礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

浅川駅で列車を待っていた人も多かった

2025-03-03 01:07:56 | コラムと名言
◎浅川駅で列車を待っていた人も多かった

 斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」について、その要所要所を紹介している。
 本日は、その五回目(最後)で、「浅川駅午前一一時一七分」の項を紹介する。この項は、その全部を紹介したい。

 浅川駅午前一一時一七分
 浅川駅は一九六一(昭和三六)年三月二〇日に高尾駅と改称されて現在にいたっている。一九六七(昭和四二)年に京王高尾線が高尾山口まで敷かれ、現在では駅南口にはマンションが建ちならび変化が激しいが、北口の駅舎は当時の姿をほぼとどめている。
 浅川駅が一九四五年八月までにP51の機銃掃射をうけたことは、五月二五日と七月八日の二度あり、その時に空いたと思われる穴が、一、二番線ホームの西側渡線橋から西にむかって二本目の柱の途中に、今でも残っている。
 四一九列車が浅川駅に着いた時には、すでに午前一一時三〇分をまわっており、空襲警報発令中だった着くとまもなく空襲警報のサイレンが鳴り響いたという人もいる。
 この駅で列車を待っていた人も多かった。
 八王子市中野町(現・八王子市中野上町〈ナカノカミチョウ〉)に住んでいた萩原康子(現姓・長田、一二歳)は、母と妹三人が疎開していた山梨県北都留〈キタツル〉郡笹子村〈ササゴムラ〉へ配給物資を届けようと、中学生の兄の敏雄と一緒に待っていた。(「屍〈シカバネ〉の中から這い出して」)
 地元南多摩郡浅川町小仏(現・八王子市裏高尾町)の青木孝司(二二歳)は甲府連隊に所属していたが、公用で何人かと東京に来て用を済ませ、実家に一晩泊り、連隊に戻るため浅川駅から乗ろうとしていた。
 しかし、空襲警報が出たこともあり、駅では列車の出発を見合わせた。
 「間もなく、外から『退避!』と怒鳴る人がいて、デッキにいた人は数人列車から降りて、駅の構内に散って行き」、二木金三郎は「少し離れた所にある貨物列車の陰に行き敵機の行動をみる事にし」たが、「客車内では降りて退避する人はあまりい」なかった。乗客全員は近くの寺院境内(南側にある大光寺か)、あるいは駅のホームとホームの間に避難させられたともいわれるが、おそらく、出入口やデッキに立っていた人たちだけが、構内に避難をしたのであろう。
 妻と子ども二人の四人で乗りあわせていた中田春吉は、避難してくれとの知らせに列車を降りた。そして長男の智和(二歳)におにぎりの弁当を食べさせ、北口駅前の食堂(岸本屋か)で無理に頼んで茶わんに水をもらい、飲ませた。(「長男を抱いてくれた女性駅員」)智和は「おいしい、おいしい」と二杯も飲んだが、これが末期〈マツゴ〉の水となるとはその時想像だにしなかった。
 細川鉄雄、繁忠の兄弟も列車から降りて、広い所にある木の下に行き(大光寺か)、義姉が作ってくれたにぎり飯を食べようとした。
 一方、車内ではほとんどの乗客が発車を静かに待っていた。多くの乗客が小型機の空襲を心配していたが、三両目の車内では、乗客のそうした気持ちを落ち着かせるためであろう、下士官か将校らしい軍人が「我々が乗っているので、我々の指示に従って心配しないで下さい。安心して下さい」と言って歩いていた。市岡俊三はこの時に初めて、列車に兵隊が乗っているのを知ったという。
 P51の編隊は午前一一時五八分ごろには多摩地方西部の上空を通過し、埼玉県に向かうのが目撃されていた。ここ浅川町でもその編隊を見たという人は多い。編隊はしばらく埼玉県付近を旋回した後、やがて南下を始めたのである。〈55~57ページ〉

