礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

山口幸洋博士と「一型アクセント」の研究

2023-11-30 00:31:00 | コラムと名言

◎山口幸洋博士と「一型アクセント」の研究

 今月24日のコラム〝「一型アクセント」についての大野仮説〟において私は、日本における「一型(いっけい)アクセント」研究の第一人者は、山口幸洋である、と書いた。ただし、山口の一型アクセント研究は、学問の世界においては、「異説」という扱いを受けているらしい。
 山口幸洋(やまぐち・ゆきひろ)は、在野の方言研究者(1936~2014)。本業は経営者で、静岡県浜名郡新居町(あらいちょう)で燃料店を営んでいた(新居町は、2010年に湖西〈こさい〉市に編入)。
 1992年、64歳にして、静岡大学人文学部専任講師となる。1994年に同学部助教授、1998年に教授、1999年に退官。
 1998年12月、ひつじ書房から、『日本語方言一型アクセントの研究』を出版。1999年7月、同論文により文学博士を授与された(大阪大学、乙第07818号)。山口が、博士号を申請したのは、自分の研究の成果が、言語学会会長・音声学会会長まで務めた某氏に「横取り」されたからだったという。
 このあと、当ブログでは、日本語におけるアクセントについて、日本語における「一型アクセント」について、整理する。その後、「一型アクセント」に関する通説と異説についても解説する。さらに、「一型アクセント」についての研究は、日本語をめぐる謎の解明につながるだろう、ということを述べてみようと思っている。

 とりあえず本日は、言語学者・国語学者として知られる金田一春彦(1913~2004)が、戦中の1943年(昭和18)に発表した論文「国語アクセントの史的研究」の一部を紹介することにする。

    むすび 再びアクセント史的研究の意義に就て
 国語アクセントの地理的研究は現在の所、可成〈カナリ〉進んでゐて、全国どの地方には大体どのやうな性質のアクセントが行はれてゐるか、と言ふ程のことは大体明らかとなつてゐる状態でありますが、一方国語アクセントの歴史的研究の方は、遅々として進まず、例へば東京式アクセントと近畿式アクセントとは同じもとから別れ出たことは認められながら、れれでは何時頃如何にして別れたか、などと言ふ最も興味深い問題でも、まだ定説と言ふやうなものは立てられてゐない状態であります。又、原始日本語に於けるアクセントの種類とか、一型アクセント成立の事情とか言ふ問題も、まだ殆ど手をつけられてゐないのであります。
 併し国語アクセントと言ふものを科学的に研究するためには、此等は是非明らかにしたい問題でありまして、殊に東京式アクセントと近畿式アクセントとが、現在非常に面白い状態に分布して居り、而も此の二つが悠久の昔に分離したと見られることに思ひ至ります時、此の対立がどうして出来上つたか、と言ふ問題を考へることは、啻に〈タダニ〉国語アクセントを科学的に研究するにとゞまらず、遠い昔の日本民族の文化の交流の歴史を考察することにもなるのではありますまいか。
 此の方面の研究に進まれる同志が一人でも多く出でられんことを望みつゝ、此の稿を終へます。   (十七、一、十八)

 金田一春彦の論文「国語アクセントの史的研究」は、日本方言学会編『国語アクセントの話』(春陽堂書店、1943年3月)に収録されている。本日、紹介したのは、同論文の「むすび」の部分である。短い文章だが、日本語のアクセントという問題についての、要を得た紹介になっている。
 明日も、引き続き、『国語アクセントの話』という本について述べる。

*このブログの人気記事 2023・11・30(8位の岩波新書は久しぶり、10位に極めて珍しいものが)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岡部医師は、横川―浜松間を自転車で往復した

2023-11-29 03:12:01 | コラムと名言

◎岡部医師は、横川―浜松間を自転車で往復した

 浜松空襲・戦災を記録する会編『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、稲留藤次郎の「救護部長として」という文章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。

