礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

断種法の制定は意外に早く実現した(藤本直)

2024-01-31 01:04:04 | コラムと名言

◎断種法の制定は意外に早く実現した(藤本直)

 当ブログでは、六年ほど前、「国民優生法」(昭和十五年法律第百七号)の全文を紹介したことがある(「優生保護法は、国民優生法を引き継いでいる」2018・2・2)。
 昨年になって、「国民優生法」が成立した経緯についてまとめている文章を見つけた。本日以降、その文章を紹介してみたい。
 戦中の1941年(昭和16)3月、岩波書店から、『断種法』〔京城帝国大学法学会叢刊⑸〕という本が刊行された。著者は、藤本直(ただし)である。
 その本の最後に、「附、我が国に於ける国民優生法の成立」という文章が置かれている(356~375ページ)。同法が成立にいたった経緯を、リアルタイムで紹介している、貴重な史料と言えよう。
 著者の藤本直は、この文章の冒頭で、「国民優生法案」を引用している。本日、紹介するのは、その箇所である(356~361ページ)。

附、我が国に於ける国民優生法の成立

 本文に於ける結語の章で、我が国では断種法制定の機運は次第に熟しつつあるが、種々困難な事情もあり、遽か〈ニワカ〉には実現しないだらうと述べて置いたが、意外に早く実現することになり、厚生省の法案が五回目の此の種の法案として去る第七十五議会〔1939・12・26~1940・3・26〕に提出され、修正可決となつて遂に『国民優生』なる名を冠した法律となつて了つたので、なほ之に付き一言せざるを得ない仕宜〈シギ〉となつた。
 法案提出に至るまでの経緯で本文に記さなかつた所のものに付ては此の際記述を省略し、先づ左に法案の全文を示すこととする。此の法第は後に述べるやうに極めて僅かな修正しか受けず、従つて後に行つて出来あがつた法律の文言を態々〈ワザワザ〉別に記す必要はないくらゐのものである。衆議院の議に上程されたのは昭和十五年〔1940〕三月十三日であつた。

