礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

橋本進吉の遺骸を前にして大野晋の一生は決まった

2020-09-30 00:00:35 | コラムと名言

◎橋本進吉の遺骸を前にして大野晋の一生は決まった

 この間、橋本進吉という国語学者(一八八二~一九四五)の名前が、何度となく登場した。おそらく、このあとも登場することになろう。
 橋本進吉に師事した国語学者のひとりに大野晋(すすむ)がいる。『日本語とタミル語』(新潮社、一九八一)、『日本語練習帳』(岩波新書、一九九九)の著者として知られる学者である(一九一九~二〇〇八)。
 以前、その大野晋が、橋本進吉は「栄養失調」で亡くなったと言っていたような記憶があった。調べて見たところ、『日本語の教室』(岩波新書、二〇〇二)の一八九ページで、たしかに、そのように述べていた。
 本日は、その前後のところを引用してみよう。

 私は戦争とどうかかわったか。それについて、ひとことお話ししておきます。学生時代にかかった肋膜炎につづく病歴があり、私は徴兵されませんでした。ずっと内地にいて、アメリカの艦載機の機銃掃射を受けたこともあります。鳴り渡る警報、爆撃、倒壊、炎上、火の嵐、いろいろありました。なんにせよ、都市では食糧が足りませんでした。戦争末期に私にとって一つの事件が起きました。それは橋本進吉先生の栄養失調による逝去です。痩せ細った遺骸を前にして、私の一生は決まりました。「古代日本語を明らかにしたい」 という先生の遺志を少しでも果たさねばならない。私にどれだけのことができるか、もちろん分らないけれども、死ぬまではつとめよう。その時から、戦争も敗戦も戦後の混乱も私にとっては景色になりました。
 私は古代日本語に打ち込んで行きました。『万葉集』や仮名遣の研究に没頭しているうちに、『広辞苑』初版の基礎語一〇〇〇語の執筆という仕事が舞い込み、それが『岩波古語辞典』へと広がり、重ねて『万葉集』と『日本書紀』の注釈の仕事に恵まれました(日本古典文学大系)。『源氏物語』の単語の意味を吟味しつづけ、合計二〇年かかって『岩波古語辞典』が出版されたとき、私はすでに五五歳でした。
 その地点で私の行く先は見えなくなっていました。「日本語はどこから来たのか」が分れば、日本という国の由来、「日本とは何か」の答えに近づくはずだと、研究しつづけて来た。自分なりの工夫もし、力も傾けましたが、その答えは簡単には出なかった。それは明治時代以来、答えの出ない宿題であったのです。

*このブログの人気記事 2020・9・30(なぜか8・10位に藤村操)

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時枝は橋本の期待を外れるようなことをした(金田一春彦)

2020-09-29 01:16:50 | コラムと名言

◎時枝は橋本の期待を外れるようなことをした(金田一春彦)

 根来司『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十二 橋本進吉博士と国語学」を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

