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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

安倍首相の所信表明演説と古橋暉兒の農村復興実践

2014-09-30 07:39:48 | コラムと名言

◎安倍首相の所信表明演説と古橋暉兒の農村復興実践

*二〇一四年九月三〇日に、「安倍首相の所信表明演説と古橋暉皃の農村復興実践」という記事を載せましたが、愛知県豊田市稲武町の古橋懐古館の関係者のご指摘を受けましたので、タイトルを含めて、訂正と改稿をおこないました。これでも、なお、誤りがあった場合は、再度、訂正させていただきたくつもりです(2015・11・30記。なお、2016・1・22に再訂正しました)。

 二〇一四年九月二九日、臨時国会が開会した。九月三〇日の東京新聞によれば、安倍晋三首相は、その所信表明演説の最後で、古橋源六郎という篤農家に言及した。

「天は、なぜ、自分を、すり鉢のような谷間に生まれさせたのだ?」
 三河の稲橋村に生まれた、明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃〈テルノリ〉は、貧しい村に生まれた境遇を、こう嘆いていたと言います。しかし、ある時、峠の上から、周囲の山々や平野を見渡しながら、一つの確信に至りました。
「天は、水郷には魚や塩、平野には穀物や野菜、山村にはたくさんの樹木を、それぞれ与えているのだ」
 そう確信した彼は、植林、養蚕、茶の栽培など、土地に合った産業を新たに興し、稲橋村を豊かな村へと発展させることに成功しました。
 今、「日本はもう成長できない」「人口減少は避けられない」といった悲観的な意見があります。
 しかし、「地方」の豊かな個性を生かす。あらゆる「女性」に活躍の舞台を用意する。日本の中に眠る、ありとあらゆる可能性を開花させることで、まだまだ成長できる。日本の未来は、今、何をなすか、にかかっています。
 悲観して立ち止まるのではなく、可能性を信じて、前に進もうではありませんか。
厳しい現実に立ちすくむのではなく、輝ける未来を目指して、皆さん、ともに、立ち向かおうではありませんか。
 ご清聴ありがとうございました。

 寡聞にして古橋源六郎について知らなかったので、コトバンクで調べてみると、次のようにあった(世界大百科事典第2版)。

ふるはしげんろくろう【古橋源六郎】 1850-1909(嘉永3‐明治42)
 明治期の農村指導者。三河(愛知県)北設楽郡の豪族といわれた酒造家・名主である古橋家の7代目に生まれた。1878年から北設楽郡長を務めて地域産業の開発や社会教化に尽力、89年から没時まで稲橋村村長を務め、植林・製茶・養蚕・産馬・貯蓄を奨励した。篤農で勤王家であった父暉児が県内ではじめて開催した農談会を、彼は・村・郡内に広く組織し、後の系統農会の母体とした種苗所や農事講習所の設立に努め、農事関係の要職に選ばれて農業団体運動を促進したほか、品川弥二郎や副島種臣と親交があり、新知識を山村の郷里にもたらした。

 安倍首相は、この「古橋源六郎」のことを紹介しようとしたのだろうか。
 上記の「古橋源六郎」の説明の中に、「父暉児」とあるのが気になった。この「暉児」の「児」の旧字は、「兒」である。「暉兒」と「暉皃」とは、よく似ている。安倍首相が紹介しようとした「古橋源六郎暉皃」は、世界大百科事典第2版が説明しようとした「古橋源六郎」ではなく、その「父」のことだったのではないのか。
 そこで、今度は、古橋暉皃をコトバンクで調べてみた(朝日日本歴史人物事典)。

古橋暉兒【ふるはし・てるのり】
没年:明治25.12.24(1892)
生年:文化10.3.23(1827.4.18)