 国 民 優 生 法 案

 第一条 本法ハ悪質ナル遺伝性疾患ノ素質ヲ有スル者ノ増加ヲ防遏〈ぼうあつ〉スルト共ニ健全ナル素質ヲ有スル者ノ増加ヲ図リ以テ国民素質ノ向上ヲ期スルコトヲ以テ目的トス
 第二条 本法ニ於テ優生手術ト称スルハ生殖ヲ不能ナラシムル処置ニシテ命令ヲ以テ定ムルモノヲ謂フ
 第三条 左ノ各号ニ該当スル疾患ニ罹レル〈かかれる〉者ハ其ノ子又ハ孫医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞〈おそれ〉特ニ著シキトキハ本法ニ依リ優生手術ヲ受クルコトヲ得〈う〉但シ其ノ者特ニ優秀ナル素質ヲ併セ有スト認メラレルトキハ此ノ限ニ在ラズ
 一 遺伝性精神病
 二 遺伝性精神薄弱
 三 強度且悪質ナル遺伝性病的性格
 四 強度且悪質ナル遺伝性身体疾患
 五 強度ナル遺伝性畸形
 四親等以内ノ血族中ニ前項各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル者ヲ各自有シ又ハ有シタル者ハ相互ニ婚姻シタル場合(届出ヲ為サザルモ事実上婚姻関係ト同様ノ事情ニ在ル者ヲ含ム)ニ於テ将来出生スベキ子医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキ亦第一項ニ同ジ
 第一項各号ノ一ニ該当スル疾患ニ罹レル子ヲ有シ又ハ有シタル者ハ将来出生スベキ子医学的経験上同一ノ疾患ニ罹ル虞特ニ著シキトキハシキトキ亦第一項ニ同ジ
 第四条 前条ノ規定ニ依リ優生手術ヲ受クルコトヲ得ル者ハ優生手術ノ申請ヲ為スコトヲ得此ノ場合ニ於テ本人配偶者(届出ヲ為サザルモ事実上婚姻関係ト同様ノ事情ニ在ル者ヲ含ム以下之ニ同ジ)ヲ有スルトキハ其ノ配偶者ノ同意ヲ、二十五歳ニ達セザルトキ又ハ心神耗弱者ナルトキハ其ノ家ニ在ル父母(婚姻ニ依リ其ノ配偶者ノ家ニ入リタル者ニ在リテハ其ノ配偶者ノ父母トス以下之ニ同ジ)ノ同意ヲ得ルコトヲ要ス
前条ノ規定ニ依リ優生手術ヲ受クルコトヲ得ル者心神喪失者タルトキハ優生手術ノ申請ハ前項ノ規定ニ拘ラズ其ノ家ニ在ル父母之ヲ為スコトヲ得但シ本人配偶者ヲ有スルトキハ其ノ配偶者及其ノ家ニ在ル父母之ヲ為スコトヲ得
 第一項及前項但書ノ場合ニ於テ其ノ配偶者知レザルトキ又ハ其ノ意思ヲ表示スルコト能ハザル〈あたわざる〉トキハ第一項ノ場合ニ在リテハ其ノ家ニ在ル父母ノ同意ヲ以テ配偶者ノ同意ニ代ヘ前項ノ但書ノ場合ニ在リテハ其ノ家ニ在ル父母ノミニテ申請ヲ為スコトヲ得ルモノトス
 前三項ノ規定ニ依リ其ノ家ニ在ル父母ノ同意ヲ要ストセラレ又ハ其ノ其ノ家ニ在ル父母ガ申請ヲ為ス場合ニ於テ父母ノ一方ガ知レザルトキ、死亡シタルトキ、家ヲ去リタルトキ又ハ其ノ意思ヲ表示スルコト能ハザルトキハ後見人ノ、後見人知レザサルトキ、死亡シタルトキ、家ヲ去リタルトキ又ハ其ノ意思ヲ表示スルコト能ハザルトキハ後見人ノ、後見人知レザルトキ、ナキトキ又ハ其ノ意思ヲ表示スルコト能ハザルトキハ戸主ノ、戸主知レザルトキ、未成年者ナルトキ又ハ其ノ意思ヲ表示スルコト能ハザルトキハ親族会ノ同意又ハ申請ヲ以テ父母ノ同意又ハ申請ニ代フルモノトス但シ後見人又ハ親族会ハ第二項ノ規定ニ依ル申請ヲ為スコトヲ得ズ
