礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

明日からソ連は日本と交戦関係に入る(モロトフ)

2024-07-31 00:46:21 | コラムと名言

◎明日からソ連は日本と交戦関係に入る(モロトフ)

 昨年の9月24日、「憲法改正問題と近衛文麿国務相」と題して、松本重治(聞き手・國弘正雄)の『昭和史への一証言』(毎日新聞社、1986)の一部を紹介した。そのとき紹介したのは、第八章「敗戦とマッカーサーの日本」の「幣原内閣と憲法改正」の節(全文)であった。
 本日以降、再度、同書を紹介してみたい。紹介するのは第七章「太平洋戦争時代の暗い日々」のうち、「拒否された近衛訪ソ」と「ポツダム宣言を受諾」の両節、および第八章「敗戦とマッカーサーの日本」のうち、「米ソ対立の中の占領政策」の節である。
 松本重治(1899~1989)は、昭和期のジャーナリスト、國弘正雄(1930~2014)は、同時通訳で知られる翻訳家。

   拒否された近衛訪ソ

 ―― 一九四三年一一月に、ルーズベルト、チャーチル、蒋介石がカイロで会談して日本の無条件降伏などを求めるカイロ宣言(注1)を出し、さらに四五年二月にはルーズペルト・チャーチル、スターリンがヤルタで会談、最後の抵抗をつづける日本にとどめをさすべく連合国側の協力体制は着々と固められています。こうした動きをにらんで、鈴木〔貫太郎〕内閣で外相に復帰した東郷(茂徳)氏はソ連に照準を合わせて遅まきながら終戦工作を始めるわけですね。
 松本 鈴木内閣がまず手がけたのは、ソ連に対する働きかけでした。ソ連のモロトフ〔外相〕は小磯内閣の総辞職した四月五日、日本はソ連と戦争しているドイツを授助し、また、ソ連の同盟国であるアメリカ、イギリスと戦争しているから日ソ中立条約を存続できなくなったといって、翌年四月に期限が切れる日ソ中立条約は延長しない意向であると通告してきました。三月末ごろから、ドイツと戦っていたソ連軍部隊が東へ移動を始めたこともあり、ここで、ソ連が連合国陣営に加わって日本に戦争を仕掛けると、日本は息の根を止められてしまいます。陸軍参謀本部、海軍軍令部からソ連の参戦を阻止してほしい、と頼まれた東郷は、軍部の要望を利用して、ソ連を仲介にアメリカ、イギリスとの和平にもっていこうと考えるのです。
 太平洋戦争が始まってから日本とソ連との関係はどうなっていたか、といいますと、独ソ戦でドイツの旗色が悪くなった一九四二年秋から四三年夏にかけて、日本はドイツを救うためにソ連との調停をする機会をさがしますが、そのチャンスを失しています。その後も日ソ関係の改善を一応は考えるのですが、その代償にソ連に何を提供するかで躊躇して、なんの手も打たないうちに、アメリカが積極的にソ連に働きかけ、テヘランおよびヤルタで米英ソ三巨頭会談をひらいて、自分の陣営に引き入れてしまいました。手遅れであることははっきりしています。一九四四年の革命記念日には、スターリンは日本をドイツと同列に置いて侵略者と非難しています。
 ―― 欧州大戦の初期、対独戦で苦境に立ちながら、ソ連がかろうじて持ちこたえた一つの理由は、日本が対ソ中立を守ったため対独戦に専念できたということがあったでしょうね。しかし、いまや立場は逆転しました。それに、日ソ中立条約締結のわずか三ヵ月後に、日本が対ソ武力発動の準備にとりかかったことは、ソ連は百も承知だったでしょうし、 いまさら日本が恩義をふりかざすのも妙なものでしたろう。
 松本 五月に入って、最高戦争指導会議で対ソ問題が討議され、ソ連を仲介役に頼み、アメリカ、イギリスとの和平を運ぶ方針がきまったのです。ソ連は戦後、アメリカと対抗するためには日本をあまり弱体化することは好まないだろうから、無条件降伏ではなく、日本にかなり有利な条件で和平を実現できるのはソ連の仲介をおいてはない、という陸相の阿南(惟幾)らの意見が強かったからです。鈴木も、スターリンの人柄は西郷隆盛と似たところがあるので、悪いようにはしないと思う、といったということです。東郷の秘書官をしていた加瀬俊一から、こういういきさつを私は聞きました。
 こういう方向で、ソ連通で知られていた元首相の広田(弘毅)をかつぎ出して、ソ連の駐日大使マリクと箱根の強羅〈ゴウラ〉で会見するのですが、日本側が相互支持・不可侵に関する協定を提案したのに対し、マリクはモスクワに伝えると答えただけで、その後、病気と称して会見に応じませんでした。そのうち、米英ソ三国巨頭がポツダムで会談をすることが伝えられ、これ以上、ぐずぐずしていられない、と近衛さんが特使としてモスクワに行くことになったのです。
