◎岩泉龍氏が勝ち誇った顔で笑っていた
中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)の紹介に戻る。本日は、その二十六回目で、第二部「農地改革」の7「適地選定委員会」を紹介する。前後二回に分けて紹介する。
7 適地選定委員会
農地改革一周年記念の日を境に、敵も味方も、ひんぴんと会合をもつようになった。私たちには、今後相手がどんな挙に出るか判断がつかなかった。あの日地主たちと約束した書面は出て来たが、ただ単に土地をとられたくないというに止まり、真面目に取り上げて考慮してやらねばならない者は少数であった。私はこの少敎はとり上げて、県にも連絡した。しかし一般の勢いに流されて、この人たちでさえ私の真意を汲んではくれなかった。敵の集合は殆んど連日であり、動きは日に活發になって行ったが、どこをどう突いて来るかが見当つかないままに日は過ぎた。
十二月〔一九四七年〕の下旬の或る日、県で適地選定委員会が開かれ、江刈村の未墾地も提案されるから出て来てみないかという話があった。県開拓課の藤原という青年からである。彼は未墾地買収計画に対する第一回の異議を調査のため、十二月初旬に村にやって来た。このとき、もう一人県農地委員の三上という人がやって来たので、私は農地改革の関係者を二人知ることになった。他には県庁にも、委員会にも一名の知人ももたなかった。適地選走委員会の開かれるという日に、私は一人で盛岡に出て行った。開拓公社の大村要之助を誘って、二人で会場に向った。
会場は県の会議室で、玄関の二階にあったが、階段を上るや意外な場面にぶつかった。会場の入口には沢山の人間が集まっていたが、中に知った顔がある。あれっと思って見渡したら、その殆んどが江刈村の人々であり、過般私のつるし上げを謀った地主陣営の闘士たちなのだ。「よお」と言って誰かが肩をたたく。ふり返って見たら岩泉龍氏である。勝ち誇った顔で笑っている。例の関羽ひげが、廊下に立って一行を指揮していた。守山商会の工場長も来ていた。今日の委員会で、江刈村の未墾地を不適地として葬り去ろうという戦術だということが,このとき初めて判った。私はそれほど重要な会議だとも知らず、また会議に働きかけてこれを動かそうなどとは、当時の私には考えられないことでもあった。【以下、次回】