礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト108(20・12・31)

2020-12-31 05:44:38 | コラムと名言

◎礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト108(20・12・31)

 本年の大晦日も、除夜の鐘にちなんで、礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト「108」を紹介してみたい。
 順位は、二〇二〇年一二月三一日現在。なおこれは、あくまでも、アクセスが多かった「日」の順位であって、アクセスが多かった「コラム」の順位ではない。

1位 16年2月24日 緒方国務相暗殺未遂事件、皇居に空襲
2位 15年10月30日 ディミトロフ、ゲッベルスを訊問する(1933)
3位 19年8月15日 すべての責任を東條にしょっかぶせるがよい(東久邇宮)
4位 16年2月25日 鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
5位 18年9月29日 邪教とあらば邪教で差支へない(佐藤義亮)
6位 16年12月31日 読んでいただきたかったコラム(2016年後半)
7位 14年7月18日 古事記真福寺本の上巻は四十四丁  
8位 18年8月19日 桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その5      
9位 17年4月15日 吉本隆明は独創的にして偉大な思想家なのか
10位 18年1月2日 坂口安吾、犬と闘って重傷を負う

11位 19年8月16日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(19・8・16)
12位 18年8月6日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その5
13位 17年8月15日 大事をとり別に非常用スタヂオを準備する
14位 18年8月11日 田道間守、常世国に使いして橘を求む
15位 17年1月1日 陰極まれば陽を生ずという(徳富蘇峰)
16位 17年8月6日 殻を失ったサザエは、その中味も死ぬ(東条英機)
17位 17年8月13日 国家を救うの道は、ただこれしかない
18位 19年8月18日 速やかに和平を講ずる以外に途はない(高松宮宣仁親王)
19位 19年4月24日 浅野総一郎と渋沢栄一、瓦斯局の払下げをめぐって激論
20位 15年10月31日 ゲッベルス宣伝相とディートリヒ新聞長官

21位 20年2月24日 悪い奴等を葬るのが改革の早道だ(栗原安秀中尉)
22位 18年10月4日 「国民古典全書」は第一巻しか出なかった
23位 20年2月26日 日本間にある総理の写真を持ってきてくれ(栗原安秀中尉)
24位 15年2月25日 映画『虎の尾を踏む男達』(1945)と東京裁判
25位 19年1月1日 もちごめ粥でも炊いて年を迎えようと思った(高田保馬)
26位 18年5月15日 鈴木治『白村江』新装版(1995)の解説を読む
27位 19年2月26日 方言分布上注意すべき知多半島
28位 19年8月17日 後継内閣は宮様以外に人なき事(木戸幸一)
29位 20年2月9日 失敗したときは、これをお使いください(小坂慶助)
30位 18年8月7日 桃井銀平「西原学説と教師の抗命義務」その6

31位 20年5月11日 靖国神社ハ戒厳司令部ニ対シ制高ノ位置ニアリ
32位 20年7月11日 8月15日以来、別な国家が生成しつゝあるといふ認識
33位 19年1月21日 京都で「金融緊急措置令」を知った村田守保
34位 20年4月24日 ソ連参戦前に戦争終結を策すべきである(瀬島龍三)
35位 19年12月9日 『氷の福音』を読んで懐かしい気持ちになった
36位 20年3月30日 澤柳政太郎君の無責任
37位 18年12月31日 アクセス・歴代ベスト108(2018年末)
38位 20年1月20日 私は逃げると思っていました(佐藤優)
39位 20年5月4日 「達磨に手足は不要なり!」と豪語
40位 19年1月23日 神社神道も疑いなく一種の宗教(美濃部達吉)