 第五条 第三条第一項ノ規定ニ依リ優生手術ヲ受クルコトヲ得ル者ニ対シ監護上ノ処置、保健上ノ指導又ハ診療ヲ為シタル精神病院法ニ依ル精神病院(同法第七条ニ依リ代用スル精神病院ヲ含ム)若ハ〈モシクハ〉保健署ノ長又ハ命令ヲ以テ定ムル医師ハ本人ノ同意ヲ得テ優生手術ノ申請ヲスコトヲ得此ノ場合ニ於テ本人配偶者ヲ有スルトキハ其ノ配偶者ノ同意ヲモ、二十五歳ニ達セザルトキ又ハ心神耗弱者ナルトキハ其ノ家ニ在ル父母ノ同意ヲモ得ルコトヲ要ス
 前項ノ規定ニ依リ優生手術ノ申請ヲ為ス場合ニ於テ本人心神喪失者ナルトキハ其ノ家ニ在ル父母ノ同意ヲ以テ本人ノ同意ニ代フルモノトス
 前条第三項及四項ノ規定ハ前二項ノ場合ニ之ヲ準用ス
 第六条 前条ノ規定ニ依リ優生手術ノ申請ヲ為スコトヲ得ル者本人ノ疾患著シク悪質ナルトキ又ハ其ノ配偶者本人ト同一ノ疾患ニ罹レルモノナルトキ等其ノ疾患ノ遺伝ヲ防遏スルコトヲ公益上特ニ必要アリト認ムルトキハ同条ノ規定ニ依ル必要ナル同意ヲ得ルコト能ハザル場合ト雖モ〈いえども〉其ノ理由ヲ附シテ優生手術ノ申請ヲ為スコトヲ得
 第七条 優生手術ノ申請ハ命令ノ定ムル所ニ依リ地方長官ニ之ヲ為スベシ
前項ノ申請ニハ本人ノ健康診断書及遺伝ニ関スル調査書並ニ本人(本人心神喪失者ラルトキハ其ノ家ニ在ル父母トス但シ本人配偶者ヲ有スルトキハ其ノ配偶者及其ノ家ニ在ル父母トス)ガ優生手術ガ生殖ヲ不能ナラシムルモノナルコトヲ了知シタル旨ノ医師の説明書ヲ添付スベシ
 第四条第三項及四項ノ規定ハ前項ノ場合ニ之ヲ準用ス
 第八条 地方長官ハ優生手術ノ申請ヲ受理シタルトキハ優生手術ヲベキヤモノト認ム ルヤ否ヤヲ決定ス
 地方長官前項ノ決定ヲ為サントスルトキハ第四条又ハ第四条ノ規定ニ依リ優生手術ノ申請ヲ為スコトヲ得ル者及優生手術ノ申請ニ付同意ヲ得ルコトヲ要ストセラレタル者ニ之ヲ
通知スベシ
 第九条 前条第三項ノ規定ニ依リ通知ヲ受クベキ者ハ同条ノ決定ニ不服アルトキハ厚生大臣ニ之ヲ申立ツルコトヲ得
 前項ノ申立ハ一定ノ通知ヲ受ケタル後(通知ヲ受ケザル者ニ付テハ決定アリタル後)三十日ヲ経過シタルトキハ之ヲ為スコトヲ得ズ
 厚生大臣宥恕〈ゆうじょ〉スベキ事由アリト認ムルトキハ前項ノ期限経過後ニ於テモ仍〈なお〉之ヲ受埋スルコトヲ得
 第十条 厚生大臣ハ前条ノ申立ヲ受理シタル場合ニ於テ申立ヲ理由ナシト認ムルトキハ之ヲ却下シ申立ヲ理由アリト認ムルトキハ地方長官ノ決定ヲ取消シ且優生手術ヲ行フベキモノト認ムルヤ否ヤヲ決定ス
 厚生大臣前項ノ却下又ハ取消及決定ヲナサントスルトキハ予メ〈あらかじめ〉中央優生審査会ノ意見ヲ徴スベシ
 第八条第三項ノ規定ハ第一項ノ却下並ニ取消及決定ニ之ヲ準用ス
