◎日本人は、いつから「無宗教」になったのか
昨日の話の続きである。私は、『日本人は本当に無宗教か』(平凡社新書、二〇一九)の中で、日本人の「無宗教」は、あくまでも、「近代の所産」であると述べた。
私見によれば、もともと日本人は、厚い信仰心を持っており、安定した宗教的環境の中で生活していたが、近代以降、国家の宗教政策の影響によって、「無宗教」という国民性を帯びるにいたったのである。
手抜きで申し訳ないが、以下は、『日本人は本当に無宗教か』の終章からの引用である。
なぜ日本人は「無宗教」になったのか。この問いに対する本書の答えは、きわめてシンプルなものである。
国家権力、ないし、それに追随する知識人が、「宗教」というものに対して、禁圧や介入を繰り返してきた結果、「宗教」に対する民衆の意識が、偏向した形で固定してしまったから――というのが、その答えである。この「偏向した形で」というのは、もう少し言えば、①ネガティブな形で、②習俗を否定する形で、③混乱を招くような形で、ということである。三か条に分けて補足する。
①戦国時代の一向宗、江戸時代のキリスト教および不受不施派など、権力の支配を受け入れようとしなかった宗教は、権力から徹底的に弾圧された。昭和前期の「大本」や「ひとのみち」も同様である。そうした宗教は、権力から見れば「邪宗門」、「邪宗」である。しかし、宗教というものは、政治権力や国家権力の原理とは異なる原理で存立しているものであって、多かれ少なかれ、権力というものを「相対的に」捉えているところがある。
宗教がそういう存在である以上、権力の側からすれば、それは基本的に「邪宗門」、「邪宗」ということになろう。――権力側のそうした「宗教=邪宗」観は、徳川幕府から明治政府に受け継がれ、昭和前期にまで及んだ。あるいは、今日にまで及んでいる。権力側のこうしたネガティブな宗教観は、知識人の言説を通して、大衆の間にも浸透していった。
②発足当初の明治政府は、祭政一致を目標とし、慶応四年閏四月(一八六八年六月)に「神祇官」を置いた。また、全国各地の神社を中央集権的に再編成していった。その一方、明治六年(一八七三)、教部省は、加持祈禱・口寄せ・占いなどの呪術行為を禁止している。また、明治初年以降、盆踊り・クラヤミ祭・雑魚寝・おこもりなど、性的な解放をともなう習俗が、風紀を乱すという理由で当局の取締りを受けた。
こうした呪術行為や習俗は、近代以前の日本においては、「宗教を補完するもの」、もしくは「宗教の一部」であったというのが、本書の見方である。ところが、明治に入るや、そうした呪術や習俗は、一転して、克服さるべき「迷信」や「陋習」と見なされることになった。
③発足当初の明治政府は、「神道」の国教化を目指していたが、間もなく、これは挫折する。明治四年(一八七一)に始められた「氏子調【うじこしらべ】」が、明治六年(一八七三)に廃止されたことは、そうした挫折の一例である。その後、「国教」の問題、「宗教」の問題をめぐって、政府内に意見の対立があったが、一八八九年(明治二二)に大日本帝国憲法が発布されたことで、一応の結着がつく。大日本帝国憲法は、信教の自由を認め、国教を定めなかった。憲法上、国教は存在しないはずだったが、実質的には国教が存在していた。いわゆる「国家神道」である。
不思議なことに、この「国家神道」は、実質的には国教であったにもかかわらず、「宗教ではない」(非宗教)とされていた。非宗教たる「国家神道」を、他の諸宗教を超えたところに位置づけたのであった(国家神道体制)。ところが、帝国政府は、実質的に国教の位置を占めていた「国家神道」を、最後まで(敗戦にいたるまで)「宗教ではない」と言い繕った。こうしたことは、人々の「宗教」概念に決定的な混乱をもたらした。
以上が、『日本人は本当に無宗教か』終章からの引用である。この考え方は、今でも変わっていない。しかし、今月八日の安倍元首相銃撃事件のあと明らかになってきた、「宗教」をめぐるこの国の実態は、私の想定を超えるものであって、上記のうち①については、補足あるいは訂正が必要なことを認めざるを得ない。【この話、続く】