礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

岩泉龍氏が勝ち誇った顔で笑っていた

2022-04-30 03:01:38 | コラムと名言

◎岩泉龍氏が勝ち誇った顔で笑っていた

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)の紹介に戻る。本日は、その二十六回目で、第二部「農地改革」の7「適地選定委員会」を紹介する。前後二回に分けて紹介する。

   7 適地選定委員会
 農地改革一周年記念の日を境に、敵も味方も、ひんぴんと会合をもつようになった。私たちには、今後相手がどんな挙に出るか判断がつかなかった。あの日地主たちと約束した書面は出て来たが、ただ単に土地をとられたくないというに止まり、真面目に取り上げて考慮してやらねばならない者は少数であった。私はこの少敎はとり上げて、県にも連絡した。しかし一般の勢いに流されて、この人たちでさえ私の真意を汲んではくれなかった。敵の集合は殆んど連日であり、動きは日に活發になって行ったが、どこをどう突いて来るかが見当つかないままに日は過ぎた。
 十二月〔一九四七年〕の下旬の或る日、県で適地選定委員会が開かれ、江刈村の未墾地も提案されるから出て来てみないかという話があった。県開拓課の藤原という青年からである。彼は未墾地買収計画に対する第一回の異議を調査のため、十二月初旬に村にやって来た。このとき、もう一人県農地委員の三上という人がやって来たので、私は農地改革の関係者を二人知ることになった。他には県庁にも、委員会にも一名の知人ももたなかった。適地選走委員会の開かれるという日に、私は一人で盛岡に出て行った。開拓公社の大村要之助を誘って、二人で会場に向った。
 会場は県の会議室で、玄関の二階にあったが、階段を上るや意外な場面にぶつかった。会場の入口には沢山の人間が集まっていたが、中に知った顔がある。あれっと思って見渡したら、その殆んどが江刈村の人々であり、過般私のつるし上げを謀った地主陣営の闘士たちなのだ。「よお」と言って誰かが肩をたたく。ふり返って見たら岩泉龍氏である。勝ち誇った顔で笑っている。例の関羽ひげが、廊下に立って一行を指揮していた。守山商会の工場長も来ていた。今日の委員会で、江刈村の未墾地を不適地として葬り去ろうという戦術だということが,このとき初めて判った。私はそれほど重要な会議だとも知らず、また会議に働きかけてこれを動かそうなどとは、当時の私には考えられないことでもあった。【以下、次回】

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藤子不二雄Ⓐさん作詞の「少年時代」があった

2022-04-29 04:30:02 | コラムと名言

◎藤子不二雄Ⓐさん作詞の「少年時代」があった       
 
 今月九日のブログに、「藤子不二雄Ⓐさんの代表作は『少年時代』です」という記事を書いた。そこで私は、東京新聞による訃報(四月八日23面)が、藤子不二雄Ⓐさん(安孫子素雄さん)の代表作『少年時代』に言及していないことに不満の意を表明した。
 しかし、昨二八日の東京新聞夕刊を見たところ、その三面にアニメ作家・鈴木伸一さんによる追悼文「藤子不二雄Ⓐさんを悼む」が載っており、そこには『少年時代』への言及があった。これは、うれしいことだった。その部分を引用させていただこう。

 8ミリ映画で遊んでいた時代のことを書いていて、安孫子氏が自分で製作した劇映画の名作「少年時代」を思い出した。彼の故郷である富山の作家・柏原兵三の小説に感動して漫画化(というより絵物語かな)した原作を篠田正浩監督で映画化し、なんと日本アカデミー賞をはじめ、その年の映画関係の賞を総なめにした名作になったのだ。
 この映画の音楽は、彼のマージャン仲間だった井上陽水さんに頼んだそうだ。そうしたら陽水さんに「それじゃ作詞をして送って…」といわれ、漫画のテレビアニメ化ではいくつも詞を書いているので、作詞して送ったそうだ。
 陽水さんの音楽ができて録音されたテープが届いた時に、安孫子氏から「音楽が届いたから聴く?」という電話があり、仕事場が近かったのでとんでいった。
 彼は「詞を書いてというから書いて送ったのに一行も使ってない」と不満げだったが、音楽を聴いてみたら私はとても気に入ったし「これはすごいよ、流行【はや】るだろうね」と絶賛した覚えがあり、彼の複雑な顔が今でも記憶に残っている。