 私は久しい間時枝〔誠記〕博士が橋本〔進吉〕博士定年退官後その後任の最適任者として、『国語学史』(昭和十五年)、『国語学原論』(昭和十六年)を引っ提げて東京大学に着任されたものと信じて疑わなかった。しかしずっとのち時枝博士が逝かれてから、久松潜一博士の「時枝誠記博士を悼む」(「国語と国文学」昭和四十三年二月号、時枝誠記博士追悼)という追悼の文の中に、「橋本博士が定年制内規により東大を退かれる時、その後任をえらぶ場合に長い熟考を重ねられてゐたことは私にもわかつた。橋本氏は国語史の専攻家をとの御考もあつたやうであるが、時枝氏の業績を十分認められて居り、時枝氏を推されることになつたと思はれる。」とあり驚いた。橋本博士が最初自分の後継者に国語史家を考えられていたことは思いも寄らなかったからである。それでは久松博士が橋本博士は国語史専攻の人を考えていられたようだといわれる、その国語史家とはいったい誰であろうか。いまや知るすべもないが少しく詮索してみると、時枝博士が東京大学教授に任ぜられ京城大学から転じて来られたのは昭和十八年〔一九四三〕五月三十一日であり、博士は同じ年の六月二日に『国語学原論』によって文学博士の学位を授けられている。それで私は国語史家でこの時期に東京大学から文学博士の学位を授与されている国語学者をさがせば、その人がおそらくそうであろうと考えをつけるのであるが、そこに思い浮かぶ学者に有坂秀世博士がある。ところが、最近この辺のことを金田一春彦博士が「日本語学者列伝橋本進吉伝㈠㈡㈢」(「日本語学」昭和五十八年二月、三月、四月号、のち『金田一春彦日本語セミナー五日本語のあゆみ』昭和五十八年に「橋本進吉博士の生涯」とし少しく加筆して入れている)の後継者をの項にくわしく書かれているので、次に引用してみよう。
《そのころ博士にとってもう一つ、希望どおりにならなかった事として、東大の国語学の後継者についてのことがあったと考える。
 博士が国語学の教授になった時、博士が教壇で教えた第一回の卒業生、岩淵悦太郎を助手に任命した。岩淵は博土と同じように国語音韻史を専攻し、その学風はあくまでも実証に徹しており、かたわら書誌学にも深入りして、はた目には博士のひな型を見るように見えて、どう見ても好個の後継者と思われた。しかし、博士には岩淵の研究が博士以上に出ることのないのを不満に思われたらしい。
 博士は自分の後継者としては、岩淵より一年おそく言語学科を卒業した有坂秀世〈アリサカ・ヒデヨ〉に白羽の矢を立てた。博士は有坂を呼んで意向を正したことがあったという。が、有坂は胸を病み、到底教授を引き受けがたいことを述べて辞退し、博士はこれを非常に残念がっていたという。
 博士は第三の候補として、当時京城大学の教授をしていた時枝誠記に目をつけた。博士の行き方とは全くちがうが、昭和十六年〔一九四一〕、『国語学原論』という大著を出している。博士は時枝に命じてそれを東大へ提出して学位を請求するように勧告した。時枝は喜んで論文を提出したが、これは教授会で思いがけない物言いがつき、博士はこれを通すために意外な苦心をしたという話がある。
 それはともかくとして、結局時枝は文学博士となったので、橋本博士はその学位と著述を資料として、自分の後任の教授にすえた。このことは、学界はその意外さに驚き、一方博士のやり方を公正だとたたえたものだった。
 しかし、時枝は橋本の期待を外れるようなことをしきりにしたらしい。昭和十八年〔一九四三〕になると国際文化振興会というところで、国際的な日本語の辞典の編集を計画した。博士を監修者に戴き、時枝を編集主任とした。博士は平常会議に列席せず、時枝に任せていたが博士がある時やって来られ、時枝の議事に対してはなはだ不機嫌で帰って行ったという。
その時の会議は、そこにあがった個々の語彙の品詞をいかに記入すべきかということだったそうだ。時枝はその会議のあと東大へ来て、私ども大勢の後輩がいるところで、その話をし、「今日は先生いつになく不機嫌だった。あれは道ばたで馬の糞でも踏んづけた来たらしい」と言って呵々大笑した。まことに豪傑の風情があった。しかし私はその時、博士が不機嫌になった理由を直感した。恐らく大まかな時枝は、自分がすっかり文法的処置も任されたと思って、自分の主義によって「この」は代名詞、「静か」は体言というようにきめて事を運んで行ったのだろう。そこには博士が多年かかって到達した品詞分類論に対する考慮は全然なかった。博士にとってそれはどんなに悲しいことだったろう。その日博士は自宅に帰り、自分のあとを時枝にゆずったことについて複雑な思いに駆られたのではなかろうか。》
 これが金田一博士の後維者をの項の全文である。しかし、この外国人向けの日本語の辞典編集のことについては、時枝博士自身『国語研究法』(昭和二十二年)の八漢字漢語の摂取に基く国語上の諸問題の章に、次のように述べられている。
《昭和十八年国際文化振興会は、外国人に日本語を理解させるための国語辞書の編纂を計画し、同会顧問橋本進吉博士から、私に右具体案の立案を委任されたのである。先づ私は日本語を読むために必要な辞書について考へ、今日行はれてゐる五十音引き国語辞書は、読書のための辞書としては甚だ不適当なものであること。若し英、仏、独語のアルファベット式辞書を国語に求めるならば、それは漢字から国語を検索する辞書を作らなければならないこと。何となれば、国語を理解する最初の手懸りは、一般には漢字であつて、決して仮名ではないからである。そしてこのやうな体裁の辞書は、日本人自身にとつても極めて必要なものであること。今日行はれてゐる漢和辞書は、漢箱の読解には或は有効であつても、国語の理解といふことに果して充分に親切であるかは疑はしい故に、たとへ漢籍の読解は犠牲にしても、国語読解に役立つやうな親切な辞書が必要であること等について進言し、博士は全面的に賛意を表せられた。これらの事業の計画が、第七章並に本章に述べた国語学の方法論に立脚してゐることはいふまでもないのである。》
 これを読むと金田一博士の述べられるところと少し違うようである。

