礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ケルロイター教授の『現代日本国家体制』(1941)

2015-07-31 05:39:37 | コラムと名言

◎ケルロイター教授の『現代日本国家体制』(1941)

 今、グーグルで、「ケルロイター」を検索すると、「約10,700件」がヒットする。昨年初めに検索したときは、四桁にも届いていなかったように記憶する。
 ケルロイターというのは、ナチス時代におけるドイツの公法学者のことである。私が、この名前を聞いたのは、昨年の二月か三月のことだった。たまたま、『一冊の本』二〇一三年一〇月号に掲載された、「ラスプーチンかく語りき99」という対談記録を読んでいたところ、評論家の佐藤優〈マサル〉氏が、ケルロイターに言及していたのである。対談の相手は、ジャーナリストの魚住昭氏。なお、「ラスプーチン」というのは、佐藤優氏の異称らしい。

魚住 ナチスはワイマール憲法そのものを廃止していませんね。
佐藤 そうです。一九四〇年代初めまで、ナチス憲法理論の第一人者だったオットー・ケルロイターの著書『ナチス・ドイツ憲法論』に着目してみましょう。ケルロイターの主張を簡単に整理するとこうなります。ドイツの指導者(ヒトラー総統)には英米法のような目に見えない憲法が体現されているので、指導者国家(ヒトラーを総統とする国家)の法律や命令は必ずしも憲法の縛りを受けないというものです。
 少し長くなりますが、引用します。
《既にイギリスの国家生活に於ては、当時過激な個人主義は存在しなかったので、憲法構成ということには何等の価値も認められなかった。憲法は、イギリスでは政治的発展の経過の中で有機的に生れたもので、その故に又、今日に至る迄成文憲法即ち憲法典という形をとってはいないのである。併し同時にイギリス法も、既に早くから憲法規定は之を持っていたのであって、例えば個人自由権の保障を包含していた一六八九年の権利章典〈ビルオブライツ〉の如き、或はそれによって共同立法者としての上院の地位が非常に低められたところの、一九一一年の議院法〈パーラメントアクト〉の如きがそれである。
 この様な憲法規定は、ドイツ指導者国家の国法的発展の中にも亦見られる。それをナチス国家の基本法と称することを得る。それはその憲法的生活の基礎をなし、且新しい国家建設の大綱をなすものである。今日の発展段階に於ては、この意味に於て次の諸法律を、ドイツ指導者国家の憲法規定と称することが出来る》(『ナチス・ドイツ憲法論』オットー・ケルロイター、矢部貞治、田川博三訳、岩波書店〔一九三九〕)
 ここで「諸法律」として挙げられているのが、先ほど触れた三三年の全権委任法(ナチの国民及び国家の艱難を除去するための法律)、三五年のニュルンベルク法(国旗法、公民法、ドイツの血とドイツの名誉との保護のための法律)などです。さらにこれらの法律が、指導者国家、つまりナチス党が支配するドイツにおいて憲法規定だと称することができるのは何に由来しているのか。ケルロイターは次のように書いています。
《指導者国家に於ける憲法の構成及び完成の態様と方法に対しては、フューラー(引用者〔佐藤〕注:ヒトラー総統)によって確定される、ドイツの民族・及び国家生活の政治的必要だけが、決定力を持ち得るのである》(前掲書)
魚住 わかりやすく言うと、ヒトラーが憲法を決めるということですね。
佐藤 そうです。【以下略】