 太田吉弥さん(五十四歳)は引佐〈イナサ〉郡滝沢から、鈴木高次さん(四十六歳)は西気賀からと、それぞれ並み並みならぬ通勤の苦労をされたが、ここでわけても特筆すべきは岡部〔慎爾〕さんである。疎開先が磐田郡光明村〈コウミョウムラ〉横川であった彼は、その横川、浜松間を一日おきに自転車で往復したものである。浜松―横川間は優に三〇キロ以上はあり、おまけに二俣―横川間は相当な山坂道だとも聞いている。彼は私より一つ年長であった。若い時分からスポーツ、特にテニスで鍛えたからだではあったが、そのすごい頑張りは彼の旺盛な気力が然らしめたものと、今だに私は賛嘆と敬服を惜しまない。開設後、診療所を訪ねる患者は次第に殖え、たまには往診もあったりして結構仕事になった。医師たちが診療所から受けた手当ては月三百円であった。その頃、米は一の宮あたりでも一升五〇円ではもう買えなかった。
 私は昭和二十一年〔1946〕の四月はじめに前記の広沢町の仮寓で自分の医院を開くに伴い、この診療所通いはやめる外なくなったが、私がやめた後も、内科に増田宗義さん、外科に谷口健康さん、小児科には瀬川深さんなどが協力され、診療所は所期の目的を十分に果たして、夏の初め頃円満閉鎖をしたと聞いた。戦災で方々に散っていた市内の医療担当者たちがぼつぼつ帰って診療をはじめ、又診療所で勤めたみなさんも銘々が自分の診療所再開や本番の就職などに専念せねばならなくなったからである。
 あれから二十余年、診療所のお粗末な会議室兼食堂で、昼食後のひとときを談笑した人々の顔が今も瞼に浮かぶ。
 診療所で働いた同僚のうち、瀬川さん、松下〔稲覧〕さん、竹下〔正彦〕さん、下位〔アサヱ〕さん、岡部さん、増田さんなどがもう故人となられた。下池川の診療所のあったあたりも、今は近代的な大厦高楼〈タオカコウロウ〉が聳え〈ソビエ〉、その間に文化住宅が櫛比〈シッピ〉し、昔の俤〈オモカゲ〉をしのぶよすがとてない。
 浜松市は日に日に大きく美しく伸びて行く。ひたすらに四十五万市民の健康と幸を祈る。(昭和四十七年七月三十日)
【一行アキ】
 あとがき
 私は日記は克明につける方である。ところか前述の昭和二十年五月二十四日夜の罹災で、家と一緒に、それまでの年々の日記帳は悉く焼いてしまった。又、終戦後もしばらくは日記帳が手に入らないので、日記のつけようがなかった。従って戦争中の警防団の救護部がいつ結成され、私が何年何月何日から救護部に関係したか、或いは終戦後の下池川町の仮珍療所が開設されたのが十月だったか十一月だったかも、記録もなければ記憶もさだかではない。それで当時の救護部関係者や診療所関係者で、現在市内にご健在のみなさんに電話で、もし記録をお持ちでないか、或いはご記憶はどうかなど繰り返しお尋ねしてみたが、私同様記録をお持ちの方はなく、又二十余年昔の日づけまでをいちいち記憶している方もある筈はなく、結局みなさんの一応のご記憶と私の記憶をつき合わして話の筋書きをまとめるしかなかった。文中年月日の日づけの記載の欠けたところがあるのはそのためである。もっと探索すれば、然るべきところには正確な記録が保存されているかも知れない。もしあればご叱正を賜わりたい。しかし記録の大筋としては、できるだけ誇張と誤りを避け、真実を伝えることに意を用いたつもりである。(当時・浜松市警防団第十六分団救護部長 現・浜松市鴨江□丁目□の□□)

 筆者の稲留藤次郎さんについて詳しいことはわからないが、インターネット情報によれば、1976年(昭和51)5月に「浜松こども園診療所」が開設された際、稲留藤次郎さんは、その管理者となっている。
 明日は、日本語のアクセントの話に戻る。

