◎『恐怖の報酬』と映画の醍醐味(青木茂雄氏の映画評論・その二)
前回の続きである。幻の雑誌『ことがら』第六号に載った青木茂雄氏の映画評論(『恐怖の報酬』論が中心)の後半部分を引用する。
映画づくりの達人クルーゾは、伏線を巧みに張りめぐらして恐怖感を観客自身のものとしてしまう。いくつかそれを再現してみると
一、ごく少量のニトロを机の上にたらしただけでポッと炎をあげて燃える。(観客はそのこわさをここで実感する。)
二、ニトロの詰まっているドラムかんをトラックにいっぱいに積みこむ。少しの揺れでも爆発をおこしかねない。緊張の連続である。ピーター・ヴァン・アィクふんするビンバはその積み荷作業を見ながら恐怖のあまり手に時っていたウィスキーグラスを落とす。(この場面で観客の感情移入が成立する。このあとスクリーンとともに恐怖が進行する。)
三、二台のトラックでゆっくりと出発するが途中細い山道で車をUターンさせる。がけにつき出た木組みの足場に車のうしろ半分だけ移動させる。その足場は最初はがんじょうのように見える。(にもかかわらず、観客は気をまわしていったいこの足場は大丈夫なのだろうかと不安がる。この不安を手玉にとるかのように、クルーゾ監督は次の場面で観客を恐怖の底におとしいれる。一台目は無事だったが、二台目のトラックが足場に後輪をのせた瞬間、木組みはボロボロと崩れだす。(まだ映画は半分も進行していないから、ここは何とかきり抜けられることはわかっていながら、でもなおかつこわい。)
四、先行のトラックが路上の大きな石のために先へ進めない。(ここで観客は考える。どうしたらこの石をとりのぞけるか。ウン、ニトロで爆破するのもひとつの手だな、などと考えていると、スクリーンではまさしくこの思惑通りに事が進行する。)
五、いくつかの難関を通りこしてホッとひと息つく。ビンバが運転席で、カミソリをほほにあててひげをそっている。彼は「ナチの鉱山で働かされていたとぎにくらべればこんなことはものの数ではない」と豪語する。(カミソリから観客は不吉なものを予感する)とうしろの車にのっていたジョーが巻いていた紙巻のタバコがフッと飛ぶ。ビンバののっていた車がついに爆発したのだ。(実にあっけない。)
長々と書いてきたが、要するにクルーゾはこの映画のなかで、観客に次々と予想をさせているのであり、その予想にたいしてもっとも適確な答えをスクリーンのうえで展開してみせているのである。観客が次々に予想をするようになることは、いわば観客の心がしだいしだいにスクリーンに展開されていることがらに凝集されていくことである。予想をくりかえしているうちに、カメラを通した製作者の眼がしだいしだいに観客の眼と同致してゆく。観客の身体の動きが静止するのとあい反して、心の動きはしだいしだいに活発になる。眼はかがやき、呼吸も深く大きくなる。映画の醍醐味はここに尽きると言ってよい。【以下略】
映画の魅力、映画の醍醐味を知り尽くした映画通の一文という感がある。
雑誌『ことがら』は、第八号で終刊したが、同号には、青木茂雄氏の映画評論は載っていない。青木氏の映画評論が載ったのは、第五号から第七号までの都合三号であった。もしも、『ことがら』が部数を伸ばし、号数を伸ばしていたとしたら、おそらく青木氏も、映画評論、作品論を書き続けたことであろう。『ことがら』が、わずか八号で終刊してしまったのは、その意味でも残念なことである。
今日の名言 2012・7・31
◎なぜ田中氏なのか、他の候補者はいなかったのか
本日の東京新聞社説より。原子力規制委員会の委員長候補として、田中俊一氏の名前があがっているが、東京新聞はこれを、「ムラ人事」として批判している。