礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

日銀券搬出の件で、日銀に渋沢敬三総裁を訪ねる

2024-02-29 00:12:27 | コラムと名言

◎日銀券搬出の件で、日銀に渋沢敬三総裁を訪ねる

『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960)から、田中鐵三郎の手記「終戦前後の思い出」を紹介している。本日は、その二回目。

2 空襲下の業務と支店の被害
 五月二十九日は朝から横浜一円に大空襲を受けた日であります。黒煙は房総につながり天ために暗くなつたほどです。六月一日〔朝鮮〕銀行の定時株主総会があり、別段のことなく直ちに終了。五日は朝神戸に米機三五〇の来襲を受け神戸支店全焼すとの報がありましたので、六日星野副総裁が京城に向う途中神戸に下車して善後措置をとることにしました。七日朝には大阪に約二五〇機の来襲があり、わが大阪支店も猛火に包囲されて一時危険に瀕しましたが、さいわいこれは焼失を免れました。当時空襲と悪天候とで交通は次第に不自由となり、極力連絡にことかかぬよう努力を払つておりましたが、昼となく夜となく空襲がますますひんぱんとなり、私の丸の内ホテルの居住もいろいろ不便を感ずるようになつたのです。それで六月四日から後はしばしば銀行の二階にベッドを置いて寝ることにしましたので、それからは燈火官制を完全にした部屋で夜間の執務が出来ることになりましたが、行内の各位には何くれとお世話をかけたことは恐縮の至りでありました。 
 その後米機の来襲はいよいよひんぱんで終日絶え間なきこともあり、その編隊もだんだん大規模となりまして、関東周辺、海岸地区、東北、関西、九州とひんぴんとして空襲の被害が伝わつて来ます。六月十九日夜には福岡支店が全焼し、七月二日には下関支店も消失しました。かくのごとくわが内地支店も空襲の犠牲となるに至つたのでありますが、各店の業務はいちはやく移転先を求めてそれぞれ数日ならずして復活が出来ました。
3 半島経済保全への措置
 通信、交通の不便が一般経済の運行にはなはだしく支障をもたらすことはいうまでもありませんが、金融の疎通を図るため内地全般にわたつて七月一日から普通預貯金を、それがいずれの銀行の分であつてもいずれの銀行でも支払うということになり、その決済は日本銀行でやることになりました。朝鮮では当時急務といたしましたことは、何よりもまず兌換券〈ダカンケン〉発行元の補給ということでありました。内地で印刷していた朝鮮銀行券の半島への搬出が不自由となり、船便をさがしてその積出可能量と時日と場所とを勘案し、適切な運送をやらねばならぬことが一苦労でありました。そこで鮮銀〔朝鮮銀行〕では内地から印刷機械を取り寄せて京城で印刷することに計画をたて、これを据え付ける工場も決定しましたが、肝心な機械の運搬がなかなか思うように行きません。あるいは新潟に運び、あるいは大阪に運び、中には港に着いてから折あしく空爆に逢つて損害を受けた部分もありました。それで万一の場合には日銀券を持ち出す用意も必要であるので、六月二十九日渋沢〔敬三〕日銀総裁を訪問してあらかじめ急に応じて日銀券を朝鮮に使わせてもらうことを依頼したのであります。
 前述のように空襲に加うるに天候の具合も悪くて羽田飛行場からの出航は極めて不規則となり、羽田までむだ足を運ぶこともやむをえなくなりましたが、やつと七月十三日午前、小雨をついて私は羽田から飛び立ちました。機はコースを北方へとつて日本海に出ましたが、機械の調子が悪くなつて米子に着陸、修理と調整とに時間をつぶしたので夕闇をついて午後七時過ぎとなつてようやく京城に着いたこともあります。当時半島はたまに少数機による空襲を受ける程度でありましたが、疎開や防空の準備は進捗していました。経済界は物資消費が規制される一面、生産の強化と必要企業の新設助長を図るほか、金融界においては通貨の膨脹を抑制して通帳払い、振替払いの徹底を期し、あるいはまた鮮銀と市中銀行と負担を折半〈セッパン〉して抽籤割増金付預金制度を創設し遊資を吸収するなど、経済の動きと金融との足並みはすこぶる円滑に経過することを得たのであります。なお鮮銀としては戦時経済研究会を継続開催しまして財界との連絡を密にし、民生の安定を目標として諸般の措置が時宜に適するよう努力していたのでありました。しかしながら、内地との交通運輸がますます不如意〈フニョイ〉となるにつけ、半島経済も物資の自足政策上苦労はいよいよ加わつて来たのであります。【以下、次回】