 ―― 近衛さんがモスクワ行きを決意されたとき、先生は同道してもらいたい、と依頼を受けられたのでしたね。そのとき、先生は臥せっておられたのですか。
 松本 あのとき、私はだいぶ元気になっていたが、なお静養を統けるため軽井沢に行っていました。近衛さんから「会いたい」という電話がかかってきました。「用事があるなら、私が行きますよ」といいましたが、「いや、頼むことがあるから、こちらから行く」という。あなたの家は警察が知っているから大丈夫、ということで、警察の車に乗ってこられました。「天皇さまに頼まれたから今度、モスクワに行って和平工作をやってくる。ロシア側が受け入れるかどうかわからないけれども、行くよりしようがない。君もいっしょに行ってくれないか」といわれた。
 昼の一一時ごろ来られ、一時間ぐらいおられて、自分が行くとなれば、こういうことを考えているのだ、と私にいろいろ話されました。行く前には、内閣や最高戦争指導会議で和平の条件を決めるだろう。いくら、そういうところで条件を決めても、自分としては、みんなハイハイと聞いておく。それを全部、行く途中で破り捨ててしまう。自分が和平のために頼むことはただ天皇制の護持だ――と。
 ―― あとは全部、自分の責任において破る、そういうことをいわれたのですね。
 松本 そうです。近衛さんはそういう点では、なかなか思い切りがいいのです。近衛さんは、大局をつかみ、重要なことだけをおさえておいてほかのものは捨てるということをする人でした。
 ―― ぜひモスクワにいっしょに行ってほしい、と要請されたとき、先生はどう答えられたのですか。
 松本 行きましょう、と私は答えました。モスクワに行っても、和平工作をソ連だけを相手にしてやってもだめなので、イギリスにも働きかけなければならない。ちょうど私が上海で仲がよかったイギリス大使のクラーク・カーがモスクワのイギリス大使になっていました。カーに会って、イギリスにわたりをつけるのが私の任務だったのです。カーを通じてイギリスを動かすということは、近衛さん自身が考えたのです。
 ―― そのときの先生の健康状態はどうだったのですか。モスクワ行きにたえるほど回復しておられましたか。
 松本 鎌倉で療養していた間、ずっと私をみてくれたのは武見太郎さんでした。その意味で武見さんは私の生命の恩人なのですが、武見さんに相談すると、モスクワに行くだけは行けるだろうけれど、あとは倒れて寝ることになるかもしれない、といっていました。
 ―― 先生としては、カー大使とは古い親友でもある、イギリスのほうがアメリカに比べれば、少しはものわかりがいいだろうということで、近衛さんのモスクワ行きに随行される決心をされました。しかしその話があったとき、すでにポツダムで米英ソ三巨頭会談がひらかれようとしています。
 松本 そうなのです。トルーマン、チャーチル、スターリンは七月一七日から八月二日までポツダムで会談していますが、スターリンははじめの予定より二日遅れてポツダムに行きました。それを、こちらでは日本の提案を検討しているため出発を遅らせた、と思いこんでいました。希望的観測というか、おぼれる者ワラをもつかむという心理になっていたのでしょうか。スターリンのポツダム出発が遅れたのは、日本の申し出とは何も関係がなかったのです。
 東京からモスクワの佐藤尚武〈ナオタケ〉大使に近衛さんをモスクワに派遣したいから査証、入国の手続きをとれという訓電が打たれ、佐藤はモロトフに会いたいと申し入れましたが、ソ連の極東課長はポツダム会議への出発前だから会えないという。日本からの申し出はポツダムに連絡するという回答があつただけで、しかも、その返事もなかなかきませんでした。
 やっと返事が来ましたが、その返事は、来てください、というかわりに、近衛さんがソ連に来る意味がよくわからないから、どういう使命で来るのか具体的に聞きたい、というのです。日本側の条件をはっきり通告してほしい、といわれても条件が日本側ではまとまらないのだ、と近衛さんがなげいていました。近衛さんとしては、条件なんかいえない、行ってから話をするという腹があったのですが、向こうはそういう腹芸なんてわからない……(笑)。結局、日本からモスクワに、無条件降伏では戦争を終結できない、他の方法で戦争を収拾したい、という意味のことを通告したのです。スターリンはそのことをトルーマンとチャーチルに伝えましたが、それでは駄目だ、と日本を相手にしないことになったのです。
 ポツダム宣言は七月二六日出されました。ポツダムからスターリンとモロトフがか帰ってきたのです。佐藤大使がソ連外務省にモロトフと早く会見させてほしい、とさいそくし、やっと佐藤がモロトフと会ったのが八月七日です。そのとき、モロトフから「明日からソ連は日本と交戦関係に入る」と意外な通告を受けたのです。〈160~163ページ〉

