礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

読んでいただきたかったコラム10(2024年前半)

2024-06-30 01:06:25 | コラムと名言

◎読んでいただきたかったコラム10(2024年前半)
 
 二〇二四年も、その前半を終えようとしている。
 恒例により、二〇二四年前半(一月~六月)に書いたコラムのうち、読んでいただきたかったコラムを、一〇本、挙げてみたい。おおむね、読んでいただきたい順番に並んでいる。

1) 民間人逮捕の件で極秘の申合せをおこなう  2月26日
  
2) 出征して行った学生諸君にすまない(河村又介) 3月18日

3) 北・西田を反乱首魁と認めるに足る証拠なし  3月7日

4) 「軍民離間」は昭和初期の国家主義運動を捉えるキーワード 6月25日

5) 天皇は国家の元首云々は即ち機関なり(昭和天皇) 4月17日

6) 伴淳、定時制生徒として戦争体験を語る  4月1日 
           
7) 天皇機関説事件と成宮嘉造   4月13日

8) 金浦飛行場の草原で兌換箱を見張る   3月4日

9) 松本市の将棋月報社と雑誌『将棋月報』   1月14日

10) 大野晋さんは思ったことを率直に言う人だった  1月4日
   
次 点 東京憲兵司令官が宇垣一成の車を止めた  2月16日

*このブログの人気記事 2024・6・30(美濃部達吉・阿南惟幾・細江逸記は、いずれも久しぶり)

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北一輝が真崎内閣を待望したのはなぜか

2024-06-29 02:05:02 | コラムと名言

◎北一輝が真崎内閣を待望したのはなぜか

 木下半治『日本国家主義運動史 Ⅱ』第六章「二・二六事件を中心として」第二節「二・二六事件の経緯」のうち、「六 北・西田・真崎」の項の後半部分を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
 文中の傍点は、下線で代用した。なお、同書Ⅱ巻のページ付けは、Ⅰ巻からの通しになっている。