41位 18年5月16日 非常識に聞える言辞文章に考え抜かれた説得力がある
42位 18年5月4日 題して「種本一百両」、石川一夢のお物語
43位 18年5月23日 東条内閣、ついに総辞職(1944・7・18)
44位 18年9月30日 徴兵検査合格者に対する抽籤は廃止すべし
45位 19年1月30日 鵜原禎子が見送る列車は金沢行きの急行「北陸」
46位 20年3月28日 北方の天子は足利氏の飾り物であった(菊池謙二郎)
47位 19年1月24日 天皇に奉呈する請願書は侍従職に宛て郵便を以て差出す
48位 20年5月3日 われわれの死は昭和維新の人柱として……(安藤輝三)
49位 20年4月20日 礫川ブログへのアクセス・歴代ベスト30(20・4・20)
50位 18年1月7日 ハーグ密使事件をスクープした高石真五郎

51位 19年3月7日 土井八枝さんの「仙台方言集」はウソからマコト
52位 19年3月8日 梅林新市氏は珍しい方言集を発見して紹介した
53位 16年2月20日 廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表
54位 18年9月28日 新潮社に入社すると「ひとのみち」に入る
55位 18年7月9日 本居宣長は世界の大勢を知らないお座敷学者(竹内大真)
56位 20年5月1日 「維新大詔」が渙発されるまでは戦いぬかねばならなかった
57位 17年8月14日 耐へ難きを耐へ忍び難きを忍び一致協力
58位 18年8月10日 天日槍はどこの国からきたのか
59位 19年12月13日 ほうきの柄で生徒13名をなぐり、1名に頭部裂傷を与える
60位 18年8月14日 天日槍の来朝と赤絹掠奪事件

61位 20年1月31日 占領部隊は武士のなさけを知らない(迫水久常)
62位 20年2月15日 「いかにも岡田である」(松尾伝蔵)
63位 20年4月22日 大本営の議と御前会議
64位 19年1月6日 大山のヒトツバを煎じて飲めば必ず治る
65位 18年11月27日 火事のとき赤い腰巻を振るのはなぜか
66位 17年8月17日 アメリカのどこにも、お前たちの居場所はない
67位 19年2月15日 秋田方言と出雲方言が似通っているのを奇とし
68位 20年1月24日 首相の義弟・松尾伝蔵大佐の遺体だった(迫水久常)
69位 20年4月19日 四時半、機関銃の音に目を覚ました(迫水久常)
70位 20年1月23日 お父さんはきっと生きていらっしゃいますよ(迫水万亀)

71位 20年5月2日 茲に天誅必加を決意す(山田洋)
72位 19年1月17日 「一マイル競走」の原作者はレスリー・M・カークではない
73位 20年4月17日 陛下は純白の御手袋をはめられた御手にて……
74位 20年3月8日 南北朝合一後は南朝も北朝もない(北畠治房)
75位 18年5月30日 和製ラスプーチン・飯野吉三郎と大逆事件の端緒
76位 19年1月18日 山本有三の『真実一路』と吉田甲子太郎の「一マイル競走」
77位 20年3月6日 余も北朝の天子を御気の毒と思ふ(牧野謙次郎)
78位 19年1月29日 成田鉄道多古線を走った代用燃料車のゆくえ
79位 20年8月10日 宇野十郎少佐は爆撃機操縦の名手、陸軍航空の花形であった
80位 20年4月18日 国家の維持について頼る所は国民を残すことのみ

81位 20年2月23日 首相にマスクとロイド眼鏡を手渡し
82位 18年12月28日 絞首刑でなく銃殺刑にしてほしかった(ベルトホルト夫人)
83位 20年5月10日 戒厳司令部、化学戦を準備す(2月28日)
84位 19年2月27日 貸座敷業のかたわら「大阪方言」を著した横井照秀氏
85位 20年1月26日 総理生存の旨を天皇陛下のお耳にいれておかねばならない
86位 20年3月15日 菊池謙二郎の「南北朝対等論を駁す」を読む
87位 19年8月22日 「降伏文書調印に関する詔書」(1945・9・2)
88位 18年11月25日 瀧川政次郎の「火と法律」を読む
89位 20年4月6日 科学が負けたのだから降伏しても恥ではない
90位 20年8月15日 仁科芳雄博士の表情は蒼白そのものだった