 この部分は、昨年三月二日のコラム「ナチス国家の指導者は憲法の縛りを受けない」で、すでに引用させていただいているが、重要だと思ったので、再度、引用した。
 ケルロイターによれば、憲法は、「憲法典」の形をとる必要はない。現に、イギリスには、憲法典は存在しない。ドイツにおいては、一九三三年の「ナチの国民及び国家の艱難を除去するための法律(全権委任法)や、一九三五年の「国旗法、公民法、ドイツの血とドイツの名誉との保護のための法律」(ニュルンベルク法)といった諸法律こそが、憲法規定なのである。――
 一九一九年に公布・施行された「ドイツ国憲法」(ワイマール憲法)を、ナチスは、廃止していない。しかし、同憲法は、「憲法典」(最高法規)としての位置を奪われ、ほとんど空文化していた。ケルロイターは、憲法は「憲法典」の形をとる必要はない、という説明によって、そうした事態を是認したのである。
 いま、戦前・戦中の『法律時報』の巻号を通覧しているところだが、数日前、「ケルロイター教授の『現代日本国家体制』」という記事を見つけた。一九四一年(昭和)六月に発行、同誌第一三号第六号(通巻一三八号)に掲載されていたもので、筆者は五十嵐豊作〈イガラシ・トヨサク〉。本日は、これを紹介してみよう。

 ケルロイター教授の『現代日本国家体制』  五十嵐豊作

 周知のようにドイツの政治・公法学者として著名なオットー・ケルロイター(Otto Koellreutter)教授は一九三八年〔昭和一三〕に日独交換教授として来朝し、約一ケ年滞在して帰国したが、教授は在留中の日本政治の研究を数多くの論文で発表して、ドイツにおける日本の理解を深めるために努力されてゐる。いふまでもなくドイツの日本研究家としてはすでに有名な地政学者ハウスホーファー教授などがゐるが、われわれとしては日本政治の研究家としてさらにケルロイター教授のやうな学者をもつに至つたことは欣快に堪へない。
 ところで教授はわが政治を研究するに際して、その基礎にまで遡つて理解しようとする態度をとられる。だから例へば日本憲法の解釈にしてもその独自性の把握に努力してゐるのである。このことは藤井新一氏が外国人に日本憲法を紹介するために書いた《The Essentials of Japanese Constitutional Law》1940にたいするきびしい批評によつても知られるのである。すなはちケルロイター教授は藤井氏が日本憲法の政治的基礎に立入らず、単なる立憲主義憲法であるかのやうに形式主義的実証主義的・叙述に終始し、ことに議会の叙述を英仏の立憲主義理論によつて長たらしくしてゐる点を指摘して「われわれドイツ人にはこの本書の部分はほどんど説明になつてゐない。藤井の著書は法規範をその政治的背景から分離しうると信じた実証主義方法の役にたたぬことを模範的に証明してゐる」(Zum Wesen des heutigen japanischen Verfassungsrechtes,AOR.,Bd.32,Hft.1,1940,S.3)といつてゐる。もつともなことである。外国人のために書くなら日本憲法の独自性をとくに強調し、したがつてその政治的基礎に重点をおくべきである。かやうな批評に明らかなやうにケルロイター教授が日本の政治をその根柢から理解しようとする態度はわれわれにとつては何よりも有難いことだ。それによつてのみ真に日独文化の提携が可能だらうから。
  ◇
 つぎにここで紹介しようとする『現代日本国家体制』(一九四一年)《Der heutige Staatsaufbau Japans》1941はケルロイター教授が昨年ウェーンの日独協会で行つた講演をまとめたわづか二十八頁の小著である。教授の日本政治の研究としてもつともまとまつてゐるのは一九四〇年にでた『日本の政治的容貌』《Das politische Gesicht Japans》であるが、これはわが風俗・文化・政治のレポートであつて、いはゞむしろ印象記といつた色彩がつよいものであつた。だから例へば北海道の登別温泉の男女混浴に日本人の無邪気さをみ、さうした無邪気さが「西欧の影響で」しだいになくなるのを歎いたり(S.17)、外事警察に不快を感じたとみえて、改まつて警察の機能をといて日本が本当に外国人の観光旅行を歓迎するなら「警察はもつとひつこんでゐたらよい」などとのべてゐるのである(S.50/52)。
 これに反して今回の著述はさうした印象記的色彩は全然なく、現代日本の国家体制とその動向を把握しようとしたものである。ことにわれわれにとつて興味のある点はいはゆる新体制のもつ意義を明らかにしようとしてゐることである。【以下、次回】