※昨30日の午前8時半ごろ、クマゼミの声を聞いた。午前9時ごろ、ツクツクボウシの声を聞いた。午後6時前、ヒグラシの声を聞いた。いずれも、今年初めて聞く声であった。

*このブログの人気記事 2024・7・31(8位の福沢諭吉は久しぶり、9・10位に極めて珍しいものが)

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自分らが支那でやって来たことを思い……

2024-07-30 00:26:52 | コラムと名言

◎自分らが支那でやって来たことを思い……

 大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)を紹介している。本日は、八月十九日と二十日の日記を紹介する。表記は、文春文庫版のとおり。

 八月十九日 炎暑
 英霊に捧げるの原稿を書き上げ夕方より週刊不死鳥にかかる。木原岸来たりビールを飲む。東條の甥が焼打に参加し二重橋前で割腹したと云う話と東條に切腹をすすめ肯かれぬので死んだという話、いや義弟がそうしたという話、東條は満洲に行っているという話など東條伝説またもや賑やかである。死なせるのは惜しい、竹槍で突かせろと云う者さえある。露軍が新京や京城に入ったという。関東軍は心配ほどもなく苦もなく後退したのである。出井の家でケンちゃんが孝子をなぐったとかで揉めている。穏やかに計らえと忠告してやる。
〔横領賀鎮守府は冷静に「開城」の準備。海軍工廠で作業しているので何かと思うと鍋釜を作って工員に配布しているそうである。しかし部隊は威張り返って戦争準備中。〕

 八月二十日 晴 暑気続く
 週刊の続きを書く。あと二回の約束なれど時局柄面倒臭く、この回で打切ることにしどうにかまとめて了う。暑い日である。吉野君の話で材木座あたりでは米軍が小さい子供を軍用犬の餌にするとて恐怖している母親が多いという。無智と云うのではなくやり切れぬことである。敵占領軍の残虐性については軍人から出ている話が多い。自分らが支那でやって来たことを思い周章しているわけである。日本がこれで亡びないのが不思議である。土佐沖と沖縄で敵艦隊へ突込んだ件がニミッツを怒らせ、上陸は早かろうと木原君が東京から聞いて来る。停戦命令の出たあとに卑怯な行動なのである。しかしやった奴は忠義でやったと思っている。悲しいことである。指揮者は少将だと云う。国民がその為に苦しむことになる。
 今日出海の書生の話に、逗子あたり重機〔重機関銃〕をかついでよろよろした水兵が戦争はこれからだぞと町を呼号して通る由。沢寿郎の談では佐助あたりでは一戸に十人宿泊していた部隊が二十人ぐらいとなりさかんに気焰をあげているという。集団的に生活していることで狂乱の調子を合せるよりほかはないらしい。応召の者を帰し若い者だけらし。宇都宮あたりは兵に毛布や米をやりどんどん帰国させているそうである。松本から帰った木下利玄の息子の話では、大詔を聞き部隊長はにこにこしすぐに解散の手続を取ったと。農民は叛軍のビラを見ても馬鹿にしている。千葉県だけが連日午前三時に起され壕を掘りに出たことで、百姓たちがこれを無駄にするのかと怒って猛り立っているそうである。出井の騒動の続きよし子来たり泊る。

