礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『現代の国語学』に対する浜田敦の書評(1957)

2020-10-31 01:49:16 | コラムと名言

◎『現代の国語学』に対する浜田敦の書評(1957)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第二十一 現代の国語学」を紹介している。本日は、その三回目。

 ところで、私はいまこの『現代の国語学』に対する、浜田敦〈アツシ〉氏の書かれた書評「時枝誠記博士著『現代の国語学』の書評によせて」(「国語学」第二十九集、昭和三十二年六月)に注目したいと思う。私がここでこの書評を取り上げようとするのは、浜田氏が本書をことこまかに紹介されているからではない。それは余人があまりいえないことを述べておられるからである。さて時枝博士の『国語学原論』がソシュール批判にはじまっているように、この『現代の国語学』もその第一部はソシュールを批判しており、そこで博士が近代言語学が十九世紀以後の自然科学の発展と無関係ではなく、いわば自然科学的言語観の上に立つものであると説いておられるのに対し、浜田氏はまず、
《一体この問題に限らず、博士はものごとを簡単に片づけてしまわれ過ぎはしないかと思われる点が少くない。 例えば時枝博士の「言語過程説」と対立する他のすべての国語学者、言語学者に対し、十把一からげに「言語構成説」のレッテルを貼ろうとされたり、又それを直ぐにソシュールにむすびつけようとされる如き。橋本進吉博士がそうだと云われるのは、まだしも或はそうかも知れないと考える人もあろうけれども、山田孝雄〈ヨシオ〉博士が Saussurianだとは、少くとも山田博士自身は夢にも思いがけられなかったところであるに違いない。》
と述べられる。進んで氏は時枝博士が西洋の言語学文献に関心を持ちつつも、自分自身の頭で日本語について考え、そこから新しい理論を切り開いた学者であることを認めた上で、氏のこの書評はがらりと一変して、
《自分の頭で日本語について考えると云う点において、時枝博士がむしろ典型的な、申し分のない研究者であることは、恐らく皆人の認めるところであろうと思う。しかし、唯それだけでは、視野が狭く、独断におち入る危険が多分にある。事実その様な非難が既に博士に対し放たれているのではないかと思う。そして、その様な非難、 批判に対して、博士が若し耳を蔽われる様なことがあったとすれば、それは既に「頑迷」であり、同時に博士の学説の行きづまりを意味するものでしかないと思う。
 人は誰でも案外自分のしていること、考えていることが、客観的な立場から見て、どの様な位置にあるかと云うことに気づき難いものであるが、しかし、少くとも学問の研究の場合には、困難ではあるけれども、時に考えの転換を行う必要がある。私は、このあたりで、時枝博士が「言語過程説」を一度離れ、自由な見地から、それを見直してみられる必要がある様に思う。自分の考えに自信をもつことは必要であるが、それにあまり執著し過ぎれば頑迷固陋となってしまう。殊に私達の文化科学の世界は、唯一つだけの考え方、立場しか存在を許されないと云う様な窮屈なものではない筈である。私は時枝博士の学説が、丁度私の大学に在学していた昭和十年〔一九三五〕前後の頃から現在までに、国語学界においてはたした役割を、むしろ大きく買おうとするものであるが、それだけに 最近その発展がゆきづまり、むしろ学界から置き去りにされようとする傾向が見られるのではないかと云うことを甚だ悲しむ。そしてその根本的な理由の一つが、あまりにも、「言語過程観」を固執され、他の批判に耳を傾けられようとされないところにあるのではないかと考える。いますこし、考え方に柔軟性がほしいと云う感じがしてならないのである。》
と評されている。読まれるように浜田氏は時枝博士自身視野が狭く独断に落ち入る危険があって、このような非難に対して博士が耳を蔽うと、その時は言語過程説の行きづまりを意味するのではないか。やはり博士も時に頭を切りかえるつもりで一度言語過程説を離れて自由な見地からそれを見なおしてみる必要があり、あまり自信を持ち過ぎこれにとらわれていると学界から置き去りにされるのではないかといわれるのである。が、この書評はそこに学問以外の混りものもなく、決して後味はわるくない。【以下、次回】