 文章は、まだ続くが、少し、コメントしておこう。ケルロイターは、藤井新一氏が大日本帝国憲法を「単なる立憲主義憲法であるかのやうに」紹介し、これを「英仏の立憲主義理論」によって説明していると捉えている。かつ、こうした藤井氏の立場は、「法規範をその政治的背景から分離しうる」する実証主義であるとして、これを批判している。
 このことから、少なくとも、ふたつの見方が導ける。ひとつは、大日本帝国憲法は、立憲主義憲法としての性格を持ち、それゆえに、「英仏の立憲主義理論」によって説明が可能だったということである。もうひとつは、ケルロイターは、「英仏の立憲主義理論」とは対立する立場にあったということである。おそらく、この立場は、法規範は、その政治的背景から分離しえないというものであったのだろう。
 なお、筆者の五十嵐豊作は、ケルロイターの藤井新一批判に対して、「もつともなことである」と応じているので、ケルロイターの立場に近い立場にいたと考えられる。

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ワイマール憲法は、こうして空文化された

2015-07-30 04:47:23 | コラムと名言

◎ワイマール憲法は、こうして空文化された

 一九四一年(昭和一六)六月に発行された『法律時報』第一三巻第六号(通巻一三八号)に、内田源兵衛〈ウチダ・ゲンベエ〉の「戦時体制形成強化の基本法(一)」という論文が載っていた。この論文で内田は、ワイマール憲法が、どのようにして空文化されたのか(「ナチス憲法」に変わったのか)を、非常にわかりやすく解説している。論述は、冷静で客観的であるが、言葉の端々に、日本における「戦時体制形成強化」は、ナチス・ドイツに比べて徹底さを欠いている、という批判が見て取れる。