 明日は、話題を変える。

*このブログの人気記事 2024・7・30(10位になぜか三島由紀夫)

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日本人のどこに美しく優れたところがあったのか

2024-07-29 00:42:29 | コラムと名言

◎日本人のどこに美しく優れたところがあったのか

 大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)を紹介している。本日は、八月十七日と十八日の日記を紹介する。このあと、二十日までの日記を紹介する予定である。表記は、文春文庫版のとおり。

 八月十七日
 毎日新聞高松君来たる。小説の件、直江山城と考え承諾。飛行機がビラを撒いて行くのが見える(抗戦の)。少年「楠木正成」を書き上げる。夜門田君、阪田の源さんにビール二本トミモルト一本を持たせ来たる。酔う。磯子〈イソゴ〉あたり水兵が酔って夜半にドラム鑵を叩き、これから戦争だ市民は逃げろと叫び廻る由。なお県で婦女子逃げた方がいいと触【ふれ】したのが誇大につたわり敵の上陸が今明日の如く感ぜられ駅に避難民殺到すと。あさましき姿なり。横浜では警官の持場を捨てて逃亡続出すと。役人からこの姿なのだから国民がうろたえ騒ぐのは当然である。日本人のどこに美しく優れたところがあったのか。絶望的である。味方特攻機土佐沖マリアナの敵艦に突込みしと。停戦命令後の卑怯な闇討である。

 八月十八日
 敵機来たり高射砲戦時よりさかんに鳴る。午後山田兼次来たる。八時島木健作〈シマキ・ケンサク〉の通夜。雀草【すずめぎさ】虎の尾などの花持ち月光を踏んで行く。朝比奈宗源〈アサヒナ・ソウゲン〉の読経。ビールのむ。宗源、国民を敵襲にさらし自分たちは穴へ隠れる工夫のみしていて何が皇軍かと激しく語る。上森は御大詔をそのままに受取っていられぬと云う。しかしこれは上陸を許すにしろ日本の骨っぽいところを見せてからの方がいいと云う中途半端な過激論である。永井君、満洲の日本人は鴨緑江〈オウリョクコウ〉近くまでさがり古海が新京へ残ったと語る。京城日報は蘇軍に接収せられ、共産派の朝鮮人が入って来て指導していると。政治犯人は既に択放せられた由。
(英霊に捧ぐを二枚半書きしのみ。)

 十八日の日記に、島木健作の名前が出てくる。作家の島木健作(1903~1945)は、8月17日に肺結核で死去。18日に通夜。通夜で読経した朝比奈宗源(1891~1979)は、当時、円覚寺管主。当ブログでは、2020年1月2日および3日、朝比奈宗源が敗戦直後に書いた文章を紹介したことがある。
 同日の日記の末尾にある「英霊に捧ぐ」というのは、たぶん、1945年8月21日の朝日新聞に掲載された「英霊に詫びる」のことであろう(当ブログ、本年7月1日の記事で紹介済み)。

*このブログの人気記事 2024・7・29(10位の飯坂温泉は久しぶり、8・9位に極めて珍しいものが)

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東條など何をしているのか(大佛次郎)

2024-07-28 00:33:29 | コラムと名言

◎東條など何をしているのか(大佛次郎)

 大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)を紹介している。本日は、八月十六日の日記の後半部分を紹介する。このあと、二十日までの日記を紹介する予定である。表記は、文春文庫版のとおり。