 このあと、「三」があるが、これは割愛する。

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橋本進吉博士は聖道門、自分は易行道(時枝誠記)

2020-09-28 04:36:04 | コラムと名言

◎橋本進吉博士は聖道門、自分は易行道(時枝誠記)

 根来司『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十二 橋本進吉博士と国語学」を紹介している。本日は、その三回目。

 それでは橋本博士の国語の歴史的研究を時枝博士はどのように評されるのであろうか。博士はやはり「橋本進吉博士と国語学」の中でそれについて、「歴史的研究に於いては、その前提として、研究資料の探索とそれに対する厳密な批判が先づ行はれねばならない。博士の業級の中で、文献の書誌学的研究或は伝記的研究が少からぬ部分を占めるのも、そのためであって、博士は嘗て〈カツテ〉、自分は国語の歴史的研究に志して、しかも資料の探索や批判に拘つて、未だ歴史的研究にまでは及ぶことが出来なかつたと謙遜を以て語られたことを記憶してゐるが、しかし組織立つた国語史研究にまでは到達せられなかつたとしても、博士の諸研究が、将来国語史が編述される場合には、貴重な資料となり得るものであることは明らかであり、時代の上より見、又問題の領域の広さ深さより見て、博士の研究は確かに大きな存在である。古本節用集〈コホンセツヨウシュウ〉、天草版吉利支丹教義、上代特殊仮名遣、仮名字源等の研究が、殆ど凡て〈スベテ〉国語の史的見地に立つてなされたものであると見ることは許されるであらう。このやうな研究主題に対して、博士の精緻にして、事をいやしくもされなかった学風が、如何に幸したかは、直接間接に博士の薫陶を受けたものは皆知るところであつて、東京帝国大学に於ける博士の門下生の研究が概ね歴史的研究を主題にしてゐるのを見ても、博士の感化の如何に深いものであつたかを知ることが出来るのである。」と説かれている。橋本博士の最終の目的は国語の歴史の全貌を明らかにしようとした点にあったと思う。時枝博士はおよそ橋本博士の行き方とは違うのであるが、それを時枝博士自身橋本博士の学問は聖道門【しようどうもん】であるが、自分は易行道【いぎようどう】につくしかないと考えておられたようである。博士のこの聖道門、易行道で思い出すのは時枝博士が同じ頃に書かれた「わが家の学問を」(「立教大学日本文学」創刊号、昭和三十三年十一月)という文章である。
  家庭料理【略】
  法然上人の場合
《法然上人は、鎌倉時代において、仏教を始めて我が身のものとして受容した思想家の一人である。法然の偉大さはどこにあるのであらぅか。我々は、法然研究者によつて、次のやうなことを教へられてゐる。それまでの仏教者たちは、釈尊の説かれた教の中で、何が最高最勝のものであるかといふことだけを問題にして来た。例へば法華経である。天台宗の教判は、法華経が釈尊の教の中で至純至高のものであることを証明し、そしてそれを信奉する。ところが、未だ嘗て、釈尊の教の中で、どの教へが、最も我が身丈〈ミタケ〉にあつたものであるかといふことは、問はれたことがなかった。最も高貴な薬は求められたが、その薬を服用する我が身自身の病根がどこにあるかといふことは、問はれもしなかつたし、また診断もされなかつた。法然は、客観的な教へをでなく、これを受入れる主体である人間の根機を問題にした。即ち煩悩具足の凡夫であることの自覚から出発し、その自覚に基づいて、釈尊の教への中で、何が最も末世の衆生の根機に適してゐるかを問題とし、それを選択することを重大な使命とした。「選択【せんじやく】本願念仏集」の著が現れて来た所以である。