 戦時体制形成強化の基本法(一)  内田源兵衛
 
 我国戦時体制形成強化の基本法規たる国家総動員法は、昭和十三年五月制定〔昭和一三年法律五五号、四月公布、五月施行〕以来の実績と時局の要請とに鑑みて、幾多の諸点に亘つて、今回その強化が行はれた〔改正昭和一六年法律一九号を指すか〕。
 現下の真に重要なる時局下に於て、戦時体制の強化は更にその度合を急速に苛烈に要請せらるるであらう。之と伴つて総動員法は、その運用部面を拡大せしめらるると共にその既に運用を見つゝある部面に於てもその程度を深化するの必然性を持つものである。
 然し乍ら、過般の改正に依つて強化拡大された総動員法を以てしても尚且つ現下の重大時局に処して果して政府をして神速〈シンソク〉果敢な法的手段を講ぜしめ得るの賦課〈フカ〉に応へ得るか否かは相当問題とされなければならぬ。
 筆者は今此の問題に論及するに先立つて、今次第二次欧洲大戦に於ける列強の戦時体制形成強化の基本法規に考察を進めたい。
 ドイツの戦時体制形成強化の基本法たる役割をなすものは彼の有名な「国民及国家ノ艱難ヲ除去スルタメノ法律」所謂「授権法」である。
 本法はナチス政権樹立の最大のモニユメントである。一九三三年〔昭和八〕三月二十四日付の此の法律を根拠としてナチス政府は国政全般に亘る一切の立法権を賦与せられ、伝統を誇るドイツ帝国議会は之と共にその機能を喪失するに至つた。
 同法の内容は次の通りである。
 第一条 ドイツ国法律は憲法に於て予定したる手続によるの外〈ホカ〉、ドイツ国政府に依りても亦議決せらるることを得。ドイツ国憲法(所謂ワイマール憲法)第八十五条第二項(予算協賛権)及第八十七条(国債募集)に特定せられたる法律に付〈ツキ〉亦同じ。
 第二条 ドイツ国政府に於て議決したる法律は、ドイツ国々会及ドイツ国参議院の制度それ自体を対象とせざる限り、ドイツ国憲法に抵触する定めをなすことを得〈ウ〉。ドイツ国大統領の権能は、之がため妨げらるることなし。
 第三条 ドイツ国政府によりて議決せられたるドイツ国法律は、ドイツ国宰相之を編成し且官報を以て之を公布す。右法律は、別段の定なき限り、公布の翌日より之を施行す。ドイツ国憲法第八十六条乃至八十七条(立法手続)の規定は、ドイツ国政府の議決する法律に対しては其の適用なし。
 第四条 独立国の立法事項に関係するドイツ国の外国との条約は、立法に参与する機関の同意を必要とせず。ドイツ国政府は此等の条約の執行に必要なる規定を制定す。
 第五条 本法は公布の日より之を施行す。本法は一九三七年四月一日を以て其の効力を失ふ。本法は又現在のドイツ国政府が他の政府に依りて交迭〈コウテツ〉せられたるときは其の効力を失ふ。
 此の近世民主政治将又〈ハタマタ〉立憲制度上真に歴史を画する大法制の確立はナチス独裁制の基底をなすものであると共に爾後〈ジゴ〉に於ける約六年に亘る戦争準備の段階に於けるドイツ国防国家建設の基本法規であり又第二次欧洲大戦の幕が切つて落されるやドイツ戦時体制形成強化の基本法を為すものに外ならぬのである。
 授権法の戦時基本法としての特色は次の点に存する。
 政府は一切の立法権の全面的委任を受けてゐる。予算及国債の如き議会制度の本質的職能と見做されたる権限も亦政府に委譲された。斯くて政府は戦時に於ける経済其の他諸般の非常措置を遺憾なく果敢に執り得るのみならず、戦時に於ける租税その他戦時財政の運営に付ても亦議会の掣肘〈セイチュウ〉を離脱して臨機応変の措置を講じ得ることになつたのである。
 蓋し〈ケダシ〉国民の一般権利義務に関する所謂立法事項に付ての委任立法が如何に広大に行はれてゐるとしても、予算の協賛に関する機能が議会に留保されてゐる限りに於ては、戦時に於ける諸施設は多く予算と不可分の関係を有するものであるから、従つて議会の行政府に対する制約の力は尚極めて大であり、予算の協賛を通じて政府の行動に多大の発言権を有すべきことは、我国議会に於ても予算総会若は〈モシクハ〉分科会に於ける言論を想起すれば思ひ半ばに過ぎるものがあらう。然るにナチスの授権法は斯る〈カカル〉権能に付ても政府への委任を敢行したものであつて其の意義は極めて重大である。
 次に其の委任の方法に於て包括的であり、何等の目的、制限を付することなき包括性は、之が戦時法規としての適性を最高度に具備したものとしなければならぬ。否〈イナ〉之を端的に言へば最早立法府への権限委任と云ふよりも、立法府そのものの事実上の否認に外ならぬのである。
 第三に本法は政府に対して憲法抵触の立法をも容認してゐることである。議会及参議院制度自体に対する改編を除外したのであるが而も既に死せるに等しき議会の独立性存置は事実上大なる意義を有するものでないことは明である。国の危急存亡の岐るる〈ワカルル〉関頭〔せとぎわ〕に於て憲法の条規も亦畢竟〈ヒッキョウ〉第二義的を有するに過ぎぬとする理念に外ならぬのである。我国帝国憲法に於ける非常大権を説明するに当つて憲法義解の著者伊藤〔博文〕公は、船長は船舶の遭難に際して一部の載貨を海中に投棄して船客及般員の生命を救ひ、或は良将は戦局全般の見地より一部の軍隊を犠牲とするの考慮あるべしとの例を挙げてゐるが、斯る超法規的原理は戦時法規の基本理念を為すものであつて、筆者は嘗て〈カツテ〉憲法至上主義のアメリカ議会に於ける戦時法制準備の委員会に於て行はれたる大統領の権限はアメリカ憲法の拘束を受くるものなりや否やの論義を興味深く想起するものである。
 第四に条約の締結に付ても政府の専権は確立された。立法参与機関の同意を必要とせざるべき旨の条規は外交に関する政府の活動を容易ならしむるものであつて、特に戦時法規として之を観るときは又極めて重要なる意義を有するものである。蓋し戦略と外交とは盾の両面であり、政戦両略の一致こそは近代戦に於ける中心的要請に外ならぬのである。
 斯くてドイツの授権法は勿論国々に於ける特殊の条件を別として之を法制の側面のみより抽出して考察するならば、戦時体制形成強化の基本法規としては殆んど完璧に近い形態を有するものであつて、ドイツの赫々〈カッカク〉たる戦勝の背後には近代兵器の優秀性もさることながら、その法制上の武器に於ても真に電撃作戦を可能ならしむる用意あることを見逃してはならないであらう。