 第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」は、ここまで。
 明日は、話題を変える。

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警報発令中だったが、列車は八王子駅を出た

2025-03-02 00:26:15 | コラムと名言
◎警報発令中だったが、列車は八王子駅を出た

 斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」について、その要所要所を紹介している。
 本日は、その四回目で、「八王子駅午前一一時三分」の項(51~55ページ)を紹介する。ただし、途中、52~54ページにあたる部分は割愛する。

 八王子駅午前一一時三分
 八王子駅では乗務員の交代が行なわれ、新宿から運転してきた鈴木機関士は降りて甲府機関区の竹井機関士に代わり、小尾機関助士、河野運転教習生、深沢隆機関助士見習いの計四人が運転台に乗りこんだ。
 駅のホームには三日ぶりの全面開通を待ちわびた人々が荷物を抱えていた。彼らは八王子市内から来たり、八高線〈ハチコウセン〉で埼玉県から、あるいは横浜線を使って神奈川県の相模原〈サガミハラ〉などからやってきていた。
 神奈川県横浜市鶴見区から八王子市本町〈ホンチョウ〉二丁目の親戚に息子二人を連れて七月初めに疎開してきた星野コト(三三歳)は、七月一四日に三男を出産していた。空襲で疎開先を焼かれ、バラック住まいをしていたので、神奈川県津久井郡の千木良〈チギラ〉の実家に再疎開しようと、生まれたばかりの三男を背負い、六歳の長男の賢一と次男の手を引いて一両目に乗りこんだ。
 わずか四ヵ月前に、父親の縁故を頼って東京都豊島区東長崎から神奈川県津久井郡小原町〈オバラマチ〉に疎開をし、そこから中央線で東京都立第四高等女学校(現・都立南多摩高校)に通っていた高橋道子(三年生)は、一〇日ほど前から中耳炎になり医者にもかかっていた。この日、その耳の具合があまりよくなかったが、母が「今日はいかない方がいいのではないか」と言うのを振り切って登校した。先生や友逹は大勢来ていて仕事をしたが、やはり具合が悪いのは治らず、友達より一足早く下校して、この列車に乗りこみ「後より二両目か三両目のデッキより一寸中に入った通路に立っていた」。(体験記)
【中略】
 午前一一時七分に発車するはずだった四一九列車が実際に発車をしたのは、一一時一五分の警戒警報が発令されたあとだった(あるいは三〇分の空襲警報後だったかもしれない)。この警報は、伊豆諸島上空を北上するP51の編隊が確認されたためのものだった。しかし八王子駅では、P51は北上中でまだ来ないと判断したのであろうか警報発令中にもかかわらず列車は発車した。
 しばらくの間、窓の外には焼け跡が広がるばかりだったが、線路が左に曲がるころから畑が広がりだした。西八王子駅を通過してからは列車は直進し、京王御陵線(大正天皇の多摩陵に参拝する客を目当てに北野駅から敷かれた線だったが、一九四五年一月運行は中止されていた)の鉄橋をくぐり、東浅川駅を右に見ながら通過し、緑連なる山々の手前にある浅川駅に着いた。予定では午前一一時一七分に到着するはずであった。

 都立第四高等女学校は八王子市明神町(みょうじんちょう)にあった。最寄りは八王子駅である。小原町に疎開していた同校三年生の高橋道子は、最寄りの与瀬駅(現・相模湖駅)から八王子駅まで通っていたのである。
 東浅川駅とあるのは、中央本線にあった駅で、正式名は「東浅川仮停車場」か。多摩御陵の近くに設けられていた、皇室専用の乗降施設だったが、1960年に廃止。

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立川市とその周辺は「軍都」となっていた

2025-03-01 00:02:23 | コラムと名言
◎立川市とその周辺は「軍都」となっていた

 斉藤勉著『中央本線四一九列車』(のんぶる舎、1992)から、第1章「悲劇への出発」の「一、長野行き四一九列車、悲劇への出発」について、その要所要所を紹介している。
 本日は、その三回目で、「立川駅午前一〇時四八分」の項(45~51ページ)を紹介する。ただし、途中、47~49ページにあたる部分は割愛する。