91位 18年2月14日 自殺者に見られる三要素(西部邁さんの言葉をヒントに)
92位 18年3月15日 二・二六事件「蹶起趣意書」(憲政記念館企画展示より)
93位 19年1月16日 京都から彦根までの切符を買うために朝四時半に家を出る
94位 15年8月5日 ワイマール憲法を崩壊させた第48条
95位 20年1月30日 この話はきかなかったことにしておく(大角海相)
96位 19年6月17日 寺院財産の管理規定を完備しなければならぬ
97位 18年12月30日 読んでいただきたかったコラム10(2018年後半)
98位 20年8月1日 いかなる天皇制の理論分析にも私は満足できない(針生誠吉)
99位 20年1月27日 一人の中尉が立ってきて栗原中尉だと名のった
100位 18年10月29日 それならば、なぜ判決を急ぎ、証拠を隠滅したのか

101位 20年1月17日 国際人権団体HRWの日本政府への質問は?
102位 20年1月25日 首相は押入のなかにいるのではないか(迫水久常)
103位 19年1月11日 昭和の心学は衆教一致でなければ(井上哲次郎)
104位 18年8月20日 桃井銀平「西原鑑定意見書と最高裁判決西原論評」その6
105位 20年4月15日 総理を助けて生命を捨てよ(岡田啓介)
106位 20年8月3日 天皇は国民にふくまれない(佐々木惣一)
107位 18年12月13日 それからご飯だ、ああうれし(高村光太郎)
108位 18年5月17日 日下部文夫氏の遺稿「UBIQUITOUS ユビキタス」

*このブログの人気記事 2020・12・31(9位になぜか戸坂潤)

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読んでいただきたかったコラム10(2020年後半)

2020-12-30 00:04:17 | コラムと名言

◎読んでいただきたかったコラム10(2020年後半)

 二〇二〇年も、そろそろ終わろうとしている。実に長い一年間であった。
 恒例により、二〇二〇年後半(七月~一二月)に書いたコラムのうち、読んでいただきたかったコラムを、一〇本、挙げてみたい。おおむね、読んでいただきたい順番になっている。

1) 私は時枝の最良の弟子だと自負している(三浦つとむ)  11月29日

2) 「足すり合うも戸塚の縁」(内海桂子師匠)              8月30日

3) 飯坂温泉・若喜旅館に対敵情報部の工作員がいた        11月10日

4) 宣伝ビラに目をくれるな、人に話すな(憲兵司令部)    12月11日

5) 『航空少年』誌、B29撃墜の木村定光准尉を取材           8月20日

6) 吉本隆明「そうだ、用事を思い出した」                  12月4日

7) ニュー・ディール政策の軍事化とケインズ主義者A・ハンセン 10月16日

8) ドリームC70は「月光仮面」にふさわしく神社仏閣型    7月16日

9) よど号と三島事件はいずれも木曜日だった(井出彰)      12月1日

10) 上映のあと、立ち上らずに泣いている老人がいた        10月6日

次点) 古賀峯一連合艦隊司令長官は飛行機に乗って逃げた      8月29日

*このブログの人気記事 2020・12・30(9位になぜか木柄の作り方)

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ミリオン・ブックスと講談社

2020-12-29 03:41:33 | コラムと名言

◎ミリオン・ブックスと講談社

 机上にある『日本語はどういう言語か』のミリオン・ブックス版は、一九六一年(昭和三六)五月二五日発行の第二刷である。
 その巻末には、「ミリオン・ブックス総目録」というものが付いていて、そこには、九十三の書名が挙げられている。
 これをザッと見てみると、著名な人物が書いた本、話題になった本などが、数多く含まれていることに気づく。例えば、次のような本である。

 M104 中野重治   むらぎも     180円
 M109 川端康成   山の音      150円
 M112 池田弥三郎  はだか風土記   180円 
 M119 きだみのる  気違い部落紳士録 170円
 M121 北原武夫   告白的女性論   190円
 M501 佐藤春夫   晶子曼陀羅    140円 
 M503 大江健三郎  芽むしり仔撃ち  180円
 M509 磯村英一   スラム      150円
 M510 江藤 淳   夏目漱石     170円
 M523 岩井弘融   犯罪文化     130円 
 M527 平野 謙   芸術と実生活   180円
 M551 唐沢富太郎  日本人の履歴書  180円 