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「ワイマール憲法」から「ナチス憲法」へ

2015-07-29 07:07:28 | コラムと名言

◎「ワイマール憲法」から「ナチス憲法」へ

 一昨年の七月二九日、麻生太郎副総理兼財務大臣(当時)が、「ナチスに学べ」云々と発言して、大きな問題になった。このときの麻生氏の言葉は、報道によって、多少、表現が異なっていたが、私が読んだ記事(朝日新聞デジタル、2013・8・1)では、「ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」となっていた。
「ワイマール憲法がナチス憲法に変わった」というのは、どういうことなのか。少なくとも、いわゆるワイマール憲法(正式には「ドイツ国憲法」)に替って、「ナチス憲法」という憲法が作られたという事実はない。この点について、当ブログの一昨年八月一日のコラム「麻生財務相のいう『ナチス憲法』とは何か」において、疑問を呈しておいた。
 その後、調べてみたところ、戦前戦中の日本において、ワイマール憲法が死文化した状態におけるドイツの憲法状況、すなわちナチス・ドイツにおける憲法状況を指し、「ナチス憲法」と呼んでいた事実があったことを知った。たとえば、一九三八年(昭和一三)には、錦松堂書店から、土橋友四郎著『ナチス独逸国の修正憲法』という本が出版されている。また、一九四一年(昭和一六)には、白揚社から、大石義雄著『ナチス・ドイツ憲法論』という本が出ている。このほかにも、タイトルに「ナチス憲法」という言葉を含む論文が確認できる。
 ただし、この「ナチス憲法」という呼称が、欧米などでも、広く用いられていたのかどうかは不明である。
 さて、一昨年八月一日のコラムで私は、次のように書いた。
 
 ことによると、麻生財務相は、ナチスの全権委任法のことを、「ナチス憲法」と呼んでいるのではないか。
 このあたりについて麻生氏は、おそらく基礎的な知識を欠いたまま発言しているはずであり、日本の政治家の教養の低さを、世界に知らしめることになった。

 しかし、戦前の日本において、「ナチス憲法」という呼称が用いられていた事実がある以上、「ワイマール憲法がナチス憲法に変わった」という麻生財務相(当時)の認識は、誤りとは言えない。したがって、上記、引用部の表現が適切でなかったことを反省する。同コラムの表現は、自戒の意味をこめて、そのままにしておくが、その末尾に、表現が適切でなかった旨の断りを入れて置きたい。
 なお、念のために言うが、麻生財務相(当時)の発言で最も問題なのは、「ナチスの手口に学んだらどうか」という部分なのであって、その問題性は、当時も今も変わっていない。今、国会では、安倍首相を初めとする政府与党が、憲法九条の空文化をおこなおうとしているが、まさにこれは、「ナチスの手口」に学んだ結果と言えるだろう。
 明日は、いわゆる「ナチス憲法」について、すなわち、全権委任法(授権法)によって、ワイマール憲法が空文化された当時の、ナチス・ドイツにおける憲法状況について、紹介したいと思う。