 第十一条 第四条又ハ第五条ノ規定ニ依リ優生手術ノ申請ヲ為スコトヲ得ル者及優生手術ノ申請ニ付同意ヲ得ルコトヲ要ストセラレタル者ハ書面又ハ口頭ヲ以テ中央優生審査会又ハ地方優生審査会ニ対シ事実又ハ意見ヲ申述〈しんじゅつ〉スルコトヲ得
 第十二条 中央優生審査会及地方優生審査会ニ関スル規定ハ勅令ヲ以テ之ヲ定ム
 第十三条 優性手術ヲ行フベキモノト認ムル決定確定シタルトキハ第三条ノ規定ニ依リ優性手術ヲ受クルコトヲ得ル者ハ命令ノ定ムル所ニ依リ優生手術ヲ受クベシ
 優性手術ハ厚生大臣又ハ地方長官ノ命ニ依リ命令ヲ以テ定ムル場所ニ於テ之ヲ行フ
 前項ノ規定ニ依リ優性手術ヲ行ヒタル医師ハ命令ノ定ムル所ニ依リ其ノ経過ヲ地方長官ニ報告スベシ
 第十四条 優性手術ヲ行フベキモノト認ムル決定確定シタル場合ニ於テ本人妊娠中ナルトキハ第四条ノ規定ニ依リ優性手術ノ申請ヲ為スコトヲ得ル者ハ同条ノ規定ニ依リ同意ヲ要ストセラレタル者ノ同意ヲ得テ其ノ決定ヲ為シタル厚生大臣又ハ地方長官ニ対シ妊娠中絶ノ申請ヲ為スコトヲ得
 前項ノ申請ニ基ヅキ厚生大臣又ハ地方長官妊娠中絶ヲ行フベキモノト決定シタルトキハ本人ハ命令ノ定ムル所ニ依リ妊娠中絶ヲ受クベシ
 前項ノ妊娠中絶ハ妊娠三ケ月ヲ超ユルモノナル場合ニ於テハ之ヲ行フコトヲ得ズ
 前条第二項及第三項ノ規定ハ前二項ノ妊娠中絶ニ之ヲ準用ス
 第十五条 優性手術又ハ前条ノ妊娠中絶ニ関スル費用ニ付テハ勅令ノ定ムル所ニ依ル
 第十六条 故ナク生殖ヲ不能ナラシムル手術又ハ放射線照射ハ之ヲ行フコトヲ得ズ
 第十七条 第十三条又ハ第十四条ノ規定ニ依ル場合ヲ除クノ外医師生殖ヲ不能ナラシムル手術若ハ放射線照射又ハ妊娠中絶ヲ行ハントスルトキハ予メ其ノ要否ニ関スル他ノ医師ノ意見ヲ聴取シ且命令ノ定ムル所ニ依リ予メ行政官庁ニ届出ヅベシ但しシ特ニ急施ヲ要スル場合ハ此ノ限ニ在ラズ
 前項ノ届出アリタル場合ニ於テ行政官庁必要アリト認ムルトキハ其ノ指定シタル医師ノ意見ヲ更ニ聴取セシムルコトヲ得
 第一項但書ノ場合ニ於テ届出ヲ為サズシテ生殖ヲ不能ナラシムル手術若ハ放射線照射又ハ妊娠中絶ヲ行ヒタルトキハ命令ノ定ムル所ニ依リ行政官庁ニ届出ヅベシ
 第十八条 第十六条ノ規定ニ違反シ生殖ヲ不能ナラシムル手術又ハ放射線照射ハ之ヲ行ヒタル者ハ一年以下ノ懲役又ハ千円以下ノ罰金ニ処ス因テ〈よりて〉人ヲ死ニ致シタルトキハ三年以下ノ懲役ニ処ス
 第十九条 中央優生審査会及地方優生審査会ノ委員若ハ委員タリシ者又ハ優性手術若ハ第十四条ノ妊娠中絶ニ関スル審査若ハ施行ノ事務ニ従事シタル公務員若ハ公務員タリシ者故ナク其ノ職務上取扱ヒタルコトニ付〈つき〉知得シタル人ノ秘密ヲ漏泄〈ろうせつ〉シタルトキハ六ケ月以下ノ懲役又ハ千円以下ノ罰金ニ処ス
 前項ノ罪ハ告訴ヲ待テ之ヲ論ズ
 第二十条 第十七条第一項又ハ第三項ノ規定ニ違反シ届出ヲ為サズ又ハ虚偽ノ届出ヲ為シタル者ハ百円以下ノ罰金ニ処ス
 【附則】本法施行ノ期日ハ各規定ニ付勅命ヲ以テ之ヲ定ム    
      