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これを国語学の入門書と呼びたい(時枝誠記)

2020-10-30 02:21:18 | コラムと名言

◎これを国語学の入門書と呼びたい(時枝誠記)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第二十一 現代の国語学」を紹介している。本日は、その二回目。

     二
 さてこの『現代の国語学』のはしがきは、次のように書きはじめられる。
《現代の国語学については、嘗て、「国語学史」(昭和十五年、岩波書店刊)の中で、第五期として、その素描を試みたことがある。それとは別に、「国語学原論」(昭和十六年、岩波書店刊)「同続篇」(同三十年、同書店刊)において、私の抱く言語観即ち言語過程説に基づく国語学の別個の体系を組織することを試みて来た。本書は、右の言語過程説の体系を、現代の国語学の中に位置づけるために、第一部において、明治以後の国語学の概観を試み、第二部において、言語過程説に基づく国語学の輪廓を述べようとした。両者は、それぞれ、別個の独立した記述のやうに見られるが、もし、読者が、この両者を合せて、言語過程説の体系が、明治以後の国語学の中で、何故に成立し、どのやうに交渉し、どのやうに位置づけられるかを理解されるならば、それは、正しく著者の本望といふべきである。
 もし、これを、各個別々に見るならば、第一部の「近代言語学と国語学」は、「国語学史」の現代の部の史的叙述を、立体的な鳥瞰図に改め、現代国語学の展望をなすものであり、第二部の「言語過程説に基づく国語学」は、過程説理論への入門的記述として、ともに、国語学の初心者への啓蒙を意図しようとするのである。》
 時枝博士に従うと、この書は最初国語学概論という書名で、言語過程説の理論によって貫く国語学の体系を記述することを計画したようであるが、それよりも自分の理論が正しく理解されるためにはこれを明治以降の国語学全体の中に位置づけて、それとの連関において理解されることが必要であると考えて、書名も現代の国語学と改め、はしがきに述べたようなことを構想したという。しかし、そのとおりにならなかったことをあとがきに、
《本書の執筆を進めて行くうちに、その「はしがき」に示したやうな方針、即ち本書を、現代国語学の総覧として役立たせるやうに、記述するといふことは、大変な仕事であると同時に、そのことに、どれだけの意味があらうかといふ疑ひの気持ちが起きて来た。最初の方針を実現するには、なほ多くの問題と、学者とその研究業績とに触れなければならないのであるが、それは、短時日で成就出来るとも考へられず、多くの重要事項を省略してしまつたので、入門書として見れば、極めて不完全なものが出来上つてしまった。しかし、その目的のためならば、今日、「日本文学大辞典」(新潮社刊)や「国語学辞典」(東京堂刊)等が、その要望を、十分に満たして呉れるであらう。
 最初の方針にも拘はらず、私が、ひそかに意図したものは、それとは、全然、別のものであったやうである。そのことを、稿を進めて行くうちに、次第に自覚するやうになつて、筆は、自ら、その方向を変へて行つた。その方向の一つは、本書によつて、現代の国語学を概説する場合の、一つの方式を試みてみたいといふことであつた。そのためには、一つの学問の体系としての現代の国語学を、それを成立させてゐると考へられる諸要素に分析することである。このことは、学史的に迎ることによつても記述することが出来るのであるが、もつと体系的に、国語学の全機構を解体してみることが必要であると感じた。
 次に、考へられたことは、現代の国語学を、冷酷なまでに、そのぎりぎりの線に追ひつめ、その成立の根源をつきとめようとすることである。このやうな仕事は、今までに、誰かによつて、既に試みられてゐなければならない答のことであつたのであるが、それが、なされなかつたのは、今までの国語学の体系が、一つの至上命令のやうに、殆ど疑はれることなく、過ぎて来たためである。もし、読者が、現代の国語学に踏み入つて、そこに、突き破ることも、乗り越えることも出来ない壁を見出し、慄然たる感を抱くであらう時には、恐らく、第二部の言語過程説の理論は、それらの人々に、一つの突破口としての役を果すであらう。第二部は、いはば、現代の国語学から脱出しようとする、私のあがきの記録ででもあるのである。
 結局、本書は、最初の方針に反して、読者を、知識の世界よりも、思索の世界へ誘ひ込む書になつてしまつたのである。しかし、私は、これをも、敢へて国語学の入門書と呼びたいのである。》
というふうに述べている。もはや明らかなように時枝博士は日本人がどのように日本語というものを考えたか、日本人に日本語というものがどのように意識されて来たかをさぐる『国語学史』(昭和十五年)から出発して、鎌倉時代以来連綿として継承され、江戸時代に至って学者の手によって大成された言語学説を体系化して、言語過程説を唱え国語学界に大きな波紋を投げかけた。これは言語の本質を言語主体の表現、理解の行為であるとするもので、『国語学原論』(昭和十六年)にはその成立と展開とがまとめられている。この時枝博士の学説はヨーロッパの言語学説との真剣な対決を通じて築かれたものであったので、よく私たちの言語の本質の深奥に触れえたのである。【以下、次回】

