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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

五代目尾上菊五郎の代役を務めた十代目市村家橘

2014-08-31 03:57:27 | コラムと名言

◎五代目尾上菊五郎の代役を務めた十代目市村家橘

 十五代目の市村羽左衛門〈イチムラ・ウザエモン〉は、十代目市村家橘〈イチムラ・カキツ〉を名乗っていた時代に、『国姓爺合戦』〈コクセンヤガッセン〉の舞台で、五代目尾上菊五郎〈オノエ・キクゴロウ〉の代役を務めたことがある。
 まず、次の文章をお読みいただきたい。

 明治の劇壇に団菊〈ダンギク〉時代といはれてゐる最も華やかな演劇史の上の黄金時代がありました。
 それは団十郎〔九代目市川団十郎〕と菊五郎(先代)〔五代目尾上菊五郎〕といふ古今の名優が時を同じうして現れ、舞台の上で常に共演してゐたからであります。三十幾年前〈ゼン〉の昔話になりますが、私は上京してから後、どんなに生活の苦しい時でも、この団菊だけは見逃さずに来ました。
 ある時『国姓爺』といふ芝居が歌舞伎座で上演されました。団十郎の甘輝〈カンキ〉将軍、菊五郎の和藤内〈ワトウナイ〉で、満都の好劇家の血を沸させる〈ワカサセル〉好取り合せでありました。
 私が観に〈ミニ〉行つた時のことです。これからいよ『国姓爺』が始まるのだと固唾〈カタズ〉をのんで待つてゐましたが、幕はなかなかあきません。三十分、一時間とたつて、見物は次第にブツブツ文句を言ひだした頃、肝腎〈カンジン〉の菊五郎が急病だといふことが分つて、がつかりしてしまひました。
 が、菊五郎に代つて和藤内を立派に、而も団十郎を向うに廻してやれる役者なぞは勿論ないのです。一体、座の方では何う〈ドウ〉するつもりだらうと、多くの見物と共に私も、不安の思ひをしてゐました。するとそのうちに、和藤内の代役は家橘と決つたといふことを聞いて唖然としました。家橘といふのは、今の羽左衛門氏の若い頃の芸名で、その当時は、づぼらで不真面目だといふので評判甚だ香ばしくなく、いゝ役がつかなかつたのであります。まさかそんな人にこの大役をさせはしまいと、半信半疑でゐるうちに、幕があきました。
 やつぱり羽佐氏でした。が、おやおやと思つたのはほんの一瞬で、忽ちその素晴らしい芸に魅せられてしまひました。
 花道を飛んでやつて来た時の颯爽たる風姿、六尺の長刀を提げて団十郎の甘輝に迫る意気込み。微塵のすきも、ゆるみもなく、満場たゞ酔へるがごとく見とれてしまつたのであります。
 長い間、この人の体につき纏つてゐた「づぼら」の名は、どこかに消し飛んでしまつたことは云ふまでもありません。

 興味深い話である。年代ははっきりしないが、明治三〇年代前半の出来事であろう。
 ところで、この出来事を目撃した「私」とは誰か。実は、昨日のコラムで紹介した新潮社の創業者・佐藤義亮である。
 出典は、佐藤のエッセイ集『向上の道』(新潮社、一九三八)。これは、『生きる力』(一九三六)の続編にあたる。
 それにしても、名文である。今日読んで、まったく違和感がない。当時すでに、そうした文体を完成していたということである。この時代に、これだけ平易で、しかも含蓄のある文章を綴れた人は、そう多くはなかったと考える。