 このあと、著者は、この法案について、厚生大臣がおこなった説明を引用する。その紹介は次回。

*このブログの人気記事 2024・1・31(10位の石原莞爾は久しぶり、8・9位に極めて珍しいものが)

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大野説が見直される時期がくるかもしれない

2024-01-30 00:31:08 | コラムと名言

◎大野説が見直される時期がくるかもしれない

 大野晋の「タミル語説」への評価について調べていたところ、ネット上に、長田俊樹さんの〝「日本語=タミル語同系説」を検証する――大野晋『日本語の起源 新版』をめぐって〟(『日本研究』第13号、1996年3月)という論文を見つけた。本日は、この論文の末尾を紹介してみたい。
 長田俊樹(おさだ・としき)さんは言語学者で、総合地球環境学研究所名誉教授。

 以上、言語学にはじまって、自然人類学、考古学、そして民族学のそれぞれの立場から大野説を検討したが、「タミル人渡来説」、あるいは「タミル語伝播説」は完全に否定できたと筆者自身は確信している。ここで強調しておきたいのは、これまでの検証からいえるのはあくまでも「タミル語伝播説」の否定であって、タミル語と日本語との広い意味での比較研究への否定を意味するのではないということである。
 じつは最近、比較言語学ではかなり大きな語族と語族との間の系統関係が新しく提唱されたり、古い説が見直されてきている。たとえば、中国語とオーストロネシア語との系統関係が新たに提唱されたり(46)、オーストロアジア語族とオーストロネシア語族との系統関係を提唱したシュミット神父によるオーストリック語族説の見直しが真剣に論議されるようになったり(47)、これまでの音韻対応だけではなかなか証明できない関係について積極的に取り組む機運が生まれてきている。とくに、オーストロアジア語族とオーストロネシア語族の系統関係は従来の音韻対応による証明ではなく、接中辞などの形態法によって証明を試みるなど(48)、比較言語学にとっても新しい研究法が提唱されているのである。こうした文脈の中で、ドラヴィダ語と日本語との比較研究が押し進められるとすれば非常に大きな意義をもつことはまちがいない。またそうした位置づけで、将来大野説が見直される時期がくるかもしれない。そのためにも日本語とタミル語との比較だけでなく、ドラヴィダ語を視野にいれ、ウラル・アルタイ語族ばかりでなく、シナ・チベット語族から、オーストロネシア語族、そしてオーストロアジア語族にいたるまで、東アジアの言語史全部に目を配りながら、旧版の『日本語の起源』(1957)の網羅的な態度を堅持しつつ御研究を続けられるならば、かならず大野教授の御研究がむくわれる日がくると信じている„

(46) Sagart(1993,1994)を参照。
(47) Shorto(1976),Diffloth(1990,1994),Hayes(1992b)など。
(48) Reid(1994),また土田〔滋〕(1989,1990)も系統関係の指標として接中辞をあげ、リード教授と同様の意見を述べている。

 長田俊樹さんが、この論文を書いた時点で、大野晋の『日本語の形成』(岩波書店、2000)は、刊行されていない。しかし、大野の『日本語の形成』を参照したとしても、「タミル語伝播説」を否定する長田さんの立場に変化はなかったであろう。
 しかし長田さんは、ここで、「将来大野説が見直される時期がくるかもしれない」と述べている。注目すべき発言である。ただし、「東アジアの言語史全部に目を配りながら」、日本語の起源を解明するような研究は、当分、あらわれそうもない。

*このブログの人気記事 2024・1・30(8・9位に極めて珍しいものが入っています)

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タミル人が小舟で日本列島に直行したことはありえない

2024-01-29 01:49:42 | コラムと名言

◎タミル人が小舟で日本列島に直行したことはありえない

 大野晋(すすむ)の『日本語の形成』(岩波書店、2000)を読もうと思い、本年にはいってから、地元の図書館に赴いた。残念ながら、同書は収蔵されていなかった。しかし、それとよく似たタイトルの本を見つけた。崎山理著(さきやま・おさむ)『日本語「形成」論――日本語史における系統と混合』(三省堂、2017)である。
 この本のことも、その著者のことも知らなかったが、ザッと目を通したところ、面白そうだったので借りてきた。著者の崎山理(さきやま・おさむ)氏は、1937年(昭和12)生まれの言語学者で、国立民族学博物館名誉教授。
 同書の第一章「日本語の形成過程と言語接触」の第二節「いくつかの時代錯誤―アイヌ語説、タミル語説など」に、[タミル語説]という項がある。本日は、これを紹介させていただきたい。ただし、紹介は、同項の前半のみ。