*このブログの人気記事 2023・11・29(9位の高田保馬は久しぶり、8・10位に極めて珍しいものが)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝夕の往復だけで7~8時間を要した

2023-11-28 00:55:10 | コラムと名言

◎朝夕の往復だけで7~8時間を要した

 浜松空襲・戦災を記録する会編『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、稲留藤次郎の「救護部長として」という文章を紹介している。本日は、その四回目。

 二、戦後、浜松市仮診療所のこと
 私が焼野原と化した浜松市を後に家族と共に周智〈スチ〉郡の一の宮村〔一宮村〕に疎開したのは、昭和二十年七月二十五日であった。戦争中、私は妙な風の吹きまわしで鴨江東町の町内会長をも勤めていたので、町内が全滅しても、まだその焼跡の防空糠や焼けトタン葺きの小屋で暮らしている人が若干あったのを見捨てるに忍びず、残された人たちの世話をするために自分の疎開が遅れた始末。それからは浜松市に対する艦砲射撃、広島・長崎の原子爆弾被爆等があって、やがて八月十五日の終戦となった。戦争が終わるともう敵機の脅かさない空の下での起居はひと安心ではあったが、疎開者にとってはわびしい日々であった。但、医師はどこへ行っても診療を需め〈モトメ〉られるので、仕事がなくて無聊〈ブリョウ〉をかこつということはなかったようだ。私の寓居にも訪ねて来る患者が絶えなかった。又一の宮村内や近くの村々は素より、遠く二俣町〈フタマタチョウ〉(現在天竜市)や袋井あたりまでも往診に出かけたことも度々あった。勿論、診療器具や薬品の備えがあるわけではなかったので、それを手に入れてどうにか間に合わせるのは並み大抵の苦労ではなかった。
 いつしか秋風の涼しい十月となった。その月末に近い或る日、私は西鹿島〈ニシカジマ〉駅前の路上で、岡部慎爾さんとパッタリ出会った。浜松市大空襲の前からの久しぶりの邂逅である。互いの無事を喜び合うと、彼はすぐ「ちょうどよかった。実は市の衛生課の鈴木武課長と相談の結果、下池川町〈シモイケガワチョウ〉に仮診療所を急設して、市民の診療に当たろうと思うから、是非協力して欲しい」という。私は二つ返事で快諾した。自分もその頃ひそかにそのような事を考えていたからだ。十月の末か十一月の初めだったかと思う、教えられたままに尋ねて行った下池川の急設の診療所というのは、戦災を受けなかった市の授産場の建物であった。集まった医師団の顔触れは、内科が所長格の岡部さんと太田吉弥さん、小児科が平野多賀治さんと私、産婦人科が竹下正彦さんと下位アサヱさん、眼科が松下稲覧さんと鈴木高次さんで、外に薬剤師とその補助員がおり、庶務会計が市衛生課の栗原信一さんといった立派な陣容であった。医師は一つの科に二人が一日交代で勤めるわけである。世話役の手まわしがよく、薬品その他の材料も揃い、特に薬剤はかねて 私たちが賞用する高価薬も並べてあった。
 私は前述の疎開先の一の宮村から隔日に通った。一の宮の寓居と一の宮駅〔遠江一宮駅〕との間一・五キロ程を徒歩で、一の宮駅と浜松駅間は二俣線と東海道線(掛川駅で乗り替え)を利用したが、たまには二俣線と遠州鉄道(西鹿島駅乗り替え)で運ばれることもあった。浜松駅と下池川間は徒歩。畢竟、寓居と珍廉所の間が片道で三時間半から四時間位、従って朝夕の往復では道中だけに七時間から八時間位を要したわけ。診療所の仕事の都合でおそくなって、汽車や電車の連絡のあてがなくなる事が度々あったが、そんな時はよく鴨江の白石信明さんのお宅(ご自宅は罹災、この時は借家)や、上池川町(現在、城北)の高橋清介さん宅(幸い戦禍を免れた)に何度も泊めて頂いた。又、掛川までは行っても、その先の二俣線の汽車がもうないこともあったが、そんな時は同町肴〈サカナ〉の梅木屋洋服店二科竹雄さん宅に厄介になった。私のこの診療所通いは翌二十一年〔1946〕の三月末、私が広沢町の仮寓に移るまで約五か月間続いた。昭和二十年に四十八歳であった私にとって、それは可なりの重労働に違いなかった。しかし私はまだよい方であった。私と組んだ平野多賀治さん(昭和二十年三十七歳)は三ケ日〈ミッカビ〉に疎開していたので、三ケ日―新所原〈シンジョハラ〉―浜松の診療所通いを私よりも一か月位長く続けられたが、その往復に要する時間も私以上で、日の短い冬など、朝は暗い内に起床、帰宅は深夜に及ぶのが常で、時には貨車に便乗されたこともあったとのこと。【以下、次回】