 ただ、「ミリオン・ブックス」全体の趣旨が明確でない。書き下ろしのものもあれば、そうでないものもある。「新書」のようなところもあれば、「文庫」のようなところもある。
 ミリオン・ブックスの刊行が始まったのは、一九五四年(昭和二九)であるという。最初に出たのは、畔柳二美(くろやなぎ・ふたみ)の『姉妹』(M101)、佐藤春夫の『晶子曼陀羅』(M501)のいずれかと思われる。
 講談社現代新書の刊行が始まったのは一九六四年(昭和三九)、講談社文庫の刊行が始まったのは、一九七一年(昭和四六)、講談社学術文庫の刊行が始まったのは、一九七六年(昭和五一)である。ミリオン・ブックスは、それらに先行し、かつ、それらへの途を切り拓いた。大日本雄弁会講談社、株式会社講談社の歴史においては、きわめて重要な位置を占める叢書だったといってよかろう。ところが今日、ウィキペディアでミリオン・ブックスのことを調べようとしても、そもそも「ミリオン・ブックス」という項がない。
 三浦つとむは、「大日本雄弁会講談社」時代の「ミリオン・ブックス」から、『日本語はどういう言語か』を出した(第一刷、一九五六年九月二五日)。吉本隆明が、この本を読んで刺激を受け、『言語にとって美とは何か』(勁草書房、一九六五)を書いたことは、よく知られている。
 講談社学術文庫版『日本語はどういう言語か』が出たのは、一九七六年六月三〇日のことであった。講談社学術文庫が創刊された年であった。この文庫版の「あとがき」を吉本隆明が執筆していることは、二五日のブログで紹介した通りである。

*このブログの人気記事 2020・12・29

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「意味」は関係として考えるべきである(三浦つとむ)

2020-12-28 04:38:04 | コラムと名言

◎「意味」は関係として考えるべきである(三浦つとむ)