 [タミル語説] 1995年頃、かつて有名になったレプチャ語の場合と同じように世間を騒がせた言語がタミル語である。南インドで南部ドラヴィダ語に属するタミル語が成立したのはせいぜい紀元前数世紀以降のことであり(『言大辞』「ドラヴィダ語族」)、タミル人が東南アジア島嶼部にまで進出した痕跡があるのは西暦10世紀以降で、その証拠はフィリピン、インドネシアに残されたタミル語碑文から判明する(Francisco 1973〉。そして、そのような地域におけるタミル語の痕跡はサンスクリット語と比較しつつ考古学的、言語的にも慎重に検討すべき課題となっている(Francisco 1985)。大野晋説の言う、それも歴史時代を遡る2,OOO年前の弥生時代にほかの地域、島々を経由せず日本列島に小舟(?)で直行していたなどという状況は歴史的にも言語的にもあり得ないことである。また大野は日本語を現代タミル語と比較しているが、それ以前に日本列島で日本語が成立していたという自説とは完全に矛盾している。しかも大野は比較言語学で言う再構形を詭弁的に「虚構」とみなし、日本語の方がむしろドラヴィダ祖語の再構成に有力な新資料になると言うが、実際には日本語とタミル語とが同系であることを証明しようとしているのであるから、これは非論理的(論理学でいう「論点の先取り」‛petitio principir')であるという徳永(1981)の指摘には謙虚に耳を傾けるべきであろう。その後も、大野説の現代タミル語と日本語の比較に対しては、タミル祖語から見て数々の矛盾と難点があることが歴史言語学(児玉2002)から指摘され、比較言語学からは同系の証明 の手順と音韻法則の不正確さ(松本克2007)が非難されている。
 大野による日本語のタミル語語源説の一つに、「田んぼ」がある(2011) 。「田んぼ」の田圃は当て字とされるが、奈良時代のタノモ「田能毛=田の面」『万葉集』(14:3523)という複合語に由来することが明らかで、ほかにも、タつかひ「阤豆歌毗=田令」『日本書紀』(欽明17)、タなかみ「多那伽瀰=田上」『日本書紀』(歌謡)のような田の複合語の用例がある。ただし、「田」そのものの語源は明らかでない。なぜ、大野は「田んぼ」をtamb-oのように恣意的に区切るのであろうか。また、語源とされたタミル語もtamp-alのように勝手に区切っているが、これでは二重の誤りを犯していることになる。まず大野が参照していないファブリシウス(J. P. Fabricius)の『タミル語・英語辞典』第4版(Online version. 1972)によれば、tampal(複合語ではない)は「田を鋤くこと、田に水を引き牛に踏ませること(いわゆる踏耕)」の意味のみで、「田」の記載はまったくない。したがって、「鋤く」を基に「田」について言うのは禅問答(例えば、「地を鋤くは如何なる為なるや?」「田にする為なり」)である。さらに大野は、このいわば勝手に区切ったtamp-の末尾子音mpが脱落した形が田であるという解釈を述べている。このような荒技に加え、奈良時代の「田の面」が「田んぼ」のような撥音便になったのは平安時代以降とされるから(橋本進1950:84)、有史以前などというのは甚だしく時代がずれていることになる。
 ここで、タミル語との比較において大野(1995)が喧伝〈ケンデン〉している基礎語彙の概念についても述べておきたい。そもそも基礎語彙という発想には、語彙統計学 (言語年代学)で世界の言語を共通の土台のもとに比べるために、個別の民族文化の影響を受けても変化しにくい中性的な語彙を選択しようという経緯があった。ただし、言語間の親疎を明らかにするために、それぞれの言語が共通に保持している語のパーセンテージを決める基準が研究者ごとに異なることがしばしば起こる(Blust2013:34)。しかも、各地域の民族文化には中立的な基礎語彙などは存在しないというのが言語人類学的立場と言ってもよい。各地域で、それぞれの民族文化から影響を被らない語彙はないと考えられるからである。したがって、タミル語と日本語の基礎語彙の何パーセントが共通しているなどと言っても、それは言語系統論的にはほとんど意味をなさない。【以下、略】

 このように崎山理氏は、大野の「タミル語説」に対して、非常に厳しい評価を下している。
 なお、崎山氏は、大野晋『日本語の形成』に先立ち、1990年(平成2)に、『日本語の形成』という同タイトルの編著書を、三省堂から上梓している。