*このブログの人気記事 2015・7・29

 

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「八紘一宇」は世界新秩序を希求するスローガン

2015-07-28 05:30:29 | コラムと名言

◎「八紘一宇」は世界新秩序を希求するスローガン

 必要があって、戦争中の『法律時報』(日本評論社)を、まとめて閲覧していたところ、藤澤親雄〈フジサワ・チカオ〉の「大東亜皇化共栄家族圏国際法の基礎理念」という論文に出会った。一九四二年(昭和一七)一月発行の第一四巻第一号(通巻一四五号)に掲載されていたものである。「大東亜皇化共栄家族圏国際法」という言葉は初めて聞いたが、欧米中心の「国際法」に対抗せんとして、藤澤親雄が打ち出した「新国際法」(真国際法)のことらしい。
 この論文に、「八紘一宇」(ハッコウイチウ)という言葉が出てくる。藤澤がこの言葉を、どういう意味で用いているか、注意して読んでいただきたいと思う。というのは、本年三月、参議院予算委員会の席上、ある参議院議員が、この言葉は、「世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合う」といった意味であり、日本が建国以来、大切にしてきた言葉だという旨の発言をして、話題になったからである。

 今日の世界の現実に於てこの「国際法」こそは、実にわが惟神〈カムナガラ〉の大道そのものなのである。いままで、外国人は勿論、我が国知識層の大部分も不幸にして其の深き秘義を闡明〈センメイ〉し得なかつた。惟神の大道は、世界唯一絶対の「真理」であつて、之が国際関係に顕現したものが、横田〔喜三郎〕教授の暗中摸索して来られた「国際法」であり、之は確かに皇国〈スメラミクニ〉〔日本〕を除く世界各国の憲法の上に位するものである。惟神の道の国際的表現たる新国際法は「民族自決主義」と「帝国主義」との対立抗争を一元的に克服し得るのである。【中略】
 大政翼賛運動は、世界全人類をして、真の国際法が国際連盟規約ではなく、実に惟神の大道であることをはつきりと、且つ心から認識せしめんとする全人類的宇宙観徹底の運動なのである。
 されば、大政翼賛会の実践要綱に於ても「無上絶対普遍的真理の顕現たる国体を信仰し、歴代詔勅を奉戴し、職分奉公の誠を致し、ひたすら惟神の大道を顕揚す」と述べてあるのである。今後の世界に於ては万邦が天皇〈スメラミコト〉に対して「邦域奉公」をつくさねばならぬ。
 従来、惟神の大道は、日本民族の特殊なる民族信仰であつて、所謂「世界性」を有せず、之に反して、仏教キリスト教等は所謂「世界宗教」であつて、当然特殊なる一国家一民族の信仰に優位するものであると錯覚せられてきた。
 之は、具体的なるものは、すべて特殊であり、普遍的なるものは凡べて〈スベテ〉抽象的でありとする誤れる形式論理の思惟〈シイ〉的産物であつたのである。
 然し、最も正しい生命論理の原則に従へば、個と全と特殊と普遍とは生命的には一体不離でなければならない。之を「全個一体の原理」といひ、之が惟神の大道の現代的表現である。
 詳言すれば、わが惟神の大道こそは、仏教キリスト教その他の万教が帰一すべき「宗教中の宗教」であつて、之こそは真の意味に於ける唯一絶対の普遍的全人類的宗教である。キリスト教仏教は、之を特定の民族に伝承せんがために説かれた一方便であつたのである。今日奇しくもこの深遠たる御神策が次第に闡明せられつつある。
 十二月八日、対米英宣戦の御大詔が降り〈クダリ〉、間髪を容れずして、わが皇軍は英米海軍の主力を撃滅し更に彼等の太平洋に於ける航室基地を撃砕〈ゲキサイ〉したといふ事は、重大なる象徴的意義を有するものである。之は謂ふまでもなく九ケ国条約の中核たるスチムソン・ドクトリンが「偽国際法」であつて、我が惟神の大道が「真国際法」であると言ふ信念を一瞬にして、全人類の頭脳に叩きこんだ歴史的事件であり之によつて米英優位の「近代」が終了したのである。【中略】
 今日、一億大和民族の胸底に、八紘一宇、新秩序建設の大信念が不退転に湧起〈ユウキ〉しつつあるのは、決して偶然なことでない。それは、実に大和民族の隔世遺伝的潜在意識の全面的発露てある。
 即ち、太古神代に於ては如実に全人類が皇国を中心として世界一家体制を組織して居つたのであるが、その後度重なる天変地異によつて、この八紘一宇体制が崩壊せられ、人類は地理的にも精神的にも支離滅裂の状態に陥つたのである。
 その結果、万国は彼等の「魂の郷土」たる親国日本の指導と慈愛を失ひ、今日の如くにただよつてゐるのである。然し天地開闢〈カイビャク〉の時から万世一系に天神の霊統と血統を継承し給ふ 天皇に全人類一家体制の貴重なる太古の体験がそのままに伝はつてゐるのである。されば 天皇は地球を曾て在りし姿に還す〈カエス〉ことを以て天業の恢弘〈カイコウ〉〔おしひろめること〕と御考へになるのである。即ち、天之沼矛〈アマノヌホコ〉を以て、此のただよへる国を修理固成するとは、世界万国を親国たる皇国に帰一還元せしめるがために、聖戦を遂行すると謂ふことに外ならない。繰返して云へば、嘗て〈カツテ〉全人類一家体制が現実に存在してゐたからこそ、之が隔世遺伝的に八紘一宇の信念となつて、今日我々に復活再生してゐるのである。之が「温故知新」の深き意義である。実に皇道の世界経綸〈ケイリン〉とは地球を在りし姿に還して、坤輿〈コンヨ〉〔地球〕を一宇たらしむることであり、之がためには日本を、世界の絶対中心として、先づ大東亜より人類を家族的に再組織してゆかねばならない。之こそは日本精神の世界的宣揚であり、この大理想実現への巨歩は満洲国の建設によつて、既に力強くも進められたのである。【後略】