「二俣線」とあるのは、日本国有鉄道二俣線のこと。1940年(昭和15)6月に、掛川駅・新所原駅間が全通。今日の天竜浜名湖鉄道天竜浜名湖線。遠江一宮(とおとうみいちのみや)駅は、1940年(昭和15)6月に開業。三ヶ日駅は、1936年(昭和11)12月に、日本国有鉄道二俣西線の終点として開業。
 また、「梅木屋洋服店」という名前が出てくるが、これは、現在、掛川市駅前5丁目にある洋服店「梅木屋」のことであろう。なお、「掛川町肴」は地区名で、今日では、「掛川市肴町(さかなまち)」となっている。

*このブログの人気記事 2023・11・28(8・10位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

6月18日、ついに浜松市壊滅の夜を迎えた

2023-11-27 01:18:55 | コラムと名言

◎6月18日、ついに浜松市壊滅の夜を迎えた

 浜松空襲・戦災を記録する会編『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、稲留藤次郎の「救護部長として」という文章を紹介している。本日は、その三回目。

 そうこうしているうちに昭和二十年〔1945〕五月二十四日の夜が来た。夜半近くなっていつもの警戒警報に次ぐ空襲警報で、駈けつけて来た救護部員たちと壕に待避すると間もなく敵の一機らしい爆音が頭上に近づき、続いてカチッ、カチッという只ならぬ物音に、壕から飛び出て見まわしたところ、私の家の二階の数か所で火焔があがり、庭の植木にもあちこち火がついている。火は西隣りの家からも東隣りの家からも、南隣りの家からも燃えあがっている。北側はわが家の高い建物の蔭になって見えないが、やはり燃えているに違いない。到頭やられたか! 私は咄嗟に、これではバケツリレーの注水位では、何の役にも立たない。又いくら勇ましい浜松の消防車と雖もこの火は消しとめ得まい。もはや焼けるにまかせるだけだ。マゴマゴするとからだが危いと判断し、救護部の諸君には直ちに安全圏に立ち退くよう叫んだ。しかし部員たちはすぐには逃げ出そうともせず、それにいつの間にか火の間を潜って駈けこんで来た数名の消防団員と共に、かねて重要な薬品類を蔵【しま】ってあった裏庭の物置き目がけて注水をしたり、又特に貴重な薬品をいっぱい詰めてあった重いドラム罐を引きずり出して、庭のまん中ほどに置いたり、ひとしきり慌しい〈アワタダシイ〉働きをしてから再三の私の勧めでようやく去って行った。そのわずかな間にも火はどんどん燃えひろがるばかりなので、消防の諸君にも私の家はあきらめて貰う外なかった。しかし消防団の本隊はこの夜も被災区域の辺縁〈ヘンエン〉の火のついている家々にアタックして消火に努め、延焼をくいとめた功は大きかったと後で聞いた。
 気が気でなかった私は、妻と家族をせきたてて鴨江遊廓の方に逃げるよう、しかと言い含めて裏門から送り出し、自分は救護部員たちも全員残らず立ち退いたのを見届けてから、もはや火勢の熱気に耐えられなくなった庭を飛び出し、燃えに燃えさかるわが家と周りの家々をふり返りながら家族たちの後を追った。
