◎残念だが、これが最後になるかも知れぬ(緒方竹虎)
『週刊朝日奉仕版』(一九五八年五月一四日)から、細川隆元執筆の「二・二六事件その日」という文章を紹介している。本日は、その四回目。
ピストルをつきつけられて
緒方〔竹虎〕さんの生前、この時の話を私が緒方さんから直接聞いてメモしておいたものが手許にあるから、それによってその時の模様を書いてみよう。
「僕が会おうということになり、同時に大阪の社に電話(直通電話)して〝残念だが、これが最後になるかも知れぬ〟というようなことをいったような気がする。下に降りて行く とエレベーターを出た直ぐ前の一段低くなった所に、一人の青年将校が立っていた。右手にピス卜ルを持ち、左に紙を持っている。ピストルが危いからなるべく身体を近づけた方が却っていいと思って、殊更顔がくっつく位に立って名刺を出して、僕は緒方で社の代表者だといった。その若い将校――これが後で中尉の中橋基明〈ナカハシ・モトアキ〉だということが分ったのだが――はヒョッと目をそらしてしまって、なんともいわない。そしてその時、何んだか一寸会釈をしたような感じがしたので、僕はこれは大丈夫だなという感じがした。それから十秒か二十秒だろうか非常にながい沈黙が続いたような気がしたが、するとイキナリその将校は急に気を取り直したような格好になり、ピストルを上に向けて〝国賊朝日新聞をたたき壊すのだ〟と叫んだ。撃ったかナと瞬間思ったが、玉が出なかったし、音も出なかったから撃たなかったのだった。そこで僕は〝一寸待ってくれ。中には女も子供もいるから、そういうものを出すから待ってくれ〟といって、また三階にとって返した」。
これが緒方さんの直話〈ジキワ〉である。その時、緒方さんと一緒にいた磯部〔裕治〕君はこう語っている。「若い将校がピストルを上に向けて〝危いから出ろ、あなたは社内へとって返して全員に表に出るように伝えてくれ〟というと、緒方さんは〝ああそうですか〟〝若し命が惜しくなかったら入っていても宜しい〟と将校がいう。緒方さんは〝伝えます〟といい残して私と一緒に三階に上って行った」と。
出 な い 奴 は 殺 す ぞ !
緒方さんが三階の編集局に上って来た時、私〔細川隆元〕は局長室を出て政治部の机に戻っていた。美土路〔昌一〕さんから当時の模様を聞くとこうだ。「緒方君はやられたんではないかと心ひそかに心配していたら帰って来た顔を見てホッと安心した。〝全部 社内から立ちのけ、というがどうするかネ〟と緒方君がいうから〝残っていて変なものでも刷らされたらかなわんから出ようじゃないか〟と僕〔美土路〕がいって、みんな出ようということになった。その時、編集局の後の邦楽座(今のピカデリー)寄りの方から銃剣をかざした兵隊が局内にナダレ込んで来て〝出ろ! 出ない奴は殺すぞ!〟と大変な剣幕で押し入って来たから、もう出るも出ないもない、みんな局内のものはゾロゾロ階段を伝って下に降りて行った。」
ちょうど、その時私は政治部のデスクの電話で家に電話し、妻と話の真っ最中であった。「これはただ事ではない。少くとも二、三日は家に帰れないから心配しないように……」と連絡をとっていたら、銃剣を突き出すように政治部の机に一人の兵隊が殺到して来たから、私はかけていた電話機を思わず机の上に取り落して、そのまま室の外に出て行った。その時、電話は切れていないのに、何だか〝ワッー〟という声がして、ぶっつり私の声が切れ、それから話の伝わるのは早いもので、私の家にも何処からとなく東京に革命が起って大騒動だと伝わって来たので、私の妻は非常に私の身の上を心配したんだそうだ。
緒方さんが将校に会うために下に降りて行く時、ポケットから何やらを取り出して机の上に置いて出て行ったのを見たと磯部君が語っているが、実は美土路さんにも似寄ったことがあったらしい。社を兵隊どもに明け渡して出て行く時、美土路さんは三つのなすべき重要なことを始末したそうだ。
その第一は、連絡部長の鳥越雅一君と社会部長の尾坂与市君の二人を呼んで大阪に連絡すべき事項を手っとり早く口述したこと。第二は、状差〈ジョウサシ〉に待合のツケが差してあったので、これを取り出して机のヒキ出しの奥の方にしまい込んだこと。第三は、大西斎氏(当時の論説委員)から支那文の猥本〈ワイホン〉数冊を預っていたのを思い出し、これをとりまとめて広瀬庶務課長に預けたこと。この三つである。
なる程、先輩二人の心構えは非常にしっかりして余裕綽々〈シャクシャク〉としていたことが窺われる。イザその場になると、私のように電話機を取り落してそのまま逃げ出す位が普通だ。連絡部長の鳥越雅一君(現在中風で臥床中)は兵隊から銃剣で尻をシコタマつつかれるまで、大阪との直通電話にかじりついて放さなかったのは、後々まで美談の一つとして伝えられた。【以下、次回】
緒方竹虎の発言の中に、「女も子供もいる」とある。この「子供」というのは、新聞社が雑用のために雇っていた年少者を指すと思われる。また、文中、「邦楽座(今のピカデリー)」とあるが、ここは、正確には「丸の内松竹(今のピカデリー劇場)」とあるべきだろう(「邦楽座」は、一九三四年に「丸の内松竹」と改称)。