 井上陽水さんの「少年時代」は、井上陽水作詞・作曲だが、その前に、藤子不二雄Ⓐ作詞の「少年時代」というものがあったことを、この文章を読んで初めて知った。

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暴対法には「法の下の平等」がない(田原牧委員)

2022-04-28 01:51:58 | コラムと名言

◎暴対法には「法の下の平等」がない(田原牧委員)

 中野清見の『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している途中だが、いったん、話題を変える。
 昨二七日の東京新聞六面「視点」欄は、田原牧論説委員兼編集委員の執筆で、テーマ(見出し)は、「暴対法施行30年/社会病理の視点失うな」であった。一部を引いてみる。

 暴力団を手足としてきた保守派の党人政治家は官僚派に敗れ、姿を消した。暴力団は資本の「汚れ仕事」を担ってきたが、バブル期にアングラマネーをつかみ、表の株式市場を揺さぶる脅威に化けていた。日本の建設業界への参入を狙う米国の圧力もあった。【中略】
 暴対法では、同じ行為であっても暴力団員であれば、違法と断じられる。そこには「法の下の平等」がない。
 暴対法を補完する形でつくられた各地の暴力団排除条例は、例外を認めないはずの人権に例外をつくった。条例は暴力団員による住居の賃貸、銀行口座の開設と保持、自動車の任意保険の加入、ホテルの利用など禁じた。生活保護からも排除された。
 暴力団員の子どもは給食費を現金で納めざるをえなくなり、家族旅行もできなくなった。これらが「社会の敵」という呪文で正当化された。

「暴対法」とは、「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(平成3年法律第77号)の略称で、一九九一年五月一五日交付、一九九二年三月一日施行。
 田原牧委員は、ここで、言いにくいことをハッキリ述べている。「暴力団を手足としてきた保守派の党人政治家」がいたことを、おそらく今の若者は知らないだろう。関心がある読者は、カプラン/デュプロ共著、松井道男訳『ヤクザ』(第三書館、一九九一)の巻頭写真を、とくと御覧いただきたい。
 暴力団員に「法の下の平等」が保証されていないことは、あまり知られていないし、問題にされる機会も少ない。しかしこれは、厳然たる事実である。
 私事にわたるが、私は、一九九二年四月二五日に、『無法と悪党の民俗学』(批評社)という資料集を出した。「あとがき」を書いたのは、同年三月七日であった(そこで、世にいう「ミソラ事件」に触れた)。それにしても、あれからもう三十年も経つのか。

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書類は一戸の理髪店で発見された

2022-04-27 00:27:41 | コラムと名言

◎書類は一戸の理髪店で発見された

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)の紹介を紹介している。本日は、その二十五回目で、第二部「農地改革」の6「開拓組合の設立」を紹介している。この章の紹介としては三回目(最後)。

 こうして喰い荒らされた「かす」を引きうけることは、われわれには堪えられぬことだったし、それよりも職員たちを引継がねばならぬということが、一層嫌な問題だった。新らしい酒は新らしい革ぶくろに盛らねばならない。私たちは農業会の人々の申し出を蹴った。このとき職員の一人が、自棄〈ヤケ〉になって私に吐いた台詞〈セリフ〉を今でも覚えている。「われわれは自分の月給が欲しくて一本になれというのではない。金がほしけれぁ、トラックに木炭積んで盛岡に出れば、途中で三度に一度捕まったとしても、月給なんかおかしくて。」
 こうして私たちは二つの組合をもつことになり、地主側も農業会の役職員と財産、負債を継承した江刈農協と酪農組合をもつことになった。このとき、新らしい組合の許可を一日でも早くとって相手の鼻をあかそうという競争が起った。こちらでは役場で助役らが徹宵〈テッショウ〉書類を作り、私がそれを地方事務所に持参することになった。ところが、その日葛巻町の或る地主が村内にもっていた山林と、村が葛巻にもっていた村有林の交換を終って、その地主宅で祝宴があった。私はその酒宴を半ばにして出、一戸〈イチノエ〉の町で汽車に乗り替えたとき、気がついたら肝腎の書類がない。村に電話して、バスの中まで探させたが、ないという。結局一戸の理髪店で発見されたが、こんなことでさえ当時は敵の物笑いとなり、味方にも重大事であったのだ。こうした苦労をした末、許可されたのは、二月の或る日両者同日付であった。
 この日より開拓組合は敵の憎悪の的となり、開拓という言葉は地主たちのタブーとなった。江刈村農協は地主側からは貧乏組合と呼ばれた。出資金は七万三千円ばかりで、開拓組合は無出資で発足した。
 私たちにとっての最大の困難は、組合の職員を見つけることであった。向うの組合には、質はともあれ、人員は揃っている。こちらの陣営には、文字を書けるものを見出すことさえ至難の業〈ワザ〉だった。組合長は、農協の方は農民でなければならないというので、村田という男が選任された。開拓組合長には、開拓公社にいた佐藤信夫という盛岡高農〔盛岡高党農林学校〕出の青年をつれて来た。彼は乳業工場に働くことを志望していたが、開拓公社の計画は挫折し、私は村で独自にやる計画を棄てていなかった。それで工場が出来るまで村に来て中学校の教諭をしながら、開拓組合をやって貰うことにした。開拓組合では、彼の給料を支払う資力もなかったので、これは私の苦肉の策であった。