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佐藤義亮『生きる力』の復刊

2014-08-30 07:33:12 | コラムと名言

◎佐藤義亮『生きる力』の復刊

 本日の日本経済新聞の一面に、佐藤義亮『生きる力』の広告が載っていた。発行は広瀬書院、発売は丸善出版である。佐藤義亮〈サトウ・ギリョウ〉は、新潮社の創業者で、この『生きる力』のほか、『向上の道』、『明るい生活』などの著書がある。いずれも、逸話あるいは随筆を集めたものである。『生きる力』の初版は、一九三六年(昭和一一)五月六日に、新潮社から出た。これがベストセラーとなったため、続いて、『向上の道』(一九三八)、『明るい生活』(一九三九)が編まれた。
 いま手元に、『生きる力』のオリジナル版がある。初版発行から一か月後の一九三六年六月五日に発行されたものだが、何と一六五版である。最終的には、三二〇版以上に及んだという。驚異的なベストセラーである。この本が、戦後、一度も復刊されなかったというのは、むしろ不思議な話である。
 今回の広瀬書院版は、この『生きる力』の初めての復刊ということになる。なお、『生きる力』は、一九三八年(昭和一三)に、改訂増補版が出ている。今回の復刊が、初版を底本にしたものなのか、補訂版を底本にしたものなのかといったあたりは、広告を見ただけでは判断できない。
 当コラムでは、一年ほど前に、佐藤義亮の『明るい生活』から、三つほど逸話を抜いて紹介したことがある。佐藤義亮に関心をお持ちの読者には、とりあえず、「貝を磨いて客を待った石州流茶道の家元」(2013/9/12)を、ご覧いただければと思う。

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日本経済新聞「大機小機」欄に異論あり

2014-08-29 06:26:11 | コラムと名言

◎日本経済新聞「大機小機」欄に異論あり

 一昨日(二七日)の日本経済新聞のコラム「大機小機」は、「労働市場の失敗と政府」と題するものであった。引用してみよう。

【前略】人件費の抑制を目指すあまりに、日本企業は行き遇ぎたところまで非正規化を進めたのではないか。顧客情報が漏洩し、大きなトラブルが発生した企業を見ると、そう思えてくる。
 外食チェーンの大手で長時間残業など違法な労働環境が日常化していた。「過労死ライン」とされる残業時間を上回る月100時聞を超えた残業が常態的にあり、24時聞働いたり2週間自宅に帰れなかったりした社員もいたという。これは、ビジネスモデルの名にすら値しない違法行為だ。
 このように労働市場は失敗するが、そうしたときに登場しなければならないのが政府である。ブラック企業が問題になるたびに、当然のことながら経営者は指弾される。しかし、そもそもそうしたことが起きないように、法律で定められている雇用・労働に関するルールの順守をチェックするのが厚生労働省の責任であり、そのために全国321の労働基準監督署があり、3000人の労働基準監督官がいる。
 見えざる手が働くためには、市場のルールが守られなくてはならない。それを担保するのは政府の役割である。問題を起こした企業には監督署が何度も「勧告」を出していたそうだ。監督署の権限が弱すぎるのである。時代の役割を終えた規制を緩和・撤廃する一方で、必要なところでは政府の権限を強化することもアベノミクスに求められる。(与次郎)

 一読すると、まともな提言であるかのように思えるが、要するにこれは、労働市場の失敗を労働基準監督官の責任に帰そうという議論であって、大いに異論がある。「大機小機」欄には、ときどき、ジャーナリストの知性・理性を感じさせる文章が載ることがあるが、この文章は、それにあてはまらない。
 そもそも、政府や財界、あるいは日本経済新聞などの報道機関は、ここ数十年、「規制緩和」ということを主張してきたのである。それが、特に本年になって「労働市場の失敗」が明らかになったからといって、急に労働基準監督官の責任を問い、「規制強化」を唱えるというのは、あまりに無節操というべきではないか。
 右コラムでいう「ブラック企業」に該当しそうな某外食チェーンの経営者である某氏は、これまで、某学校法人の理事長となり、政府の教育再生委員に選ばれ、某市の教育委員となり、さらに、参議院議員にもなった。これらのことについて、当時、批判的な報道がなされたことは少なかった。むしろ、これを支持するかのような報道があり、これを歓迎するかのような世論があった。「ブラック企業」が、ここまではびこってしまった理由は、労働基準監督官にあるのではなく、「ブラック企業」を容認してきた政財界、マスコミ、世論にあるのではないだろうか。

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二代目市川猿之助、シャイロックを演ずる(1948)

2014-08-28 05:29:14 | コラムと名言

◎二代目市川猿之助、シャイロックを演ずる(1948)

 歌舞伎公演データベースによれば、一九四八年(昭和二三)一〇月に、東京劇場(東劇)で『ヴェニスの商人』が上演された。シャイロックを演じたのは、市川猿之助一座の市川猿之助(二代目)、ポーシャを演じたのは、水谷八重子一座の水谷八重子(初代)であった。
 ところで、同データベースによれば、この上演は、「最高裁判所一周年記念上演」と銘うたれていた。なぜ、「最高裁判所一周年記念上演」なのか。今日、この事情を知るものは、多くないであろう。
 この間、このコラムで何回か言及した元名古屋高裁長官の内藤頼博は、最高裁判所事務総局秘書課長を務めたこともあった。晩年におこなわれたインタビューの中で、内藤は、次のように述べている。