「2 空襲下の業務と支店の被害」の節に、「銀行の定時株主総会」とあるが、朝鮮銀行の定時株主総会は、本店のある京城でなく、内地の東京で開かれたもようである。
 また、「兌換券」とは、正貨との交換が保障されている銀行券または政府紙幣。この場合、正貨は日本銀行券、兌換券は朝鮮銀行が発行していた朝鮮銀行券。

*このブログの人気記事 2024・2・29(10位の岡田啓介は時節柄か)

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元朝鮮銀行総裁・田中鐵三郎の「終戦前後の思い出」

2024-02-28 01:52:17 | コラムと名言

◎元朝鮮銀行総裁・田中鐵三郎の「終戦前後の思い出」

 当ブログ、先週24日の記事「元日銀理事・田中鐵三郎が語った二・二六事件」で、『田中鐵三郎氏(日本銀行元理事) 金融史談速記録』(日本銀行調査局、1960年4月)という本を紹介した。
 この本の277~287ページに、参考として「終戦前後の思い出」という文章が収録されている。これは、速記録ではなく、田中鐵三郎自身による手記である。
 田中鐵三郎は、終戦前後、朝鮮銀行総裁の要職にあった。「終戦前後の思い出」は、そのころの体験を綴った手記である。本日以降、何回かに分けて、同手記を紹介してみたい。

(参考) 終戦前後の思い出
1 被 爆 の 夜
 米飛行機の来襲は昭和二十年〔1845〕に入つてから関東、関西、東北、九州とようやくひんぱんになり、爆撃の規模も大がかりになつて来ました。同年五月二十四日には大蔵大臣(広瀬)官邸で特殊金融機関首脳者の会議をやるということであつたので、私も京城〈ケイジョウ〉から出かけて参りまして二十三日の夜東京に着いたのですが、翌二十四日は午前一時頃から東京は大空襲を受け、官邸や知人宅なども相当多数が焼失しました。正午から蔵相官邸の会合が開かれましたが、出席者の中にも被害者があり、衷心これをお慰めしたわけですが、まさかその翌晩には自分がやられる番になろうとは全く思いもよらないことでした。二十五日は正午から支店内で部長会議をやり、夕方からは重役の会合で九時半頃散会しましたが、十時半になるとB29は房総と伊豆との両方面から帝都に侵入しまして殆んど全市にわたつて焼夷弾の雨をふらせたのであります。宅は東中野の塔の山にあり、環状道路に沿つて塔の山小公園を控え家もまばらで閉静な住宅地であつたのですが、猛火は烈風に乗つて四方から攻めよせて来たのです。夜半を過ぎてわが家にもまた庭と玄関前とに同時に焼夷弾が落ちて来て盛〈サカン〉に火花を散らしたのです。当時宅には雇い人はなく、妻と若い縁故者二人とそれに丁度前日京城から来た私を加えて四人が二手に別れまして、かねて習い覚えた通りバケツと濡れムシロとで手際よく消しとめたのですが、周囲の火はますます猛烈を加えまたますます近くなり、横なぐりに吹きつけて来る火の子は火せん〔火箭〕のごとくしかも大きな固まりとなって飛んで来るのです。いずれの方角へこの猛火を突破すべきか実はちゆうちよせざるを得なかつたのでありますが、時は迫つているので家財はつめ込めるだけ防空壕につめ込み、手に持ち出したものは祖先の霊神を祭つた小やしろとラジオセットと書類入れのリユックサックだけで、頭から毛布をかぶつて飛び出しました。選んだ行先は、風下ではあつたがこの前の空襲で焼けてしまった地域のあることを思い出し、火の雨の中を走つて一〇町ばかりのところの崩れた土塀の陰に身を寄せました。同じ焼け跡にうごめく避難者は数千人、四望〈シボウ〉火の手の盛に上つているところにはまだ焼夷弾は落ち続けていました。時々風向きが変るので、三度ばかりかくれ場をかえてうずくまつていました。かくて不気味な一夜は明けて火は下火となり、余燼から立ち上る煙の中を塔の山のわが家に帰つて見たのですが、家は綺麗になくなつていました。万一を期待していた防空壕も全滅し、唯門柱のみが名残り〈ナゴリ〉を残す存在でありました。付近を見ると逃げ遅れた気の毒な人であろうか、門前から道路沿いの溝などに無残な姿が散見されたのであります。やがて縁故の者が来たのでまず銀行に連絡にやり、またぼつぼつ見舞の知友も見えられたので、ひとまず中野区桃園町〈モモゾノチョウ〉の星野〔喜代治〕氏(副総裁)の避難先きに落ちつくことにしました。お陰でその夕方は風呂などに入って清そう〔清爽〕な気分を取り戻すことが出来たのは仕合せでした。二十八日から丸の内ホテルに小さな部屋を借りることになり、そこに寝泊りすることになりましたが、窓掛け〔カーテン〕が薄かつた関係でありましようか、日が暮れると蛍の光ほどの電燈で、書くことはもちろん新聞すらも読めないのでただベッドに横たわる外には何とも仕様がなく、これにはほとほと屈託せざるを得ませんでした。【以下、次回】