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時枝が自身の業績全体をまとめた『現代の国語学』

2020-10-29 03:34:41 | コラムと名言

◎時枝が自身の業績全体をまとめた『現代の国語学』

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)の紹介を続ける。
 本日以降は、「第二十一 現代の国語学」を紹介してみたい。

  第二十一 現 代 の 国 語 学

     一
 私は本書で時枝誠記博士が東京大学に大正の末〔一九二四〕に、「日本ニ於ル言語観念ノ発達及言語研究ノ目的ト其ノ方法(明治以前)」という卒業論文を提出され、それ以来四十年を越える博士の多彩な活躍について詳細に述べて来た。ただその場合時枝博士の業績を言語本質論とか文法・文章論とか言語生活論とかいったふうに分けてそれについて論じていくことをしないで、おおよそそれが発表された年代順に述べていく方法をとった。それはたとえば『池田亀鑑選集』は昭和四十三年〔一九六八〕に全五冊が刊行されたが、古典文学研究の基礎と方法、物語文学ⅠⅡ、日記・和歌文学、随筆文学というふうにジャンル別に再構成している。そういえば『吉川幸次郎全集』も昭和四十三年から全二十冊(最近刊行されている決定版は全二十八冊である)が刊行されたが、中国通説篇上下、先秦篇、論語・孔子篇上下、漢篇、三国六朝篇、 唐篇ⅠⅡⅢⅣ、杜甫篇、宋篇、元篇上下・明篇、清・現代篇、日本篇上下、外国篇、雑篇・詩篇というふうにジャンル別というか、時代別に再構成してあるのである。しかし、私は池田博士の著者論文も吉川博士の著者論文もやはり発表されていった順に読んで来たので、このような選集、全集を読んでもいま一つ明確に池田亀鑑像、吉川幸次郎像が浮かんで来ない。したがって、時枝博士のこの場合もそうした区別をしそれに即して述べていたのでは、時枝誠記像が生き生きと再現できないと考えたからである。
 そこでここでは時枝博士が自分自身の業績全体を見渡してまとめたような著述『現代の国語学』について考察してみようと思う。この書は昭和三十一年〔一九五六〕十二月に有精堂から刊行されたもので、その構成は、はしがき、第一部近代言語学と国語学、第一章総説、第二章近代ヨーロッパ言語学の性格と国語学の課題、第三章国語の歴史的研究、第四章文法研究、第五章方言問題と方言の調査研究、方言区画論と方言周圏論、第六章国語問題と国語学、第二部言語過程説に基づく国語学、第一章総説、第二章言語成立の外部的条件と言語の過程的構造、第三章伝達、第四章言語生活の実態、第五章言語の機能、第六章国語の歴史、あとがき、索引というふうになっている。時枝博士がこの書の構想について考えられるようになったのは、昭和二十七年〔一九五二〕の秋頃とおぼしい。【以下、次回】

