◎日本の悩みは、これからさき幾年続くか判らない
先日、五反田の古書展で、『日本週報』の「第四十八―五十号」(一九四七年三月二三日)を購入した。一冊で、「第四十八―五十号」である。つまり、第四八号、第四九号、第五〇号の合併号ということらしい。古書価は、たしか、二〇〇円だった。
帰ってきて、読もうとして驚いた。綴じられていないばかりか、ページも切れていなかった。A3の紙六枚が、四折りにされ、それが重ねられている状態だった。正確に言うと、表紙(一ページ)から八ページまでと四一ページから裏表紙(四八ページ)までの計十六ページ分を両面に印刷したA3の紙二枚を四折りにしたもの、九ページから一六ページまでと三三ページから四〇ページまでの計十六ページ分を両面に印刷したA3の紙二枚を四折りにしたもの、一七ページから三二ページまでの十六ページ分を両面に印刷したA3の紙二枚を四折りにしたもの、都合六枚の紙が、折られて重ねられているだけの冊子だった。
秋の夜長に、そうした冊子のページを開きながら読むというのも、なかなか趣があった。本日は、同冊子から、岩淵辰雄の「続 敗るゝ日まで 一」を紹介してみたい。
続 敗るゝ日まで 一
――一国共産主義と軍との合作――
岩 淵 辰 雄
〇敗戦は有史以来の大変革
日本を破滅に導いたところの、今次の大戦争、それは昭和十二年(一九三七)七月七日に始まる支那事変から、昭和二十年八月十五日、日本の無条件降服に終つた太平洋戦争まで、実に八ケ年の長期に亘つたものであるが、もし、これにこの戦争のそもそもの発端を為したところの昭和六年(一九三一年)九月十八日に勃発した満洲事変を加えるならば、更に六ケ年を加えなければならぬ。これを通計して実に十四ケ年の長きに及ぶものである。
ヨー口ッパや、支那では十年、二十年、或いは三十年に亘つた戦争は、決して、珍しくない。しかし、日本では十一ケ年の長きに亘つたものは応仁の乱以外にない。
更に、戦後における国民の困苦、これからの再建、過去の伝統と意識からの脱皮、反省という、終戦を機会として現に日本の国内で進行しつゝある、革命的な事態を考察の中〈ウチ〉に加えると、日本の悩みは、これからさき幾年続くか判らない。
応仁の乱は十一年の長きに亘つた。が、その実体は京都を中心とする、足利幕府を繞る権臣の政権争奪戦であつた。
期間の長きに比較しては、規模は小さかつたが、幕府を中心とする権臣の政権争奪という、事変そのものゝ本質が齎らした〈モタラシタ〉ところの国内の秩序の紊乱〈ビンラン〉、綱紀の頽廃、道徳の衰微は、やがて、日本全国に元亀、天正の戦国時代を現出した。日本の歴史において、革命とか、維新とかいう言葉で記憶されている時代を求めると、一応、大化の改新と明治維新を数えるのを常識としているが、徹底的に過去の伝統と秩序を無視し、これを蹂躙〈ジュウリン〉した事実からいうと、大化の改新も、明治維新も、到底、応仁の乱以後の元亀、天正の戦国時代の転変に比すべくもないのである。
皇室はあれども、殆どなきに等しく、皇居は京童べ〈キョウワランベ〉の遊び場と化し、天皇は辛うじて室町幕府の一室に食客の儚ない〈ハカナイ〉日を送られるという、悲惨とも、何ともいいようのない御境涯に在らせられた。堂上の公卿は近衛、九条、一条等の五摂家〈ゴセッケ〉を初めとして、何れも流離して四散した。伊勢の宗廟は、皇室からのお賄が絶えたので、祭祀の資に窮して、全国に講を作つて寄捨〔ママ〕を求めざるを得なかつた。平安朝以来、地方から蜂起した武家時代の大々名は、次ぎ次ぎに家臣の為に権力を奪われ、家を乗つ取られて、没落して行った。家柄も、家系もない一介の斯波〈シバ〉家の代官の子から成り上つた信長が、中原に乗り出して覇を称するかと思うと、尾張中村の百姓の子である秀吉が天下を統一して、桶屋の小僧から成り上つた福島市松が、左右衛門大夫〔ママ〕正則となって芸州広島で六十万石の大大名になるという始末で、氏〈ウジ〉も素性も、この一期〈イチゴ〉を境にして一変してしまつた。
飛鳥川、淵瀬〈フチセ〉と変るどころの騒ぎではなかつたのである。
今度の新憲法で、貴族院というものはなくなり、華族というものも廃止されたが、しかし、これらの貴族、華族と称するものも、実は、応仁の乱以後、元亀、天正の革命期は腕一本、足一本の働きで成り上つたものゝ子孫である。もつとも中には堂上の公卿〈クギョウ〉として、大化の改新以来の家柄である藤原氏の一族があつたともいえるけれど、内容的に見ると一千余年の歴史は、その内容を疑問の多い変色に包むで〈ツツンデ〉いる。
こうして、今や、敗戦後の日本は、かつて日本の歴史が経験した、応仁の乱から以後の元亀、天正の変革にも等しい、一大変革の途上に晒されているということが出来る。過去の日本を葬り去つて、新たな日本への発程に上つている。が、それはいうべくして、実行は容易ならざる苦難の道である。
〇未だに実相を知らぬ国民
われわれ日本人は、戦争中の二十年に近い苦難に加うるに、更に、戦後の新しい日本への脱皮の為の苦難の道程に立つて、これからさき幾年、恐らく、十年、二十年、或はそれ以上の長きに亘つて、かつて、われわれの祖先が元亀、天正の時代に経験した以上の悩みを悩み抜かなければならぬ運命におかれている。
われわれが、その試練に耐え得るや、否や、これが日本人に与えられている現在の課題である。
ところで、こういふ重大な運命を日本に招来し、誘導したところの戦争は、どうして起つたのであろうか、ということになると、日本の何人〈ナンピト〉も、未だ、その真相を真剣に究明しようとする努力をしていない。
アメリカ軍の日本占領によつて、概略の事実は連合軍の手によつて調査され、東京裁判では、連合軍の検事団によつて、あらゆる証拠が提出されて、戦時中の日本の秘密が次ぎ次ぎに明るみに出されているが、日本側の弁護人は、逆に、日本の戦争時代の行為を合理化しようと努力している。
それは弁護士という職責上、職務に忠実な行き方かも知れないが、しかし、過去の日本を合理化することが、真実の事実の上に立つて立証されていることならば、それは大に証拠立てられることが至当であるが、もし、それが、たゞ、弁護の為の弁護であつたなら、日本の過去に対する反省を歪曲し、正しい認識を曖昧にし、将来に対する日本人の起ち上りを誤らすものになるであろうことを怖れざるを得ないのである。寧ろ、われわれ日本人は、この一大変革の関頭〔わかれめ〕に立つて、日本人自ら過去の誤りを訂正し、反省し、振りすてるべきで、決して、その為に怯懦〈キョウダ〉であつてはならないと思う。
これまで、多くの日本人の戦争に対する考え方は、内外の情勢の必然的な推移によつて発展したものだとする結論に傾いていたようである。しかし、果して、そうであろうか。筆者は断じて、否、であると考える。【以下、次回】
*このブログの人気記事 2016・10・27