高野〔耕一〕 では、話はがらりと変わりますが、例の梅幸さん〔七代目尾上梅幸〕とか花柳章太郎、水谷八重子〔初代〕などについてのエピソードがありましたらばお気楽にお聞かせいただければと思います。特に水谷八重子については何か家裁のポスターに使ったというお話ですね。
内藤 家裁ができたとき広報用のポスターに使ったのです。
高野 その経緯をちょっとお話してください。
内藤 最高裁判所ができて1周年の時ですけれども、東劇〔東京劇場〕で水谷八重子のポーシャで『べニスの商人』〔ママ〕の芝居をやるというので、裁判所で皆で見ようということになったのです。そしてその機会に三渕さん〔初代最高裁判所長官・三淵忠彦〕が皇太子様をお呼びしようということで、東宮大夫の穂積重遠〈ホヅミ・シゲトオ〉さんとのお話で、今の天皇陛下と常陸宮様のお二方、まだ学習院初等科にいらっしゃったときですが、お出まし頂いて、三渕さんも大変喜ばれました。そのとき、猿之助〔二代目〕のシャイロックと八重子のポーシャが幕間〈マクマ〉に舞台から御挨拶を申し上げることになって、その御挨拶のことばを僕に書いてくれという、それで僕がそれを書いたわけなのですよ。そしたらそれが大変名文(?)だということで、猿之助も八重子もその通りやってくれたわけです。そういう因縁があって、それで八重子に頼んでポスターになってもらったんです。
高野 それは今でも最高裁に。
内藤 とってありますね。どこかで見ましたね。家裁の何かの行事のときに。【以下略】

 内藤は、この上演が、「最高裁判所一周年記念上演」となった経緯については語っていない。しかし、歌舞伎界にツテがあった内藤が、何らかの働きかけをおこなったものと考えられる。
 なお、このインタビューは、『法の支配』通巻九六号(一九九四年六月)に掲載されている。

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日本経済新聞の「春秋」欄に知性を見る

2014-08-27 07:47:45 | コラムと名言

◎日本経済新聞の「春秋」欄に知性を見る

 一昨日(二五日)の日本経済新聞のコラム「春秋」は、アメリカの写真家ジョー・オダネルさんのことを紹介していた。

 昭和20年の夏も盛りを過ぎたころ。占領軍の一員として日本に上陸した米国の従軍写真家ジョー・オダネルさんは福岡の農村で、ある墓を見る。木で手作りした十字架に、「米機搭乗員之墓」とある。墜落した米軍機の搭乗員を、地主夫妻が手厚く葬ったものだと知る。
▼「墜落した飛行士も気の毒な死者のひとりですよ」と地主の妻は語った。別の日、ある市の市長宅でごちそうを振る舞われる。奥さんが作ったのだと考え「奥様にお会いしたい」と請うと、市長は穏やかに答えた。「ーカ月前の爆撃で亡くなりました」。オダネルさんは動揺し、おわびを述べ、逃げるように宿舎に帰った。【中略】

 春秋子は、このコラムを、次のような言葉で締めくくっている。

▼日本の最大の資産は誠意、寛容、潔さを備えた日本人だとの説がある。戦後、政府と占領軍の交渉でも日本側の誠意が米側の好意を引き出したと、五百旗頭真〈イオキベ・マコト〉氏は「占領期」に書いている。オダネルさんの場合も市井の日本人が元敵兵の価値観を変えた例だ。毎年この時期、混乱の中で礼節を失わなかった先人たちを思う。

 なかなか良い話だと思う。日経新聞の「春秋」欄、あるいは「大機小機」欄には、ときどき、ジャーナリストの知性・理性を感じさせる文章が載る。もちろん、上記のコラムもそのうちのひとつである。
 しかし、不満がないわけではない。もし、これをいうならば、今日、一部民衆、一部政治指導者のなかに、日本の最大の資産である「誠意、寛容、潔さ」を欠落させている者があらわれており、しかもその傾向が、一部ジャーナリズムによって煽られている事実を、春秋子は、ハッキリと指摘すべきであったと思う。

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