礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

優生学と日本版「ニュールンベルグ裁判」

2018-01-31 03:04:19 | コラムと名言

◎優生学と日本版「ニュールンベルグ裁判」

 昨日(二〇一八・一・三〇)の東京新聞夕刊の一面の見出しは、「不妊手術強制 国を初提訴」であった。記事によれば、旧優生保護法(一九四八~一九九六)は、知的障害、精神疾患、遺伝性疾患などを理由として、本人の同意なしに、不妊手術を強制することを認めていたという。実際に、一九七二年に、当時、十五歳の女性が不妊手術を強制されており、その女性が、昨日(二〇一八・一・三〇)、仙台地裁に、国に対し損害賠償を求める訴訟を起こしたという。
 記事を読んで、みずからの無知を思い知らされ、愕然とした。旧優生保護法に、強制不妊手術を許容する規定があったことも、その規定によって不妊手術を強制され、苦しみ続けてきた女性がいることも知らなかった。
 二〇一六年七月二六日に起きた「津久井やまゆり園」事件によって、今日でも、「優生学」の信奉者がいるという事実を知って、ショックを受けた。また、同年九月に刊行された八木晃介氏の『生老病死と健康幻想――生命倫理と思想優生のアポリア』(批評社)を読み、「優生学」が、まさに今日の問題であることに気づき、認識を改めた。
 しかし、戦後の日本において、半世紀近くもの間、強制不妊手術を許用する「優生学」が生きていた事実を知らなかった。みずからの無知を恥じる。
 昨年一〇月、スタンリー・クレーマー監督の映画『ニュールンベルグ裁判』(MGM、一九六一)を観た。この映画については、すでに、当ブログで紹介したこともあるが、重複を覚悟で、再度、紹介を試みる。 
 この映画は、ゲーリング、ヘス、リッベントロップなど、第三帝国の首脳が、ニュールンベルグで裁かれた「ニュールンベルグ国際裁判」を描いたものではない。その国際裁判のあとに、同じくニュールンベルグで、アメリカがおこなった「ニュールンベルグ継続裁判」を描いたものである。
 この映画で描かれるのは、その「ニュールンベルグ継続裁判」の一部、ナチ政権下、エルンスト・ヤニングら四人の法律家が関わった「ふたつの裁判」についての裁判である。この「ふたつの裁判」の是非が、あるいは、この「ふたつの裁判」に関わった裁判官の責任が、争われた裁判である。これら四人の法律家、ふたつの裁判、裁判の対象となったふたつの事件は、あくまでもフィクションであるが、モデルとなった裁判、法律家、事件が、実際にあったと思われる。
 さて、そのふたつの裁判だが、ひとつは、断種法に関わる裁判で、もうひとつは、「ドイツの血とドイツの名誉の保護のための法律」に関わる裁判である。
 前者の裁判に関しては、ナチ時代、「断種」(強制不妊手術)の対象とされた男性(キャストは、モンゴメリー・クリフト)が出廷し、証言する場面がある。その場面を見ながら、ひどい時代があったとは思ったが、感想は、そこにとどまっていた。まさか戦後の日本において、半世紀もの間、そういう「ひどい時代」が続いていたことを知らなかったからである。
 今回、仙台地裁に提訴された裁判で、国側は、強制不妊手術が「当時は合法だった」という論理を持ち出すことであろう。問題なのは、まさに、「当時は合法だった」という事実、そのことを、半世紀もの間、ほとんど誰も問題にしなかったという事実なのである。
 今回の裁判は、今後、「戦後優生法裁判」などと呼ばれるのだろうか。どういう呼称が定着するかは不明だが、これが、日本版「ニュールンベルグ裁判」として、全世界から注目されるであろうことは、まず間違いない。

*このブログの人気記事 2018・1・31(あいかわらず強い岩波文庫教科書版)

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大逆事件の判決と特赦の筋書きを作ったのは誰か

2018-01-30 04:39:08 | コラムと名言

◎大逆事件の判決と特赦の筋書きを作ったのは誰か

 昨日の続きである。拙著『大津事件と明治天皇』(批評社、一九九八)から、終章「平沼騏一郎の回想」の一部を紹介している。本日は、その二回目(最後)。
 昨日、紹介した箇所のあと、次のように続く。なお、〔 〕内は、原文の注、【 】内は、今回の引用にあたっての注である。