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文学は言語そのものである(時枝誠記)

2020-10-28 00:23:35 | コラムと名言

◎文学は言語そのものである(時枝誠記)

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十七 言語の機能」のところを紹介している。本日は、その五回目(最後)。

     三
 さきに時枝誠記博士が「文学研究における言語学派の立場とその方法」という論文で、文学は言語そのものであり文学と言語との間には一線を画することができないとされた。さらにこのことは言語の機能の上からもいえるとして、論を実用的機能を持つ言語が文学でありその実用性を無視しては鑑賞性も正当に把握できないというふうに進められたために、この論文は国文学者に非難を浴びることになった。中でも日本文芸学の岡崎義恵〈ヨシエ〉博士は「文芸学的見地から観た万葉美」(「万葉集大成」第二十巻、美論篇、昭和三十年八月)という論文を書かれ、時枝博士のそれを文芸学を言語学の中に解消するものとして反論した。岡崎博士はこの論文で万葉集開巻第一の雄略天皇の歌をはじめ多くの万葉歌を例にとって論じ返し、時枝博士が言語学的立場の限界を遥かに超えているとして、言語学をもって文芸学を征服することを夢見ているのであろうかと非難された。私は岡崎博士のこの論文を机上に置き、これにどう反駁すべきかを考えていられるそのような時枝博士の姿が目に浮かぶ。しかし、この論文をいいすぎとしたのは岡崎博士だけでは なく、かつての京城大学での上司であった高木市之助博士も同じであった。高木博士は「国語学と国文学」(『国語教育のための国語講座』第八巻、文学教育、昭和三十三年十一月)という論文を書かれ、時枝国語学の説く言語と文学の関係に目を向けた。そこで高木博士は言語と文学との関係を確かにしようとして、たとえば万葉集の中から巻六〈マキノロク〉の「み吉野の象山〈キサヤマ〉のまの木末〈コヌレ〉にはここだも騒く鳥の声かも」の歌、巻四の「夕闇は道たづたづし月待ちていませ我が背子〈セコ〉その間にも見む」の歌をあげられる。この二首に対して時枝博士は前者の山部赤人〈ヤマベノアカヒト〉の歌を眺める文学といい、後者の大宅女〈オオヤケメ〉の歌を呼びかける文学といって、これらの文学はその鑑賞的また実用的機能において言語に連続することを証するのであるが、高木博士はいまかりに日常語で前者は「鳥が鳴いている」後者は「月が出てからお帰りください」があたるとして、時枝博士が説くように万葉歌人が「み吉野の……」「夕闇は……」と歌ったのと、ただの日常語の「鳥が鳴いている」「月が出てからお帰りください」というのとでははたして本質的に相違がないかどうかと問われる。高木博士は赤人の歌は文学として誰にでも通用するが、「鳥が鳴いている」という日常語は通用しない。赤人の歌と「鳥が鳴いている」という日常語の間には断絶があるからであると述べる。また大宅女の歌も眺める文学でなく呼びかける文学であるから、特定の男性に向かってよまれた歌ではあっても誰でもこの歌から呼びかけられる資格はあるのであって、この歌も文学として誰にでも通用するが、「月が出てからお帰りください」という日常語は通用しそうにもない。やはり大宅女の歌と「月が出てからお帰りください」の間の断絶が考えられなくてはならないと述べられる。
 要するに時枝博士は言語過程観によって文学は言語そのものであるということから言語と文学は連続性があると説いた。この考え方からするとたとえば建築物において芸術的なものと日常的なものとの間に一線を画することがむずかしいように、言語の場合でも文学的なものと日常的なものとの間にそれを分かつ線を引くことは不可能であり、文学の鑑賞も実用性を生かすようなし方をしなければならないから、言語と文学は連続性があるのだとなる。が、高木博士はこのように述べてこれは成り立たないとされ、言語と文学の断絶性を説かれたのであった。ここではいくら逞しい言語過程説でも文学と噛み合わせるのは無理だと微笑を浮かべておられる高木博士の姿が目に映るのである。

