礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『岩波文庫解説目録』と『岩波文庫分類目録』

2013-07-31 09:25:21 | 日記

◎『岩波文庫解説目録』と『岩波文庫分類目録』

 岩波文庫には、かれこれ半世紀以上、お世話になっている。最初に買った岩波文庫は、『方丈記』で、定価は四〇円だったと記憶する(★ひとつ)。
 一九六七年は、岩波文庫の創刊四〇周年にあたっており、それを記念する『岩波文庫解説目録』が出た。たしか表紙には、「創刊40周年記念」(?)という朱文字があり、巻末には、「品切書目一覧」が付いていた。
 これを入手してからしばらくは、古本屋の棚で、岩波文庫の「品切書目」を探すのが趣味になった。ちなみに、この創刊四〇周年の『岩波文庫解説目録』には、巻末には、「品切書目一覧」が付されていないバージョンもあったようだ。
 その後も、『岩波文庫解説目録』は、何度も入手し、お世話になった。しかし、この『岩波文庫解説目録』とは別に、『岩波文庫分類目録』というものがあることは、昨日まで気づかなかった。岩波文庫とお付きあいを始めてから半世紀、昨日、神保町で、その『岩波文庫分類目録』なるものに遭遇した。
 本文二四ページ、表紙を含めると二八ページの貧弱な小冊子である。
 表紙には右書きで、「昭和十四年十二月現在/岩波文庫/分類目録/岩波書店」とある。表紙見返しには、岩波茂雄署名の「読書子に寄す」があり、これに(1)というページが振られている。
 そのあとが二ページから二二ページまでが本文で、最初に「既刊書目」とあって、冒頭には、次の二冊。
明治天皇御集 全  宮内省蔵版 ★★
昭憲皇太后御集 全 宮内省蔵版 ★★
 以下、「国文学」、「日本思潮」、「現代文学」、「東洋思想・文学」、「仏教」、「古代文学」、「英・米文学」、「独・墺文学」、「仏・白文学」、「露西亜文学」、「歴史」、「音楽・美術」、「哲学・教育・宗教」、「自然科学」、「法律・政治」、「経済・社会」という分類にしたがって、既刊一〇六六冊の書名等が列挙されている。
 二三ページは、「岩波文庫に就て」。定価についての説明(★ひとつ二〇銭)や、注文に関する説明がある。
 二四・二五ページは、「岩波文庫最新刊書」のリスト。
 二五ページ(表紙ウラ見返し)には、岩波全書・岩波新書についての紹介がある。
 なお、二三ページには、「解説目録/昭和十四年版(定価送料共六銭)御申越頂けば早速お送り申上げます。」とある。『岩波文庫分類目録』とともに、『岩波文庫解説目録』も発行されていたことがわかる。

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過激派にして保守派の西部邁氏にとっての伝統とは

2013-07-30 04:16:29 | 日記

◎過激派にして保守派の西部邁氏にとっての伝統とは

 西部邁氏は、その著書『破壊主義者の群れ』(PHP研究所、一九九六)の二〇五ページで、次のように述べている。

 私のことを転向者よばわりする御仁がまだ時折にいるのであるが、二十五年経っても思想的に混濁したままでいるのは私にはかなわぬ話である。もっというと、混濁を振り切るのに二十五年もかかったのは度外れに鈍足な思想家だと自覚しもしている次第である。ともかく私はほとんど変態せぬカマキリよりもきちんと変態するチョウのほうが好きなのだ。
 いったい自分はなぜあのような不法者になったのであるか。私の逸脱者の習性がその基因であったことは疑いようがないものの、その逸脱が新左翼という具体的な姿をとったのはなぜなのかは別個の説明を必要とする。人生につきものの偶然もしくは運命という難物のことを除いていうと、私は「平和と民主」という戦後的観念の枠組に、その枠組を固守しているものたちの代表者たる旧左翼に、破壊を仕掛けたいと念じたのである。当時そのことをしっかりと意識していたわけではないものの、私にとって「過激」であるということは戦後体制から逸脱することだと曖昧にせよ感じとられていた。その意味でならば、私は昔も今も過激派である。

