礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

国家儀礼としての学校儀式・その2(桃井銀平)

2019-03-31 13:47:49 | コラムと名言

◎国家儀礼としての学校儀式・その2(桃井銀平)

 桃井銀平さんの論文の紹介を続ける。本日は、「2,2011年3~4月の都立高校の例-某区9校」の「 (1) 卒業式-3月」を紹介する。

2,2011年3~4月の都立高校の例-某区9校
 象徴を使用した儀礼実施によって忠君愛国精神を育てようとするのが、敗戦前の祝祭日学校儀式であった。敗戦による一時的中断を経て、御真影に代えて日の丸を中核要素の一つとした学校儀式の復活が目指された。会場配置図・式次第・進行表を見ると、儀式の全体構造および参列者の身体の動きがどのように組み立てられて、どのような象徴的効果を発揮するものかがよく読み取れる。
(1) 卒業式-3月 〔全体像は別紙資料1〕
① 会場配置図から
 資料dは会場配置図の代表例で、場所は当該校の体育館である〔8〕。壇上正面に中央の国旗を挟んで右に校旗、左に都旗が「掲揚」〔9〕されている。卒業生は壇の下、最前部にクラスごと横1列で座席が配置されている。担任団は都教委・校長・室長の後部に縦に5名並んでいる。その後ろに一般教員が横二列で縦に長く配置されている。その最後尾に副校長席がある。都教委席の明示がある6例の全てが学校側座席の最前部で、校長の前である。また、通例、正面をのぞく3面の内壁が紅白幕で飾られるなどして、儀礼の空間の荘厳・画定が行われている。
 この例で注意すべきは、一般教員席の右に以下の注意書きがあることである。「生徒・保護者のイスの向きは全て舞台正面に向ける。(この図では左方が舞台正面)来賓・教職員のイスは45度内側に向ける。」正面舞台中央への正対を徹底させる趣旨である。このような例は他に1例ある。他に壇上に都教委・校長等および来賓の席を配置する例が3あるが、いずれも正面中央に向かって斜めに配置されている。さらに教師の位置・方向の異様さにも注意されたい。全例、卒業生の側面に着席し正面を向いたままであって、生徒と同じ方向を向いている。卒業生担任がそれぞれ自分のクラスの近くにいるわけでもない。
② 式次第・司会進行表から
 全例が卒業生の入場に続いて「開式の辞」が発語され、8例が「閉式の辞」にすぐ続いて卒業生が退場する(残る1例は式次第終了後に「思い出のビデオ」上映)。これが、儀礼の時間の画定となる。全体として、異様に思えるほどの画一性が支配している。国歌・校歌の他に「式歌」または「卒業生の歌」があるものは2例のみ。式次第外であるが、「卒業生企画-思い出のビデオ上映」を配置しているのが1例あるのみである。来賓祝辞を省略した例が2つあっても「東京都教育委員会挨拶」は全例で行われ、それも「校長式辞」の直後に配置してある。以下、いくつか注目すべき点を指摘する。
1) 冒頭におかれた<国旗に正対し起立して国歌斉唱>
 9校すべてで冒頭に開式の辞の直後に国歌斉唱が行われている。参列者全ての座席は正面または正面中央に向いている。式次第の諸儀礼行為では、特にこの部分が通達と職務命令によって強く一律に規定されている部分である。儀式の冒頭に国旗に向かって国歌を斉唱する儀礼行為が配置されていることは、儀式全体の性格を大きく規定するものである。通達にはこの位置は明記されていないが、通達発出以前の強制的指導による定式化と儀式事前のチェックによって例外が許されないものとなっている。このときの儀礼行為は、例外なく無人の壇上正面に向かって行われている。9例中7例はここで「礼」が行われる。国旗の位置は向かって右に並んだ都旗とのセットが3例、向かって右に校旗・左に都旗の中央に置かれているのが6例である。正面中央に掲示する旗は複数あっても「君」の「代」を讃える「国歌」が国旗に対するものであることは疑問の余地はない。
2) 卒業証書授与
校長は高等学校の全課程修了=「卒業」を認定した生徒には卒業証書を授与しなければならない〔10〕。卒業の認定そのものは卒業式以前になされており、卒業証書授与は卒業を認定した校長にとって義務となる。また、卒業証書授与の具体的方法について法令上の規定はない。しかし、卒業生は、9例等しく一人一人「君」「さん」付けのない呼び捨てで呼名を受け起立して、代表または全員壇上正面の校長の前に出て礼をして証書を受け取る。
3) 国旗を背に語る人物  
 9例すべてで、校長、教育委員会職員と来賓は壇上で国旗を背に語りかける。国旗を背景にした人物は国家のもつ権威をを体現することになるが、一方、在校生代表の送辞では4例が登壇して卒業生の方に向き、2例が壇の下で卒業生に振り向いたかたちで語りかけられ、1例が位置不明、2例がそもそも送辞はない。壇の下の2例こそが儀式全体の象徴的秩序に合致したものである。なお、卒業生答辞は、そもそも答辞がない1例を除き全てで、代表が登壇し正面演壇の校長に対して行われる。
4) 閉式の辞
9例中7例が、「一同起立」-「閉式の辞」-「礼」-「着席」という儀礼行為を遂行する。残る2例は、「礼」はない。全例が壇上正面には人がいない状態。国家儀礼としては、国旗に向かっての「礼」がある方がより完成態であるといってよい。
5) 起立斉唱へのこだわり
 10.23通達と職務命令で教職員には国旗に正対しての国歌斉唱が義務づけられており、110.23通達以後の東京都の400を超える懲戒処分例(入学式と少数の周年行事も含む)のうち、ごく少数の式場への不入場のほかは全てこの場面での「不起立」「不伴奏」が理由となっている(「不斉唱」はいまのところ確認の対象となっていない)。それだけではなく、生徒の起立斉唱も重視していることが、司会進行表でわかる〔11〕。学習指導要領の国旗・国歌条項の趣旨からすれば、起立斉唱という点では生徒が最終の目的である。9校全てについて司会の発言を資料eに列記しておく。
 なお、H校の場合は、保護者への対応も予定していることに注意されたい。I校の場合は、生徒だけでなく参列者一般に起立を促す趣旨だろう。