 大津事件と大逆事件
 もしもそれだけならば、これは「司法権の独立」に関わる一挿話に過ぎない。しかし、右の「侍従職待機」事件には、ウラがある。……
 当日、侍従職で待機していた桂や平沼は、天皇と同様、電話があるまで「判決内容」を知ることはなかったのだろうか。……
 ごく普通に考えれば、「知っていたはずはない」ということになるだろう。私も最近まで、当然そのように思っていた。
 ところがこれは違う。
 桂首相は、この日一時三十分、何と判決文の「写し」を持って侍機していたのである。判決内容を完全に把握していたのである。平沼も、もちろんわかっていたのである。侍従職にかかってきた電話というのは、「判決内容」を知らせる電話ではなく、単に、今、判決が下ったという「事実」のみを伝える電話だったのである。
 なぜそう断言できるのか。実は決定的な資料がある。
 判決前日の一月十七日、宮内次官河村金五郎は、山県有朋宛に次のような手紙を送っている。
《明十八日午後一時三十分、桂首相判決写を携へ、参内の上奏せらるゝ節、首相に対し御沙汰〔命令〕あること。首相は右御沙汰ニ基キ十九日午前九時、大審院長【児島惟謙】・検事総長【三好退蔵】・民刑局長【平沼騏一郎】、其他を内閣ニ召集し、為参考意見を聴取すること。此の席には宮相【土方久元】参加する事。……》
 十八日の判決時には、桂首相が「判決の写」を持って侍従職に待機する、その後、天皇から恩赦についての御沙汰があるから、十九日にその件についての協議を行うといった段取りについて報告しているのである。
 全ては、筋書きができていたのである。黒幕はまたもやもちろん山県である。山県は、判決の内容を掌握した上で、そのあとの恩赦の内容や段取りについてまで考えていた。その山県の構想(閣下御羞の趣)を持って河村次官が宮相や首相のところをまわった結果、全て了解が得られたということを報告しているのがこの手紙なのである。
 手紙には、次のような部分もある。
《手続は右の通りにて、閣下御考慮の通り、上御一人を煩し奉らざる形式を取る事と相成り、……》
 言葉は慇恝だが、要するに、天皇の介入を排除するで進めたい、と言っているのである。【以下、略】

 この本を出したとき、「侍従職」の「職」に、「しき」というルビを振ったが、『広辞苑』第五版では、「侍従職」を「じじゅうしょく」と読ませている。なお、侍従職というのは、宮内省に属し、天皇側近の事務を扱う役所。その長を侍従長、職員を侍従という。大津事件当時の侍従長は、徳大寺実則〈トクダイジ・サネツネ〉である。

*このブログの人気記事 2018・1・30(10位にかなり珍しいものが入っています)

 

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大逆事件(幸徳事件)と明治天皇による特赦

2018-01-29 07:02:35 | コラムと名言

◎大逆事件(幸徳事件)と明治天皇による特赦

 昨日のコラムで、大逆事件(幸徳事件)に連座した峯尾節堂は、一九一一年(明治四四)一月一八日に死刑判決を受け、その翌日、特赦で無期懲役刑に減刑されたと述べた。
 以前、『大津事件と明治天皇』(批評社、一九九八)において、大逆事件の「特赦」に関連した考察をおこなったことがある。
 本日は、同書の終章「平沼騏一郎の回想」から、その一部を紹介させていただく。〔 〕内は、原文の注、【 】内は、今回の引用にあたっての注である。 