 また、同書二〇七ページでは、次のように述べている。

 リボリューションつまり革命とは、歴史に内蔵されている(はずの)良き価値・規範を「再び(リ)」「巡りきたらせること(ボリューション)」である。そのようなものとしての価値を伝統と呼ぶなら、伝統の「再巡」としての革命を願うものは歴史的な秩序を保ち守るという意味で保守派たらざるをえない。

 西部氏は、「平和と民主」という戦後的観念の枠組に対して言えば、破壊主義者であり、過激派なのである。また、伝統の「再巡」としての革命を志向する点においては、革命家とも言えるのである。
 その西部氏が、保守派を自称し、自分以外の「破壊主義者」を批判しうるのは、みずからは「伝統」=「良き価値・規範」を代表する立場にいるという確信に基いているようである。しかし、この西部氏の確信を担保するものはあるのか。その確信が妄想ではないということを、氏はどのように説明されるのか。
 特に、西部氏にお聞きしたいのは、明治維新という変革をどう位置づけているかということである。明治維新が、伝統の「再巡」としての革命であったというのであれば、そのことを積極的に主張すべきであろう。
 明治維新のスローガンである「王政復古」が、伝統の「再巡」を意味するものであることは、指摘されなくてもわかる。問題は、明治維新の実質である。
 明治維新は、その実質を見る限り、欧米諸国を範にとった近代化であり、欧米化であった。大日本帝国憲法にしても、プロシア憲法等を範にして作られている。その有力な草案のひとつが、ドイツ人法律顧問ロエスレルによって書かれていることは、否定しがたい事実である。
 昨日のコラムでも指摘したように、西部氏が明治維新を、あるいは大日本帝国憲法をどのように評価されているのかが不明である。「伝統」=「良き価値・規範」を代表する立場にいると自覚される保守主義者の西部氏が、まず鮮明にすべきは、明治維新の捉え方ではないのだろうか。
 このようなことを言うと、そういうオマエの明治維新観はどうなのか、と問われるかもしれない。そのことについては、新刊の『日本保守思想のアポリア』で述べておいた。参照していただければさいわいである。

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西部邁氏の不文憲法支持論(1995)への疑問

2013-07-29 05:31:17 | 日記

◎西部邁氏の不文憲法支持論(1995)への疑問

 最近、近所の古本屋で、西部邁氏の『破壊主義者の群れ』(PHP研究所、一九九六)という本を入手した。その最後のほうに収められている「読売憲法改正試案を論ずる」は、その時代における氏の「日本国憲法」論である(初出は、一九九五年一月)。
 二〇年も前の論文について、今さら論評するというのもどうかと思ったが、いくつか指摘しておくべきだと思うことがあったので、以下に述べさせていただきたい。
 西部氏のこの論文は、次のような文章で締め括られている。

 最後に小生の立場を確認しておくと、改憲論者ではなく廃憲論者である。つまり成文憲法ではなくイギリスと同じく不文憲法のうちにおのれらの歴史的憲法感覚を確立するべきと考える。その意味においてならば、聖徳太子の十七条憲法や江戸の武家諸法度、明治大帝の五箇条の御誓文を経て大日本帝国憲法に至るまでの、日本人の憲法感覚の歴史的進展を国民が多様なレベルで議論し確認する、それこそが憲法の明日を決めるのである。