 田中鐵三郎は、1942年(昭和17)12月から、1945年(昭和20)9月まで、朝鮮銀行の第八代総裁を務めていた(最後の総裁)。
「星野氏(副総裁)」とあるのは、田中総裁の下で副総裁を務めていた星野喜代治(ほしの・きよじ、1893~1979)のことである。星野喜代治は、戦後の1957年(昭和32)、日本不動産銀行(あおぞら銀行の前身)を設立し、その初代頭取となっている。
 文中、丸の内ホテルの電燈が暗かったとある。これは、「燈火管制」を意識し、ホテル側が、あえてそうしていたのであろう。

*このブログの人気記事 2024・2・28(8・9・10位に極めて珍しいものが入っています)

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「極秘の申合せ」が意味していたもの

2024-02-27 03:06:23 | コラムと名言

◎「極秘の申合せ」が意味していたもの

 木内曽益の「二・二六事件の思い出」という文章、特に、その後半部分について、コメントしておこう。
 木内によれば、「北一輝や西田税などの民間側の首謀者」の扱いについて、「軍側と司法部側との間の了解事項」があったが、それとは別に、三捜査機関の間で「極秘の申合せ」が成立していたと言う。事実だとすれば、これは大変なことである。
 警視庁が北一輝や西田税の所在を突きとめ、これを逮捕した場合、「軍側と司法部側との間の了解事項」に従うならば、北一輝や西田税は検事局に送致され、普通裁判所で裁判を受けることになったはずである。
 ところが、東京憲兵隊長の坂本俊篤大佐、警視庁の安倍源基特高部長、同じく警視庁の毛利基特高課長、および東京刑事地裁の木内曽益検事という「三捜査機関」の中心メンバーは、「軍側と司法部側との間の了解事項」に反する、「極秘の申合せ」をおこなっていた。それによれば、「民間人でも、この事件の主要関係者は、警視庁単独で逮捕し得た場合でも、これを憲兵隊に通報して、憲兵隊と共同で逮捕し、憲兵隊が単独で逮捕したことにして軍法会議の管轄に移すこと」になっていた。
 この「申合せ」により、警視庁は、北一輝や西田税の所在を突きとめたあとも、警視庁として彼らを逮捕することなく、憲兵隊に連絡した上で、憲兵隊と一緒に彼らを逮捕し、軍法会議に彼らの身柄を送ったという。
 つまり、三捜査機関の間では、最初から、「北一輝や西田税などの民間側の首謀者」は軍法会議に廻す、という合意ができていたのであろう。北一輝や西田税を軍法会議に廻すということは、彼らを事件の「首謀者」に位置づけ、死刑に処するということである。「極秘の申合せ」の本質は、そこにあったと理解すべきであろう。
 なお付言すれば、北一輝や西田税などを事件の首謀者とすることは、陸軍上層部の責任をウヤムヤにすることにつながる。三捜査機関の間では、その点についても合意が形成されていた可能性がある。
 すなわち、この事件の裁判の結末は、三捜査機関による「極秘の申合せ」が成立した時点で、ほぼ見えていたと言ってもよい。この文章において、木内曽益は大変なことを語っていたわけである(問わず語りに)。
 なお、木内は、「二・二六事件秘録」(1955)という文章の最後で、次のように述べている(今月23日のブログ参照)。

