◎五代目尾上菊五郎の代役を務めた十代目市村家橘
十五代目の市村羽左衛門〈イチムラ・ウザエモン〉は、十代目市村家橘〈イチムラ・カキツ〉を名乗っていた時代に、『国姓爺合戦』〈コクセンヤガッセン〉の舞台で、五代目尾上菊五郎〈オノエ・キクゴロウ〉の代役を務めたことがある。
まず、次の文章をお読みいただきたい。
明治の劇壇に団菊〈ダンギク〉時代といはれてゐる最も華やかな演劇史の上の黄金時代がありました。
それは団十郎〔九代目市川団十郎〕と菊五郎(先代)〔五代目尾上菊五郎〕といふ古今の名優が時を同じうして現れ、舞台の上で常に共演してゐたからであります。三十幾年前〈ゼン〉の昔話になりますが、私は上京してから後、どんなに生活の苦しい時でも、この団菊だけは見逃さずに来ました。
ある時『国姓爺』といふ芝居が歌舞伎座で上演されました。団十郎の甘輝〈カンキ〉将軍、菊五郎の和藤内〈ワトウナイ〉で、満都の好劇家の血を沸させる〈ワカサセル〉好取り合せでありました。
私が観に〈ミニ〉行つた時のことです。これからいよ『国姓爺』が始まるのだと固唾〈カタズ〉をのんで待つてゐましたが、幕はなかなかあきません。三十分、一時間とたつて、見物は次第にブツブツ文句を言ひだした頃、肝腎〈カンジン〉の菊五郎が急病だといふことが分つて、がつかりしてしまひました。
が、菊五郎に代つて和藤内を立派に、而も団十郎を向うに廻してやれる役者なぞは勿論ないのです。一体、座の方では何う〈ドウ〉するつもりだらうと、多くの見物と共に私も、不安の思ひをしてゐました。するとそのうちに、和藤内の代役は家橘と決つたといふことを聞いて唖然としました。家橘といふのは、今の羽左衛門氏の若い頃の芸名で、その当時は、づぼらで不真面目だといふので評判甚だ香ばしくなく、いゝ役がつかなかつたのであります。まさかそんな人にこの大役をさせはしまいと、半信半疑でゐるうちに、幕があきました。
やつぱり羽佐氏でした。が、おやおやと思つたのはほんの一瞬で、忽ちその素晴らしい芸に魅せられてしまひました。
花道を飛んでやつて来た時の颯爽たる風姿、六尺の長刀を提げて団十郎の甘輝に迫る意気込み。微塵のすきも、ゆるみもなく、満場たゞ酔へるがごとく見とれてしまつたのであります。
長い間、この人の体につき纏つてゐた「づぼら」の名は、どこかに消し飛んでしまつたことは云ふまでもありません。
興味深い話である。年代ははっきりしないが、明治三〇年代前半の出来事であろう。
ところで、この出来事を目撃した「私」とは誰か。実は、昨日のコラムで紹介した新潮社の創業者・佐藤義亮である。
出典は、佐藤のエッセイ集『向上の道』(新潮社、一九三八)。これは、『生きる力』(一九三六)の続編にあたる。
それにしても、名文である。今日読んで、まったく違和感がない。当時すでに、そうした文体を完成していたということである。この時代に、これだけ平易で、しかも含蓄のある文章を綴れた人は、そう多くはなかったと考える。
*このブログの人気記事 2014・8・31