 大逆事件と平沼
 平沼の回顧録【『平沼騏一郎回想録』同編纂委員会刊、一九五五】には、もう一つ注目すべき証言がある。その証言とは、「大逆事件」の項にある次のような回想である。
《桂さん〔桂太郎首相〕は、判決は他の者が分らぬ中に陛下に申上げねばならぬと言はれた。ところで判決言渡しは憲法で傍聴禁止できぬと言ふと、それは困る、何とかせよと言はれた。そこで私は侍従職に詰めてゐるから閣下もいらつしやい、判決が済むと電話をかけて知らす、さうすれば直ちに上奏しなさいと言つた。斯様にして陛下に一番に申上げた。あの当時は厳重であつた。》
 大逆事件とは、明治四十三年(一九一〇)に立件された「天皇暗殺未遂」事件のことである。翌明治四十四年(一九一一)の一月十八日に、幸徳秋水ら二十四名の被告に対し死刑判決が下された(うち十二名に対し、翌十九日、恩赦による減刑があった)。
 一八九一年【明治二四】の大津事件では「大逆罪」(旧刑法 一一六条)によって求刑がなされたが、実際の適用はなかった。それから二十年たった一九一一年に、大審院は、多数の被告に対し、大逆罪(新刑法七三条)を適用したのである。すなわち、両事件には、「大逆罪」という共通項があった。
 大逆事件当時、平沼骐一郎は四十四歳。司法省民刑局長(検事兼任)の要職にあり、同裁判においては、検察側の実質的な責任者であったという。
 右に引いたのは、その平沼が約三十年後に事件を回想し、何げなく洩らした一言なのだが、私は、これは極めて重大な意味を持つ証言なのではないかと考えている(あえて終章を股けたのは、実はこのことを論じたかったからなのである)。
 最初この部分を読んだ時、「これは本当のことなのか?」という疑問を抱いた。一刻も早く天皇に判決結果を知らせるためとはいえ、首相や民刑局長が「侍従職」に詰めて電話を待つなどということが本当にあったのか。
 侍従職に詰めるためには、判決当日、平沼は判決、公判を欠席しなければならない。検察側の責任者である平沼が、重要な判決公判を欠席し、侍従職で電話番をする。民刑局長のみならず、首相までが詰めている。これはどう考えても異常である。……
 そのうち、フト気づいた。天皇が桂首相に要求したのは、判決結果をまっ先に知らせよ、ということではなく、判決内容を「事前」に知らせよ、という事だったのではなかったのか。恐らく天皇は、この事件に限って、こうした異例の要求をおこなったのであろう。しかしいくら天皇の要求でも、これは簡単に応ずるわけにはいかない。そこで、その代わりに、判決直後に首相が結果を内奏するという便法を考えついたのではないだろうか。……
 これは一見すると、天皇に深く配慮しているように見える。しかし実は、政府はこういうまわりくどい方法で、天皇の要求を退けたのではないか。天皇の「干渉」を排除したのではないか。【以下、次回】

 同書全体の論旨を説明することなしに、この部分のみを抜いても、理解していただくのは難しいかもしれない。ここで言いたかったことのひとつは、明治天皇が、この大逆事件に関し、大津事件のときと同様、裁判への干渉を試み、大津事件のときと同様、元勲、閣僚、官僚らによって、その干渉を阻止されたということであった。
 もうひとつ、大逆事件に関しては、判決内容についても、また、特赦の方法についても、明治天皇の意思は、完全に排除されていたということであった。

*このブログの人気記事 2018・1・29(なぜか昨日の順位と似ている)

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新発見の峯尾節堂書簡(1911)二通

2018-01-28 08:22:25 | コラムと名言

◎新発見の峯尾節堂書簡(1911)二通

 昨二七日、渋谷区代々木の正春寺で、「大逆事件処刑一〇八回追悼集会」が開かれた。「大逆事件の真実をあきらかにする会」が主催する、年に一度の集会である。
 開会の一〇分ほど前に、会場に着くと、受付には列ができていた。事務局の大岩川嫩〈オオイワカワ・フタバ〉さんにご挨拶し、会報『大逆事件の真実をあきらかにする会ニュース』第57号ほかを受けとる。
 会場の座席は、あらかた埋まっている。あいかわらずの盛会である。大杉豊さんと木村まきさんの間の席に座らせていただくと、早くも、会代表の山泉進さんから、開会の言葉があった。開会のあとは、一同、管野スガの墓前へ移動して管野スガの墓前祭。そもそも、ここ正春寺を、追悼集会の会場にしているのは、ここに管野スガの墓があるからであろう。また、この時期に追悼集会が開かれているのは、一九一一年(明治四四)一月二四日に幸徳秋水はじめ十一名が、同月二五日に管野スガが絞首刑に処されているからである。
 会場に戻ると、全国から参集された皆さんからのご報告がはじまった。司会は、いつもの通り、山泉進さん。会報第57号をめくりながら、それらの報告を拝聴する。
 会報の五四~五六ページに、中川剛マックスさんの「資料紹介・峯尾節堂の沖野岩三郎宛獄中書簡」という一文がある。新発見の峯尾節堂書簡(郵便はがき)二通が影印つきで紹介され、それについて詳しい解説が付されている。貴重な一文だと思った。
 峯尾節堂は、臨済宗の僧侶で、大逆事件(幸徳事件)に連座し、一九一一年(明治四四)一月一八日、死刑判決を受けたが、翌一九日、特赦で無期懲役刑に減刑されている。
 ハガキのうち一枚は、オモテ面の最後に「一月/十九日認〈シタタム〉」となっている。ウラ面の最後は、「大兄健全におはせ さらバ」となっている。この文面からすると、無期懲役刑への減刑を知らされる前、すなわち、死刑判決を聞いて死を覚悟していた段階で書かれたハガキということになろう。
 また、文面中、「万事皆な不可解也」という一句がある。この「不可解」という言葉だが、藤村操の「巌頭の感」(一九〇三年五月二二日)の影響が及んだ可能性があるとみた。
 なお、中川剛マックスさんには、『峯尾節堂とその時代』(風詠社、二〇一四)という著書がある。峯尾節堂についての研究書としては唯一のもので、かつ信頼できる優れた研究である。