 次いで北は、野中〔四郎〕にも電話で栗原〔安秀〕に対すると「同一の言葉」もって真崎推戴をすすめた。これに対して青年将校は「真崎を立てて一任すると云う事に漸く意見が纏ま」り、その日すなわち二十七日の午後、村中の口から電話で北にこう返事をさせている。――「先程軍事参議官は全部見えませんでしたが、西・真崎・阿部の三大将が見えましたので、吾々一同の一致した意見として、この際真崎大将の出馬を煩して真崎閣下に総べて一任したいと思います。どうぞ軍事参議官閣下も御意見の一致を以て真崎閣下に時局収拾を御一任せらるる様お願い致します。何うそ御決定の上は直ちに、陛下に奉上してその実現を期する様にお願い申します。と申した処、西〔義一〕大将・阿部〔信行〕大将は即時夫れ〈ソレ〉は結構な事だ、君等がそう話が判って自分等に一任して呉れるならば誠に結構な事である。早速帰って皆とも相談して返事を仕様と云う事でありました。そして少し不平の様な語気を以て、真崎閣下は兎に角、君等は兵を引く事が先だと言いました」(北、同上)。この時、真崎は渋い顔をしている。面と向かって真崎推戴をいわれたのでは、にやにやするわけにもいかなかったのであろう。
 真崎推戴に対する軍事参議官の返事は、北の期待にかかわらず、なかった。そして真崎内閣説はふっ飛んだのであったが、このように北が真崎内閣を待望したのはなぜか。――「私は……唯陸軍が上下一致して真崎を奏請する様な事になるであろう事を信じ、青年将校の身の上も夫〈ソレ〉に依って有利に庇護される事(傍点――引用者)を期待して居りました。従って色々の風評の如く、陸軍同志が相撃の様な不祥事も起らない事を信じて比較的心痛なく、午後迄只返事を待って居ました」「要するに、二十八日中は真崎内閣に軍事参議官も意見一致するものと信じ、海軍側の助言も亦有効に結果するものと信じ、随って一任すると云った以上は、出動部隊も兵を引いて、時局が危険状態より免ぬがるるものと許り確信致して時局を経過して居りました」(「聴取書」、第二回)。すなわち北は、真崎ならば青年将校の傀儡となり得るものと確信していたのである。――「……私が直接青年将校に電話をして、真崎に一任せよと云う事を勧告しましたのも、只時局の拡大を防止したいと云う意味の外に、青年将校の上を心配する事が主たる目的で、真崎内閣ならば青年将校をムザムザと犠牲にする様な事もあるまい(傍点――引用者)と考えたからであります。此点は山口・亀川・西田等が真崎内閣説を考えたと云うのと、動機も目的も全然違って居ると存じます」(「聴取書」、第五回、最終回)。
 その西田は、――前述したように――真崎かつぎ出しについて、事件直前に大尉山口〔一太郎〕・亀川哲也等と打ち合わせたことについていう。――「……寄々〈ヨリヨリ〉話し合った結果、結局一日以上も惹起した車態を放任されてはいけない。若い人達の志を生かす様にせねばならぬ。又其為に苦い人達が皆尊敬して居り、且つ相当な判断力・実行力ありと思われる真崎大将・柳川中将の様な人達に依って、何とか収拾して頂ける様に骨を折ろうと云う様な事になったのであります。其結果、山口大尉が公私の関係(山口は本庄繁大将の婿〈ムコ〉である――引用者)を辿って〈タドッテ〉軍の上部に対して努力する。亀川哲也は、真崎大将と、山本英輔〔海軍大将〕とかの方面に努力する。私は小笠原閣下その他の方面に努力をする。と云う事に決めたのであります」と(西田、「聴取書」、第三回)。西田は、前述のように、真崎内閣説を北に報告したが、事件勃発後(二十七日)、青年将校が柳川説を持ち出したことに北が反対したので、栗原に電話し、栗原が「軍事参議官全部と会って希望(柳川内閣説その他――引用者)を出したが、どうも上の方の人人の話が良く分らない」といったのに対し、西田は「事態を速く収拾する為に真崎大将辺りに上下共に万事を一任する様に皆で相談されたら、何うか」といった。すると、栗原は「よく考えて見る」と返事した。次いで、西田は村中を呼び出して、「……前申した真崎大将辺り〈アタリ〉に一任して速く事態を収拾したら何うかと云う事を話しました」。すると、村中は「軍隊側の方の将校の意見は非常に強硬で、なかなか仲間で纏らない」といい、また「上の方との話は皆で相談します」と返事している。西田等の説得を受けた栗原等は、真崎内閣に一致し、翌二十八日、栗原が西田に電話で報告したところによれば、栗原は華族族会館に兵を率いていき、真崎内閣説を唱えたことを述べている。――「自分(栗原)が行ったら、華族の人達が二十人位居ったので、乱暴はしないと云う事を良く云って聞かし、自分達が今度の事件を起した趣旨を説明して聞かし、質問はないかと云ったら、或人が、内閣の首班は誰が良いのか、と聞いたので、吾々は大権の私議はしない、只この事態を真崎大将辺りに収拾して頂き度いと思って居る、と云う風に答えて置いた」。また、この時、栗原は、前述した三軍事参議官との会見の模様を述べて、次のようにいっている。――「軍事参議官の人達と会いました。夫れは全部ではなく、真崎大将・阿部大将・西大将だけが来てくれましたので、自分達としてはこの際事態の収拾を真崎大将に一任しますと申上げましたが、真崎大将は『俺は何共云えないが(傍点――引用者)、お前達は兎に角引揚げて呉れないか』と云う話であった」(西田、「聴取書」、第二回)。
 二・二六事件における北・西田・真崎の関係は右のとおりである。〈409~412ページ〉

「六 北・西田・真崎」の項は、ここまで。明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2024・6・29(8位になぜか瀬島龍三、10位になぜか石川三四郎)

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青年将校側は柳川平助を持ち出した

2024-06-28 02:34:01 | コラムと名言

◎青年将校側は柳川平助を持ち出した

 木下半治『日本国家主義運動史 Ⅱ』第六章「二・二六事件を中心として」第二節「二・二六事件の経緯」のうち、「六 北・西田・真崎」の項の後半部分を紹介している。本日は、その三回目。
 文中の傍点は、下線で代用した。なお、同書Ⅱ巻のページ付けは、Ⅰ巻からの通しになっている。