*このブログの人気記事 2024・1・29(8位の山本有三は久しぶり)

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マザテコ語は動詞の変化をアクセントであらわす

2024-01-28 02:44:40 | コラムと名言

◎マザテコ語は動詞の変化をアクセントであらわす

 金田一春彦『日本語』(岩波新書、1957)から、「日本語のアクセント」の項を紹介している。本日は、その三回目(最後)。文中、太字は、原文のまま。

 メキシコの太平洋岸に住む部族に、高低アクセントを使うマザテコ族というのがある。アメリカの音声学者K・L・パイクの『声調言語』に引かれた例を見ると、彼らの言語は、非常に複雑なアクセントを有する言語で、驚歎にあたいする。たとえば、siteという、ローマ字で書けば同じ音のことばが、アクセントによって動詞の変化をあらわすというのである。
  siを最低から中低へ上げ、teを中高から中低へ下げて言うと、「私は糸をつむぐ」「私は糸をつむぐだろう」の意。
  si を最高で言い、teを中高で言うと、「彼は糸をつむぐ」の意。
  si を最低から中低へ上げ、teを中高で言うと、「彼は糸をつむぐだろう」の意。
  si を最低で言い、teを中高で言うと、「あなたを除くわれわれは糸をつむぐだろう」の意。
 よく、「フランス語四週間」というような本を見ると、巻末にボウ大な「動詞の変化表」というのがついていて、aimerの第一人称の単数の直接法現在はどう、第二人称の複数の接続法過去はどう、というようなことが載っている。マザテコ語では、ああいう変化をアクセントの変化が受持つといった具合である。アクセントの働きが極限まで発揮された例であろう。
 マザテコの土人の言語には、そのような複雑な型の区別があるために、口笛で、ある程度言葉を通じさせることができるという。たとえば、酋長がヒューヒュッヒューとやると、部下のうちの勘のいいのがその上り下りの変化を聞き取り、それ水を飲みたいんだ、と言って水を汲んで来たり、それ今度はパイナップルだ、と言ってパイナップルを運んで来たりするのだという。
 さて、平安期中期ごろ、真言宗の僧侶が編集した辞書に、『類聚名義抄【るいじゆみようぎしよう】』というのがある。この著者は、この辞書に採録した単語に当時の京都のアクセントをコクメイに記載している。そのころ、日本語のアクセントというとちょっとふしぎな気もするが、当時のインテリ階級は、シナ語の四声【スーシヤン】つまり、アクセントの知識をもっていたために、日本語のアクセントについても、ずいぶんしっかりした理解をもっていたらしい。とにかくわれわれはそれを通して当時の日本語のアクセントをかなり正確に知ることができるが、それによると、平安朝中期の日本語のアクセントは、今の日本語よりも型の種類がずっと多かった。そうして今区別のない「紙」と「髪」でも、「倉」と「鞍」でも、当時はちゃんと言い分けられていた。このころのアクセントは今のアクセントよりも語の区別に役立っていたにちがいない。
 以上のように見てくると、現在の日本語のアクセントは、はなはだ能のないアクセントということになりそうだ。が、そう言い切ってよいか。まだ問題がある。
 今の日本語のアクセント――特に東京語などでは、前に言ったように第一拍と第二拍との高さが必ず異る。第一拍が高い単語は、第二拍が低い。第一拍が低い単語は、第二拍が高い。また、高い音が二ヵ所に分かれていることがない。たとえば、高低高低とか高低低高とかいう型はない。このことから、日本語のアクセントは、〈どこからどこまでが一語だというまとまりを与える力をもつ〉ということができる。
たとえば「庭の桜もみんな散ってしまった」というセンテンスがある。アクセントを表記するとこうなる。
  ニワノクラモンナッテマッタ
 ここで、低の拍は、見事に語と語の切れ目を示している。
 これを有坂秀世〈アリサカ・ヒデヨ〉博士の術語を使って述べれば、日本語のアクセントは〈示差的機能〉よりも〈統成的機能〉を大きく発揮する。つまり、日本語のアクセントは二つのことばを区別する働きよりも、一語としてのまとまりを与える働きが大きいのだ。この点日本語のアクセントは、高低アクセントといっても、そのはたらきはむしろ強弱アクセントに近い。こういうアクセントに、日本語のほか、古代ギリシァのアクセントがそうであったことが知られている。が、同類は多くない、注意すべきアクセントである。とにかく、日本語のアクセントは、強弱アクセントに近付きつつあるという人があるが、この意味でならばいつわりではない。