 二・二六事件が勃発する中、恰も天災地変が一時に突発したかのように周章狼狽、たゞ鎮撫だ説得だと騒ぐのみで却つて叛軍側に足許を見すかされて引き廻され、結局は、陛下の御一言でやつとフラフラ腰を立て直したのであつて、陸軍上層部の無能というか、あのブザマな姿を見て、洵になげかわしい次第である。

 何とも傲岸不遜な言い方だが、木内のホンネであろう。木内には、事件処理のスジミチをつけることで、窮地に陥っていた陸軍上層部を救ったのはこのオレだという、強い自負があったのだと思う。
 すなわち、三捜査機関の「申合せ」を主導したのは木内曽益であった、と私は推測するのである。

*このブログの人気記事 2024・2・27(10位になぜか中村雄二郎)

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民間人逮捕の件で極秘の申合せをおこなう

2024-02-26 02:43:34 | コラムと名言

◎民間人逮捕の件で極秘の申合せをおこなう

 木内曽益の「二・二六事件の思い出」という文章(初出は1952年2月)を紹介している。本日は、その後半。引用は、木内曽益『検察官生活の回顧(再改訂版)』(私家版、1968)より。

 二・二六事件には民間側も北一輝、西田税〈ミツギ〉等右翼の大物が関係しておつたので、これらを一括して軍法会議の管轄にすべきかどうかという事が重要な問題になつたのである。というのは、平時は軍関係者は軍法会議の所管であり、民間人は普通裁判所の管轄に属することはいうまでもない。ところが戒厳令が布かれると、民間人もまた軍法会議の所轄に移すことが出来る事になつているが、戒厳令が解ければまた平時の状態に復し、民間人は再び普通裁判所の所轄に戻るのである。二・二六事件処理の為の戒厳令は、暫定的なものであるから、戒厳令に基き民間人を軍事裁判に移したとしても、戒厳令解止後はこれらの民間人は当然普通裁判所に戻ることになるのである。
 そこで、軍側としては、戒厳令解止後も引続き民間人をも軍法会議の管轄にしておくために特設軍法会議を設けようという意見が強かつた。然し、当時の司法大臣小原直〈オハラ・ナオシ〉氏以下司法部の首脳者は司法権擁護の建前から特設軍法会議の設置に強く反対してこの事件処理についても軍人は軍法会議で処理し、民間人は普通裁判所で処理すべきだとして軍側と意見が対立しておつたのである。しかし、軍側の主張が通つて、特設軍法会議を設けることになつたが、ただ軍側と司法部側との間の了解事項として「民間人の場合は憲兵隊で逮捕したものは軍法会議の管轄にするが警視庁で逮捕したものは検事局に送致する」という事にして漸く落着したのである。
 私は司法部に職を奉ずる以上司法部側の主張に同調すべきであることは当然ではあるが、一方、当時の裁判所の裁判の進行状態を見れば(裁判所側としてはそれ相当の理由もあらうが、今も同じ様に)裁判は遅々として進まず、殊に二・二六事件のような大事件が普通裁判所に繋属したとすれば、急いでも四、五年を要することであろう。私は二・二六事件のような一般国民は勿論、国際的にも重大関心を持たれておる超重大事件は一日も早く結論を出して国民の前にその真相を明かにしなければならないと考えておつたので、私個人としてはこの事件処理に関する限り、始めから特設軍法会議の設置には賛成であつた。
 結局、特設軍法会議が設置されることになつたが、前にも述べたような了解事項がついておるのでこの了解事項をどのように運用するのがよいのか、ということがまた次の問題であつた。
 私もこの了解事項は小原法相の苦心の存するところだとは思つておつたが、第一線をあずかる検察官としての私の考えからすれば、私が特設軍法会議の設置に賛成であつたと同様の理由でこの了解事項をそのまま全面的に実行することには承服出来なかつた。もつとも、この了解事項を実際に運用するのは、第一線をあずかる私たちであるので、当時の東京憲兵隊長の坂本〔俊篤〕大佐と警視庁の安倍〔源基〕特高部長、毛利〔基〕特高課長と私との間で話合いの結果次のような取扱にすることに極秘で申合せをしたのである。それは、
 ㈠民間人でも、この事件の主要関係者は、警視庁単独で逮捕し得た場合でも、これを憲兵隊に通報して、憲兵隊と共同で逮捕し、憲兵隊が単独で逮捕したことにして軍法会議の管轄に移すこと
 ㈡従犯的な民間人は、憲兵隊で逮捕した場合でも、これを警視庁に引渡して検事局に送致すること
 ということにしたのである。その結果、北一輝や西田税などの民間側の首謀者は、実際は警視庁がその所在を突きとめたものであつて、普通ならば警視庁だけで直ちに逮捕することが出来たのであるが、この申合せがあるので予め憲兵隊に連絡し憲兵隊と一緒になつて逮捕し身柄を軍法会議に廻わしたのである。
 この申合せは、私等第一線をあずかる三捜査機関が縄張り根性を捨てて全く国家的見地から期せずして一致し出来上つたもので、お互が文字通り虚心坦懐にこの申合せを実行したのであつて、私は、今でも尚この取扱はよかつたと思つている。もし北、西田等の大物が普通裁判所にかけられることになつたとしたならば、何年かかつて裁判が決つたことであろうか。恐らく裁判は遅々として進まず、一般国民が忘れたころになつて決つたことであろう。これを軍法会議にもつていつたからこそ、国民の前に迅速にこの事件の真相と結果とを明かにすることが出来たのである。
 当時を顧みて、洵に感慨深いものがある。