 この青年将校も、しかし、「……自己の本心はおし隠して、青年将校操り策をとつた者も皆無とは云えない」と嘆いている(九一頁)。すなわち、荒木〔貞夫〕大将が青年将校の圧力で陸相になったり、山下奉文〈トモユキ〉が同じ圧力の下に軍事課長になったりしたのだから、陸軍の「立身出世主義者」が青年将校にニコポルのも無理がないというのである。いわゆる皇道派青年将校に対する大将真崎の煽動が、いかなる意図をもってなされたにせよ、二・二六事件の反乱将校および北〔一輝〕・西田〔税〕等が、真崎内閣を描いていたことは、明らかな事実である。これを北・西田両人の陳述によつてみると、事件直前(二十三、四日頃)西田が北に「蹶起」計画を報告した時、「西田は真崎内閣・柳川〔平助〕陸相と云う様な処が皆も希望して居るし、自分(西田)もそれが良いと思って居ると私(北)に話しました」(北、「聴取書」、第一回、前掲)。「真崎等が出て陸軍の粛正を図り、次いで各方面に亘って昭和維新の第一歩を踏み出すのではないかと云う期待を持ちました(同、第二回)。ただし、北は、最初「荒木・真崎は矢張り一体にならんといけないではないか」と西田に説いたが、西田は「荒木は前の時(陸相の時)に軍内の粛正も出来ず、只言論許り〈バカリ〉で最早や試験済みと云う様に皆は考えて居る様です」といって、荒木を用いるのに反対している(北、「聴取書」、第一回*)。ところがこの肝心の真崎の出馬について、事前了解がなさそうなのである。――「私(北)は西田に向かって『真崎・荒木、その他満井〔佐吉〕大佐・石原〔莞爾〕大佐・小畑(敏)少将・鈴木(貞)大佐等と事前に十分の話合をして無かったのか』と問い質しました。西田は『一人も話してありません』と答えました」(「聴取書」、第二回)。この北は、二十六日、軍事参議官に対して、青年将校が「台湾の柳川(真崎直系――引用者)を以て次の総理とせられる事を希望する」といったことを、翌二十七日に西田から聞いて大いに苦慮している。――「二月二十七日、私は昨日軍事参議官が、青年将校に対し、諸君と一致して、昭和維新に前進仕様と云う申し出に対して、青年将校側が、柳川を持ち出した、と云う事は、考え方に依れば、列座の軍事参議官全部に対する不信任の意思を明白に表示したものとなりますので、之れは年少客気〈カッキ〉の重大なる過失と考え、事変前、真崎説と云う事を西田から聞かされてあったのとも相違しますので、其点許りを苦慮致しまして、朝床の中で眼を醒ましましても、此前後処置を如何にすべきかを考えて許り居りました。次の朝自分(北)は愈々決心を致しまして此侭にして置けば行動隊を見殺にする丈けである、時局を収拾する事が何よりも急務である、随って時局収集を有利に保護するものの内閣(傍点――引用者)でなけれればならぬと考えました」。しかし「気の立って居る人々にこうゆうことは申せませんから」と、西田に栗原(?)を電話口に呼び出させ、北はこういっている。――「やあ暫らく、愈々やりましたね。就ては君等は昨日台湾の柳川を総理に希望していると云う事を軍事参議官の方々に話したそうだが、東京と台湾では余り話が遠すぎるではないか、何事も第一善を求めると云う事はこうゆう場合に考う可きではありません。真崎でもよいではないか。真崎に時局を収拾して貰う事に先ず君等青年(将校)全部の意見を一致させなさい。そうして君等の意見一致として真崎を推薦する事にすれば、即ち陸軍上下一致〈ショウカイッチ〉と云う事になる。君等は軍事参議官の意見一致と同時に、真崎に一任して一切の要求などは致さない事にしなさい……」(「聴取書」、第二回**)
 (*)北は、第四回「聴取書」においても同様のことを述べている。――
「真崎内閣と云う事に対して、私は矢張り真崎・荒木の一体になって行くのが良いではないかと申しましたが、西田は用いる風がありませんでした。西田は真崎内閣を以て自ら時局の収拾をやって行き得る確信を持っている様に私に見えました」。
 (**)同一の陳述が第四回「聴取書」にもある,〈407~409ページ〉【以下、次回】

 最初のほうに、「ニコポル」という言葉が出てくるが、これは「ニコポン」を動詞化したものであろう。「ニコポン」は、ニコっと笑ってポンと肩をたたくこと、つまり、相手を懐柔するために愛想を使うこと。
 小畑(敏)、鈴木(貞)は、それぞれ、小畑敏四郎(おばた・としろう)、鈴木貞一(すずき・ていいち)のことである。

*このブログの人気記事 2024・6・28(8位になぜか中村春二、9位になぜか福沢諭吉)