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時枝誠記のいう言語の共感的機能とは

2020-10-27 01:37:15 | コラムと名言

◎時枝誠記のいう言語の共感的機能とは

 根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十七 言語の機能」のところを紹介している。本日は、その四回目。

 続いて中教出版株式会社から出ている時枝博士の高等学校の国語教科書を見ていくと、『国語総合編高等学校二』(昭和三十一年)に単元言葉の研究として「言語の機能」という文章を書いておられる。さきの中学校のそれの「言語の機能」という文章の三つの機能は言語生活からただちに進んで言語の機能を述べたのであるが、これは角度をかえて話し言葉、書き言葉の機能を説きそこから言語が生活に対してどのような機能を持つかを説いていられる。時枝博士は言語は人間の表現、理解の行為であり、その中に音声を媒材とするものと文字を媒材とするものとの二つの区別を考え、音声を媒材とするものが話し言葉といわれるものであり、文字を媒材とするものが書き言葉といわれるものであるとされて、音声を媒材とする話し言葉は話す行為としての話し言葉と聞く行為としての話し言葉に、文字を媒材とする書き言葉は書く行為としての書き言葉と読む行為としての書き言葉に分けられる。それをわかりやすい表にすると、

【表、略】

というょうになるが、その上で博士は話し言葉と書き言葉の機能上の相違を述べ、次に話し言葉と書き言葉の表現技術の特質を考え、話し言葉と書き言葉とにはその下にどういう形態があるかを説き、言語の機能に及ばれる。次に引くのは博士の「言語の機能」という文章の全体ではなく、おわり近いその生活に対する言語の機能の項である。
《以上、私は、主として「話し言葉」と「書き言葉」の機能上の相違を明らかにしてきたのであるが、これをひっくるめて、言語が、生活に対してどのような機能を持っているかを見ると、大体これを三つに分けることができる。すなわち、
 一、実用的(手段的)機能
 二、社交的機能 
 三、鑑賞的機能
 言語の根本的機能は、第一の実用的(手段的)機能である。およそ一切の言語表現は、常になんらかの他の生活の手段として成立するものである。市場での会話は、食料品を求めるためであって、それは食生活の手段として表現される。掲示や広告が実用的であり、手段的であることは、だれでも認めることができることであるが、いわゆる文学の範疇【はんちゆう】に入れられている小説・詩歌のごときものをとってみても、それが読者に新しい自然観、人生観、社会観を植え付けるものであるとするならば、それはすでに実用的(手段的)機能を持ったものと見なければならない。その点、文学が芸術であるといわれる時と、絵画や彫刻が芸術であるといわれる時とは、よほど異なると見なければならないのである。偉大な文学は、ただそれが鑑賞されるだけにとどまらず、あすの生活のための精神的な糧【かて】となるものであるところに、大きな意義があるのである。
 社交的機能というのは、言語によって、会話の当事者の感情が融和されるような場合をいうのである。音楽についてみても、音楽会で演奏される音楽は、聴衆の前に、鑑賞の対象として与えられるのであるが、宴会場や葬儀場で演奏される音楽は、鑑賞の対象ではなくて、それによって、参会者の気分を楽しませ、あるいは、故人を追憶させるためのものである。われわれの日々のあいさつは、それが、ある生活の手段となるよりも、それによって、相互の気分をあたためることに意義があるのである。このように見てくると、われわれの日々の会話には、それによって知識を交換したり、他の生活の手段にするということと何の関係もない、全く社交的な意味において交換される会話が、いかに多いかを知るのである。吉凶の際の祝辞、弔辞のごときにも、多分にそのような機能があるのである。言語のこのような機能も、社会生活を営む上に、きわめて大切なことである。