○鶴見の在〈ザイ〉で茄子〈ナス〉一個十銭、茅ヶ崎でトウナス〔かぼちゃ〕の小さいのが五円、大きいのだと二十円と云う。
○原子爆弾の効力を朝刊がくわしく書き立てている。先の赤塚〔一雄〕参謀の視察報告とは正反対である。やはりウランで六粁〈キロメートル〉平方が破壊せられ、白熱した火の柱が天に沖する〈チュウスル〉と外国の電報。参謀は国民を詐【あざむ】いたのである。
○驚いてよいことは軍人が一番作戦の失敗について責任を感ぜず、不臣の罪を知らざるが如く見えることである。軍隊の組織と云うのが責任の帰するところを暖昧にしているその本来の性質に依るものであろう。戦争に敗けたのは自分たちのせいだということは誰れも考えない。悲憤慷概して自分はまだ闘う気でいるだけのことである。電車の中で見たところでも軍人は悄然としているのと、反って人をへい睨しているのと二色あるそうである。阿南陸相の自刃は詰腹で、少壮に強要せられたのだという説が行われている。逸【はや】まった最期が無責任のように見えるのも同じ軍人的性格であろう。不臣の罪を自覚し死を以て謝罪すべきものは数知れぬわけだがその連中はただ沈黙している。東條など何をしているのかと思う。レイテ、ルソン、硫黄島、沖縄の失策を現地軍の玉砕で申訳が立つように考えているのなら死者に申訳ない話である。人間中最も卑怯なのが彼らなの だ。
○金鵄〈キンシ〉十三円、光一個十八円が普通の相場だそうである。豆腐や篠崎の話、一日三十円稼ぐのには闇で買った米を五合喰って了う〈シマウ〉、煙草なんてそんな値で買えない。○現在の専売局の煙草には大分前から紫陽花〈アジサイ〉の葉が入っていると出所確かな話。
○伊江島〈イエジマ〉には休戦協定に行くのは梅津と豊田だそうである。そこから敵機でマニラに赴く。
○敵は既に攻撃中止命令を下した。今朝高射砲が鳴ったのは命令が行きとどかなかったせいであろう。
○防空壕の中に封じ入れてあった林さんの衣類ぼろぼろとなる。東京ではもう埴を埋めているところありと。(田島談)

「先の赤塚参謀の視察報告」とは、8月10日の朝日新聞に載った「新型爆弾怖るるに足らず」という談話を指す。大佛次郎は、八月十日の日記で、この談話に言及している。
「金鵄」、「光」は、ともにタバコの銘柄。「金鵄」は、1940年(昭和15)に「ゴールデンバット」から改称されたものである。
「休戦協定」とは、敗戦直後の8月19日、20日の両日、マニラでおこなわれた降伏協定のことである。降伏軍使の全権は、河辺虎四郎(かわべ・とらしろう)中将。降伏軍使一行は、木更津飛行場から伊江島飛行場まで、白色の機体に緑の十字をつけた陸軍機(緑十字機)で飛行した。なお、この一行には、梅津美治郎、豊田副武は加わっていない(豊田貞次郎も加わっていない)。

*このブログの人気記事 2024・6・28(9・10位は、ともに久しぶり、8位に極めて珍しいものが)

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真実は新聞にもラジオにも現れず(1945・8・16)

2024-07-27 00:50:37 | コラムと名言

◎真実は新聞にもラジオにも現れず(1945・8・16)

 大佛次郎『終戦日記』(文春文庫、2007)を紹介している。本日は、八月十六日の日記を紹介する。この日記は長いので、二回に分けて紹介する。表記は、文春文庫版のとおり。