 引用してみて、「その意味においてならば」の「ならば」がどこにかかるのか、非常に気になったが、今、そのことにはこだわらない。「聖徳太子の十七条憲法や江戸の武家諸法度、明治大帝の五箇条の御誓文を経て大日本帝国憲法に至るまでの、日本人の憲法感覚の歴史的進展」という議論の建て方に、恐ろしく雑なものを感じたが、今はこの点も問わない。
 イギリス型の不文憲法を支持する立場から、「廃憲論」を唱えるという氏の主張は、一応理解できる。だとすると、明治政府関係者が、苦心の末、大日本帝国憲法を制定し、それが一九四七年(昭和二二)まで維持されたという歴史的事実をも否定する趣旨になるが、そう読んでよいのか。
 また、既存の成文憲法を廃止して、不文憲法という体制を採用した例が、かつてあったのか。あったとすれば、その例について言及すべきである。ドイツのワイマール憲法は、ナチスの全権委任法(一九三三)によって死文化したと言われるが、それ以降、ナチス崩壊までのドイツは、不文憲法の体制だったと捉えてよいのか。
 読んでいて、次から次へと疑問が生じるが、この論文の最大の弱点は、氏が、明治維新あるいは大日本帝国憲法をどのように捉えているかが、まったく見えてこないというところにあると思う。
 ともかく、西部氏の主張を聞こう。氏は、「読売憲法改正試案を論ずる」の第二節にあたる「歴史の知恵として発見されるイギリスの不文憲法」ところで、次のように述べている。

 憲法がその国の根本規範であるという意味は、いかなる国もそれなりの歴史を持つものである以上、歴史のなかから指し示されるその国のナショナルな性格というものを表現するものでなければならないということである。この点にこだわってみると、実は憲法論議を成文憲法から始めるということに大きな瑕疵〈カシ〉があることにまず気づくのである。
 つまり憲法には不文憲法と成文憲法という二種類があり、近代社会のほとんどの国は後者の成文憲法を創造する、発明するという形で近代へと突入した。その典型がフランス革命であり、その百三十年後のロシア革命であった。つまり成文憲法で国をつくり上げるという態度の根本には、過去の歴史のなかにその国民の欠陥や過誤のみをみる思考がある。それゆえに過去の歴史を否定した上で成文憲法を書き記すというやり方、それが近代における成文憲法の創造・発明という態度なのである。そうした態度は、その国の根本規範というものを歴史のなかからではなく、知識人・政治家・ジャーナリストその他のいわば観念のなかからつくり出そうとしているという意味で、歴史否定的な方向におもむくことは明白である。
 他方、イギリスにみられるような、不文憲法の立場というものは、国民の根本規範は特定の時代の、特定の世代の、特定の人物の、特定の能力において創造・発明されるものではなく、長い歴史のなかで徐々に蓄積・貯蔵されてきた歴史の知恵として発見される、とする見方のことにほかならない。【中略】
 日本は、イギリス以上に連続したかつ安定した歴史を持っていたわけであるから、イギリスよりもさらに重厚広汎な形での不文憲法を持とうと構えるべきであった。しかし、あの大東亜戦争あるいは太平洋戦争における無残な敗北のあまり、日本人はおのれらの歴史に自信を持たないもしくは持つべきでないという精神的外傷に襲われ、結局のところ憲法感覚を不文憲法として表現する道を捨てて外国仕込みの成文憲法におのれの魂を委ねてしまった。今の時代の転換点に当たって否定してかからねばならないのは、こうしたアメリカニズムへの長きにわたる拝跪〈ハイキ〉という戦後日本の悪しき風潮なのではないか。

 西部氏の「過去の歴史を否定した上で成文憲法を書き記すというやり方、それが近代における成文憲法の創造・発明という態度なのである」という指摘は、まさにその通りだと思う。明治維新によって成立した明治政府もまた、「過去の歴史」(この場合は、徳川封建体制)を否定し、西欧的な近代国家として、急速にみずからの国家体制を整えていった。そうした過程の中で、大日本帝国憲法の制定もあった。
 西部氏の考察は、戦後の日本国憲法のみを対象としていて、明治期の日本がおかれた立場と大日本帝国憲法の成立には及んでいない。というより、明治国家そのもの、大日本帝国憲法そのものを否定する趣旨になるが、それでよいのか。西部氏は、明治期の日本に、「不文憲法」を選択する道があったと考えておられるのか。氏は、明治憲法が「外国仕込みの成文憲法」と捉えているのか。そう捉えるがゆえに、明治憲法を否定するという立場に立つのか。【この話、続く】