 次に、鑑賞的機能というのは、表現そのものが、われわれに快不快の感情を刺激するような場合の機能である。すべて言語表現は、表現それ自体は手段的のものであるから、その機能が逹成されるならば、表現そのものは、もはや問題がなくなるのである。しかしながら、われわれは、言語をその実用的手段的機能において行為しながら、なおそれと同時に、その手段である言語行為それ自体の美醜、快不快を問題にすることが多い。それはあたかも、目的地に到着するためには、汽車を利用しようが飛行機に乗ろうが、ともかくも目的地に着けばよいはずであるが、同時にわれわれは途中の旅行の快適であることを選ぶようなものである。たとえば、人の話を聞いていても、その発音が明晰であり、抑揚が適切であるならば、ちょうどよく修理の行き届いた軌道の上を走る汽車に乗ったと同じような快適な気持を味わうことができる。言語は、音楽と違って、ただ音声が美しいというだけでは、その機能が果されないので、個々の音声が集まって、一定の意味が喚起される必要がある。もし、音声の流れが、われわれに何の抵抗も感じさせることなく、思想を喚起するならば、いっそう、われわれはそこに快感を味わうことができるのである。「話し言葉」でも「書き言葉」でも、それが聞くに値し、読むに堪えるということは、それらの表現が、鑑賞的機能を持っているからである。しかし、一般には、言語の鑑賞的機能は、実用的機能の陰に隠れて、特に関心の対象にならない場合が多い。鑑賞的機能が増大してくる時、われわれは、そこに文学を意識するようになる。》
 このように説いて、時枝博士は言語表現はそれぞれその機能が違うから、表現者はその機能が十分に発揮されるように表現を工夫することが大切なこととなり、それが話し言葉、書き言葉の種々な形態を成り立たせることにもなると結ばれるのである。
 ところで、時枝博士が言語の機能を説かれるのはただ中学校や高等学校の国語教科書だけではない。この時代の博士の著書、たとえば『国語学原論続篇』(昭和三十年)の第二篇各論第二章言語の機能にも、さらにまた『現代の国語学』(昭和三十一年)の第二部言語過程説に基づく国語学第五章言語の機能にも、言語をその機能的関係においてとらえるということは自分の言語過程説の重要な思想であるとして、くわしく説いていられるのである。ただ『現代の国語学』のそれで興味深いのは他がすべて言語の諸機能として三機能をあげているのに対して、この書だけが実用的、共感的、社交的、鑑賞的諸機能の四機能を説いていることである。ではその共感的機能とはどういう機能をいうのであろうか。次に博士の述べられるのを写してみる。
《二の共感的機能といふのは、聞手を同調者の立場に置かうとする表現で、多くの「話し」が、このやうな目的で語られる。これらは、相手を説得するのでもなく、相手を行動に駆り立てるのでもなく、話手が、自分の経験を語ることによつて、相手を同じ感情(喜び、悲しみ、恐怖等)に誘ひ込めばよいのである。未経験者である聞手に、同じやうな感情を起こさせるには、そのやうな感情の原因となつた素材的事物を、聞手に再生させる必要がある。素材の描写、誇張といふやうなことが、表現の技術として考へられる。このやうな機能は、言語における素材の表現によつて達成されるので、文学的作品の中にも、このやうな機能を目ざしたものが、少からずある。或は、文学作品の重要な機能といへるかも知れない。これが時枝博士のいう共感的機能である。【以下、次回】

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