礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

残念だが、これが最後になるかも知れぬ(緒方竹虎)

2021-02-28 00:54:02 | コラムと名言

◎残念だが、これが最後になるかも知れぬ(緒方竹虎)

『週刊朝日奉仕版』(一九五八年五月一四日)から、細川隆元執筆の「二・二六事件その日」という文章を紹介している。本日は、その四回目。

 ピストルをつきつけられて
 緒方〔竹虎〕さんの生前、この時の話を私が緒方さんから直接聞いてメモしておいたものが手許にあるから、それによってその時の模様を書いてみよう。
「僕が会おうということになり、同時に大阪の社に電話(直通電話)して〝残念だが、これが最後になるかも知れぬ〟というようなことをいったような気がする。下に降りて行く とエレベーターを出た直ぐ前の一段低くなった所に、一人の青年将校が立っていた。右手にピス卜ルを持ち、左に紙を持っている。ピストルが危いからなるべく身体を近づけた方が却っていいと思って、殊更顔がくっつく位に立って名刺を出して、僕は緒方で社の代表者だといった。その若い将校――これが後で中尉の中橋基明〈ナカハシ・モトアキ〉だということが分ったのだが――はヒョッと目をそらしてしまって、なんともいわない。そしてその時、何んだか一寸会釈をしたような感じがしたので、僕はこれは大丈夫だなという感じがした。それから十秒か二十秒だろうか非常にながい沈黙が続いたような気がしたが、するとイキナリその将校は急に気を取り直したような格好になり、ピストルを上に向けて〝国賊朝日新聞をたたき壊すのだ〟と叫んだ。撃ったかナと瞬間思ったが、玉が出なかったし、音も出なかったから撃たなかったのだった。そこで僕は〝一寸待ってくれ。中には女も子供もいるから、そういうものを出すから待ってくれ〟といって、また三階にとって返した」。
 これが緒方さんの直話〈ジキワ〉である。その時、緒方さんと一緒にいた磯部〔裕治〕君はこう語っている。「若い将校がピストルを上に向けて〝危いから出ろ、あなたは社内へとって返して全員に表に出るように伝えてくれ〟というと、緒方さんは〝ああそうですか〟〝若し命が惜しくなかったら入っていても宜しい〟と将校がいう。緒方さんは〝伝えます〟といい残して私と一緒に三階に上って行った」と。

 出 な い 奴 は 殺 す ぞ !
 緒方さんが三階の編集局に上って来た時、私〔細川隆元〕は局長室を出て政治部の机に戻っていた。美土路〔昌一〕さんから当時の模様を聞くとこうだ。「緒方君はやられたんではないかと心ひそかに心配していたら帰って来た顔を見てホッと安心した。〝全部 社内から立ちのけ、というがどうするかネ〟と緒方君がいうから〝残っていて変なものでも刷らされたらかなわんから出ようじゃないか〟と僕〔美土路〕がいって、みんな出ようということになった。その時、編集局の後の邦楽座(今のピカデリー)寄りの方から銃剣をかざした兵隊が局内にナダレ込んで来て〝出ろ! 出ない奴は殺すぞ!〟と大変な剣幕で押し入って来たから、もう出るも出ないもない、みんな局内のものはゾロゾロ階段を伝って下に降りて行った。」
 ちょうど、その時私は政治部のデスクの電話で家に電話し、妻と話の真っ最中であった。「これはただ事ではない。少くとも二、三日は家に帰れないから心配しないように……」と連絡をとっていたら、銃剣を突き出すように政治部の机に一人の兵隊が殺到して来たから、私はかけていた電話機を思わず机の上に取り落して、そのまま室の外に出て行った。その時、電話は切れていないのに、何だか〝ワッー〟という声がして、ぶっつり私の声が切れ、それから話の伝わるのは早いもので、私の家にも何処からとなく東京に革命が起って大騒動だと伝わって来たので、私の妻は非常に私の身の上を心配したんだそうだ。
 緒方さんが将校に会うために下に降りて行く時、ポケットから何やらを取り出して机の上に置いて出て行ったのを見たと磯部君が語っているが、実は美土路さんにも似寄ったことがあったらしい。社を兵隊どもに明け渡して出て行く時、美土路さんは三つのなすべき重要なことを始末したそうだ。
 その第一は、連絡部長の鳥越雅一君と社会部長の尾坂与市君の二人を呼んで大阪に連絡すべき事項を手っとり早く口述したこと。第二は、状差〈ジョウサシ〉に待合のツケが差してあったので、これを取り出して机のヒキ出しの奥の方にしまい込んだこと。第三は、大西斎氏(当時の論説委員)から支那文の猥本〈ワイホン〉数冊を預っていたのを思い出し、これをとりまとめて広瀬庶務課長に預けたこと。この三つである。
 なる程、先輩二人の心構えは非常にしっかりして余裕綽々〈シャクシャク〉としていたことが窺われる。イザその場になると、私のように電話機を取り落してそのまま逃げ出す位が普通だ。連絡部長の鳥越雅一君(現在中風で臥床中)は兵隊から銃剣で尻をシコタマつつかれるまで、大阪との直通電話にかじりついて放さなかったのは、後々まで美談の一つとして伝えられた。【以下、次回】