  学問の問題
《日本は、その文化的環境からか、民族的謙虚さからか、常に諸外国の最高最良の学説を吸収する努力を惜しむことがなかつた。しかし、その受入れられた内容から、日本の学問の世界的水準を云々することの誤りであることは、以上述べて来たところで、大体明かにされたと思ふのである。
 私は、先師橋本進吉先生から、東京大学の国語学の講座のバトンを渡された時、雑談のついでに、次のやうなことを先生に申上げたことを記憶してゐる。「先生の学問は、聖道門ですが、私にはとても及びもつかぬことですから、私は易行道で行かうと思つてゐます」と。その時、先生が何と答へられたかは、記憶に残つてゐないが、 その後、私自身の言葉を時々反芻〈ハンスウ〉してみても、とんでもないことを先生に申上げたとは、今でも思つてゐない。戦争がはげしくなって、研究室も、図書館も閉鎖にひとしい状態になった時、「我々の研究室は街頭にあると思つてゐます」と先生に申上げたが、その時、先生は、はっきりと「児童の疎開地にも色々面倒な言語問題があるだらう」と、暗に私の研究態度を肯定して下さつた。学問を通俗に引き下げた罪は、いかやうに貴められても、学問の出発点を、問題に対する我が心の燃焼と、身丈にあつた問題を求める態度とに求めることは、決して学問に対する卑屈な態度でもなければ、困難を回避する態度でもない。学問を求める目は、常に客観的世界を追及する目には違ひないが、何を問題にすべきかを自己に問ふことを忘れたならば、それは学問の根本第一義を忘れたことになることを、深く銘記する必要があるであらう。
 しかしそれは、凡夫の自覚に徹する易行道の困難さと同様に、口にいふべくして実行し難いことであるかも知れないのである。》
 実をいうとこれは長過ぎるので「学問の問題」だけでやめるつもりであった。しかし、すばらしい文章の「家庭料理」「法然上人の場合」を切り捨てるのはとても残念なので全文引用した。これがあまり人に知られていないのは時枝博士が昭和三十二年〔一九五七〕から何年か非常勤講師として行かれた立教大学の雑誌に軽くエッセイとして書かれたせいであ ろう。この文章の中に博士はさりげなく、「学問を通俗に引き下げた罪は、いかやうに責められても、学問の出発点を、問題に対する我が心の燃焼と、身丈にあつた問題を求める態度とに求めることは、決して学問に対する卑屈な態度でもなければ、困難を回避する態度でもない。学問を求める目は、常に客観的世界を追及する目には違ひないが、何を問題にすべきかを自己に問ふことを忘れたならば、それは学問の根本第一義を忘れたことになることを、深く銘記する必要があるであらう。」と述べていられるけれども、このようなことが博士をおいて他に誰がいえるであろうか。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・9・28