 筆者の藤澤親雄は、八紘一宇を、「世界一家体制」、「全人類一家体制」といった言葉で説明している。本来は、たしかに、そのように平和的、友好的な言葉だったのかもしれない。
 しかし、戦中、この言葉が、どのような脈絡で用いられていたかを知る必要がある。藤澤によれば、八紘一宇というのは、「惟神の大道」という超越的な規範を掲げる「親国日本」が、全地球を支配し、新秩序を築くという「大理想」を意味している。その理想を実現するための「聖戦」が大東亜戦争である。すなわち、八紘一宇というのは、大東亜戦争のスローガン以外の何者でもない。今さら、「世界が一つの家族のようにむつみあい、助け合う」といった意味で用いようとする神経には、驚かざるを得ない。

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ルメイ将軍に「勲一等旭日大綬章」を授与(1964)

2015-07-27 05:36:26 | コラムと名言

◎ルメイ将軍に「勲一等旭日大綬章」を授与(1964)

 今月二三日、二四日、二五日と連続して、カーチス・ルメイ将軍について取り上げた。いずれも、松尾文夫氏の『銃を持つ民主主義』(小学館、二〇〇四)の第一章「ルメイ将軍への勲章」を参考にさせていただいた。
 昨日は、映画『博士の異常な愛情』について紹介したが、やはりこれも、ルメイ将軍に関連した話題であった。
 ここで、もう一度、『銃を持つ民主主義』に戻る。著者の松尾文夫氏は、同書の第一章において、カーチス・ルメイ将軍を間近に見たことがあると述べている(四八~四九ページ)。