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「まだ駄目だ、若い者が駄目だ」と真崎は云った

2024-06-27 02:22:33 | コラムと名言

◎「まだ駄目だ、若い者が駄目だ」と真崎は云った

 木下半治『日本国家主義運動史 Ⅱ』第六章「二・二六事件を中心として」第二節「二・二六事件の経緯」のうち、「六 北・西田・真崎」の項の後半部分を紹介している。本日は、その二回目。
 文中の傍点は、下線で代用した。なお、同書Ⅱ巻のページ付けは、Ⅰ巻からの通しになっている。

 陸軍の統制派対皇道派の対立が「山賊同士の分けまえ争い」かどうかは知らぬが、少なくとも、それが「軍閥陣の内乱」であったことは事実である。一般世人からいえば、誰か烏の雌雄を知らんや〔誰知烏之雌雄〕ということになる。二・二六事件において真崎が逮捕投獄されたのは、二十六日早暁(四時半という)、亀川哲也と会っている点にあるらしいが、もちろん、この一事だけで真崎参画説をとるわけにはいくまい。また五・一五事件以来、再度にわたって大将真崎がクー=デターを――時機尚早として――押えてきたことも噓でないであろう。思うに失うべき何ものかをもつ大将ともなれば、いよいよの時には、尻ごみをするものである。しかし青年将校を「蹶起」にまでかりたてたことについては、――前掲、岡田啓介の言によってうかがいしれるように――北・西田以上の精神的・道徳的責任が真崎になかったとは保証できないと思われるのである。これについて、青年将校の一人は、――「……皇道派青年将校と荒木・真崎両大将との関係は如何に。真崎大将はその取調を受け無罪となったが、この両大将と事件との関係は国民の今でも疑っているところであろう。わたくしもこの事については判然たる論断を下すことはできない……」といって疑問を提出している(新井、前掲、七五頁)。しかし、大将真崎は、「……曾ての甘粕〔正彦〕裁判には重要役割を果した由も聞いていた。生徒(陸軍士官学校――引用者)に対する大川周明博士の講演があったのも、たしか真崎大将の校長の時である(ただし大川は後に反真崎派に転じたことは知って置く必要がある)」。五・一五事件の時、「下山中尉と安藤中尉(ともに皇道派青年将校、安藤は二・二六事件の安藤大尉――引用者)の両名は兵営を抜け出て陸軍首脳部と会見し、これを機として国家改造に向うべきを熱心に進言した……その際真崎大将が時機尚早(傍点――引用者)とてこれを慰撫したのであった」。この時の模様を「安藤中尉の室で下山中尉」が直接語ったところによれば、真崎は、『まだ駄目だ。若い者が駄目だ』と云ったとの由。下山中尉の説明によれば、若い者とはわれわれ中尉や少尉ではなく、佐官級の幕僚達を意味する。この言葉を真崎は如何なる意味で云ったか。単なる慰撫の方便としてか、それとも俺はやりたいのだが幕僚が駄目だと云うのか、解釈は二様にとれる。……解釈が二者いずれにとられるにせよ、下山中尉自身も、『官級は革新意識はもっているが年配境遇よりその責任上自ら実行不可能で、国家改造はわれわれ若い連中が引摺って行かねばならない』と考えていた。……この点から推察すると、事を起すにあたり時前(事前)に将官連に話しては駄目だ、話せば必ず中止させられる、と判断していたのは明瞭である。こういう下山中尉の判断がそのまま村中・磯部等に通じているのは云うまでもない。十一月事件後免官になった両名を、真崎大将が気の毒に思い物質的援助もしたであろうことは、人情として、当然予想される。それにしても、二・二六事件勃発前に真崎と打合せがあったか否か。これはなかったと判断するが至当であろう」(新井、前掲、七五〜七六頁)と。〈405~407ページ〉【以下、次回】

「新井、前掲」とあるのは、新井勲『日本を震撼させた四日間』(文藝春秋新社、1949)のことである。同書には、しばしば、「下山中尉」の名前が出てくるが、これは菅波三郎(すがなみ・さぶろう、1904~1985)の仮名である。

*このブログの人気記事 2024・6・27(8・9位になぜか福沢諭吉)