注〔8〕当該校の体育館が7例。他は定時制校の一部で当該校の音楽室または視聴覚ホールである。
注〔9〕「掲揚」とは、本来はポールなどの先端に高く掲げることである。
注〔10〕学校教育法施行規則第58条(「校長は、小学校の全課程を修了したと認めた者には、卒業証書を授与しなければならない。」) およびその高等学校への準用(第104条)
注〔11〕東京都教育委員会は、生徒の起立斉唱についても重ねて通知を出している。

        ○入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の指導について
                                              平成18年3月13日
                                              17教指企第1193号
 都立高等学校長
 都立盲・ろう・養護学校長
 都立中学校・中等教育学校長

 東京都教育委員会は、「入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱の実施について(通達)」(平成15年10月23日付15教指企第569号)により、各学校が入学式、卒業式等における国旗掲揚及び国歌斉唱を適正に実施するように通達した。また、「入学式・卒業式の適正な実施について(通知)」(平成16年3月11日付15教指高第525号)により、生徒に対する不適正な指導を行わないこと等を校長が教職員に指導するよう通知した。
 しかし、今般、一部の都立高等学校定時制課程卒業式において、国歌斉唱時に学級の生徒の大半が起立しないという事態が発生した。
 ついては、上記通達及び通知の趣旨をなお一層徹底するとともに、校長は自らの権限と責任において、学習指導要領に基づき適正に児童・生徒を指導することを、教職員に徹底するよう通達する。

*このブログの人気記事 2019・4・1(9位にやや珍しいものが入っています)

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国家儀礼としての学校儀式(桃井銀平)

2019-03-30 13:42:45 | コラムと名言

◎国家儀礼としての学校儀式(桃井銀平)

 このブログではおなじみの桃井銀平さんから、論文の投稿があった。かなり長い論文なので、少しずつ紹介してゆく。本日は、とりあえず、「1,「儀礼(ritual)」として考える」を紹介する。

国家儀礼としての学校儀式-その構造と含意       20120428

 この論文は今から7年前に小規模な集会で報告されたものである。この時、他には個別の都立高校の卒入学式についての現場報告、韓国人司祭による日本教団の国旗国歌問題への対応についての報告がおこなわれた。結局、私の論文はこの集会で発表した以外は、狭い範囲に配付しただけになってしまった。このたび礫川氏の好意に甘えて、氏のブログに掲載してもらうことにした。単純な誤記訂正、脱落追記、不鮮明な画像さしかえはしてある。今読み直してみると、再検討しなくてはならない点がいくつかある。特に気になるのは―当時すでに気がついていたことだが―儀礼が<聖なるもの>を<創り出す>という点が十分には強調できていなかったことである。 桃 井 銀 平

【目次】                                    
1,「儀礼(ritual)」として考える
2,2011年3~4月の都立高校の例-某区9校
 (1) 卒業式-3月
 (2) 入学式-4月
3,使用される象徴について
 (1) 日の丸の位置の問題
 (2) 「君が代」の歌詞
4,所作-起立して行う敬礼と斉唱
 (1) 人以外のものに対するあいさつ
 (2) 起立 
5,儀礼の含意
 (1) 儀礼の空間的・時間的構造の基本
 (2) <もの>への賛美と<聖なるもの>の顕現
 (3)  国体コスモロジーの表出

 

国家儀礼としての学校儀式-その構造と含意    20120428  桃 井 銀 平
1,「儀礼(ritual)」として考える
 文化人類学者青木保は「儀礼(ritual)」をまず端的に「社会的・文化的に意味を持つ秩序だった形式的行動を指す。」と定義し、「儀式」との用語上の問題を「ほぼ同じ意味に使われる儀式ceremonialという言葉があるが、両者の区別は明確ではなく、ここでは儀礼を全体的な用語として用いる。〔1〕」と整理している。以下、用語としては彼に従って「儀礼」を用いる。
 青木によれば主な儀礼には「通過儀礼」「農耕儀礼」「宗教儀礼」「国家儀礼」などがある〔2〕。 学校固有の儀礼の中心である卒業式・入学式は、このうちでは通過儀礼に分類できるものである。しかし、国家の教育政策の下で、卒業式・入学式は単なる通過儀礼とはいえない内実をもつようになった。学習指導要領国旗国歌条項(資料a)にもとづき文部省(文部科学省)と地方教育委員会が権力的に実現してきた卒業式・入学式は、国家儀礼化した通過儀礼ということができるだろう。2003年10月23日の通達(資料b-以下、単に「10.23通達」とする)を画期とする東京都教育委員会の施策は、学校儀礼における戦後教育の解体の<仕上げの始まり>と位置づけられるものといえよう(この「10.23通達」に基づく職務命令の例は資料c(2007年3月のもの))。
 「通過儀礼」(rites de passage)という言葉は、狭義には,個人の成長過程にともなって行われる人生儀礼のことを呼び、広義には、ある場所から他の場所への通過や、国王や族長の戴冠や就任(身分の変化)などに際して行われる儀礼も含むもので、ドイツ生れのオランダ系民族学者で、主としてフランスで活躍したファン・ヘネップが初めて用い、1909年に同名の本を出版している〔3〕。 ヘネップがこの語を用いたのは、「ある状態から別の状態へ、ないしはある世界(宇宙的あるいは社会的な)から他の世界への移動に際して行われる儀式上の連続を分類する」ためであって、通過儀礼をさらに「分離儀礼」、「過渡儀礼」、および「統合儀礼」の3段階に分けている〔4〕。文化人類学者V.W.ターナーはそれを受けて、通過儀礼の「分離separation」「周辺margin」「再統合aggregation」という3段階の内の中間段階の人間の基本的属性を「リミナリテイ」(境界性)と規定し、そこにおいて「コムニタス」という特別の共存的・平等的な情況が一時的に実現することを述べて、通過儀礼の文化的な豊かさを強調し大きな影響力を持った〔5〕。
 国家儀礼は、前近代の国家のみならず近代国民国家にとっても不可欠の統治手段となっている。とくに国民統合・国民動員という点で儀礼と無縁な国民国家は存在しないと言ってよいであろう。生身の強制力発動以前に国民統治、国家への国民統合をいかに実現できるかは統治の要である。そこでは象徴を用いた儀礼が積極的に利用され、コスモロジーや情緒の次元で被治者に働きかける〔6〕〔7〕。
 多くの抵抗を引き起こしつつも、いまや全国の学校で完成しつつある特異な儀礼の本質の解明には歴史的分析と構造的分析が必要である。本稿は主にこの後者の分析をしようとするものである。まず、2011年春に実施された卒業式・入学式の実態を或区に所在する9校の都立高等学校の例で具体的に明らかにする。次いで、儀礼で使用される象徴および重視される所作の分析を行う。最後に、当該儀礼の含意について考察する。
 ※用語の問題として、卒業式・入学式全体の時間的流れの中の個々の要素を便宜的に「儀礼行為」と呼んでおく。

注〔1〕「儀礼」(『岩波哲学思想辞典』(1998))。なお、『宗教学辞典』(東京大学出版会。1973)は、「儀礼rite」として項目を立てて、「ここでは、聖なるものとのかかわりにおいて定められた宗教行動の体系としてとらえることにする。」と、さしあたりの定義をしている(宮家準)。

注〔2〕同上
注〔3〕綾部恒雄「通過儀礼」(『平凡社世界大百科事典』(第2版(デジタル)1998))
注〔4〕『通過儀礼』p8-9(綾部恒雄・綾部裕子訳。弘文堂 1977)
注〔5〕『儀礼の過程』(新思索社1976。冨倉光雄訳。原著は1969)特にp125-127。
注〔6〕文化人類学者清水昭俊は、権力を持つ側の支配の手段として儀礼的行為が必要不可欠なことを、以下のように述べている。「強制力の行使は権威としての失敗であって、権威は強制力行使に優る支配統制を、強制力なしに達成しなければならないからだ。力によらない力の構成という、権威に課せられたこの課題は、その論理的構成の性格上、象徴的にのみ解決可能である。」「かくして、支配的な地位や集団は常に権威であることを顕示し、納得させ、さらに相手を自発的追従へと誘導しなければならない。そのために権威は、権威の根源たる「正当性」イデオロギーを強調するとともに、このイデオロギーを可視化する行為形式に訴えることになる。国家・社会の中心部での行事のみならず、市民社会の細部においても、日常的営為がしばしば荘重、華麗、壮大、そして整然たる形式的統一を特徴とする儀式となるのは、それによって象徴的に権威を構成しているのであって、その頻度は、権威であることを顕示する必要性の正確なバロメーターなのである。」(「儀礼の外延」p139,140-141(『儀礼-文化と形式的行動-』青木保・黒田悦子編、東大出版会1988))
注〔7〕本稿で使用する「コスモロジー」という概念は、宗教学者島薗進に倣ったものである。島薗は「〔総説〕一九世紀日本の宗教構造の変容」で次のように述べている。「この稿では、「イデオロギー」という語は政治的な機能から見た観念や言説を指す語として用い、「コスモロジー」という語は宇宙や世界や人間についての包括的なビジョンを含んだ観念や言説をさす語として用いる。・・・・「コスモロジー=イデオロギー」と結合させて用いるのは、実際には両者は分かちがたく結びついており、両者を分かつのはむしろ観察者側の視点のちがいによるところが大きいと考えるからである。」(小森陽一他編『岩波講座近代日本の文化史2 コスモロジーの「近世」』p43。2001年)

 

*このブログの人気記事 2019・3・31

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萩原健一さん主演、映画『瀬降り物語』(1985)

2019-03-30 04:54:57 | コラムと名言

◎萩原健一さん主演、映画『瀬降り物語』(1985)

 ショーケンこと萩原健一さんが二六日に亡くなったという。萩原健一さんは、ザ・テンプターズの時代から知っている。のちに、役者になったことも、もちろん知っている。
 今から、十年ほど前、東映ビデオ『瀬降り物語』を入手した。前から探していたビデオだった。容易に見つからなかったが、偶然、近所の古書店で見つけた。『瀬降り物語』の「瀬降り」は「せぶり」と読む。いわゆる「サンカ用語」である。
 この映画の主演が萩原健一さんだった。その演技が良かった。一九八五年(昭和六〇)の東映映画で、監督・脚本は中島貞夫さん。助演は藤田弓子さん。
 映画史上に残る屈指の名作だと思うが、興行的には成功しなかったという。
 今日、ウィキペディアには、「瀬降り物語」の項があるが、十年ほど前、ビデオで『瀬降り物語』を鑑賞したときは、この項はなかったように思う。いずれにせよ、この項からは、いろいろなことが学べる。たとえば、次のようなことである。

① 中島貞夫監督は、もともと、「サンカ」に興味を持っていた。
② この映画のプロトタイプは、一九六四年に脚本が作られた『瀬降りの魔女』だった。脚本は、中島貞夫監督と倉本聰さんだった。
③ この映画を作るため、中島貞夫監督は、サンカ小説家の三角寛に面会している。サンカを実写したフィルムも見せてもらったという。
④ しかし、この『瀬降りの魔女』は、クランクイン直前、大川博社長(当時)によってボツにされた。
⑤ 一九八五年の『瀬降り物語』のタイトルだが、岡田茂社長(当時)は『山窩物語』とつけた。しかし、ある事情で、このタイトルが使えなかった。

 もし、この映画が、『山窩物語』というタイトルで公開されていれば、その反響は、どのようなものだったのか、などと考えてみる。ちなみに、『瀬降り物語』には、サンカ、山窩などの言葉は、いっさい出てこない。
 萩原健一さんの冥福をお祈りしたい。萩原健一さんの追悼の意味をこめて、どこかのテレビ局に、『瀬降り物語』を放映してもらえないものか。

*このブログの人気記事 2019・3・30(時節がらか9位に新年号関係が)

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戒厳司令部は東京と外部の交通・通信を遮断した

2019-03-29 04:10:04 | コラムと名言

◎戒厳司令部は東京と外部の交通・通信を遮断した

 古谷綱正解説『北一輝「日本改造法案」』(鱒書房、一九七一)の解説部分〝二・二六事件と「日本改造法案」〟から、「二・二六事件と私」を紹介している。本日は、その後半。

 それから三日間、私たちはいらいらしながら事件の推移を見守っていた。水戸連隊の一部は、帝都警備のため、二十六日の夜、すでに出動していった。駅頭での写真もとり、記事も送ったが、もちろん紙面には現われなかった。
 そして、二十九日の朝五時ころ、また支局からの電話で起された。車を回したから、すぐ来いという。まだうす暗い中を支局にかけつけた。支局長が緊張した顔をしている。東京との電話が切られてしまい、様子がまったくわからない。本社との連絡もできないという。あとでわかったことだが、この日叛乱軍討伐をきめた戒厳司令部は、午前三時以降、東京と外部の交通、通信を一切遮断したのだった。
 支局長は「車をしたてるから、いまからすぐ東京に行き、本社と連絡をとってきてくれ」という。出かけようとすると、支局長の奥さんが「ちょっと待って」といって、サラシ木棉を一反持ってきた。東京まで車をとばすと内臓がおかしくなる。これを腹にしっかり巻いていけという。私はさすがに新聞記者の奥さんだと感心した。いまなら、ほんのひと走り、銀座で酒を飲んで、タクシーで帰る人もいる水戸だが、そのころの道路事情では、東京まで車をとばすには、サラシを腹にまかなければ危いような時代だったのだ。
 当時、私は警察と鉄道を受け持っていた。警察も鉄道も、一般のとは別に専用の電話を持っている。この事態では、警察は電話を使わせるはずがない。しかし、鉄道電話が通じていれば、これは使えるかも知れない。もしダメなら、その足で東京に行くことにし、サラシを受けとって運輸事務所(現在の鉄道管理局)にいってみた。鉄道電話は通じていた。顔なじみの職員が、それを使わせてくれた。私は支局にそれを連絡し、職員に頼んで、東京、新橋、有楽町の駅長室を呼んでもらった。いずれもお話中で、なかなか出ない。一時間近くもたって、やっと東京、新橋の順でつながった。「毎日新聞(そのころは東京日日新聞といっていたが)の人が来ていないか」と聞いたが、いずれもいないという。望みは有楽町駅だが、これがなかなか出ない。「有楽町出ましたよ」と、職員がうれしそうにいってくれたのは、それからさらに三十分もたってからだった。「東日の人いますか」と聞くと、いれかわって「連絡部の福田です」と出てきた。うれしかった。私はそこで東京の状況を聞き、また「このぶんでは、夕刊はもちろん、あしたの朝刊もそちらには届かないかもしれない。ラジオでニュースを聞いて、それにもとづいて現地号外を出すように」という指令を受けて、支局に帰った。
 すでにラジオは、奉勅命令が下ったことを放送していた。そして、あの「兵に告ぐ。勅令が発せられたのである」に始まる呼びかけが、アナウンサーによって何度も読みあげられていた。私は、それを懸命に筆記して、号外にした。最初の「兵に告ぐ」という言葉が、なかなかわからないで、こまったことをおぼえている。
 正午に市外電話の遮断が解除された。本社との連絡も回復した。夕刊も、遅れはするが、どうやら配達されそうである。それを見きわめて、私はまた水戸近在にいる右翼といわれる人たちの動向を取材するために出かけた。たいした動きもないようだった。夕方五時ころ水戸市内に帰ってきた。販売店の前に大きな貼り出しが出ている。車をとめて読んでみると「岡田首相生存」を知らせる特報だった。
 二月二十九日は、私にとって〝長い〟そして、あわただしい一日だった。

*このブログの人気記事 2019・3・29

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古谷綱正「二・二六事件と私」

2019-03-28 03:34:14 | コラムと名言

◎古谷綱正「二・二六事件と私」

 書棚を整理していたら、古谷綱正(ふるや・つなまさ)解説の『北一輝「日本改造法案」』(鱒書房、一九七一)
という本が出てきた。巻末に、三十八ページに及ぶ解説が付いている。
 古谷綱正(一九一二~一九八九)は、ジャーナリスト、ニュースキャスター。むかし、テレビのニュース番組に、この人が出ていたことを、よく覚えている。
 本日は、同書の解説〝二・二六事件と「日本改造法案」〟から、その最初の節「二・二六事件と私」を紹介してみよう。

   二・二六事件と私

 一九三六年二月二十六日、二・二六事件の当時、私は毎日新聞社の水戸支局員だった。前の年に学校を出て新聞記者になって、まだ一年もたたない、ほんとうのかけ出し時代であった。
 その日の朝早く、支局からの電話で起された。水戸も深い雪におおわれていた。支局に行ってみると、東京でただならぬ事件が起こっていると知らされた。くわしいことは、まだわかっていない。ただ、青年将校の一団が総理官邸などを襲撃して、何人かの元老、重臣を殺したという。五・一五事件に匹敵するような事態が起っているらしい。
 水戸には、五・一五事件に、多数が農民決死隊として参加した愛郷塾〈アイキョウジュク〉がある。愛郷塾の主宰者、橘孝三郎の郷里でもある。その愛郷塾連中が、こんどの事件に関係してはいないか。それと水戸の歩兵連隊の動き、これを探って、くわしい情報を送れというのが、本社からの指令であった。
 私たちは、それぞれ手分けして、雪の街にとび出していった。街の人たちは、まだ事件については何も知っていないらしい。いつもとまったく変らない平穏さであった。私は、自分だけが事件の起ったのを知っているというかけ出し新聞記者の持つ優越感と、その事件の詳細がよくわからないというもどかしさを同時に感じていた。
 指定されたところを、いくつか回ったが、新米記者にはろくな情報も得られない。水戸連隊長の横山勇大佐も、会ってはくれたが、みごとにとぼけられてしまった。二・二六事件の芽ともいえる「十一月事件」(昭和九年、この事件は全員が不起訴になった)に関係した辻政信大尉(当時)が、重謹慎三十日の処分を受けたあと、陸軍士官学校付から、この水戸連隊に赴任してきていた。辻大尉は密告者として、革新将校たちの評判は悪かった。おそらくそのとき、辻大尉はここにいたはずだったが、そんなことは、私の知る由もなかった。
 支局に帰ってみると、本社から次々に情報が入っていた。だが、ラジオは沈黙したまま、なにもいわない。午後になると、うわさを聞いた人たちが、支局を訪ねてきて、真相を知ろうとした。
 夜、八時十五分になって、初めて陸軍省発表が、ラジオで放送された。
「本日午前五時ころ、一部青年将校は左記の個所を襲撃せり。
 首相官邸 岡田首相即死
 斉藤内大臣私邸 斉藤内府即死
 渡辺教育総監私邸 教育総監即死
 牧野伯宿舎(湯河原伊藤屋旅館)牧野伯不明
 鈴木侍従長官邸 侍従長重傷
 高橋大蔵大臣私邸 大蔵大臣負傷
 東京朝日新聞社
 これら育年将校の蹶起〈ケッキ〉せる目的は、その趣意書によれば、内外重大危機の際、元老、重臣、財閥、官僚、政党等の国体破壊の元凶を芟除【さんじよ】し、以て大義を正し、国体を擁護開顕せんとするにあり。右に関し、在京部隊に非常警戒の処置を講ぜしめたり」
 そして、さらに東京警備司令部からの戦時警備下令に関する発表、警備司令官香椎浩平〈カシイ・コウヘイ〉中将の市民への告諭を放送した。
 東京本社で刷った号外を待っていたら、夜半すぎになる。水戸でいわゆる現地号外を刷らなければならない。雪が深いので、私たちは印刷所に近い新聞販売所に本拠を移して、本社から送ってくる原稿を、印刷所に持ちはこんだ。雪の中を何度か往復した。そして刷りあがった号外を手にして、販充店の奥さんが、ヤカンで温めてくれた酒の味は、いまでも忘れられない。事件の重大さより、そんなことの方が、強く印象に残っている。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・3・28

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