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会長と理事が中古トラックにヤミ米を積んできた

2022-04-26 04:38:24 | コラムと名言

◎会長と理事が中古トラックにヤミ米を積んできた

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)の紹介を紹介している。本日は、その二十四回目で、第二部「農地改革」の6「開拓組合の設立」を紹介している。この章の紹介としては二回目。

 このころには全村一本の農業会があって、統制経済の末端機関としての役割を果していた。これが解体して新らしい農協法による組合が生れることになったとき、村には微妙な問題が起って来た。農業会は戦時中のような活潑な動きは出来なくなっていたには違いない。しかしまだ統制物資の種類が多く、ここに拠るものには多くの特典があった。ここの専務はすでに遠藤賢次郎去り、さらにもう一人変って、いまは農地委員長の岩泉儀信が経営に当っていた。彼とその職員たちは、農業会を看板だけ塗りかえて、農協にして居坐りたいのだ。農協は私たちがつくれば、地主側でも作るのが当然で、二本になるのは必至に見えた。農業会の人々は地主側に属するのだが、二つに割れれば経営が困難になる。そこで本来の性格はしばらく棄てて、新組合の一本化に狂奔せざるを得なくなったのである。しかし、この残骸を引継ぐことは、私たちには全く魅力がなかった。というのはこの村の二大産物の一つである木炭はまだ農業会で扱っていたが、もう一つの牛乳は別に引き離されて酪農組合の取扱いになっていた。まともな収入は牛乳の取扱い手数料だけなのに、それで全職員を養うのは、酪農家だけが犠牲になることでつまらない、というのが横山らの意見で、この部門を独立させて自分らだけのものにしたのである。この思想がいつまでも一部の人々の間に残って、組合発展の障害をなしている。
 木炭は戦時中は供出だったらしく、農業会は倉庫一ぱいの貯蔵を残していた。このころ、農業会は木炭運搬のために中古品のトラックを購入した。こんなものは盛岡附近でも買えるはずなのに、当時農業会の理事をしていた男の女婿が、その方面のブローカーで、彼の世話で東京から買うことになった。会長以下四、五人の人間が一台の中古トラックを買いに東京まで出かけ、帰りには颱風に逢って一ノ関でひっかかったりして、約一カ月を費して帰って来た。途中で理事が二俵、会長が一俵のヤミ米を積んで来たというので、当時の村民に疑惑と羨望を与えた。このトラックは当時二十万円足らずの品と見られたが、帳簿には六十数万円として載せられていた。ともあれ、この村にトラックがはいったのは村史始まって以来最初の出来事である。農業会の倉庫からは、こののち毎日木炭が運び出され盛岡方面に向った。農業会に働く人々の好景気は,こうしてしばらくつづいた。帳簿価格は前の供出値段だったろうが、売り捌くのはヤミ値であった。その差額を農業会の利益として計上することは、統制法違反だったに違いない。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2022・4・26(8・9・10位に極めて珍しいものが入っています)

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