 立川駅午前一〇時四八分
 時刻表では、新宿駅を出た四一九列車は三八分後の午前一 〇時四八分に立川駅に入線することになっていた。しかし、出発がかなり遅れていたことから、実際に立川駅に到着したのは、午前一一時をまわっていたらしい。
 当時立川は、多摩地区にあっては軍需によって最も発展している都市だった。
 武蔵野台地の農村だった立川は、大正年間末の一九二二(大正一一)年、陸軍用飛行場(現・立川防災基地)の建設により「軍都」として発展を始める。一九三〇(昭和五)年には東京の月島にあった石川島飛行機が飛行機工場を完成させ(後に立川飛行機と改称)、一九三八(昭和一三)年には北に接する砂川村に分工場を設けた。同じ年、その北の大和村(現・東大和市)には東京瓦斯電気工業が航空機用発動機工場を作り(翌年、日立航空機立川発動機工場と改称)、また、立川の西北の昭和村(現・昭島市)では一九三八年昭和飛行機工業が操業を始めている。このように立川の周囲には日本を代表する軍需産業、軍事施設が市内外に集中し「軍都」となっていたのである。
 また鉄道も、中央線・青梅線のほか、一九三〇年三月に南武鉄道(現・JR南武線)が開通して川崎と結ばれ、同じ年の七月には五日市鉄道〈現・JR五日市線〉も開通して、青梅町〈オウメマチ〉や五日市など沿線の西多摩郡の各村とも結ばれるなど交通の要衝でもあった。
 こうしたことから立川市は、一九四五(昭和二〇)年四月四日以降、数回にわたってB29による空襲をうけた。爆弾や焼夷弾は立川市内外の軍需工場、軍事施設ばかりでなく市街地にも落ちて、大きな被害が出ていた。また、八月二日の八王子空襲の際にも、「側ずえ〔傍杖〕」空襲を受けていた。
 艦載機やP51の機銃掃射を受けることもしばしばで、七月八日にはP51の銃撃のため立川駅で男性車掌一名が即死し、女性車掌一名が重傷を負っていた。
 この立川駅からも、四一九列車に、山梨県の自宅や疎開先に向かう人たちが乗った。
【中略】
 こうしてさまざまな目的を持った多くの人を乗せた四一九列車は、発車時刻の午前一〇時四八分から遅れつつ発車した。おそらく時刻は午前一一時前後だったのだろう。
 列車はまもなく多摩川の鉄橋を渡り、日野駅を通過し、切り通しの間を進んで行った。この北のいわゆる日野台には東京自動車日野製造所(現・日野自動車工業)や六桜社(現・小西六写真功業)の工場がある。六桜社の経理担当取締役の渡辺由三郎(五一歳)も、この列車に乗りあわせていた。この年の春にできた諏訪工場に、火災保険契約のため行く所だった。
 やがて列車は豊田駅を過ぎ、浅川にかかる橋を渡った。まもなく列車の窓からは、八王子が見えてきた。しかし、それはかつての八王子ではなかった。都下随一の繁栄を誇った桑都〈ソウト〉の面影はなく、一面の焼け野原には焼け残った土蔵がぽつんぽつんと建っているのみであった。夜ともなればそれらの土蔵に急に空気が入って、炎を吹き上げ、焼け落ちる光景があちこちに見られた。
 八月二日の午前〇時過ぎ、八王子はB29一六九機による六七万個の焼夷弾攻撃を受け、旧市街地の八六パーセントが焼失していた。八王子駅一帯には万町〈ヨロズチョウ〉への第一弾からやや遅れて焼夷弾が落ち、駅舎はたちまち大火災につつまれ駅本屋をはじめとして、多くの付属施設が焼失した。ホームの屋根なども焼け落ち、鉄骨の柱と梁〈ハリ〉が残るのみであった。
 四一九列車は焼け落ちた八王子駅に、立川から約一〇分で到着した。到着予定時刻の午前一一時三分よりかなり遅れていた。午前一一時一五分には警戒警報が出されていたから、到着した時は警報の発令中だったのかもしれない。ここでは列車は四分ほど停車する予定だった。〈45~51ページ〉

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