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時枝誠記「橋本進吉博士と国語学」(1946年12月)

2020-09-27 19:18:44 | コラムと名言

◎時枝誠記「橋本進吉博士と国語学」(1946年12月)

 根来司『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)から、「第十二 橋本進吉博士と国語学」を紹介している。本日は、その二回目。

    二
 さて昭和十八年〔一九四三〕三月に橋本進吉博士が東京大学教授を退官されたので、その年の六月十二日に知友門下生によって設けられた同博士還暦記念会では記念式をあげ祝宴を催した。その後時枝誠記博士の「言語学と言語史学との関係」という論文を巻頭に置いた『橋本博士還暦記念国語学論集』(昭和十九年十月)が刊行されて、まもなく橋本博士は逝かれた〔一九四五年一月三〇日〕。そして翌昭和二十一年〔一九四六〕三月十四日東京大学国語研究室において橋本博士の知友門下生が集まって故橋本博士一年祭が行われ、そこでもう博士の著作集を岩波書店から刊行することが決められている。ところで、時枝博士の「橋本博士と国語学」は橋本博士が亡くなられたすぐあと「国語と国文学」の追悼号〔一九四五年五月〕に書かれたものであり、もう一つは 著作集の第一冊目に「国語学概論」「国語学研究法」「国語学と国語教育」「国語と伝統」の四編を収めた『国語学概論』の解説として時枝博士が書かれたものである〔「橋本進吉博士と国語学」一九四六年一二月〕。いったい時枝博士の本領は国語学史にあったから二つながら橋本博士を明治、大正、昭和の国語学史の上に跡づけられるのであるが、さきのは昭和十八年七月に橋本博士を東京大学国語研究室会に招かれその時橋本博士からいろいろうかがった回想談を踏まえて書かれており、その研究室会の席上で橋本博士に昭和十八年の秋から東京大学の講義には国語規範論という題目で考えていきたいなどお話ししたことも述べられている。あとのはそうした時枝博士個人のことは退けて、「橋本博士の人として又学者としての概略は、既に橋本博士還暦記念会編纂の国語学論集(昭和十九年十月岩波書店刊)中の同博士略伝、編著書目録、論文目録、講義 題目等により、又『国語と国文学』昭和二十年五月の『橋本博士と国語学』特輯号誌上に寄せられた諸家の記事及び追憶談によってこれを知ることが出来るのであるが、今回橋本博士著作集刊行委員会によって、博士の著作集が刊行せられるに際して、同博士の国語学上の業續を、主として明治以降の国語学史上に跡づけて、その意義と価値とを明かにして見たいと思ふのである。」と型どおりに書きはじめ、「以上私は国語学者としての博士を、明治以降の国語学史上に跡づけて、その歴史的研究に於いて、又文法研究に於いて、又国語問題に対する態度等に於いて、極めて簡単に述べて来た。もとよりそれは私の一面観に過ぎず、博士の真意に添はない多くの臆測があったであらうと懼れる〈オソレル〉のであるが、国語学者としての博士の全貌は、本著作集刊行によって始めて明かになるのであって、世の橋本学説研究者によつてそれが実現されることを期待して止まないのである。」と結ばれている。もちろん両者同じところもある。それは上田国語学と橋本国語学の違いについて説いたところで、それを「橋本進吉博士と国語学」から引くと、「この新国語学の創設者の有力な一人は、上田万年〈カズトシ〉博士であつて、博士は一方に言語学国語学を東京帝国大学に講ぜられるとともに、その言語理論を武器として、国語問題の解決に努力せられた。橋本博士は、実にこの上田博士の門下として国語学を継承され、又発展させられたのである。ところが周知のやうに、上田博士の国語学と、橋本博士のそれとは、その性格に於いて著しく相違してゐることが認められる。上田博士の国語学は、博士の多面的な生活が示すやうに、啓蒙的ではあるが、国家的であり社会的であり、極めて絢爛〈ケンラン〉たるものであるが、これに反して橋本博士の国語学は、これ亦博士の経歴が示すやうに、ひたすら研究室的であり、学究的であった。啓蒙的にして多彩な上田国語学が、学究的にして質実な橋本国語学へと発展して行ったことは、国語学界にとっては大きな幸福であったと考へられるのであるが、これを単に両博士の性格、経歴の相違とのみ考へるのは皮相の見〈ヒソウノケン〉に止まるとしかいふことが出来ない。」というのである。時枝博士はさらに両国語学の内面に立ち入って考察されて、上田国語学と橋本国語学とがこのように違うのは、国語学が初期の国語問題解決への情熱から次の国語学の学的建設とりわけ国語の歴史的研究の確立への努力へと進んでいった、そうした時代の反映であって、橋本博士の研究が国語の歴史的研究を中心にしたことも上田博士のふさわしい後継者であったと述べられるのであるが、これが橋本博士の後任ではあっても博士と異なった時枝国語学の時枝博士の言辞であるので興味を覚えるのである。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2020・9・27