 緒方竹虎の発言の中に、「女も子供もいる」とある。この「子供」というのは、新聞社が雑用のために雇っていた年少者を指すと思われる。また、文中、「邦楽座(今のピカデリー)」とあるが、ここは、正確には「丸の内松竹(今のピカデリー劇場)」とあるべきだろう(「邦楽座」は、一九三四年に「丸の内松竹」と改称)。

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緒方竹虎は「イヤ僕が行こう」と言って……

2021-02-27 02:18:11 | コラムと名言

◎緒方竹虎は「イヤ僕が行こう」と言って……

『週刊朝日奉仕版』(一九五八年五月一四日)から、細川隆元執筆の「二・二六事件その日」という文章を紹介している。本日は、その三回目。

 社を襲った反乱部隊
 その中〈ウチ〉に段々と幹部が集まり、大体顔が揃いかけた八時二十分ころ、憲兵隊から編集局に電話がかかって来た。ちょうどそれに出たのが前晩から宿直していた磯部〔裕治〕記者で、「昨晩からの責任者スグ来い!」との命令である。「私は宿直で昨晩から社にいたが、幹部でもなんでもないペーペーだ」というと「イヤ、君でもよいからとにかくスグ来い」との先方の命令に、社旗を立てた自動車で九段下の東京憲兵隊に途中止められ止められして行ってみると、少佐位のが出て来て「朝日新聞は今日は絶対に新聞は出してイカン、帰って幹部にそう伝えろ!」とド鳴られて、磯部記者は訳も分らぬままに宙を飛ぶようにして帰社して幹部にこのことを話そうと思ってエレベーターで三階の編集局に上ったトタン、なんだか一階のほうがガヤガヤ騒がしくなったので、イキナリ数寄屋橋の表に面した編集局長室に飛び込むと、そこには緒方〔竹虎〕主筆、美土路〔昌一〕局長始め社の幹部がいっぱい詰って額〈ヒタイ〉を集めていたというのが、磯部記者の記憶談である。
 実は、そこには私〔細川隆元〕もいた訳で、幹部達の心配そうな話を聞き、やがて私は同僚の香月〔保〕君とベランダに出て「今度のは前の五・一五事件位の生やさしいものじゃないらしいネ。この分じゃきっと革命軍は朝日を襲うて来るネ……」と二人で話しているところへ、ちょうどそれは九時二十分ころだった。兵隊を満載した二台のトラックと乗用車が一台、社の玄関の前にピタリと止った。思わず「来た! 来た!」というと、みんなベランダに出て来た。
 その時「これが革命か」といった生々しい感じに襲われ、また「言論の自由もこれでおしまいか!」といった淋しい感じに打たれた。さて、どうするだろうかと見ていると、一台に三十人位乗っていた兵隊が小銃と機関銃を持って乗用車から下りた将校に指揮されて一隊は社の後方に回って行ったようだったが、一隊は機関銃を据えつけにかかった。いよいよあの機関銃でバラバラやられるのかなアと思って見ていると、五挺〈チョウ〉位の機関銃を玄関の前に、こっちを向けて並べずに道路の方を向けて並べたのである。ハハア、これは革命軍が朝日新聞を襲うという情報があったので、正規軍がわれわれを保護するために来たんだと、実はホッとしたのである。
 このために電車も止ってしまうし、通行も自然に止ってしまった。しかし、よく見ていると、どうも様子が違って、銃を持った一隊とピストルをぶら下げた将校は険悪な顔付をして社屋にズンズンはいって来る。で、一たんベランダに出た幹部もまた局長室の席について、どうしたもんだろうかという評定〈ヒョウジョウ〉が始まった。私が「これは何か防禦方法を講ぜねば…」というと、美土路局長が「防ぐたって別に防ぎようもあるまい」と静かにいったので、みんな押し黙ってしまった。その時だった。守衛が宙を飛ぶようにして社会部のデスクの磯部記者のところに来て「下に将校が来て昨晩からの責任者と一番偉い人に会いたい、といっています」といったというので、今度は磯部記者がこの旨をもたらして局長室に入っで来た。すると、美土路局長が半分独り言のように、半分緒方氏に向って「俺が行こうか?」というと、緒方主筆は「イヤ僕が行こう」といって、ほんとうに悠々とした態度で出て行った。
 こうして一旦局長室を出て行った緒方さんは、すぐにまた引き返して来て、なんだか書類かメモか分らないようなものをポケットから出して机の片隅に置いて出て行って、三階からエレベーターで一階に降りて行った。【以下、次回】