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壺井繁治の高村光太郎批判と「本願ぼこり」

2013-07-28 07:27:20 | 日記

◎壺井繁治の高村光太郎批判と「本願ぼこり」

 吉本隆明のいう「関係の絶対性」の論理に従うならば、吉本が壺井繁治の転向を批判することはできなくなるのではないか、ということを昨日のコラムで述べた。
 ただし、吉本は壺井繁治の転向や「詩人としての鈍感さ」を批判したのではない。壺井繁治のある行為に対し、怒りを発したのである。
 この点について、呉智英氏は、『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房、二〇一二)の六五ページで次のように言っている。

 吉本隆明が壺井繁治を辛辣に撃ったのは、詩人として凡庸鈍感であったからだけではない。壺井が同じく詩人である高村光太郎(一八八三~一九五六)を「今度の戦争を通じて自分の果した反動的な役割に対して、いささかの自己批判を試みようとはしない」と批判したからである。壺井よ、自分こそそうだろう。どの口でそんなことが言えるのか、という気持ちからであった。

 呉氏の「吉本隆明が壺井繁治を辛辣に撃ったのは、詩人として凡庸鈍感であったからだけではない」という言葉であるが、「壺井繁治を辛辣に撃った」とあるところを私は、「壺井繁治に激怒した」と言い換えたい。また、「詩人として凡庸鈍感であったからだけではない」とあるところは、「詩人として凡庸鈍感であったからではない」と言い換えるべきだと思う。
 吉本隆明は、壺井繁治を激しく撃った。その理由として挙げるべきものは、壺井の高村批判にあったと思う。高村を批判する資格のない壺井が高村を批判した。このことに、吉本は怒りを発したのである(「批判した」わけではない)。
 こうした吉本の「怒り方」を見て、想起するのは、やはり『歎異抄』第十三条である。
 同条の第六節に、「本願ぼこりといましめらるゝひとびとも煩悩不浄具足せられてこそさうらふげなれ。それは願にほこらるゝにあらずや」とある。非常に意味がとりにくいが、梅原真隆の現代語訳によれば、これは、「本願にほこって悪いことをしてはいけないと警めなさる人にしたところが、煩悩〈ナヤミ〉も不浄〈ケガレ〉もみんな具えていて、現に悪いことをしていられるではないか。それがそもそもそも本願にほこって居られることにならないか」という意味だという。
 すなわち、親鸞は、他人に対して、「本願ぼこり」というレッテルを貼って非難する人に対して、そういう人こそが「本願ぼこり」ではないかとたしなめたのである。
 これを、吉本・壺井・高村の関係に移しかえると、どうなるか。吉本は、高村の戦争責任を突いた壺井に対して、自分の戦争責任を棚に上げて高村を批判する壺井は、「本願ぼこり」だと怒ったのではないだろうか。
 吉本隆明について、あるいは、呉氏の『吉本隆明という「共同幻想」』については、まだまだ言いたいことがあるが、同じような話が続くのもどうかと思うので、明日は話題を変える。

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吉本隆明の壺井繁治批判をめぐって

2013-07-27 03:25:44 | 日記

◎吉本隆明の壺井繁治批判をめぐって

 ここ数日、吉本隆明の「関係の絶対性」について述べてきたが、これらはすべて、呉智英氏の『吉本隆明という「共同幻想」』(筑摩書房、二〇一二年)を新幹線の車中で再読した結果、その車中で思いついたことである。呉氏の本は、「関係の絶対性」にも触れているし、「戦争責任」にも触れている。また、親鸞の思想にも触れている。同書を再読したことにより、それら相互のつながりが見えてきたように思えたのである。その意味で、呉氏のこの本は、私にとって、きわめて有益な本であった。
 ところで、呉智英氏は、同書の第二章「転向論」の「1 同時代人の転向論」の(2)で、吉本隆明が詩人の壺井繁治〈ツボイ・シゲジ〉を批判した一件について紹介している。
 以下は、呉氏が引く、『抒情の論理』(未來社、一九五九)の一節である。