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暗澹たる時代における学者の祈り

2020-09-25 00:00:42 | コラムと名言

◎暗澹たる時代における学者の祈り

 あいかわらず、根来司著『時枝誠記 言語過程説』(明治書院、一九八五)の紹介である。
 本日以降は、「第十二 橋本進吉博士と国語学」を紹介してみたい。

  第十二 橋本進吉博士と国語学
     一
 本章を「橋本進吉博士と国語学」と題したが、ここで橋本進吉博士とその国語学について述べようとするのではない。実は時枝誠記博士があわただしい戦中戦後に書かれたものに、さきの章の国語規範論ともう一つ橋本博士の国語学についてがある。それでいまは時枝博士の「橋本博士と国語学」(「国語と国文学」昭和二十年五月号、特輯橋本博士と国語学)、「橋本進吉博士と国語学」(橋本進吉博士著作集『国語学概論』解説、昭和二十一年十二月)について考えようと思う。知られるとおり橋本博士は明治十五年〔一八八二〕十二月に生まれ京都府立第一中学校、第三高等学校を経て、明治三十九年〔一九〇六〕七月に東京大学言語学科を卒業された。ついで明治四十二年〔一九〇九〕東京大学助手となってそれ以後上田万年〈カズトシ〉博士の下に国語研究室に勤め、昭和二年〔一九二七〕助教授となり四年〔一九二九〕教授になられた。昭和九年〔一九三四〕文学博士の学位をえられ十八年〔一九四三〕三月定年退官されて十九年〔一九四四〕国語学会を組織したが、終戦の年二十年〔一九四五〕一月に逝去された。博士は国語史なかんずく国語音韻史にくわしく、上代特殊仮名遣の研究によってわが国の上代語研究を一新すると共に、キリシタン教義の研究によって近世の音韻体系の再建を試みられた。橋本博士のこの辺の事情については、時枝博士も後年著作集の第十一冊として『キリシタン教義の研究』が出た時、「書評橋本進吉博士と『キリシタン教義の研究』(「図書」昭和三十六年三月号)の中に述べられておられる。
《橋本博士の『キリシタン教義の研究』が、東洋文庫論叢第九として刊行されたのは、昭和三年〔一九二八〕一月であって、今回博士の著作集に加えて、これを重刊することができたことは、学界のためにまことに喜ばしいことである。
 本書は、文禄元年(一五九二)天草で刊行され、現在東洋文庫の蔵に帰している、ローマ字綴りの「ドチリーナキリシタン」(キリシタン教義)を対象とした博士の解説考証と、その用語に関する研究であって、国語資料として、また室町末期近世初頭の国語に関する貴重な研究文献である。本書の研究が、博士の全研究体系の中にどのような位置を占めるものであるかをうかがってみると、先ず博士の研究の主流ともいうべきものは、校本万葉集編纂の仕事を軸とする古代国語に関する研究であって、中でもその上代特殊仮名遣の研究が、学界に与えた影響の甚大であったことは、ここに事新しくいうまでもないことである。
 それとは別に第二の流れともいうべきものは、本書の研究によって代表される室町近世の国語研究であるといってよいであろう。本書の研究は、明治四十年代に、新村〔出〕博士が、大英博物館所蔵の口訳平家物語、伊曽保物語、金句集の合綴本〈ガッテツボン〉の紹介、抄録に始まるいわゆるキリシタン版研究の盛行に伴うものであるが、博士の研究体系からいえば、キリシタン版を資料とする近世初期国語の記述的研究ということになるであろう。明治以降の国語の歴史的研究は、一に〈イツニ〉国語史資料の発見にその死命が制せられていたといってよく、平安時代の訓点本、室町期の抄物、そしてこのキリシタン版の発見は、国語の史的研究の躍進を促した三大原動力ともいえるので、本書において、博士は当代国語の最も典型的な記述様式を示した。なお博士の講義題目によれば、昭和五年〔一九三〇〕に「庭訓往来〈テイキンオウライ〉」を、同八年〔一九三三〕に「明衡往来〈メイゴウオウライ〉」を演習に用いられ、博士が近世文語の用語に多大の関心を持っていたことがうかがわれるのであるが、それとこの『キリシタン教義の研究』とは無縁のものとは思われない。昭和二十年の春、博士の没後、空襲のさ中において、博士の蔵書を書店に整理させた時、シナ音韻関係の学書のおびただしい蒐集――これは上代特殊仮名遣の研究に関係するものであったのであろう――と庭訓往来を始めとする往来物及び抄物の蒐集については、その散逸と戦火の危険を慮って、書店より一括再購入していそぎこれを研究室に搬入させたことがあった。当時のあわただしい事態を想う時、まことに感慨無量なものがあるのである。》
 時枝博士のこの一文には橋本博士の国語史研究の跡よりも、橋本博士没後太平洋戦争末期東京大空襲のさなか暗澹たる時代の学者の祈りのようなものがうかがえるので全文を引いてみた。【以下、次回】

 すでに見てきた通り、根来司のこの『時枝誠記 言語過程説』という本は、引用が多い。しかし、この引用が実に有益なのであって、この本の価値は、その引用にあるとも言えるのである。

※明日は、都合により、ブログをお休みします。

*このブログの人気記事 2020・9・25(10位に極めて珍しいものが入っています)

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