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朝日新聞の山田正男記者に蔵相暗殺の第一報

2021-02-26 04:16:50 | コラムと名言

◎朝日新聞の山田正男記者に蔵相暗殺の第一報

『週刊朝日奉仕版』(一九五八年五月一四日)から、細川隆元執筆の「二・二六事件その日」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 蔵相暗殺の第一報
 一体、二・二六事件の第一報はどうして朝日新聞にはいったのだろうか?、一応その経路を書いでおこう。当時整理部に山田正男君(現在東京書籍株式会社編集部次長)という青年記者がいたが、この山田君の実兄の山田鉄之助氏(現在オリエント時計社長)が当時大蔵省の営繕管財局長だった。高橋〔是清〕蔵相が反乱軍のために払暁〈フツギョウ〉赤坂の自宅で殺されたというニュースを一番先きに知ったのが、この山田営繕管財局長で、それは午前五時前であった。山田氏の奥さんが弟が新聞記者だからこれは早速弟に知らせてやろうと気を利かせて山田正男君の家に電話で知らせて来たものらしい。そこで、この山田君がまず自分の直属長官である北野〔吉内〕整理部長に急報し、北野君から各方面に連絡したのが、ニュースが社内の要所々々に届けられたルートだったのである。
 その朝、社には前晩からの編集宿直として社会部員の磯部裕治(現東京新聞外報部長)、大島泰平(現西部朝日整理部)、島津弥六(定年退職)、石母田敏夫(後の函館新聞編集局長、故人)の四君が宿直をしていて、前の晩の三時ころまで後始末の仕事をして宿直室に引きとって寝たのが四時ころ。そして午前五時半ころ、尾坂〔与市〕社会部長からの電話で寝入り端〈ネイリバナ〉を叩き起された四君は、ねむたい眼をコスリコスリ起き出たのがニュースを聞いて眼がポッカリ覚め、とにかく社員名簿をひっくり返しながら「スグシュッシャセヨ」の同文のウナ電と、電話のある社員には片っ端から電話をかけて動員を図ったのであった。四人の宿直者の中で、島津、石母田両君は当時警視庁担当の第一線記者だったので、早速運ちゃんをたたき起して外に飛び出して行き、磯部、大島両君が幹部が来るまで社内で采配を振ったのである。
 ところが飛び出して行った前の両君がしばらくしてすぐ戻って来た。「とてもダメだ。警視庁も軍隊に占領されていて近づけない。赤坂方面も兵隊がトグロをまいていて朝日の社旗を立てて走っていても『ダメダ、ダメダ、帰れ帰れ』と兵隊がエライ剣幕で手のつけようがない」と、さすが腕利きの警視庁第一線記者も手の施しようがなかった、ということだった。【以下、次回】