ミリオン・ブックス版『日本語はどういう言語か』から、第二部第一章「日本語はどう研究されてきたか」を引用している。本日は、その三回目(最後)。

  3 時枝誠記氏の「言語過程説」
 昭和に入ってから、時枝誠記氏によって「言語過程説」とそれに基づく日本語の研究が提出されましたが、これは天文学におけるコペルニクスの出現にも似た重要な意義を持つものであって、国語学ばかりでなく言語学においても一つの新しい時代を画するできごとだと云わなければなりません。その学説の詳細は、昭和十六年の「国語学言論」にまとめられています。
 これまでの言語学では、言語を一つの道具として理解していました。頭の中に道具があって、これを使って考えこれを使って思想を伝達すると考えるのです。この道具は、概念と聴覚映像とがかたく結びついて構成された精神的な実体と説明され、「言語」または「言語の材料」と呼ばれています。時枝氏はこの言語構成観あるいは言語実体観をあやまったものとしてしりぞけ、対象―→認識―→表現の過程的構造をもって言語の本質であると主張したのでした。この意味でその学説は言語過程説と名づけられています。
 「言語過程説は、我が旧き国語研究史に現れた言語観と、私の実証的研究に基く言語理論の反省の上に成立し、国語の科学的研究の基礎観念として仮説せられたものであつて、いはゞ言語の本質が何であるかの謎に対する私の解答である。」「過程的構造にこそ言語研究の最も重要な問題が存するのである。」(時枝誠記「国語学原論」)
 時枝学説に対して言語学者は否定的であり国語学者の間でも賛否両論があります。しかし、たとえ何人の手によって提出されたにせよ、「過程説」のうまれたことは歴史的な一つの必然として考えられなければなりません。世界はできあがった諸事物の複合体としてではなく、ある「過程の複合体」としてとらえるべきだ、というのは、ヘーゲル哲学の革命的な見かたであり、この弁証法的な世界親は現在の科学によって確認されています。言語過程説の提出は、とりもなおさず弁証法的言語観の出現を意味しています。ところで、この言語観の出現にあずかって力のあったものは、一方では時枝氏ものべているように日本の古い国語学者たちのもっていた素朴な言語観であり、また他方ではヘーゲル哲学の流れをくんでヨーロッパの哲学者たちによって論じられた「現象学」の中にふくまれている弁証法的な考えかたでした。時枝氏が思想の構造について理解するために「現象学」の助けを求めたということは、プラスの面ばかりでなく、その限界乃至観念論としての欠陥を言語過程説の中へもちこんだというマイナスの面をも持つていることは事実であり、これが言語過程説を否定する人たちの理論的根拠になっているようです。わたしたちはこのマイナスの面を克服し、プラスの面を正しく発展させなければならないと思います。
 時枝氏の理論が、それまでの理論にくらべて優越した点としては 
  一、言語を過程的構造においてとりあげたこと。
  二、語の根本的な分類として客体的表現と主体的表現の区別を採用したこと。
  三、言語における二つの立場――主体的立場と客体的立場――の差別を問題にしたこと。
があげられます。また欠陥としては
  一、言語の本質を「主体の概念作用にある」と考えたこと。
  二、言語の「意味」を「主体の把握のしかたすなわち客体に対する意味作用そのもの」と考えたこと。
  三、言語表現に伴う社会的な約束の認識と、それによる媒介過程が無視されていること。
  四、認識を反映と見る立場が正しくつらぬかれていないこと。与えられた現実についての表現と、想像についての表現との区別およびその相互の関係がとりあげられていないこと。ここから主体的立場の規定も混乱していること。
などが指摘できます。
 時枝氏が言語を過程においてとりあげようとしたこと、そのことは正しかったのですが、 だからといって言語と言語活動が同一だということにはなりません。時枝氏の「意味」についての誤解は、この混同をもたらす結果になりました。音声や文字は、それ自体物理的な空気の振動であり石の上にできた亀裂のようなもので、そこに「意味」はない、と考えたのです。ではどこに「意味」があるか? 言語の過程としては、対象が必要であり、概念もつくられますが、これらが表現のあとで消え失せてしまっても、音声や文字は言語としての資格を失いません。これらは言語の成立条件であっても言語の構成部分ではないのです。すると、対象・認識・表現のいずれも「意味」ではなく、それら以外に「意味」を求めなければならなくなります。そこで時枝氏は、この表現を行う主体の活動そのもの、すなわち対象を認識するしかたを「意味作用」とよび、話し手書き手の活動そのものが「意味」であると結論しました。なるほど、対象―→認識―→表現の過程の中で、どこかに「意味」とよばれるような実体がないかとさがしても、それにあたるようなものがないことは事実です。何かの実体を「意味」と考えたこれまでの言語理論がまちがっていることもたしかです。時枝氏が実体を「意味」と考えてはならぬと主張したことは正しかつたのですが、「意味」のありかたを実体から機能にうつしたことはまちがいでした。「意味」は機能としてではなく、関係として考えるべきだったのです。音声や文字は、それらが創造されるまでの過程的構造と、それらの創造されたかたちにおいてむすびついています。この関係そのものは目に見えないために、見のがされてしまったのでした。音声や文字のかたちは、その過程的構造との関係において、すなわち音声や文字は表現形式と表現内容との統一において理解しなければならないと、言語過程説を訂正する必要があります。
 言語道具観が、表現のための社会的な約束の認識を「言語」又は「言語の材料」と考えたのはまちがいです。時枝氏は言語道具観を否定して、個々の具体的な言語以外に言語はないと主張しました。これは正しかつたのです。けれども言語道具観のとりあげた「言語」又は「言語の村料」の正体が何であるかを明らかにすることができず、これを否定したために、言語道具観の支持者を充分に説得することができませんでした。聞き手が、耳にした音声から話し手と同じような概念を思いうかべる事実を、時枝氏も認めます。これが社会的な習慣として成立していることも認めます。しかしその習慣が成立し保持されていることの基礎を、表現上の社会的な約束を認識している点に、すなわち「言語」又は「言語の材料」と解択されている抽象的な認識に求めるのではなく、「本質的には、個人の銘々に、受容的整序の能力が存在する」(同上)からだと、個人的な能力に基礎づけたところに、まちがいがありました。ここに、言語過程説は個人主義的、心理主義的な学説だという非難が浴せられる一つの根拠があったのです。
 時枝氏は言語過程説に基づく日本語の文法体系を提出しました。理論の長所も欠陥も、そこに具体的なかたちをとってあらわれています。これからわたしの説明と、時枝氏のそれとを比較してくださるなら、その長所も欠陥もよく理解していただけると思います。