 わたしの関心は、この二つの詩が、意識的にか無意識的にか、おなじ発想でかかれ、その間に戦争がはさまっているという事実だ。この事実をもとにして、二つの詩のちがいをあげれぼ、一方は、擬ファシズム的煽動におわり、一方は、擬民主主義的情緒におわっていることだけだ。わたしは、詩人というものが、こういうものなら、第一に感ずるのは、羞恥であり、屈辱であり、絶望である。戦争体験を主体的にどううけとめたか、という蓄積感と内部的格闘のあとがないのだ。(略)もしこういう詩人が、民主主義的であるなら、第一に感ずるのは、真暗な日本人民の運命である。

 この部分を引用した呉氏は、この一文について、次のようにコメントしている。

 吉本隆明は壺井繁治の詩想の凡庸さ、詩人としての鈍感さを批判する。壺井は、南部鉄瓶さえ持ち出せば戦時ファシズムも戦後民主主義も詩に詠める〈ヨメル〉と思っている。まるで俳句の「根岸の里のわび住まい」みたいなものだ。これをくっつけさえすれば俳句の型になる。壺井には詩人としての「内部的格闘」が欠落しているのだ。詩人としてこれほど恥ずかしいことはない。こういう怒りである。吉本のこの怒りは至極真っ当である。

 吉本は、壺井が「戦争体験を主体的にどううけとめたか」を問うている。呉氏は、「壺井には詩人としての内部的格闘が欠落している」と指摘している。
 しかし、もし、吉本の「関係の絶対性」なる論理に従うならば、壺井が「戦争体験を主体的にどううけとめたか」を問うのは無理というものではないのか。「壺井には詩人としての内部的格闘が欠落している」という指摘もあたらないはずだ。
 すなわち壺井は、戦中においては、当時の「関係の絶対性」に操られて「擬ファシズム的煽動」を担い、戦後は、同じく当時の「関係の絶対性」に操られて「擬民主主義的情緒」を振りまいた。ただ、それだけなのではないか。詩人というものは(大衆というものは、知識人というものは)、所詮そうしたものだ、というのが、「関係の絶対性」なる論理から導かれる結論なのではないか。
 吉本隆明の「関係の絶対性」なる論理は、「自由な選択にかけられた人間の意志」を相対化しようとするものであり、露骨に言えば、戦争責任を、あるいは思想責任を解除のための論理だったと思う。呉氏は、こうした観点から、吉本の壺井批判の矛盾を指摘すべきだったのではないだろうか。【この話、さらに続く】

*昨日のコラム「世にいう『本願ぼこり』と吉本の『関係の絶対性』」に対しては、やや反応があったもようです。アクセス数は、歴代11位でした。歴代のアクセス数ベスト11は以下の通り。

1位 本年4月29日 かつてない悪条件の戦争をなぜ始めたか(鈴木貫太郎)    
2位 本年2月26日 新書判でない岩波新書『日本精神と平和国家』(1946) 
3位 本年2月27日 覚醒して苦しむ理性(矢内原忠雄の「平和国家論」を読む)  
4位 昨年7月2日  中山太郎と折口信夫(付・中山太郎『日本巫女史』)    
5位 本年2月14日 ナチス侵攻直前におけるポーランド内の反ユダヤ主義運動  
6位 本年7月21日 〔この日は、ブログの更新をせず〕 
7位 本年6月23日 小野武夫博士の学的出発点(永小作慣行の調査)
8位 本年4月30日 このままでは自壊作用を起こして滅亡する(鈴木貫太郎)  
9位 本年7月5日  年間、二体ぐらい、起き上がってゆくのがある
10位 本年6月29日 西郷四郎が講道館入門した経緯についての通説と異説   
11位 本年7月26日 世にいう「本願ぼこり」と吉本の「関係の絶対性」

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