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真崎は民主主義の戦士であるという宣伝が……

2024-06-26 02:54:56 | コラムと名言

◎真崎は民主主義の戦士であるという宣伝が……

 戦前版『日本国家主義運動史』(慶應書房、1939)において木下半治は、真崎甚三郎大将に関して、わずか二行しか言及していない(325ページ)。
 一方、戦後版『日本国家主義運動史』(福村出版、1971)においては、真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)大将について、かなりくわしく論じている。真崎について論じているのは、『日本国家主義運動史 Ⅱ』第六章「二・二六事件を中心として」第二節「二・二六事件の経緯」のうち、「六 北・西田・真崎」の項の後半部分である。
 この後半部分は、かなり長いので(403~413ページ)、何回かに分けて紹介したい。なお、同書Ⅱ巻のページ付けは、Ⅰ巻からの通しになっている。

 二・二六事件との関係において、最も問題となった高級軍人は真崎甚三郎であった。荒木・真崎と並び称されて、長年、皇道派青年将校の人気を集めていた大将真崎は,大将荒木〔貞夫〕の饒舌と非行動性とがようやく青年将校の批判の的となりつつあったのに反して、いぜんとして青年将校の渇仰〈カツゴウ〉の的となっていた。岡田啓介の口を借りれば、「……座敷で若いものが『是非閣下がお出にならなければならない時代です』というと『なにをいうか、お前らはばかなことを考えるんじゃないぞ』とたしなめる。さて連中が、立って玄関までくると、送って出た真崎が肩をたたいて、『いいか、これからの日本はお前ら若いものの世の中なんだよ』と暗示するようなことをいう。若いものはそういわれると、真崎の気持が自分らと同じものだという風にとってしまうのは当然なんだ。……」(『岡田啓介回顧録』、一八二頁)。真崎とはこういう男であった。
 二・二六事件が起こると、当然大将真崎は反乱軍の蔭の指導者と考えられた。相沢〔三郎〕公判に真崎が証人として出廷した翌朝、事が起こったのだから、世間がかれの名を、直接、反乱に結びつけたのに不思議はなかった,事実また事件中、内閣の首班として、しばしばその名が世に伝えられた。事件収拾後、かれは、「反乱幇助罪」として起訴され、刑務所に収容されたが、一年有余にわたる取り調べの結果、事件の翌一九三七年(昭和十二年)九月、「証拠不十分」として釈放された。しかし、世人は、この無罪の決定に対して釈然としないものがあった*
 敗戦後、言論の自由が許されるにしたがって、真崎は二・二六事件には全然無関係であり、同大将の未決勾留は統制派の陰謀であり、真崎はファッショでなく、軍閥と戦った民主主義の戦士であるという驚くべき宣伝が行なわれた。単に真崎と親しい民間人(たとえば岩渕辰雄『軍閥の系譜』、前掲)のみでなく、追放軍人取り締りの衝にあたる責任者にまで、そうした言論が行なわれた、法務総裁在任中の殖田俊吉〈ウエダ・シュンキチ〉「日本バドリオ事件顚末」――『文芸春秋』、一九四九年十二月号)。これに対しては、また、「結局はかれらの(統制派対皇道派等々)派閥運動は、軍閥という山塞〈サンサイ〉においての山賊同士の分けまえ争いに過ぎないような結果を生んだ」と見(山本勝之助、前掲、二七五頁)、「敗戦道後、東條の専横に対し皇道派の真崎・荒木・柳川〔平助〕・小畑〔敏四郎〕の諸将軍が絶えず反対的な態度を持し、抗戦大いにつとめたようなことを書いた文章が氾濫したものであるが、もちろんかれらの永い対立的伝統からして対華派(大体において統制派)に対して反対的な態度をとったことは事実であったが、これらに描かれているように、挺身して反東条的な運動の前衛的役割を果たしたという具体的事実はどこにもない。ただかれは一部の宮廷派や重臣の一部の微温的平和主義者と同じく、周囲の者と反東条的不平を展開していたにとどまる」(同上、三七五~三七六頁)という意見もある。〈403~405ページ〉【以下、次回】

『岡田啓介回顧録』とあるのは、岡田啓介述『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社、1950)、岩渕辰雄『軍閥の系譜』とあるのは、岩渕辰雄著『軍閥の系譜』(中央公論社、1948)、「山本勝之助、前掲」とあるのは、山本勝之助著『日本を亡ぼしたもの』(彰考書院、1949)のことである。

*このブログの人気記事 2024・6・26(8位になぜか国家社会主義、10位になぜか橋本凝胤)

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