◎浅川駅で列車を待っていた人も多かった
斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」について、その要所要所を紹介している。
本日は、その五回目(最後)で、「浅川駅午前一一時一七分」の項を紹介する。この項は、その全部を紹介したい。
浅川駅午前一一時一七分
浅川駅は一九六一(昭和三六)年三月二〇日に高尾駅と改称されて現在にいたっている。一九六七(昭和四二)年に京王高尾線が高尾山口まで敷かれ、現在では駅南口にはマンションが建ちならび変化が激しいが、北口の駅舎は当時の姿をほぼとどめている。
浅川駅が一九四五年八月までにP51の機銃掃射をうけたことは、五月二五日と七月八日の二度あり、その時に空いたと思われる穴が、一、二番線ホームの西側渡線橋から西にむかって二本目の柱の途中に、今でも残っている。
四一九列車が浅川駅に着いた時には、すでに午前一一時三〇分をまわっており、空襲警報発令中だった着くとまもなく空襲警報のサイレンが鳴り響いたという人もいる。
この駅で列車を待っていた人も多かった。
八王子市中野町(現・八王子市中野上町〈ナカノカミチョウ〉)に住んでいた萩原康子(現姓・長田、一二歳)は、母と妹三人が疎開していた山梨県北都留〈キタツル〉郡笹子村〈ササゴムラ〉へ配給物資を届けようと、中学生の兄の敏雄と一緒に待っていた。(「屍〈シカバネ〉の中から這い出して」)
地元南多摩郡浅川町小仏(現・八王子市裏高尾町)の青木孝司(二二歳)は甲府連隊に所属していたが、公用で何人かと東京に来て用を済ませ、実家に一晩泊り、連隊に戻るため浅川駅から乗ろうとしていた。
しかし、空襲警報が出たこともあり、駅では列車の出発を見合わせた。
「間もなく、外から『退避!』と怒鳴る人がいて、デッキにいた人は数人列車から降りて、駅の構内に散って行き」、二木金三郎は「少し離れた所にある貨物列車の陰に行き敵機の行動をみる事にし」たが、「客車内では降りて退避する人はあまりい」なかった。乗客全員は近くの寺院境内(南側にある大光寺か)、あるいは駅のホームとホームの間に避難させられたともいわれるが、おそらく、出入口やデッキに立っていた人たちだけが、構内に避難をしたのであろう。
妻と子ども二人の四人で乗りあわせていた中田春吉は、避難してくれとの知らせに列車を降りた。そして長男の智和(二歳)におにぎりの弁当を食べさせ、北口駅前の食堂(岸本屋か)で無理に頼んで茶わんに水をもらい、飲ませた。(「長男を抱いてくれた女性駅員」)智和は「おいしい、おいしい」と二杯も飲んだが、これが末期〈マツゴ〉の水となるとはその時想像だにしなかった。
細川鉄雄、繁忠の兄弟も列車から降りて、広い所にある木の下に行き(大光寺か)、義姉が作ってくれたにぎり飯を食べようとした。
一方、車内ではほとんどの乗客が発車を静かに待っていた。多くの乗客が小型機の空襲を心配していたが、三両目の車内では、乗客のそうした気持ちを落ち着かせるためであろう、下士官か将校らしい軍人が「我々が乗っているので、我々の指示に従って心配しないで下さい。安心して下さい」と言って歩いていた。市岡俊三はこの時に初めて、列車に兵隊が乗っているのを知ったという。
P51の編隊は午前一一時五八分ごろには多摩地方西部の上空を通過し、埼玉県に向かうのが目撃されていた。ここ浅川町でもその編隊を見たという人は多い。編隊はしばらく埼玉県付近を旋回した後、やがて南下を始めたのである。〈55~57ページ〉
第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」は、ここまで。
明日は、話題を変える。
斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」について、その要所要所を紹介している。
本日は、その五回目(最後)で、「浅川駅午前一一時一七分」の項を紹介する。この項は、その全部を紹介したい。
浅川駅午前一一時一七分
浅川駅は一九六一(昭和三六)年三月二〇日に高尾駅と改称されて現在にいたっている。一九六七(昭和四二)年に京王高尾線が高尾山口まで敷かれ、現在では駅南口にはマンションが建ちならび変化が激しいが、北口の駅舎は当時の姿をほぼとどめている。
浅川駅が一九四五年八月までにP51の機銃掃射をうけたことは、五月二五日と七月八日の二度あり、その時に空いたと思われる穴が、一、二番線ホームの西側渡線橋から西にむかって二本目の柱の途中に、今でも残っている。
四一九列車が浅川駅に着いた時には、すでに午前一一時三〇分をまわっており、空襲警報発令中だった着くとまもなく空襲警報のサイレンが鳴り響いたという人もいる。
この駅で列車を待っていた人も多かった。
八王子市中野町(現・八王子市中野上町〈ナカノカミチョウ〉)に住んでいた萩原康子(現姓・長田、一二歳)は、母と妹三人が疎開していた山梨県北都留〈キタツル〉郡笹子村〈ササゴムラ〉へ配給物資を届けようと、中学生の兄の敏雄と一緒に待っていた。(「屍〈シカバネ〉の中から這い出して」)
地元南多摩郡浅川町小仏(現・八王子市裏高尾町)の青木孝司(二二歳)は甲府連隊に所属していたが、公用で何人かと東京に来て用を済ませ、実家に一晩泊り、連隊に戻るため浅川駅から乗ろうとしていた。
しかし、空襲警報が出たこともあり、駅では列車の出発を見合わせた。
「間もなく、外から『退避!』と怒鳴る人がいて、デッキにいた人は数人列車から降りて、駅の構内に散って行き」、二木金三郎は「少し離れた所にある貨物列車の陰に行き敵機の行動をみる事にし」たが、「客車内では降りて退避する人はあまりい」なかった。乗客全員は近くの寺院境内(南側にある大光寺か)、あるいは駅のホームとホームの間に避難させられたともいわれるが、おそらく、出入口やデッキに立っていた人たちだけが、構内に避難をしたのであろう。
妻と子ども二人の四人で乗りあわせていた中田春吉は、避難してくれとの知らせに列車を降りた。そして長男の智和(二歳)におにぎりの弁当を食べさせ、北口駅前の食堂(岸本屋か)で無理に頼んで茶わんに水をもらい、飲ませた。(「長男を抱いてくれた女性駅員」)智和は「おいしい、おいしい」と二杯も飲んだが、これが末期〈マツゴ〉の水となるとはその時想像だにしなかった。
細川鉄雄、繁忠の兄弟も列車から降りて、広い所にある木の下に行き(大光寺か)、義姉が作ってくれたにぎり飯を食べようとした。
一方、車内ではほとんどの乗客が発車を静かに待っていた。多くの乗客が小型機の空襲を心配していたが、三両目の車内では、乗客のそうした気持ちを落ち着かせるためであろう、下士官か将校らしい軍人が「我々が乗っているので、我々の指示に従って心配しないで下さい。安心して下さい」と言って歩いていた。市岡俊三はこの時に初めて、列車に兵隊が乗っているのを知ったという。
P51の編隊は午前一一時五八分ごろには多摩地方西部の上空を通過し、埼玉県に向かうのが目撃されていた。ここ浅川町でもその編隊を見たという人は多い。編隊はしばらく埼玉県付近を旋回した後、やがて南下を始めたのである。〈55~57ページ〉
第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」は、ここまで。
明日は、話題を変える。
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