*このブログの人気記事 2018・1・28(1・10位に極めて珍しいものが入っています)

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西部邁氏は、いったい何に絶望していたのか

2018-01-27 05:22:08 | コラムと名言

◎西部邁氏は、いったい何に絶望していたのか

 西部邁氏の入水〈ジュスイ〉が報じられた直後、インターネット上に、これは「偽装自殺ではないのか」、最近、安倍政権に批判的だったので「殺されたのではないか」などの言説があらわれた。
 そういう出まかせを言ってはいけない。西部氏は、権力もしくは何らかの勢力によって抹殺されなければならないほど重要な人物ではない。危険な思想家というわけでもない。西部氏は、しかるべき理由、もしくは、しかるべき事情があって、「自殺」したのである。その理由や事情は、もちろん本人以外の者にはわからない。しかし、自殺であったことは、まず間違いない。
 二〇一七年の一〇月二二日に死ぬ気だったところ、総選挙と重なったので延期したということを、チャンネル桜代表の水島総氏に語っていたという(インターネット情報)。昨年のうちから、自殺を決意し、機会をうかがっていたと見てよいだろう。
 毎日新聞電子版、二〇一八年一月二三日の記事「西部邁さん/最後の『保守と死』論」(最終更新1月23日15時19分)を読んだ。その冒頭に、こうあった。

 保守派の評論家で社会経済学者、西部邁さん(78)が21日、東京都大田区の多摩川で入水し亡くなった。その10日前、毎日新聞の取材を受けた際に「数週間後には(自分は)生きていない」。神経痛で痛む腕をかばいながら、近年繰り返していた自らの自殺の話をした。しかし語りはあくまでも冷静。取材後は午前4時過ぎまでバーをはしごする元気さをみせていた。【鈴木英生】

 鈴木英生〈ヒデオ〉記者は、この記事の最後を、次のようにまとめている。

 憲法改正への動きなど、表面は「保守派」に勢いがある昨今。だが、西部さんの絶望してきた日本の対米追従や大衆社会状況は変わらない。「絶望に立つ希望」を唱え、約200冊の本を出し続けた西部さんは、自らの体調や年齢を考え、長年検討してきた死を選んだのだと思う。【中略】
 自らの主張とかけ離れた現代の言論、社会状況に絶望しながらも、数十年の間、絶えず発言を続けてきた西部さん。バーからバーへと夜道を歩きながら、「俺の絶望の深さが分かったでしょ」とつぶやいていたのが印象的だった。

 追悼文であるからして、故人に対して、批判的なことを述べるわけにいかなかったことは、よくわかる。しかし、この取材の際、西部氏は、自殺をほのめかすほど「絶望の深さ」を強調していたという。ということであれば、西部邁という思想家の思想的力量を確認する意味も込めて、鈴木記者には、次のような点を質していただきたかった。
一 西部さんは、「絶望した」と強調されているが、いったい何に、どう絶望したのか。このあたりを、読者にわかるように説明してほしい。
二 そもそも、思想家が絶望していては、どうしようもない。むしろ、絶望的な情況のなかで、思想的な道筋を示すのが、思想家の役割ではないのか。
三 西部さんは、「日本の対米追従や大衆社会状況」に絶望したと言っているが、この間、保守派の論客として発言してきた西部さんにも、そうした「日本の対米追従や大衆社会状況」を生み出した責任があるのではないか。
四 西部さんは、民主党政権時代の二〇一〇年、みずからのゼミナールに、安倍晋三元首相や稲田朋美衆議院議員を、ゲストとして招いている。その後、二〇一七年後半になって、安倍晋三首相に対する批判を始めている。こうした経緯は、一貫した保守主義によって説明することができるのか。
五 西部さんは、かつて、自分は、変態しないカマキリより変態するチョウのほうが好きだと言い、みずからの「転向」(思想的変態)を肯定されたことがある。西部さんは、この数年の間に、すでに、思想的に変態しているのではないか。あるいは、まさに今、思想的に変態し、保守主義を返上する必要を感じているのではないか。

*このブログの人気記事 2018・1・27

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