 幕末明治期の篤農家。富田高慶、岡田良一郎と共に三篤農ともいわれる。三河国設楽郡稲橋村(愛知県稲武町)の豪農古橋家に生れる。義政と加乃の次男。世襲名源六郎(6代)。なお諱の暉児は誤記。天保2(1831)年19歳で父に代わって傾いた家政を再建、天保大飢饉(1836)には借金借米をして飢民を救済した。同9年稲橋村庄屋となり、11年には11カ村の総代となる。村の名望家として村民の救済、農村の自力更生に尽力した。文久3(1863)年、宮司羽田野敬雄を介して国学の平田銕胤に入門、訪れる勤皇の志士を援助し、そのひとり佐藤清臣は、のちに暉皃が設立した郷学明月清風校の校長になっている。維新後、三河県庁、伊勢県庁に出仕したが、明治5(1872)年には退職し、家督も子の義真に譲る。以後、村の殖産興業に尽力し、林業をはじめ茶、養蚕、煙草、産馬改良などの事業に取り組んだ。同11年には近郷の農民有志と農談会を結成、16年には官有林の払下げを受けて植樹を呼びかけ、報徳運動を導入して稲橋村の経済の基礎を確立した。『報告捷径』『経済之百年』『富国の種まき』

 安倍首相が紹介したかったのは、こちらの「古橋源六郎」だったと見てよいだろう。
 ところが、古橋懐古館の関係者によれば、この「古橋暉皃」の説明には誤りがあるという。正しくは次の通り。

古橋暉兒【ふるはし・てるのり】
没年:明治25.12.24(1892)
生年:文化10.3.23(1813.4.18)

 幕末明治期の篤農家。富田高慶、岡田良一郎と共に三篤農ともいわれる。三河国設楽郡稲橋村(愛知県稲武町)の豪農古橋家に生れる。義政と加乃の次男。世襲名源六郎(6代)。なお諱の暉皃は誤記。天保2(1831)年19歳で父に代わって傾いた家政を再建、天保大飢饉(1836)には借金借米をして飢民を救済した。同9年稲橋村庄屋となり、11年には11カ村の総代となる。村の名望家として村民の救済、農村の自力更生に尽力した。文久3(1863)年、宮司羽田野敬雄を介して国学の平田銕胤に入門、訪れる勤皇の志士を援助し、そのひとり佐藤清臣は、のちに暉兒が設立した郷学明月清風校の校長になっている。維新後、三河県庁、伊勢県庁に出仕したが、明治5(1872)年には退職し、家督も子の義眞に譲る。以後、村の殖産興業に尽力し、林業をはじめ茶、養蚕、煙草、産馬改良などの事業に取り組んだ。同11年には近郷の農民有志と農談会を結成、16年には官有林の払下げを受けて植樹を呼びかけ、報徳運動を導入して稲橋村の経済の基礎を確立した。『報告捷径』『経済之百年』『富国の種まき』
 
 古橋源六郎は、古橋家の世襲名で、第六代が古橋源六郎暉兒〈テルノリ〉、第七代が古橋源六郎義眞〈ヨシザネ〉だったということである。
 ちなみに、暉皃(誤記)の「皃」は、貌の異体字で、読みは、音で「ボウ」、訓で「かお」、「かたち」。これを「のり」と読ませる例があるはどうかは知らないが、これとよく似た「象」という字は、「かたち」とも「のり」とも読むので、ありえない読みとまでは言えない。
 安倍首相が、演説の中で、「明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃」と表現した。この「暉皃」は誤記ということになるが、そのほか、第七代古橋源六郎義眞との区別を明確にするために、「幕末・明治の農業指導者、古橋源六郎暉兒」と、あるいは「幕末・明治の農業指導者、古橋暉兒」と表現しておくとよかったと思う。
 それにしても、首相が地方再生のモデルとして挙げた人物が「報徳運動」の実践家だったとは! 言うまでもなく、報徳運動というのは、二宮尊徳の思想と実践を踏まえた農村復興運動のことである。