 私は、ルメイ将軍を一度だけ間近に見ている。一九六八年十月、当時は黒人差別のチャンピオンとして知られていたジョージ・ウォーレス元アラバマ州知事が、大統領選挙戦にアメリカ独立党から出馬、その副大統領候補に彼が選ばれ、ワシントン近郊のアレキサンドリアに遊説に来ていたからである。取材を思いたったのは、後にアメリカ政治の分水嶺として記録されることになる、この年の大統領選挙戦での共和党ニクソンと民主党ハンフリーの対決が、終盤に入って大接戦と伝えられ、ウォーレス-ルメイの第三党コンビの獲得州次第では、下院決定にまでもつれ込む可能性が指摘され始めていたからである。
 ルメイ将軍はこのころキューバ危機の際の強硬論で有名になり、それがウォーレスから声がかかった理由だった。六四年には、彼をモデルにしたといわれる、巨匠スタンリー・キューブリック監督、脚本の映画「博士の異常な愛情(原題Dr. Strangelove / or : how I leaned to stop worrying and love the Bomb)」が話題になったこともあって、もっぱら、いつも葉巻を横にくわえた脂ぎった悪玉といったイメージが定着していた。
 確かに演説内容は、「ベトナム戦争に勝てないのはアメリカの軍事力を一〇〇%使わないからだ」と厳しくジョンソン大統領と反戦デモの双方を批判する評判通りの激しさだった。しかし、私には、特徴のあるぎょろ目を除けば、小柄で青白い拍子抜けするほど「普通の人」だったことをいまでも覚えている。

 松尾氏によれば、当時、ルメイ将軍に対して、「葉巻を横にくわえた脂ぎった悪玉」というイメージが定着していたという。この「葉巻を横にくわえた悪玉」というのは、映画『博士の異常な愛情』においては、「R作戦」を命じたリッパー将軍(スターリング・ヘイドン)の役どころである。おそらく当時、多くのアメリカ人は、「リッパー将軍」というキャラクターは、ルメイ将軍をモデルにして造形されたものと捉えていたのであろう。もちろん、松尾氏自身も、そのように捉えていたと読める。
 私見では、ルメイ将軍をモデルとしたキャラクターは、リッパー将軍ひとりにとどまらない。タージドソン将軍(ジョージ・C・スコット)やストレンジラヴ博士(ピーター・セラーズ)といったキャラクターもまた、ルメイ将軍をモデルにして造形されたものと捉えるべきであろう。そのように捉えることで、初めて、「Dr. Strangelove」という原題が活きてくる。
 再三、引用させていただいた『銃を持つ民主主義』の第一章だが、そのタイトルは、「ルメイ将軍への勲章」となっている。このタイトルの意味するところは、同章の最後の部分を読むと理解できる(五三ページ)。

 ここでは、一つの事実を報告しておく。一九六四年十二月四日、日本政府は閣議で来日中のアメリカ軍空軍参謀長、カーチス・ルメイ将軍に勲一等旭日大綬章を贈ることを決め、同六日、当時の浦茂航空幕僚長が入間〈イルマ〉基地を訪れて授与している。航空自衛隊の育成に功績があった、というのがその理由だった。

 信じがたいことだが、厳然たる事実である。第二次大戦末期、「夜間無差別焼夷弾爆撃」によって、無防備な民間人を殺傷した米軍人、朝鮮戦争中、北朝鮮に対する無差別爆撃で、二〇〇万人ともいわれる人々を殺傷した米軍人、キューバ危機に際し、人類を核戦争の瀬戸際に立たせた米軍人。そうした米軍人に、なぜ、勲一等旭日大綬章を贈らなければならなかったのか。この授与を提案したのは誰だったのか。当時、この授与を問題視する人はいなかったのか。ちなみに、ルメイ将軍に勲章が授与されたのは、一九六四年(昭和三九)一二月であるが、日本では同年の一〇月に、映画『博士の異常な愛情』が公開されている(アメリカでの公開は、同年一月)。

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