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当時、緒方竹虎は大久保百人町に住んでいた

2021-02-25 01:16:48 | コラムと名言

◎当時、緒方竹虎は大久保百人町に住んでいた

 数日前、たまたま、『週刊朝日奉仕版』「朝日新聞からみた明治・大正・昭和」(一九五八年五月一四日)を手に取ったところ、そこに、「二・二六事件その日」という文章があった。
 筆者は、事件当時、朝日新聞東京本社の政治部次長をしていた細川隆元(一九〇〇~一九九四)である。隆元の読みは、「たかちか」または「りゅうげん」。
 本日以降、何回かに分けて、この文章を紹介してみたい。

  流れていた高等情報
 昭和十一年二月二十六日の二・二六事件勃発の当時、私は朝日新聞東京本社の政治部次長をしていた。部長は野村秀雄(現NHK会長)で、編集局長が美土路昌一〈ミドロ・マスイチ〉氏(現全日本空輸社長)、死んだ緒方竹虎氏は当時主筆であった。その前夜、珍しく早く家に帰って早寝をしていた私は、寒い真っ最中だったので、二十六日の朝も床の中でしきりに暖を貪っていた。ちょうど午前七時ごろ、電話のベルが鳴った。家内が、「野村さんから」と声をかけたので、ガバと起き上って電話口に出ると、上ずった野村部長の声で「岡田〔啓介〕総理や高橋〔是清〕蔵相が殺されたから直ぐ出社して下さい。軍隊のクーデターらしい。とにかく早く……」
 もちろん、問い返す言葉もないので、電話はガチャリと切れてしまった。
当時の日本国内の情勢はすこぶる物騒で、五・一五事件以来、軍部の革新勢力を背景とする一団が常に朝日新聞を自由主義の本拠のようににらんで、直接間接に色んな圧力をかけて来ていた。ちょうど二・二六事件の前日だった。美土路局長のところに、なんだか軍の一部で朝日新聞を襲撃する計画があるから注意するようにとの高等情報が流れて来たらしい。
 そこで美土路局長は、勿論そんなに切迫した問題とも思わなかったが、内務省の警保局あたりでちょっと探って貰いたいと頼んだので、野村政治部長が唐沢(俊樹)警保局長(現法務大臣)に電話すると、ちょうど唐沢局長は京都の大本教事件手入れのため出張して留守だったので、野村氏がこのことを美土路氏に報告すると、美土路氏も「そんな切迫したことでもないだろうが、マア気をつけていて下さい」という程度で、その場はそれきりになってしまったのである。ところが、その翌日果せるかな二・二六事件が勃発し、しかも朝日新聞が反乱軍のために襲撃されたのであった。
 私の乗ったハイヤーが上落合の小滝橋〈オタキバシ〉を通り抜けて大久保あたりに差しかかると、前方の横町から朝日の社旗をたてた自動車が出て前を走って行く。当時緒方主筆は大久保百人町〈ヒャクニンチョウ〉に住んでいたので、正しく緒方氏の自動車に違いないと思ってその自動車にに追いついてみると、果して緒方さんが乗っているので、自動車を停めて私も緒方さんの自動車に乗り移り「大変なことのようですネ」というと、緒方さんは「毎日の高石君(真五郎氏、当時の毎日新聞社長)もやられたそうだナ」というから、これは緒方さんが、当時の蔵相高橋(是清)を高石と電話で聞き違えたのだと思い、「高橋蔵相ですよ」というと、緒方さんは「ア、そうか、高橋ダルマさんか」と笑ってそういい直した。
 そんな話をしながら九段下まで来ると、銃剣の兵隊が立っていて、お濠端〈オホリバタ〉は交通止めだといった合図をして手を振るので、仕方なく神田神保町から外濠〈ソトボリ〉を回って数寄屋橋の朝日新聞に着いたのが、確か八時ちょっと前だったと記憶する。社に着いてみると、美土路局長、野村部長始め整理部長北野吉内〈キチナイ〉、社会部長尾坂与市君等も出社していた。同僚の政治部次長香月保君も私と前後して出社して来た。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2021・2・25(8位に極めて珍しいものが入っています)