*参考までに、訂正前の記事も、消さずに掲げておきます。

◎安倍首相の所信表明演説と古橋暉皃の農村復興実践

 昨日、臨時国会が開会した。本日の東京新聞によれば、安倍晋三首相は、その所信表明演説の最後で、古橋源六郎という篤農家に言及した。

「天は、なぜ、自分を、すり鉢のような谷間に生まれさせたのだ?」
 三河の稲橋村に生まれた、明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃〈テルノリ〉は、貧しい村に生まれた境遇を、こう嘆いていたと言います。しかし、ある時、峠の上から、周囲の山々や平野を見渡しながら、一つの確信に至りました。
「天は、水郷には魚や塩、平野には穀物や野菜、山村にはたくさんの樹木を、それぞれ与えているのだ」
 そう確信した彼は、植林、養蚕、茶の栽培など、土地に合った産業を新たに興し、稲橋村を豊かな村へと発展させることに成功しました。
 今、「日本はもう成長できない」「人口減少は避けられない」といった悲観的な意見があります。
 しかし、「地方」の豊かな個性を生かす。あらゆる「女性」に活躍の舞台を用意する。日本の中に眠る、ありとあらゆる可能性を開花させることで、まだまだ成長できる。日本の未来は、今、何をなすか、にかかっています。
 悲観して立ち止まるのではなく、可能性を信じて、前に進もうではありませんか。
厳しい現実に立ちすくむのではなく、輝ける未来を目指して、皆さん、ともに、立ち向かおうではありませんか。
 ご清聴ありがとうございました。

 寡聞にして古橋源六郎について知らなかったので、コトバンクで調べてみると、次のようにあった。

ふるはしげんろくろう【古橋源六郎】 1850-1909(嘉永3‐明治42)
 明治期の農村指導者。三河(愛知県)北設楽郡の豪族といわれた酒造家・名主である古橋家の7代目に生まれた。1878年から北設楽郡長を務めて地域産業の開発や社会教化に尽力、89年から没時まで稲橋村村長を務め、植林・製茶・養蚕・産馬・貯蓄を奨励した。篤農で勤王家であった父暉児が県内ではじめて開催した農談会を、彼は・村・郡内に広く組織し、後の系統農会の母体とした種苗所や農事講習所の設立に努め、農事関係の要職に選ばれて農業団体運動を促進したほか、品川弥二郎や副島種臣と親交があり、新知識を山村の郷里にもたらした。

 安倍首相は、この「古橋源六郎」のことを紹介しようとしたのだろうか。
 ところが、上記の説明に「父暉児」とあるのが気になった。この「暉児」と「暉皃」とは、よく似ている。安倍首相が紹介しようとしたのは、上記「古橋源六郎」の父のことだったのではないのか。
 そこで、今度は、古橋暉皃をコトバンクで調べてみた。

古橋暉皃【ふるはし・てるのり】
生年:文化10.3.23(1827.4.18)
没年:明治25.12.24(1892)
 幕末明治期の篤農家。高田高慶、岡田良一郎と共に三篤農ともいわれる。三河国設楽郡稲橋村(愛知県稲武町)の豪農古橋家に生れる。義政と加乃の次男。世襲名源六郎(6代)。なお諱の暉児は誤記。天保2(1831)年19歳で父に代わって傾いた家政を再建、天保大飢饉(1836)には借金借米をして飢民を救済した。同9年稲橋村庄屋となり、11年には11カ村の総代となる。村の名望家として村民の救済、農村の自力更生に尽力した。文久3(1863)年、宮司羽田野敬雄を介して国学の平田銕胤に入門、銕訪れる勤皇の志士を援助し、そのひとり佐藤清臣は、のちに暉皃が設立した郷学明月清風校の校長になっている。維新後、三河県庁、伊勢県庁に出仕したが、明治5(1872)年には退職し、家督も子の義真に譲る。以後、村の殖産興業に尽力し、林業をはじめ茶、養蚕、煙草、産馬改良などの事業に取り組んだ。同11年には近郷の農民有志と農談会を結成、16年には官有林の払下げを受けて植樹を呼びかけ、報徳運動を導入して稲橋村の経済の基礎を確立した。『報告捷径』『経済之百年』『富国の種まき』