『日本語はどういう言語か』の「日本語はどう研究されてきたか」の章は、ミリオン・ブックス版でも講談社学術文庫版でも、内容に大きな違いはない。
 三浦つとむは、本日、引用した部分で、時枝誠記の学問を高く評価しながらも、その「言語過程説」は、訂正する必要があると言っている。このあたりは、半世紀前に読んだときも、よくわからなかったが、いま、改めて読んでみても、やはり、よくわからない。というより、三浦の時枝批判を、どこまで信用してよいのかが、よくわからないのである。この問題については、来年も、引き続き、研究課題としたい。

*このブログの人気記事 2020・12・28

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山田孝雄氏の『日本文法論』は注目すべき大著(三浦つとむ)

2020-12-27 05:59:19 | コラムと名言

◎山田孝雄氏の『日本文法論』は注目すべき大著(三浦つとむ)

 ミリオン・ブックス版『日本語はどういう言語か』から、第二部第一章「日本語はどう研究されてきたか」を引用している。本日は、その二回目。
 
   2 明治以後の日本語の研究
 江戸時代までは古典の解釈や和歌の創作に使うという特殊な用途しか持たなかった日本語の研究も、明治維新後においては一般国民の教育のために使われるようになり、学校の教科書として多くの書物がつくられるようになりました。けれどもこれは教科書の著者に対して日本語についての体系的な説明を要求します。それまでの日本語の研究はまだ一定の原理に立った体系化された文法論を自主的に生みだすまでに完成していませんでした。そこである書物は古い研究をそのままうけつぎ、またある書物はヨーロッパのものを模範としてそれを日本語にあてはめて解釈を下し、更には両者を折衷したものをつくりあげる、というような方法をとってこの要求に答えなければなりませんでした。明治三十年、大槻文彦氏は折衷理論の一つの典型である「広日本文典」を世におくり、これが昭和まで教育界の主流としての地位を占めました。昭和に入ってからは、橋本進吉氏の教科書「新文典」が出、またその後に文部省から出た国定の文法教科書はこの流れをくんだものであって、その結果現在の主流は橋本学説になっています。
明治の学界は、新進気鋭の日本語学者を次々と育てました。「広日本文典」とはちがった独自な理論体系がいくつも出されました。それらの中でもっとも注目すべきものは、明治四十一年に山田孝雄氏が公けにした大著「日本文法論」です。この発展として昭和十一年に出た「日本文法学概論」は、日本語を研究する者にとって一度は目を通さなければならない書物の一つでしょう。山田氏は、具体的な日本語のありかたに即してそれを深くほりさげることに努力し、また言語に表現される思想を重く見て、これを心理学、論理学の力を借りて検討しながら体系を組みあげて行っています。江戸時代の日本語の研究を正しくうけつぐ努力は、富士谷成章や本居宣長の考えかたを新しい観点から評価しているところにもうかがわれます。山田氏の全体系を承認することはためらいながらも部分的にはこれを採用する学者が多いことは、この学説の持つ性格を端的に物語るものといえます。
 山田氏がどちらかといえば内容の面を重視したのに対して、橋本氏の学説は外形を重んじこれを基準として規定を行う形式主義的なところに特徴があります。たとえば独立・非独立という外形で詞と辞との分類を行ったり、息の切れ目で文節を分けたりするような方法がとられています。橋本氏の門下である時枝誠記氏は、これらの学説とは異なった独自の言語本質観に立って、これらの偏向を克服しその成果をとりいれるべく努力しました。時枝学説については後にくわしく述べることにします。