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士官学校事件は一部の幕僚派によるでっち上げ(石橋恒喜)

2021-02-24 04:04:51 | コラムと名言

◎士官学校事件は一部の幕僚派によるでっち上げ(石橋恒喜)

 石橋恒喜著『昭和の反乱』(高木書房、一九七九年二月)の上巻から、「十三 皇道派への反発強まる」の章を紹介している。本日は、その六回目。

 士官学校事件起こる
 偕行社事件から数日後の二十日、記者クラブに顔を出すと、省内の空気があわただしい。〝何かあったのか〟と新聞班でたずねると、皇道派の一部将校と士官候補生による不穏計画が発覚、数名の将校と士官学校の生徒が検挙されたのだという。新聞報道は、〝当分、禁止〟とのことだった。一部将校 による不穏事件――私は首をかしげた。なぜなら、このところ連日のように山口一太郎や柴有時らと会っている。不穏計画があったとすれば、そのにおいだけでもかげないはずはないからだ。これは奇妙だ。そこで、その夜、私は山口や柴らのところを駆け回った。彼らもまた、きつねにつままれたような顔をしていた。「西田君(税)に聞いたら分かるかも知れない」というので、山口が電話をかけた。ところが、西田もさっぱり見当がつかないという。ただ検挙されたのが、村中孝次〈タカジ〉(陸軍大学校学生 )、磯部浅一(野砲一)、片岡太郎(士官学校区隊長)と佐藤勝郎ら士官候補生五名であることが分かった。その時、山口らの語ったところによると、村中は〝慎重居士〟で、みずから直接行動を主導するような男ではない。これは幕僚どもの謀略に引っかかったのかも知れない、とのことだった。
 その後、私が調べたところによると、やはりこれは一部の幕僚派によるでっち上げであった。しかも、スパイを青年将校グループの中へ放って、検挙のきっかけを作ったというのだ。醜悪といおうか何といおうか――このスパイ事件が〝皇軍〟の将校同士の間で演じられたというのだから、ただただ啞然たるものがあった。
 スパイを動かしたのは、士官学校第一中隊長の辻政信大尉であった。辻は、東条英機が士官学校幹事(副校長)へ追われた時、参謀本部第一課勤務から引っこ抜かれてきた東条の腹心である。東条はこの悍馬を使って、〝仇敵〟の真崎〔甚三郎〕教育総監にひとあわ吹かせる作戦だったことは前にも触れた。そして、この作戦は、まんまと的中した。陸大は抜群の成績で栄誉ある恩賜の軍刀組、そのうえ戦場に出ては上海戦の勇士――といった辻の勇名は、若い将校生徒たちにとってあこがれの的であった。その中に教え子の佐藤勝郎という候補生があった。彼は大正三年の青島戦争の際、〝軍神〟とその名をうたわれた佐藤喜平次少将の遺児である。十月のある夜のこと。辻が週番勤務についているところへ、佐藤がやって来た。
「中隊長殿、ご相談申し上げたいことがあります。実は自分と同期の武藤与一候補生の話によると、彼や同志の生徒は青年将校と組んで、クーデター決行の計画をしておるとのことです。どうしたらよいものでしょうか」
 その翌日、辻は佐藤に命令した。青年将校の思想に共嗚しているかのように装って、その内情を偵察してこい、というものだった。佐藤は勇んでスパイ活動を開始した。これがいわゆる「十一月二十日事件」(士官学校事件)の始まりである。

 ここまでが、「十三 皇道派への反発強まる」の章である。このあと、「十五 白昼の惨劇」の章を紹介するつもりだが、明日は、いったん、この本から離れる。

*このブログの人気記事 2021・2・24

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