となるにつけ、半島経済も物資の自足政策上苦労はいよいよ加わつて来たのであります。【以下、次回】
「2 空襲下の業務と支店の被害」の節に、「銀行の定時株主総会」とあるが、朝鮮銀行の定時株主総会は、本店のある京城でなく、内地の東京で開かれたもようである。
また、「兌換券」とは、正貨との交換が保障されている銀行券または政府紙幣。この場合、正貨は日本銀行券、兌換券は朝鮮銀行が発行していた朝鮮銀行券。