 鴨江遊廓の中通りで家族たちに追いつき、さしあたり遊廓裏の鈴木喜三太氏宅を訪ね身を寄せて頂くことにした。
 数刻後、ようやく鎮火したとの報を聞いて屋敷まで引き返して見たところ、家は勿論、物置きも車庫も悉く灰と化し、自動車も焼けて哀れな残骸になっていた。後で何人かの人が私や妻に語ったところによると、周囲の家並みより一段と高く大きかった私の家が、ドーッと焼け崩れる様は、中山町あたりの高処(たかみ)から眺めて、なかなか壮観だったとのこと。
 この夜の敵の一機? による、浜松市では、夜間攻撃として最初の襲撃によって全焼したのは、鴨江東町の約半分と栄町の一部で、計一三〇軒ばかりだったと記憶している。
 庭の防空壕はさすがに何ともなかった。
 それで妻の母と私の姪とは彼女らの希望もあって、当分この防空壤で寝起きすることにした。家が焼けてから二、三日後、妻が焼け跡で、防空壕住まいの母たちと話していると、そこへ憲兵が二人の兵隊さん? とやって来て、私の屋敷内に散在する焼夷弾の敷を拾い集めたが、その結果は、私の当時一、三〇〇平方メートル(約四〇〇坪)足らずの敷地内から実に四七本の焼夷弾の殼と七本の不発弾? と計五四本が堆く積まれたとのこと、これは妻のたしかな記憶である。因に〈チナミニ〉その後六月十八日の浜松大空襲の夜、もう建物はひとつも残っていなかった私の同じ屋敷内に、焼夷爆弾による穴が四か所あいていたが、油脂焼夷弾はあまり見かけなかったように思う。
 さて防空壕だけは無事でも肝腎の診療所の建物が焼けてしまったのでは、もはや救護部の拠点とするわけにもいかず、さりとて外〈ホカ〉に分団区域内に適当な救護部向きの建物を物色しようにも、誰一人その心当たりはなかった。
 私と妻と子供二人はしばらく前記の鈴木喜三太氏宅にご厄介になることになったので、救護部員たちは、そこへ代わるがわる訪ねてくれた。
 その後暫くは十六分団の区域内には大きな事故は起こらなかったが、遂に六月十八日浜松市壊滅の夜を迎えるに至った。
 私の父(当時八十歳)は、その夜、前述の鴨江西南町の自宅(同夜遂に焼失)から西部中学校裏の下り坂を隣保〈リンポ〉の人たちと避難する途中、焼夷弾によって右の肋骨四本が肺の中に折れこむ重傷を負い、鴨江小学校に収容され、三日後の六月二十二日に、遂にその生涯を終えた。鴨江小学校は戦災を免かれたので、その後も暫く警防団救護本部の救護所として、多くの負傷者の収容、治療がここでなされた。【以下、次回】

 文中、「鈴木喜三太氏宅」とあるが、インターネット情報によれば、鈴木喜三太は、当時、株式会社鈴木組の社長。「喜三太」の読みは不詳。
 鈴木組は、1890年(明治23)、鈴木国作によって設立され、1944年(昭和19)7月、改組されて、株式会社鈴木組となる(社長・鈴木喜三太)。今日も、浜松市中区神田町〈カミダマチ〉で盛業中である。

*このブログの人気記事 2023・11・27(8位の古畑種基は久しぶり、9・10位に極めて珍しいものが)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