 どうも、安倍首相が紹介したかったのは、こちらの「古橋源六郎」だったと思われる。
 古橋源六郎は、古橋家の世襲名で、第六代が古橋源六郎暉皃〈テルノリ〉、第七代が古橋源六郎義真〈ヨシザネ〉だったということである。
 ちなみに、暉皃の「皃」は、貌の異体字で、読みは、音で「ボウ」、訓で「かお」、「かたち」。これを「のり」と読ませる例があるはどうかは知らないが、これとよく似た「象」という字は、「かたち」とも「のり」とも読むので、ありえない読みとまでは言えない。
 安倍首相が、演説の中で、「明治時代の農業指導者、古橋源六郎暉皃」と表現したのは誤りではない。しかし、第七代との区別を明確にするためには、「幕末・明治の農業指導者、古橋源六郎暉皃」と、あるいは「幕末・明治の農業指導者、古橋暉皃」と表現すべきだったのではないか。
 それにしても、首相が地方再生のモデルとして挙げた人物が「報徳運動」の実践家だったとは! 言うまでもなく、報徳運動というのは、二宮尊徳の思想と実践を踏まえた農村復興運動のことである。

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批評社刊『史疑 幻の家康論』のバリエーション

2014-09-29 04:23:59 | コラムと名言

◎批評社刊『史疑 幻の家康論』のバリエーション

 昨日、鵜崎巨石氏による拙著『史疑 幻の家康論』の書評を紹介した。その中で鵜崎氏は、この本の主題を、「『下級武士』とも言いえぬ低い階層が維新の元勲となったことから生ずる種々の事件、言説」というふうに捉えている。この捉え方は適切である。タイトルからは、まず予想できないわけだが、同書の主題は、まさにそこにあったのである。
 そこでさらに、「『下級武士』とも言いえぬ低い階層」とは何かということになる。この問題については、このあと、このブログでも少し説明する予定だが、詳しくは、同書の第五章「『下級武士』論」を参照いただければ幸いである。
 さて、昨日のブログでも少し触れたが、『史疑 幻の家康論』という本には、一九九四年の初版以来、いくつかのバージョンが存在する。これが、かなりヤヤこしいので、本日は、これについて少し整理しておきたい。なお、版元は、すべて批評社である。

 礫川全次編『覆刻 史疑 幻の家康論』一九九四年五月二五日初版。村岡素一郎の『史疑 徳川家康事蹟』(民友社、一九〇二)の全ページを復刻し、これに礫川による解説(全八章)を付したもの。三九八ページ、定価三二五〇円(税込み)。

 礫川全次著『史疑 幻の家康論』(新装増補改訂版)二〇〇〇年二月一〇日初版。の解説部分を独立させたもの。の解説部分・八章に、補章「幻の家康論・その後」を加えて、全九章。一七三ページ、定価一七〇〇円(本体)。

 村岡素一郎著『史疑 徳川家康事蹟』〔覆刻版〕二〇〇〇年四月一〇日初版。村岡素一郎の『史疑 徳川家康事蹟』(民友社、一九〇二)の全ページを復刻したもの。一八二ページ(本文)+三二ページ(広告等)、定価一五〇〇円(本体)。

 村岡素一郎著・礫川全次現代語訳『史疑 徳川家康事蹟 現代語訳』二〇〇〇年四月一〇日初版。村岡素一郎の『史疑 徳川家康事蹟』(民友社、一九〇二)を礫川が現代語訳したもの。一八二ページ、定価一五〇〇円(本体)。

【注1】は、ひとつの函に入れ、セットで発売(別売はせず)。三〇〇〇円(本体)。函には村岡素一郎原著・礫川全次現代語訳『史疑 徳川家康事蹟』とある。

Ⅴ 礫川全次著『史疑 幻の家康論』(新装増補改訂版)二〇〇七年八月一〇日初版。をさらに増補したもの。の補章に小見出し「丸谷才一氏の書評」を加え、さらに補論「近代日本における〈ネジレ〉の構造」を加えた。すなわち、全九章+補論。一八七ページ、定価一八〇〇円(本体)。

【注2】細かいことだが、にはオビがあって、にはオビがない。また、のオビは、当初はオリーブ色のものだったが、のちに赤褐色のものに変わった。後者には、丸谷才一氏の書評(朝日新聞二〇〇〇・八・二七)からの引用がある。

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鵜崎巨石氏評『史疑 幻の家康論』(新装増補改訂版)

2014-09-28 07:31:40 | コラムと名言

◎鵜崎巨石氏評『史疑 幻の家康論』(新装増補改訂版)

 昨日に続き、本日も、鵜崎巨石氏による拙著への書評を紹介させていただきたい。紹介するのは、拙著『史疑 幻の家康論』(批評社)の新装増補改訂版に対する書評である。今月一三日の「鵜崎巨石のブログ」から、お許しを得て、転載させていただくものである。
 なお、引用文中、〔 〕、〈 〉は、引用者(礫川)によるお節介であり、太字もまた礫川によるものである。

礫川全次著「史疑幻の家康論」
 今日はまたまた礫川全次著「史疑幻の家康論」新装増補改訂版批評社刊。
 この頃は、出来るだけ礫川氏の関係する本を読んでみたいと思っている。
 本書は題名からして興味深い。
 家康ニセモノ論はかなり「人民」にも広まっている。わたしの父親は商人で、読書の習慣はなかったが、わたしがローティーンの時に家康願人坊主〈ガンニンボウズ〉説を言っていた。ラジオやテレビで聞いたはずは無いから、その「出典」は、いまだに謎である。
 願人坊主について、わたしがその正体を知ったのは、後のことだが、次郎長三国志から、法印大五郎(田中春男の役かな)あたりを想像したものだ。
 果たして本書の表題上のテーマは、その家康願人坊主説を採り上げたものである。
 著者の慫慂に従い、後半の「史疑」の概略紹介から読み始めたところ、そのまま読んでいくと、実は家康ニセモノ説の根拠の中に、貴賤交替論(下克上)が含まれており、それが本説の現れた明治期の為政者批判を隠喩しているとの種明かしを、読了前に知るところとなった。
 キーワードはネジレ。前回採り上げた礫川氏著作「日本保守思想のアポリア」と共通する観念で、攘夷を「マニフェスト」として掲げた政権が、結局政敵のマニフェスト「開国」政策を進める。権力獲得後の自家撞着である。裏切られた者の恨みは深い。
 だから本書において、願人坊主説の決定的な弱さは、それほど意味をなさないのである。願人坊主は落剥した宗教芸能者として、発生は早かったかもしれないが、やはり人口に膾炙するようになったのは歌舞伎で「まかしょ」が出てきた辺りからであり、すたすた坊主などのバリエーションが出る江戸中期以降であると思う。
 家康は、願人坊主でも聖俗の間に立つ阿弥衆でも何でも良かったのだ。
 わたしなどは「薩長の田舎侍風情が経営した蕪雑なる明治政府」「徳川の御盛時/御瓦解のみぎり」の口だから、史感(「観」ではない)上の問題はない。
 そもそも大名などという者は、守護大名でもない限り、秀吉、小六〔蜂須賀小六〕を論う〈アゲツラウ〉までもなく、どこの馬の骨か判らぬとは、匹夫〈ヒップ〉でさえ知るところであった。
 したがって読み始めは、テレビが我が家に来て以来、わたしが初めて楽しんだ長編時代劇阿木翁助〈アギ・オウスケ〉脚本「徳川家康」(調べてみたらNHKではなく当時のNETだった)を想定しつつ、それに出演していた市川右太衛門親子や村松英子(お大)、扇千景(築山殿)などを目に浮かべて読み進めたのだが。
 また本書を冒頭に戻し、わたしは、本書の主題である、「下級武士」とも言いえぬ低い階層が維新の元勲となったことから生ずる種々の事件、言説を読む。よい読ませ方だ。
「日本保守思想のアポリア」の主役伊藤博文暗殺についても、孝明天皇を巡る謀略説などと安重根の申し立てなど、新しい話題を礫川氏は提供している。これもいずれ読むこととしようが、本書の陰の主題は山県有朋。わたしも山県について、いやな権力亡者としてのみ考えていたが、本書を読んですこぶる興味深い人物と識った。ともかく、天皇というものを草莽の志士たちが「秘鑰」(ヒヤク 難しい言葉を使いますなあ)として、玉(ギョク)と呼んで動いていたところなど、カードゲームのようだ。
 内村鑑三の勝海舟観も興味深い。明治期が進むにつれ、勝の慶喜に対する「待遇表現」が歴然と変わっていったことには従来関心があったが。
 著者も語るが、明治30年頃からはかなり言論が(覇気さえあれば)自由になったという。
 そこで抹殺博士重野安繹〈シゲノ・ヤスツグ〉などが出てくる。この人のことも読んでみたい。
 わたしは、読後に思うのだが、「日本保守思想のアポリア」でも出てきた「天皇機関説」である。この思想は近代立憲君主法制思想からすれば出るべくして出てくる憲法説であるとは思う。
 しかし、本説も明治30年頃から生じた。この説とさきほどの「天皇・玉」思想とは、やや通ずるところがあると思うのだが、著者はこれについてすでに述べているのかも知れない。
 いずれにせよ本書に満点を差し上げたい。

 鵜崎巨石さんに、「満点」をいただいて、恐縮するばかりだが、この本は、いわゆる「若書き」であって、今、読み直してみると、力ばかり入って、ワキの甘さが目立つ。
 さて、上記の書評においては、「本書において、願人坊主説の決定的な弱さは、それほど意味をなさない」という一行(太字)が、この評者のすごいところで、そう言っていただければ、書いたほうとしても、張り合いがあるというものです。
 なお、『史疑 幻の家康論』には、同じく「新装増補改訂版」と銘うったものが二種類あって、ひとつは二〇〇〇年に、もうひとつは二〇〇七年に出ている(若干、内容が異なる)。鵜崎氏にお読みいただいたのが、どちらであったのかわからないが、たぶん、後者であったと思う。そもそも、この『史疑 幻の家康論』には、一九九四年の初版以来、多くのバージョンがあるのだが、これについては、機会を改めて。【この話、未完】

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鵜崎巨石氏評『攘夷と憂国―近代化のネジレと捏造された維新史』

2014-09-27 04:41:28 | コラムと名言

◎鵜崎巨石氏評『攘夷と憂国―近代化のネジレと捏造された維新史』

「鵜崎巨石のブログ」を主宰されている鵜崎巨石さんが、今月一九日、同ブログで、拙著『攘夷と憂国―近代化のネジレと捏造された維新史』について論評してくださったので、本日は、これを転載させていただく。

礫川全次「攘夷と憂国 近代化のネジレと捏造された維新史」
 今日もまたまた礫川全次「攘夷と憂国 近代化のネジレと捏造された維新史」批評社。
 このブログで、著者の作は数冊採り上げたが、本書は「日本保守思想のアポリア」「アウトローの近代史」「史疑幻の家康論」と並ぶ「ネジレ」シリーズの一環。
 であれば読む順序というものがありそうだが。行き当たりばったりであったので、そうはならない。
とは言いながら、このネジレ・シリーズには、一貫したベースがありネジレていないので、そこら辺は気にしなくとも良い。読むに従い、著者の文体や論理展開に慣れてくるから読書時間も短くて済むようになる。
 本論に入る前の贅言。
 礫川氏は盛んに在野史家と言うことを本屋(批評社)に言わせるだけでなく、自らも強調する。著者の経歴が明らかでないので、何とも言えないが、少なくとも歴史学民俗学については、アカデミックな経歴がないためであろう。
 であるとすれば、資料の収集については、相当の苦労があることだろう。アカデミズムの権威があれば、容易に旧家資料にも当たれるであろうし、図書館の利用も容易であろう。第一弟子に探させれば済む。
 自分で丹念に歩き頭を下げ、本屋に根回しして、業者仲間を経た高額の古書を買わなくてはならない。
 書き上げたいテーマも、本著にもあるとおり、「維新の群像」としてファンが多い人物や、今なお権威を有する大人物の異史であるから、関係方面の反発もあるだろう。
 同情しつつブログを進めよう。
 本著の「ネジレ」は、「日本保守思想のアポリア」とややダブるところがあるが、今回は人物や事件をテーマとして、その詳細を論ずることで、より深部に及ぶと言うことで、二番煎じとは全くなっていない。
 もっとも本作の方が3年ほど先だから、論理的に事を進めていることが判る。
 最初は本居宣長。宣長は周知の通り、日本国学の祖であり、その流れは結果として我が国民俗学にも大きな影響を与えたが、本論では、対するに同じ国学者としての上田秋成を対比として採り上げて、偏狭な宣長の論を明らかにし、これが後世、強硬な攘夷を鼓舞し、必然である開国との矛盾(ネジレ)の基となることを指摘する。
 次が、2章に渉って吉田松陰。松下村塾で維新の英傑を輩出した松陰が、攘夷を鼓吹しつつ、一時はロシア船を経た海外渡航を図った後、今度は米国船で再びこれを試みる。周知の歴史を掘り下げる。
 すなわち松陰のこの挙の裏からは、彼が刺客たらんとした意志があったこと。ないしは松陰自身の虚偽癖ないしは一貫性に欠ける分裂的な行動が明かである。
 いわば個人としてネジレを体現した人物であるのかも知れない。
 次の福沢諭吉では、後半のテーマでもある、幕臣中に顕在していた「廃帝・幕府による権力再奪取説」の伏線が、「外国の兵を借りて長州を討つ」ともに福沢の言論で長く秘せられた意見として語られる。面白い。
 同様な論が、次の小栗上野でもあったこと。
 さらには次次章では、この奪取策が、結局長州の後は薩摩打破に繋がると、西郷南州は察知していたらしいことが語られる。この際食わせ者の勝海州が描かれている。
 続く章では、弊履の如く官軍に捨て去られた「赤報隊」を通じ、別著「アウトローの近代史」で採り上げられた博徒ヤクザの維新への関与が再説される。
 さらに神戸事件や郡県制、西郷に先立つ征韓論と対馬藩の二重冊封などが語られるが、興味ある方の購読意欲のため、ここら辺で紹介はとどめよう。
 例によって、コラムなどの、編集上のサービスがある。これらはそれごとに興味が尽きないが、この中で「敵を欺くものはまず味方を欺く」。
 徳川斉昭は「実は」開国派だったとの述懐はよいとしても、ここでの吉田松陰の記述の躊躇は、読者に混乱を与えないか。ちょっとだけ不満を言っておこう。

『攘夷と憂国』は、二〇一〇年に刊行した本である。タイトル、サブタイトルからおわかりのように、かなりの「意気込み」を持って書いた本である。その割には、当時から今日にいたるまで、これといった反応もなく(批判すらなかった)、つくづく「在野史家」の悲哀を味わった次第である。ところが、上記の鵜崎氏の一文は、そうした著者の心胆を見透かす一方で、筆者がおずおずと提起したポイントを、ことごとく見抜き、平然と列挙している。著者としては、まことに有り難く、また張り合いを感じた書評であった。
 さて、上記の書評の最後のところで、鵜崎巨石氏は、コラム「敵を欺くものはまず味方を欺く」(同書二五二ページ)を意識しながら、「吉田松陰の記述の躊躇」ということを言われている。ここが、氏の鋭いところであり、優しいところである。記述に関して、著者に「躊躇」があったわけではない。吉田松陰についての捉え方が、まだ十分に定まっておらず、明瞭な言い回しができなかったにすぎない。
 今の時点であれば、次のように言うことができる。「ペリー暗殺を目的に米艦に搭乗したものの、暗殺に失敗したばかりか、海外渡航を目指したと言いつくろった。ここに、松陰における揺れと虚偽がある。この揺れと虚偽は、松陰のその後の言動を両義的(多義的)にし、その思想は矛盾に満ちたものになった。松下村塾における門弟は、その矛盾に満ちた思想に感化されたことになる。松陰の揺れと虚偽は、その後の近代日本におけるネジレを造り出すことになった。その思想は、近代日本におけるネジレを象徴するものであった」と。
 ところが、鵜崎氏は、上記書評において、吉田松陰は、「いわば個人としてネジレを体現した人物であるのかも知れない」ということを、アッサリと指摘されている(太字)。今の時点で礫川が補足しなければならないことを、氏は先取りされているわけである。おそるべき書評である。