*このブログの人気記事 2024・1・28(9位になぜか田中軍吉、10位の藤村操は久しぶり)

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日本語のアクセントは高低二種類だけ

2024-01-27 00:07:31 | コラムと名言

◎日本語のアクセントは高低二種類だけ

 金田一春彦『日本語』(岩波新書、1957)から、「日本語のアクセント」の項を紹介している。本日は、その二回目。文中、太字は、原文のまま。

 とにかく、日本語のアクセントは高低アクセントである。高低アクセントは前述のように外国の言語にも珍しくない。そういう中で、日本語のアクセントはどういう特色をもっているか。
 第一に、日本語のアクセントは、前節でちょっとふれたように、高低二種類の段から出来ている。
  シガ(箸が)――低低型 
  ハガ(橋が)――低低型
  ハシガ(端が)――低高高
 これは、他の国語に比べて段の数が少いことを意味する。パイクによると、セチュアナ語、 ミクステコ語は高中低の三段からできており、マザテコ語は最高・中高・中低・最低の四段からできているという。日本語は、最小限度の段しかもっていない。
 第二に、日本語で高低の変化はおもに、一つの拍から次の拍に移るところで起こる。たとえば、東京語のシガは、からシへ移るところで声が下り、ハガでは、ハからへ移るところで声が上り、からガへ移るところで声が下る。一つの拍の中で上ったり下ったりすることはない。
 シナ語などでは、たとえば、アルシーアル(二十二)は、三拍の語であるが、アルの中で声が高から低へ下り、シーの中で声が低から高へ上り、終りのアルの中で、声がまた高から低へ下る。グロータース神父が、シナ語は歌っているように聞え、日本語は一本調子に聞えたというのはいかにもそうだったろう。
 第三に、日本語では、高低の配置にかなりの制限がある。例えば、東京語の四拍の語にあるアクセントの形式は、マキリ、アガオ、カラカサ、モノサシの四種類だけである。イギリスの女流音声学者I・C・ウォードによると、西アフリカのイボ(Ibo)語では、三拍の語のアクセントに、次のような種類があるという。
  osisi(棒) uketa(犬) nketa(対話) nnene(鳥) ndede(葡萄酒) udodo(蜘蛛) onoma(みかん) otobo(河馬)
 ここには、高と低との、あらゆる組合せが見出される。これに対して東京語のアクセントは、
 ⑴ 第一拍が高ならば、第二拍はかならず低。第一拍が低ならば、第二拍はかならず高。すなわち、第一拍と第二拍とはいつも高さがちがう。
 ⑵ まんなかの第二拍が低で、第一拍と第三拍が高ということはない。つまり高の拍がはなれて二箇所に存在することはない。
 という制限の中に存在する。
 このようなことから日本語のアクセントでは、型の種類がきわめて少数に限定されるわけだ。そこで、日本語では、〈アクセントによって区別される語はそれほど多くない〉という結果が生ずる。「工業」と「鉱業」、「市立」と「私立」。これらは、アクセントで区別されたらどんなによかろうと思われるが、たいてい同じアクセントをもっており、何という働きのないアクセントよ、とののしりたくなる。三拍の語の中から、ヤマ(小山―地名)、オマ(女形)、オヤマ(霊山)、カシ(岡氏)、オシ(お菓子)、オカシ(お貸し)というような、アクセントで言い分けられる同音語の例を探し出すのは、相当に骨が折れる。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2024・1・27(10位の石原莞爾は久しぶり)

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