◎溝口健二「映画監督の生活と教養」(1940)
一昨日、神保町の古書展で、大日本映画協会編『映画演出学読本』(大日本映画協会、一九四〇)という本を入手した。全十一課から構成され、それぞれ、当時の映画界を代表するメンバーによって執筆されているが、冒頭の第一課「映画監督の生活と教養」を執筆しているのは、何と、溝口健二監督である。
溝口健二の文章というものを、これまで読んだことがなかったが、非常に興味深い内容だった。ウィキペディアの「溝口健二」の項を読むと、豊富なエピソードが紹介されている。そのことはよいのだが、本人が語った映画論、映画演出論について、まったく触れていないのはどうしたことか。
ともかく、本日は、溝口の「映画監督の生活と教養」という文章の一部を紹介しよう。
この文章は、「1」から「8」までに区切られ、全三〇ページ。本日、紹介するのは、「5」の後半部分である。
今日日本の映画が技術的には相当発達してゐるにもかかはらず、ヨオロツパで作られる映画と比較する時、日蔭の花の如くおびただしく生彩を欠き、内容空疎な感じを人に与へるのは、その創作過程に於ける、演出家の日常的な生活態度の反映だとみるより他に仕方がない。たとへこのことはひとり演出家一人の責任に帰せらるべき問題ではないとしても、映画の創作過程に於て、常にイニシヤチイブを持つ演出家が、映画の最後の価値を決定する役目を担ふ以上止むを得ないことではないだらうか。
成る程、技術的には大した遜色はなくとも、設備その他の点では未だ日本の映画界の方が諸外国のそれより甚だしく劣つてゐることは事実であらう。だが盛んなる創作意慾といふものは、或る程度はさうしたものを克服してみせるものでもあるし、十分の用意を以てする時はその不自由も或る程度迄不自由を感じさせないことになり得るものなのだ。
同じ技術程度で、同じ製作設備の中で、何人かの演出家がほぼ同様なスタツフで仕事をしてゐ乍ら〔イナガラ〕、演出家の持つ技倆に従つて作品の出来、不出来が出来て来るのも、云はば僕達の仕事をしてゐる撮影所の持つ制約を、それぞれの演出家が如何に巧みに自己に合理的に処理し乍ら製作の仕事を運ぶかにかかることが甚だ多い。
それだとすると日本映画が内容的に高められないと云ふことは何も撮影所の設備の問題に帰せらるべきではなく、より以上演出家の技倆に懸けられる問題でなければならない、と云ふことになる。
演出家の映画に於て占める地位だとか仕事の範囲に就いては、他の筆者が述べることになつてゐるので、ここでは述べることを差控へるが、演出家が映画の最後の使命〔死命〕を制する、映画の芸術的価値の評価に当つては当面の責任を負ふ一番重要なパートを担ふ、その担ひ手であるといふことだけは是非共強調しておかねばならない。
【クイズ】「キ」ではじまる難読語・『百家説林 索引』より
1 桔梗 □□□□
2 菊合 □□□□□
3 象 □□
4 象潟 □□□□
5 階 □□□□
6 王余魚 □□□
7 煙管 □□□
8 蓋 □□□□
9 甲乙 □□□□□□□
10 求肥 □□□□