 木内曽益「二・二六事件の思い出」のうち、注目に値するのは、本日、紹介した後半部分である。この部分についてのコメントは、明日。

*このブログの人気記事 2024・2・26(2位になぜかビリー・ヘイズ、9・10位に珍しいものが)

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木内曽益「二・二六事件の思い出」(1952)

2024-02-25 00:03:33 | コラムと名言

◎木内曽益「二・二六事件の思い出」(1952)

 今月の20日から23日にかけて、木内曽益(つねのり)の「二・二六事件秘録」という文章を紹介した。
 木内には、これとは別に、「二・二六事件の思い出」という文章がある。こちらは、『日刊警察』の1952年2月26日号、および27日号に掲載されたもので、のち、木内曽益著『検察官生活の回顧(再改訂版)』(私家版、1968年11月)に収録された。これを前後二回に分けて紹介してみたい。引用は、『検察官生活の回顧(再改訂版)』より。

 二・二六事件の思い出 ――あれから十六年――     木 内 曽 益

 早いものだ。あれからもう十六年になる。二・二六事件の前哨戦ともいうべき血盟団、五・一五事件に私が当時東京地検〔ママ〕の検事としてその捜査を担当した関係から二・二六事件でも、私が民間側の主任検事として軍側の捜査に協力することになつた。これは私の過去をかえりみて最も思い出の深いものの一つである。
 思い起すと、昭和十一年〔1936〕二月二十六日の早朝、まだ私が床の中におつたとき、枕元においてあつた警察電話のベルがけたたましくなる。私は不吉な予感を抱きながら急いで受話器を取ると、当時の警視庁特高課長の毛利基〈モウリ・モトイ〉氏からの電話で「今暁叛乱軍が首相官邸等を襲撃した。然し、まだ詳しいことは判らぬが、一応報告する」というのであつた。私は床から飛び起き、身仕度をして当時の住居であつた池袋四丁目の自宅を出て、いつもの通り池袋駅から省線に乗り市ケ谷駅下車、当時市ケ谷新橋間を通つておつた黄バスに乗つた。すると、乗客の中で、「今朝何か起つたらしい」というようなことをいつておる人があるので、私は、これは叛乱事件の事をいつておるのだなあと思つた。
 このバスは、普通は市ケ谷から麹町四丁目に出て平河町〈ヒラカワチョウ〉から左に曲り国会議事堂の横から裁判所のところを通つて新橋に行くのだが、今朝はバスが動き出すと車掌は「今日は何か事故があつたようで、平河町を右に曲つて山王下〈サンノウシタ〉から新橋に行くことになりましたから」といつていた。私はこれは叛乱事件のため首相官邸から国会議事堂附近は通行止めになつておるのだと思つたので、麹町四丁目でバスから降りて、通りがかりの円タクを拾つた。