心理学者佐久間鼎氏の日本語研究は、現在ひろく読まれている書物の一つに入れることができましょう。佐久間氏は、江戸時代から現在に至る口語の表現をたくさんあつめ、これを表現の行われる具体的な場において検討し、整理し、そこから体系を組立てようとしています。この実証的な態度は大きな強味であり、いくつかの重要な問題をとりあげていると同時に、その方法論の弱さはその整理のしかたを制約しているばかりでなく、これまでの体系と自分のつくりあげた体系とを統一する場合にまちがった方向へすべりこんでしまう結果をも生んでいるようです。
【一行アキ】
 外国の言語学がはじめて翻訳されたのは明治十九年のことでした。昭和に入ってからはその数も多くなり、ヨーロッパ、アメリカ、ソヴエトなど各国のいろいろな学説が紹介されました。それらの中でも、特に昭和三年に出版されたソシュール(Ferdinand de Saussure)の「言語学言論」およびその学派の理論は、日本語の研究に大きな影響を与えています。多くの国語学者が、この理論と同じような説をとなえ、またこの理論に賛意を表しています。しかしこの事実は、国語学者が外国の言語学を無批判的に指導理論として採用したもの、とばかり解釈すべきではありません。たとえソシュールを読まない人でも、認識論的なあやまりがソシユール的な考えかたにみちびき、これがソシュールの学説をうけいれる基盤になることを考えてみなければならないのです。大正年間に神保格氏が論じた「言語観念」や、近くはスターリンが「言語の材料」とよんだものが、ソシュールの「言語」と同じ性格のものであり、言語理論として共通点を持っていたことは、このような理由によるものです。ソシュール理論に対してはすでにイェスペルセン、オグデン≂リチャーズなどの批判があり、日本でも時枝氏が破壊的な批判を加え、佐藤喜代治氏ほか国語学者からの批判にも見るべきものがありますが、その完全な克服とまでは行っていませんでした。一方ソシュール理論を支持する人たちの中にも、国語学者は外 国語について無知であるから言語の本質を理解できないのだときめてかかる傾向もないではないようです。
ソヴエトの言語学は、戦前にマル(N. J. Marr)の理論が紹介され、大島義夫氏、タカクラ・テル氏などがこれを支持しましたが、昭和二十五年スターリンの言語論が出るに及んでこの人たちは支持を棄てスターリン理論の支持者に変りました。マルの理論は言語の本質を論じた部分でも、構造を論じた部分でも、いろいろな独断があって、決して充分なものとはいえませんでしたが、ヨーロッパの言語学を批判しその弱点を指摘した点で多くの聞くべきものを持っていたことも否定できません。スターリンはその論文でマルを批判しましたが、正当な批判ばかりでなくマルの批判を裏がえしした部分などもあって、それを克服したとはいえないものであり、またちがった意味で多くのあやまった主張を提起して、ソ連の学界に大きな泯乱をひきおこしたのでした。
 明治の日本語研究は、ヨーロッバ言語学の刺戟を受けて、江戸時代に扱っていなかったさまざまの分野に研究の手をのばすようになりました。比較言語学としては、日本に近接している諸民族の言語(朝鮮語、アイヌ語、琉球語その他)との比較研究が盛んになり、次に日本語の歴史について多くの資料に基づいた実証的な研究がすすめられて、古代の日本語の語源、語法、音韻、仮名づかいなどがしだいに明らかになってきました。最近安田徳太郎氏が「万葉集の謎」で提出した、日本語の起源をレプチャ語に求める説は、これまでつみかさねられた古代の日本語についての研究の成果を無視していること、言語の表現構造についての無理解を示していることが国語学者から指摘され、学問的な方法からはずれた独断の産物として、きびしい批判を受けています。【以下、次回】

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