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東学党の吊民文(1894年5月8日)

2014-09-26 03:52:38 | コラムと名言

◎東学党の吊民文(1894年5月8日)

 昨日の続きである。『内乱実記 朝鮮事件』(文真堂、一八九四)の二四~二五ページに、「東学党の吊民文」というものが紹介されている。いわば、決起趣意書といった性格のものであろう。本日は、これを紹介してみる。改行は、原文のまま、句読点を、適宜、追加している。

○書 翰  (六月二日釜山発通信)
 東学党の吊民文
五月八日を以て東学党が法聖邑の吏に致したる通文、左の如し
 聖明〔天子〕上〈カミ〉に在ませ共〈マシマセドモ〉生民塗炭の苦に沈む。其故は如何、民
 弊の本〈モト〉は吏逋〈リホ〉に由り、吏逋の根は貪官〈ドンカン〉に由り、貪官の犯
 す所は則ち執権の貪婪〈ドンラン〉に由ればなり。噫〈アア〉乱極れば則ち
 治となり、晦変すれば則ち明となる、是理の常なり。今、我
 儕〈ワレラ〉民国の為めにする精神、豈に〈アニ〉眼中、吏民の別をなすこ
 とあらんや。其本を究むれば、則ち吏も亦民なり。各公文
 簿の吏逋、及び民疾の条件あらば、凡て之を我儕に報じ
 来れ〈キタレ〉。当に〈マサニ〉相当処置の方ある可し。希くは、至急に持し〈ジシ〉
 来つて、敢て或は其時刻に違ふ〈タガウ〉こと勿らんことを。(其
 紙上にある押図を見るに守令の印信の如し)
通文、尚一通あり。
 吾儕今日の挙は、上宗社を保ち、下〈シモ〉黎民を安んじ、而して
 之れが為めに一同死を指し誓〈チカイ〉をなす者なれば、敢て恐
 動を生ずること勿れ。茲に〈ココニ〉先途に於て、釐正〈リセイ〉せんと欲す
 る者を列記すれば、第一、転運営が弊を吏民になすこと。
 第二、均田官が弊を去り、又弊を生ずること。第三、各市井
 の分銭収税のこと。第四、各浦口〈ホコウ〉の船主勒奪〈ロクダツ〉のこと。第五、
 他国潛商が竣価(前貸のこと)貿来〈ボウライ〉のこと。第六、塩分の
 市税のこと。第七、各項物件都売利を取ること。第八、白地(未墾地)
 に徴税し、松田〈ショウデン〉に起陣すること等。臥還〈ガカン〉の抜本
 条々の弊疾、尽く記すべからず。此際に当り、吾〈ワガ〉士農工賈
 四業の民が、同心協力して上は国家を輔け〈タスケ〉、下は死に瀕
 せる民生を安んずること、豈に幸事にあらずや。

 いくつか、珍しい漢語が出てくるが、これらについて解説する力量はない。そもそも、「吊民文」の意味がわからない。あるいは、「人民に同情する文」といった意味か(吊は弔に通ずるので)。なお、インターネット上にも、上記とほぼ同じ文章が見出せる。それによれば、これは、同年同月七日付の万朝報〈ヨロズチョウホウ〉の記事「朝鮮戦記 五月廿六日仁川発通信の続き」であったものと推測される。

コメント (1)
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