 八月十六日
 晴。依然敵数機入り来たり高射砲鳴る。小川真吉が小林秀雄と前後し訪ね来たる。昨日の渋谷駅などプラットフォームの人が新聞をひらいてしんとせしものなりしと。小林も涙が出て困ったと話す。意外のことに啞然とせしは全般だったようである。篠崎が来て材木座に海軍機が来て海軍航空隊司令の名で大詔は重臣の強要せしものにて海軍航空隊は降服せずあくまでたたかう旨のビラを撒きしと。東京市内はひっそりしていると云うが不穏のもの動きいるなり。午後、朝日伴、田島来たる。社では一堂に会し大詔を聞き泣く者多かりしと。朝日は玄関の大戸を閉めているそうである。亀田氏が東京の帰りに寄り、鈴木〔貫太郎〕首相の家が憲兵に焼かれたと伝える。なお参謀本部で割腹する者続出すと云う由なれど真相は知り難し。朝鮮人の乱暴食料奪取の危機などに人は怯えいるらし。夜おそく村田来たり医者が診察に来ての話に、米軍は明日あたり上陸(それも鎌倉に)するらしく女子供を避難させる要ありと話して帰りたるがと意見を問われる。工場に来ている巡査もデマがとめどもなく飛び処置なしと語りし由。岸君来たり木戸内相と平沼〔騏一郎〕の居宅軍人に放火せられ、近衛の〔森赳〕師団長は参謀に斬られた旨知らせてくれる。〔後記 射殺。参謀本部付の佐官級の者が近衛師団を動かし宮城を抑えんとせしにて、殺害後偽の師団命令を発し計画どおりに出でたるも、田中〔静壱〕大将に鎮撫せられ首謀者数名は自殺す。〕鈴木貫太郎の家の話は聞いていないと云う。亀田氏は会社に来ている者が見て来た話だと云うのである。人心の動揺している様がわかる。市中は平静、靖国神社の前に立ちて泣きいる学徒が多いと云う。悲痛のことである。依然として真実は新聞にもラジオにも現れず、東京で撒かれしビラには軍隊を失いて天皇の大権なしとし、重臣の攻撃と特攻機はなおあり原子爆弾はさして効果ないと云う条項を書きつらねしものもありしと。これは海軍以外から出たものらしい。ビラはともに紙質粗悪で乱暴に書いたガリ版だそうである。別に千葉の部隊が不穏と云う話もある。どれも多少は真実であろう。ショックの為昂奮しているのだ。つたゑ母子、卵を持ち来たる。戦車が連続して通る為にバス動かず三時間立って待ったと。どの方角へ行ったと聞くと逗子〈ズシ〉の方へ出て行くのだったと。また海軍機工学校の校長が室を閉じて姿を見せず自殺したものと中将少将などの偉い人が泣いていたと話す。各地とも冷静さを失っているのである。しかし一般は反戦的な底流がまぎらし切れぬ。現実の問題として軍の戦力を最早国民は信用していない。事があったとしても小暴動で、続くわけがない。ただ外地、特に支那大陸の状況が危まれる。しかしこれは現地補給の方針だった食料が続かぬ状態にあるので何が出来ようか。南方のことは全く不明。鈴木内閣の辞職に次ぎ東久邇宮〈ヒガシクニノミヤ〉に大命降下と三時放送、岸君の話では緒方〔竹虎〕氏が翰長【かんちよう】、事実上は緒方内閣ならんと。緒方氏は近来非常に積極的な気風になっており、宮はまたミョウヒン(繆斌)事件来乗り出す希望を持っておられたと云う。ラジオはこの際妄動して世界に信義を失ってはならぬと毎時繰返している。大宮あたりの工場は行員の解雇を初めたと云う。国民義勇隊を陣地構築に動員することも廃止、女子学徒の徴用もやめ、朝日新聞では女たちのやめたい者をやめさせる方針だと。男子行員も帰りたがっている。作業は停止されている。田島宅へ来た少年工員は電熱器が欲しければ幾らでも持って来てあげます(工場から)どうせ米軍が来たら取られるのだからと話していたそうである。徴用解除には社長の承認と警視庁の許可が要るのだがその手続も無視されている。東京でも横浜でも米の特配があった。これも米軍に渡る前に分散し各戸に保有させるのだと云う説。【以下、次回】

 文中、木戸内相とあるのは原文のまま。当時、木戸幸一は、内相(内務大臣)ではなく、内府(内大臣)である。

*このブログの人気記事 2024・7・27(10位になぜか警察庁長官狙撃事件)

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