 半蔵門のところまで来ると、両側から銃剣の兵隊さん達か私の車を取り巻き、「これからさきに行くことが出来ないから戻つてくれ」という。私はまだそのときは、実はこの兵隊さん達が叛乱部隊の人達とは思わなかつたのであつて、首相官邸等を襲撃した連中は五・一五事件のときのように、とつくに引き上げてその後を警備しておる正規の兵隊さん達だとばかり思い込んでいたのである。それで私はこの人達に名刺を出して「この事件のためにこれから検事局に登庁するのだから通してもらいたい」と頼んだが、中々承知しない。二、三押問答をしておるうちに一人の下士官が「何だ何だ」といいながら出てきた。私が前に血盟団事件や五・一五事件の主任検事であつた関係で陸海軍部内にも私の名前が多少知られておつたためか、その下士官も私の名前を知つておつたらしく「木内検事殿ですか、それなら通つてもよろしい。しかし、車のままでは困るからこれから先は歩いて行つてもらいたい」というので、私は車をすてて三宅坂に向つて歩いていつた。
 三宅坂のところまで来ると、また銃剣の一隊にとりまかれ、これから先は通せないから戻れといつてききいれてくれない。それで私は半蔵門のところで通してくれた事情を話して「もう桜田門も目の前だから通してもらいたい」といつて頼むと、やつと承知してくれたのでどうやら無事に検事局に着くことができたのである。
 三宅坂のところでは、参謀肩章をつけた陸軍の将校連も大勢銃剣の一隊に阻止されていた。
 先程も述べたように、このとき私は銃剣の一隊は、首相官邸等を襲撃した部隊の引き上げたあとを警備している兵隊さん達とばかり思い込んでおつたのだが、検事局に着いてから警視庁と連絡し色々と報告を聞いて見ると、これらの兵隊さん達は叛乱部隊だということがわかり、俺も知らぬが仏で力んできたが、下手すると突き殺されたかも知れなかつたと思い冷汗三斗〈レイカンサント〉の思いをした。(警視庁は叛乱部隊に占拠されて、幹部は神田錦町警察署に移つていた)
 これから私は二・二六事件の民間側の主任検事として、この事件の捜査に当つたのは勿論、戒厳令が布かれてからは検事局側の代表として、戒厳司令部参議員に任命されて参議員会議に列席し、又軍官捜査連絡会議にも検事局側代表委員としてこれに参加することになつた。警視庁側の委員は当時の特高部長の安倍源基〈アベ・ゲンキ〉氏(後の鈴木終戦内閣の内務大臣)特高課長の毛利基氏(後の埼玉県警察部長)であつて、憲兵隊側委員は東京憲兵隊長坂本俊篤〈トシアツ〉氏(後の報知新聞社常務取締役)、大谷敬二郎〈オオタニ・ケイジロウ〉氏(終戦当時の東部憲兵隊司令官)、軍法会議側委員は第一師団法務部長島田朋三郎〈トモサブロウ〉氏(終戦当時東部軍法法務部長法務中将、終戦直後自決)であつた。
 また陸軍省関係の委員中にはその後太平洋戦争当事の首脳幹部となつた人が多く、当時陸軍省軍事課々員有末精三〈アリスエ・セイゾウ〉少佐(後の参謀本部第二部長・中将、終戦直後進駐軍連絡委員長となりマ元帥を厚木飛行場に迎えた人)同課員真田穣一郎〈サナダ・ジョウイチロウ〉少佐(後の参謀本部作戦部長、次いで軍務局長・少将)兵務課長田中新一中佐(太平洋戦争開戦当時の参謀本部作戦部長、次で南方方面兵団師団長・中将)軍事課高級課員武藤章中佐(開戦当時の軍務局長、次いで山下兵団参謀長・中将、東京裁判で絞首刑となる)等そうそうたる人々がおつた。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2024・2・25(2・10位に極めて珍しいものが入っています)

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