何とそれは鴨江遊廓の娼妓連ではないか

2023-11-26 02:43:36 | コラムと名言

◎何とそれは鴨江遊廓の娼妓連ではないか

 浜松空襲・戦災を記録する会編『浜松大空襲』(1973)の「浜松大空襲体験記」の部から、稲留藤次郎の「救護部長として」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 だが、敵機の襲撃は日増しに身近に迫って来た。鴨江〈カモエ〉から伊場にかけた一帯にも集中爆撃が行なわれると多くの死者、重軽傷者が続出して、俄か〈ニワカ〉にわれわれの救護部に次から次と怪我人が担架で運びこまれて来たが、それが防空壕のスラブ〔床板=しょうばん〕を覆うて広がる三〇〇平方メートルほどの芝庭に忽ち〈タチマチ〉いっぱいになった。はじめは芝生にところかまわず、ごっちゃにおろされた怪我人を私と妻が人々にさしずして何列かに順序よくならべ替えて寝かせた。そして私は片っ端から怪我の程度を診て行くと、中には既に息絶えた人も何人かあった。それらの死んでいる人は直ぐ鴨江寺〈カモエジ〉に運ばせ、息のある重傷者は救護部員たちが、てんでに私の指示で手当にまわった。救護部員たちは懸命に立ち働く意欲はあるのだが、こう一度に多勢の死者、重傷者がかつぎこまれたのでは第一、救護用材料が足らず、それに外傷そのものが多種多様で複雑なものが多いと来ては、彼らがふだんの講習で得た初歩の応急処置の知識と手技ではとても間に合わず、ほんの申しわけの簡単な包帯をする位で、あとは専門の外科医の待つ病院や医院に怪我人を送る手配をするのが精いっぱいであった。ところで私は負傷者が運びこまれる最初から気づいたことだが、モンペをはき、和(にほん)手拭を、キリッと頭に巻きつけた凛々【りり】しい姿で、勢いよく担架を運んで来る人々の顔を見ると、何とそれは殆んどが鴨江遊廓の娼妓連ではないか。私も妻も彼女らに顔見知りが多かったが、これほどの修羅場での、その怯【ひる】まず臆せず真剣な甲斐々々しい働きぶりは全く見事で、頼もしい限りであった。
 その内、この地獄絵の騒ぎの中で、夢中で立ちまわっていた私の妻に、怪我人を運んで来た一人の人が、「鴨江西南町が全滅ですよ」と告げてくれた。西南町といえば私の老父が隠居所に住んでいるところで、その人もそれを知っていたらしい。妻は私に相談するが早いか慌てて走り出したが小一時間も経ってから戻って来て、まだ怪我人の処置で手の放せない私に語ったところによれば、鴨江遊廓の大門まで行くと、その先は爆弾で滅茶苦茶に破壊された家の柱や屋根や壁などが道をいっぱいに塞いでいてそこから隠居所までの三〇〇メートル足らずを、そのような堆【うずたか】い障害物を踏み分け踏み越え、やっとの思いで辿りついたが、見れば幸いに隠居所と周りの数軒は大きな被害もなく、老父は近所の人たちと門の前で立ち話しをしており、却ってこちらの安否を気づかっていたほどだった。しかし、その往復の途中は、まだ家の下敷きになったままで悲鳴をあげる人、それを助け出そうとあせる人たちがそこここに見られたとのこと。
 庭いっぱいの怪我人をあらかた処理してからも、なお、とぎれとぎれに運びこまれる負傷者がいつまでもきりにならなかった。
 かねて覚悟はしていたものの、遂にまざまざとこの大きなショック的試練を体験させられた教護部員たちは、救護部がなし得る力の限界を知り、失望したことは已むを得なかった。が、しかし、それは要するに相手がわるすぎたからである。それにたとえ不満足ではあったにしろ、救護部がやった事は無駄ではなかったどころか、部員が働いたればこそ、まがりなりにも数多の怪我人の処理ができたのである。どうしてもなくてはならない、救護部員は自信を失ってはいけない。よし! この体験を生かしてこの次はもっと手際よくやるぞ! お互いにそうはげまし合った。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2023・11・26(9・10位に極めて珍しいものが入っています)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする