礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

長賊外交の路を絶ち、その罪状を万国へ嗚らす

2021-04-30 03:52:39 | コラムと名言

◎長賊外交の路を絶ち、その罪状を万国へ嗚らす

 昨日と同じ要領で、「長州再征に関する建白書」を読解してゆきたいと思う。本日、読解するのは、第一条「長賊外交の路を絶其罪状を万国へ嗚候事」の最初の部分である。
 全集では、この第一条は、三ページにまたがっているが、「句点」を見る限り、そこにわずか、四つのセンテンスしかない。やや従いがたいものがあるが、一応、その四つのセンテンスに、❼❽❾❿という番号を振る。

      第一条 長賊外交の路を絶其罪状を万国へ嗚候事
❼長賊の本意は前段にも申上候通り最初より尊王攘夷抔申唱候得共全く口実迄の義にて一昨年下の関一敗以後も頻りに外国人に近き遊説の書生をも海外へ派遣し下の関其外に於ても外国のこれに姦商呼集密に貿易いたし武器等も多分買込候由尤密買御制禁の義は御条約面の明文も有之在留ミニストルにおゐても急度可指留筈既に昨年中英国ミニストルよりも自国船舶へ布告文相触候義も御座候得共利を貪候姦商の義一と通り布告文抔にて其弊を防候義出来申間敷尚又此節長州も必死を極候儀に付益々悪策を運らし候は必然の義或は武器を買入れ或は金を借用いたし甚しきは外国浮浪の徒を頼み外国船をも雇入れ支那長毛賊の轍に效【なら】ひ如何様の事件を生じ候哉も難計此義最も可恐義に奉存候【御座候】

 まず、第一条のタイトル「長賊外交の路を絶其罪狀を万国へ嗚候事」だが、これは、「長賊外交の路〈ミチ〉を絶ち、その罪状を万国へ嗚らし候事〈ソウロウコト〉」と読むのであろう。
 次に❼だが、一文としては長すぎるので、これを四つのセンテンスに分けて説明したい。

❼ⓐ長賊の本意は前段にも申上候通り最初より尊王攘夷抔申唱候得共全く口実迄の義にて一昨年下の関一敗以後も頻りに外国人に近き遊説の書生をも海外へ派遣し下の関其外に於ても外国の姦商呼集密に貿易いたし武器等も多分買込候由

 長賊の本意は、前段にも申し上げ候通り、最初より尊王攘夷など申し唱へ候得ども、全く口実までの義にて、一昨年、下の関一敗以後も、頻りに外国人に近づき、遊説の書生をも海外へ派遣し、下の関そのほかに於ても、外国の姦商〔を〕呼び集め、密〈ヒソカ〉に貿易いたし、武器なども多分買込み候由〈ヨシ〉。

《補足》「一昨年下の関一敗」とあるのは、文久三年(一八六三)に、米・仏の軍艦が長州の軍艦を砲撃した「下関事件」を指すのであろう。ちなみに、その翌年の元治元年(一八六四)には、米・英・仏・蘭の艦隊が下関砲台を占領した「四国艦隊下関砲撃事件」が起きている。

❼ⓑ尤密買御制禁の義は御条約面の明文も有之在留ミニストルにおゐても急度可指留筈

 尤も密買御制禁の義は、御条約面の明文も有之〈コレアリ〉、在留ミニストル〔公使〕におゐても、急度〈キット〉可指留〈サシトムベキ〉はず。

❼ⓒ既に昨年中英国ミニストルよりも自国船舶へ布告文相触候義も御座候得共利を貪候姦商の義一と通り布告文抔にて其弊を防候義出来申間敷尚又此節長州も必死を極候儀に付益々悪策を運らし候は必然の義

 既に昨年中、英国ミニストルよりも、自国船舶へ布告文〔を〕相触れ候義も御座候得共〈ゴザソウラエドモ〉、利を貪り候姦商の義、ひと通り布告文などにて、その弊を防ぎ候義、出来申す間敷〈マジク〉、尚又この節、長州も必死を極〈キワメ〉候儀につき、益々悪策を運〈メグ〉らし候は必然の義。

ⓓ或は武器を買入れ或は金を借用いたし甚しきは外国浮浪の徒を頼み外国船をも雇入れ支那長毛賊の轍に效【なら】ひ如何様の事件を生じ候哉も難計此義最も可恐義に奉存候【御座候】

 あるいは武器を買入れ、あるいは金を借用いたし、甚しきは外国浮浪の徒を頼み、外国船をも雇入れ、支那長毛賊の轍〔先例〕に效【なら】ひ、如何様〈イカヨウ〉の事件を生じ候やも難計〈ハカリガタク〉、この義、最も可恐〈オソルベキ〉義に奉存候【御座候】

《補足1》「支那長毛賊」は、いわゆる「太平天国の乱」(一八五一)を指す。
《補足2》全集では、「效」に「なら」という振り仮名がある。校訂者によるものか。
《補足3》原文では、「奉存候」の右横に、「御座候」という文字があるという。ここでは、「奉存候【御座候】」とあらわした。

❽就ては此度長防近海へ御軍艦数艘被指遣二州海岸へ近寄候外国船は御指留若又賊より小舟抔にて外国船へ近寄候義も有之候はゞ直に御召捕に相成候位に厳重に御取締相立候様仕度既に両三年前合衆国内乱の節も英国より南部の賊え竊に「アラバマ」と申軍艦を指送り其外武器等も遣し之が為め北部にて大に困却いたし候先例も有之旁以此度長州にて外交いたし候様相成ては不容易御後患を醸し可申格別に御用心被遊候様仕度義に奉存候【御座候】。

 これが❽だが、やはり、一文としては長すぎる。こちらは、ふたつのセンテンスに分けて説明したい。

❽ⓐ就ては此度長防近海へ御軍艦数艘被指遣二州海岸へ近寄候外国船は御指留若又賊より小舟抔にて外国船へ近寄候義も有之候はゞ直に御召捕に相成候位に厳重に御取締相立候様仕度

 ついては、この度、長防近海へ御軍艦数艘〔を〕被指遣〈サシツカワサレ〉、二州海岸へ近寄り候外国船は御指し留め、若〈モシ〉また賊より、小舟などにて外国船へ近寄り候義も有之〈コレアリ〉候はゞ〈ソウラワバ〉、直〈タダチ〉に御召捕りに相成り候位に、厳重に御取締り相立て候やう仕度〈ツカマツリタシ〉。

《補足》私見では、ここで句点を打つべきだと思う。その場合、「仕度」の読みは、〈ツカマツリタシ〉。なお、読点で続ける場合は、〈ツカマツリタク〉と読むことになる。

❽ⓑ既に両三年前合衆国内乱の節も英国より南部の賊え竊に「アラバマ」と申軍艦を指送り其外武器等も遣し之が為め北部にて大に困却いたし候先例も有之旁以此度長州にて外交いたし候様相成ては不容易御後患を醸し可申格別に御用心被遊候様仕度義に奉存候【御座候】。

 既に両三年前、合衆国内乱の節も、英国より南部の賊え、竊〈ヒソカ〉に「アラバマ」と申す軍艦を指し送り、そのほか武器等も遣〈ツカワ〉し、之がため北部にて大いに困却いたし候先例も有之〈コレアリ〉、旁〈カタガタ〉以て、この度長州にて外交いたし候やう相成りては、不容易〈ヨウイナラヌ〉御後患〈ゴコウカン〉を醸〈カモ〉し可申〈モウスベク〉、格別に御用心被遊〈アソバサレ〉候やう仕度〈ツカマリタキ〉義に奉存候【御座候】。

 この❼および❽において福沢は、長州の武器・外交に注目し、「格別に御用心」と警告したのである。

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「長州再征に関する建白書」を読解する

2021-04-29 03:43:38 | コラムと名言

◎「長州再征に関する建白書」を読解する

 本日以降、「長州再征に関する建白書」を、読解してゆきたいと思う。この建白書は、前文的な文章、第一条、第二条というふうに、三つの部分に分かれている。
 本日は、このうち、前文的な文章を読解してゆきたい。なお、この建白書の全文は、すでに、今月二三日のブログで紹介している。
『福沢諭吉全集』第20巻(岩波書店、一九六三)に収録されている「長州再征に関する建白書」には、句読点が打たれている。これは、同巻の校訂者によるものであって、福沢諭吉自身によるものではない。しかし、このあとの読解にあたっては、この句読点を参考にしたい。
 全集によれば、建白書の前文的な文章は、六つのセンテンスに分かれる。これらに、❶から❻の番号をつけ、まず、句読点のない文章を示す、次に、それぞれについて、句読点、読みがな、注などを補った文章を示す。必要に応じ、若干の【補足】を加える。

❶先年外国と御条約御取結に相成候以来世間にて尊王攘夷抔虚誕の妄説を申唱候

 先年、外国と御条約〔を〕御取結〈オトリムスビ〉に相成候〈アイナリソウロウ〉以来、世間にて尊王攘夷など、虚誕の妄説を申し唱へ候。

《補足》ここでいう「御条約」とは、安政五年(一八五八)に、幕府が、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスの五カ国と結んだ「安政五カ国条約」を指している。

❷之が為め御国内多少の混雑を生じ 廟堂の御心配不少義に候得共畢竟其の趣意は 天子を尊候にても無之外国人を打払候にても無之唯活計なき浮浪の輩衣食を求候と又一には野心を抱候諸大名 上の御手を離れ度と申姦計の口実にいたし候迄の義にて其證跡顕然に付別段弁明仕候にも不及候義に奉存候【御座候】

 之がため、御国内、多少の混雑を生じ、廟堂の御心配、不少〈スクナカラヌ〉義に候得共〈ソウラエドモ〉、畢竟、その趣意は、天子を尊〈タットビ〉候にても無之〈コレナク〉、外国人を打ち払ひ候にても無之、ただ活計なき浮浪の輩〈ヤカラ〉〔が〕衣食を求め候と、又一〈ヒトツ〉には、野心を抱き候諸大名〔が〕上〈カミ〉の御手を離れ度〈タシ〉と申す姦計の口実にいたし候までの義にて、その證跡〔は〕顕然につき、別段、弁明仕〈ツカマツリ〉候にも不及〈オヨバズ〉候義に奉存〈ゾンジタテマツリ〉候【御座候〈ゴザソウロウ〉】。

《補足1》原文では、「廟堂」の前、「天子」の前、「上」の前に、それぞれ一字、闕字がある。
《補足2》原文では、「奉存候」の右横に、「御座候」という文字があるという。ここではこれを、「奉存候【御座候】」というふうにあらわしておいた。

❸然る処諸侯の内第一着に事を始め反賊の名を取候者は長州にて彌以此度御征罰【伐】相成候義は千古の一快事此御一挙を以て乍恐 御家の御中興も日を期し可相待義誠に以難有仕合に奉存候

 然るところ、諸侯のうち第一着に事を始め、反賊の名を取り候者は長州にて、彌〈イヨイヨ〉以て、この度〈タビ〉、御征罰〔に〕相成り候義は、千古の一快事、この御一挙を以て、乍恐〈オソレナガラ〉御家の御中興も日を期し可相待〈アイマツベキ〉義、誠に以て難有仕合〈アリガタキシアワセ〉に奉存候。

《補足1》原文では、「御家」の前に、一字、闕字がある。
《補足2》全集では、「御征罰」の罰の横に、〔伐〕とあるが、「御征伐」のことだという校註であろう。

❹実は三五年以来 廟堂にても内外の御配慮にて十分の御処置御施行難被遊御場合も被為有或は因循姑息抔と巷説も有之候義にて竊に切歯罷在候処此度長賊御征罰の義は天下の為め不幸の大幸求ても難得好機会に御座候

 実は、三、五年以来、廟堂にても内外の御配慮にて、十分の御処置〔を〕御施行難被遊〈アソバサレガタキ〉御場合も被為有〈アラセラレ〉、あるいは因循姑息〈インジュンコソク〉などと巷説も有之〈コレアリ〉候義にて、竊〈ヒソカ〉に切歯罷在〈マカリアリ〉候ところ、この度、長賊御征罰の義は、天下のため、不幸の大幸、求めても難得〈エガタキ〉好機会に御座候。

《補足1》今日の文章なら、❸から❹で、段落を変えるところである。
《補足2》原文では、「廟堂」の前に、一字、闕字がある。

❺何卒此後は御英断の上にも御英断被為遊唯一挙動にて御征服相成其御威勢の余を以て他諸大名をも一時に御制圧被遊京師をも御取鎮に相成外国交際の事抔に就ては全日本国中の者片言も口出し不致様仕度義に奉存候

 何卒この後〈ノチ〉は、御英断の上にも御英断被為遊〈アソバセラレ〉、ただ一挙動にて御征服相成り、その御威勢の余を以て、他諸大名をも一時に御制圧被遊〈アソバサレ〉、京師をも御取り鎮めに相成り、外国交際の事などについては、全日本国中の者、片言も口出し不致様〈イタサヌヨウ〉仕度〈ツカマツリタキ〉義に奉存候。

《補足》「京師」は京都の意味だが、ここでは、朝廷、ないし、それを頂く勢力を指す。

❻就ては此度御征前の義に付固より帷幄の御勝算被為在候を可奉伺にも不及義私抔にて別段建白可仕筋万々無御座候得共未曽有の御盛挙を感激仕候余り心附候二三条左に申上候

 ついては、この度、御征前の義につき、固〈モト〉より帷幄〈イアク〉の御勝算、被為在〈アラセラレ〉候を可奉伺〈ウカガイタテマツルベキ〉にも不及〈オヨバヌ〉義、私などにて、別段、建白可仕〈ツカマツルベキ〉筋、万々無御座〈ゴザナク〉候得ども、未曽有〈ミゾウ〉の御盛挙を感激仕り候余り、心附き候二、三条、左に申し上げ候。

《補足1》帷幄は作戦の本営の意。
《補足2》ここで福沢は、今回の作戦について、自分には、勝算があるのかなどと伺う筋合いはないとへりくだりながらも、実は心配な点がある旨をほのめかしているのである。

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エドワール・テッセ、カミュの『ペスト』を論ずる

2021-04-28 02:42:40 | コラムと名言

◎エドワール・テッセ、カミュの『ペスト』を論ずる

 先日、エドワール・テッセ著、小松清訳編の『現代フランス思想の展望』(酣燈社、一九四八)という本を手にとった。中に、「カミュの『ペスト』」というエッセイがあり、これがなかなか面白かった。
 六ページほどの小篇であり、全文を紹介したいところだが、最初と最後の部分のみを、以下に引用してみることにする。

   カミュの『ペスト』

 今年(一九四七年)のフランスの読書季節で非常に反響のあつた書として、カミユの小説『ペスト』があげられてゐる。その題名がしめすやうに、それは北阿〔北アフリカ〕の一都市オランに起つたペストの流行といふ架空的な物語をとり扱つたものである。
 この作品は、中世紀の史家にならつて、年代記【クロニツク】の形式でかかれてゐる。中世の史家には、彼らの叙述する歴史的な出来事のプロセスのうちに、彼らの個人的な省察や哲学的な断想をおりこむといつた習慣があるが、カミユの「ペスト」のうちにも、そのやうな省察や断想がみてとられる。 .
 作品の主人公はリィユウ医師である。貧しくて教育的なこの医者の感情は、カミユのそれを代表してゐる。フランスの中都市にみられる、あらゆる特長をそなへた都会【まち】の無事平穏な地方の都会に、突如としてペスト病が発生する。最初のあいだは、住民はペストだといふことを信じようとしない。とくに知事がさうである。そのうちに、流行病はだんだん恐ろしい勢ひでひろがつてゆくので、何とか厳重な予防法を講じなくてはならなくなつた。
 ここで興味あることは、伝染病の脅威のお蔭で、平時ならば見当のつかぬ人々の性格があらはに浮びあがつてくることだ。彼らの日常的習慣などといつたものが、ペストによつて根から揺すぶられたわけである。この暴露は小説『ペスト』の覗つてゐるものの一つであると云へよう。
 かうした堪えがたい雰囲気――虚妄の雰囲気といつてもよからう。何故なら、ヨーロッパでは数世紀この方ペストの流行はないから――のうちに、まつたく新しい生活がこの都会【まち】に強制的にはじまる。かつての日常生活を支配した生存形式の場合と同じやうに論理的な生存形式が別なかたちではじまり、住民たちに新しい暮し方をおしつける。誰も彼も、一様にこの伝染病にかかる可能性があるからである。ここで特記しなくてはなちぬのは、カミユが社会的な角度から、これらの人間の動きを描くことに止まつてゐないことである。それくらゐのことなら、さして困難な業【わざ】でなく、多くの作家の興味をひきつけたにちがひなからう。ところが、カミユは、そのやうな描写に足踏みしてゐないで、それらの人間たちの性格を心理的に、哲学的に描くところに重心をおいた点である。『ペスト』の第一義的な興味は、そこにあり、またその存在理由もそこにあるといへよう。

【中略】

 この作品が、われわれにのこす印象は、人生にたいする楽天的な、そして同時に不安定な印象である。カミユは、その結論を、このやうな言葉であらはしてゐる。
「悪疫のさなかで学び得たことは、人間のうちには、感嘆すべきものが、侮蔑すべきものより多くみられたといふことである。」
 しかし、さう云つてから、すぐあとで――悪疫から解放された住民の欣喜の叫喚を描いてから――カミユはわれわれを警めてゐる。
「ペストの病菌は死なぬ。また消えてなくなるものではない。この菌ときたら何十年間でも眠つてゐることがある。……恐らく、或る時がくれば、人間の不幸のため、そして間を教へるために、ペストはその鼠どもを呼びさまし、彼らを幸福な都会【まち】におくつて、そこで死なせるかもしれない。」
 カミユが、われわれに教へようとしてゐることは、文明にとつて大きな課題となるものである。それは、はたして人間は、神や或は合理主義の援けをからずとも、己れの力だけで人間の価値を創造しうるや否やといふ問題である。
 かくしてカミユの途は、『ペスト』の人々の途と同じく、一切の教義【ドクトリン】といつたものと――それがキリスト教であらうと、或は共産主義であらうと――袂【たもと】を分つた人々の進んでゆく途であるだらう。このやうな彼の立場だけでも、彼に具はつた文学的な才能と相俟つて、カミユを現代における最も力強い作家の一人とするに足るのである。   小松 清訳

 筆者のエドワール・テッセ(Edouard Theysset)は、当時、駐日フランス代表部員。この外交官・文人については、『現代フランス思想の展望』の訳編者である小松清(一九〇〇~一九六二)が、巻末の「編者の言葉」で詳しく紹介している。

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狭い陋屋から歴史を動かす大精神が生れいでた

2021-04-27 01:58:08 | コラムと名言

◎狭い陋屋から歴史を動かす大精神が生れいでた

 火野葦平の「歴史の歩み」という文章(一九四四)を紹介している。昨日のブログでは、下関に暁天楼を訪ねたところを紹介した。
 そのあと火野は、萩を訪れ、松下村塾、玉木文之進の旧宅、そして樹々亭(吉田松陰の生家)を訪ねている。案内するのは、萩市役所の河野道である。以下、樹々亭を訪ねたところを引いてみたい。

 萩に来て夕陽を見ずして萩を語るなといはれた。沈む場所の工合がなかなか棄てがたいさうである。護国山団子巌〈ダンゴイワ〉の高台から展望すると、正面の阿胡〈あご〉の海をはさんで、右に相島〈アイシマ〉、鶴江台、城の腰などが見え、左には萩城のある指月山〈シヅキヤマ〉、佐波島、青海島、青波瀬などの起伏がつらなつてゐる。残念ながら、まだ陽は沈まない。
 海にそそぐ阿武川〈アブガワ〉の両域に萩市街が望まれる。美しいのはいたるところにふくよかな実を鈴生らせてゐる蜜柑畠である。私はしばらくこの典雅な風景に見とれてゐたが、やがて、その昔この同じ高台に生れ、毎日この風景を展望しつつ人となつた吉田松陰のことへ、思ひがかへつた。
 樹々亭とよばれる松陰の生家は、いまはまつたく跡をとどめない。ただ、団子巌〈だんごいわ〉の台地のうへに、わづかに、以前の居宅であった場所が、間数どほりの敷石によつて示されてゐるばかりだ。それを見ると、満足な居間としては、六畳が二間あるきりで、あとは玄関の三畳と、祖母の居間があり、それに二つの押入れと、台所とがついてゐる。すこしはなれて厩〈ウマヤ〉があつたらしい。もともと、あづまや風の建物であつたのだが、大火に会つて焼け出され、ここへ移つて来たといふ。松陰はここで、天保元年〔一八三〇〕八月四日杉百合之助の二男として生れた。五歳のときに叔父吉田大助の養子となつたので姓が変つた。
 ここへ上つて来る山麓に玉木文之進の旧宅がある。もう倒れんかと思はれるばかりに傾いてゐるが、ここで玉木文之進は家塾をひらいて、子弟を教育した。その名が松下村塾といつたのを、松陰がのちに受けついだのである。松陰は玉木文之進に教を受け、すでに十一歳にして、藩主に武教全書を講ずるほどに学力が進んだ。十九歳のときに、樹々亭を棄て、下へ降りたのである。
 河野さんは眼下の風景を展望しながら、いかにもわが意を得たやうに、「ここに立つと、松陰先生の抱かれた雄大の論がよくわかりますな。松陰先生の大東洋主義は、この展望から生れたのですよ。それにしてもえらいものではありませんか。あの当時、すでに、日本は満洲、朝鮮、支那ををさめ、南方を経営せねば国力が確立しない、といつてゐるのです。印度にまで考へが及んでゐるのです。そのころは誰もたわいもない空論のやうに思つたでせうが、いま、その通りになつて来たではありませんか。大東亜戦争はすでに松陰先生が道破されたところといつてもよいくらゐですよ。」
 それにしても、私はそのむかしの樹々亭の日常を心に浮べながら、微笑がわいて来た。この狭い家のなかに、十一人もの家族がゐたことがあるのである。両親、兄、弟、妹が三人、母方の祖母、離縁されて来てゐた母方の娘、妹の婿になつて住みこんで来た久坂玄瑞、それに松陰。暮しむきも豊かでなく、半士半農の生活をしつつ、これだけの家族が暮してゐたといへば、さぞ、賑かであつたことと思はれる。その騒ぎのなかに、つねに読書の声が絶えなかつたといふ。これはいかにも世帯〈ショタイ〉じみた感想であらう。しかし、松陰はその環境のなかから非凡の才能を光らせた。大志あるものはいかなる環境にもうちひしがれることはないのである。この樹々亭といひ、松下村塾といひ、また、乃木邸といひ、狭い汚い陋屋のなかから、歴史を動かす毅然たる大精神が生れいでたといふことは、虚飾の時代へのはげしい警告であると思はれる。
 裏手に護国寺の墓地がある。遺髪ををさめた「松陰二十一回猛子墓」をはじめ、実父母、養父母の墓「東行暢夫之墓」など、多くの志士の墓標が歳月の苔を帯びて並んでゐる。
 玉木文之進の墓。明治九年〔一九七六〕前原一誠の萩の乱が起ると、文之進の養子眞人をはじめ、多くの門人がこれに加はつた。文之進は「平生の教育その宜しきを得ざるの致す所」と深く責を感じ、ここに来て自刃して果てた。当日は雨降りで、文之進が屠腹すると、血潮は雨にまじり、文之進の遺骸をつつんだ。松陰の妹千代子が見とどけるために傍に立つてゐた。文之進は六十七であつた。墓地をかこむ樹林に夕ぐれの風がわたる。屠腹の場所と教へられて、そこへ立つと、なにか悽壮の気が私の身をおそひ、心のふるへるのをおぼえた。

 文中、「佐波島、青海島、青波瀬」の読みは、いずれも不明。また、「東行暢夫之墓」は、原文では、「東行暢天之墓」となっていたのを、引用者の責任で訂正した。東行(とうぎょう)は高杉晋作の号、暢夫(ちょうふ)は同人の字(あざな)である。
 この引用部分で注意したいのは、案内人の河野道が「大東亜戦争はすでに松陰先生が道破された」と指摘しているところである。しかし、火野葦平は、そうした指摘に、反応することなく、「それにしても」と話題を転じている。火野の関心は、もっぱら、吉田松陰の生家の「狭さ」にあったようである。
 なお、戦中に、「大東亜戦争はすでに松陰先生が道破された」という見方があった以上、「大東亜戦争」が敗北に帰したあとは、その視点に立って、吉田松陰の思想を再検討し、明治維新という革命を再検討し、さらには「大東亜戦争」について再検討する必要があると考える。こういった再検討が、いまだに十分なされていないのは(左右いずれの側からも)、まことに不思議なことと言わなければならない。
 明日は、話題を変える。「長州再征に関する建白書」の検討に入るのは、そのあとで。

*このブログの人気記事 2021・4・27(8位に極めて珍しいものが入っています)

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高杉、木戸らが国事を談じた暁天楼を訪ねる

2021-04-26 06:13:59 | コラムと名言

◎高杉、木戸らが国事を談じた暁天楼を訪ねる

 火野葦平は、一九四四年(昭和一九)九月に、「歴史の歩み」という文章を発表した。昨日のブログでは、火野葦平が前田台場址に立って、「関門海峡の一発」を振り返っている部分を紹介した。
 そのあと火野は、山陽電気鉄道鳥居前駅で下車して功山寺を訪ね、ついで松小田(まつおだ)駅で下車して、白石正一郎邸と暁天楼を訪ねている。このうち、暁天楼を訪ねたところを引いてみたい。

 松崎神社の古びた石燈籠のならんだ石段をのぼると、正面に朱塗の柱の絢爛とした天満宮の社がある。裏は佐加太利公園である。石段をのぼり切ると、三田尻の町が一眸に見わたされる。「春もややけしき調ふ月と梅 芭蕉」とある句碑の横をぬけて松林にはいると、崖のうへに一軒の粗末なバラツク建の飲食店がある。道を聞きがてら、そこでうどんを食べる。まるまると太つた色の黒い純朴な婆さんが、たつた一人でがらんとした店のなかで、手籠でうどんをあたためる。
「お婆さん、このあたりに暁天楼といふのがあるのを知りませんかね。」
 私はうどんをすすりながら訊いた。
「はあい、ぎよてんろですか。よう、わしら知りませんがのんた。なんでも、この裏ん方に、なんかそんなものがありますい。坂本龍馬てら何てらいふ侍が、来たとか来んとかいひますが、わしらついはあ、なんべん聞いても、ぢき忘れてしまひますでのんた。」
 私はうどんを二杯食べてそこを出た。(序に、このうどんは、油揚げ、卵やき、葱などのたくさん入つた、近来稀に見るううまい汁のうどんで、おそらく日本で何番目かであらう)
 暁天楼はそこからすぐ裏手の閑寂な疎林のなかにあつた。社殿からは西北へ一町ばかりだ。二階建のごく粗末な建物である。屋根は傾いて落松葉をかぶつてゐる。二階は六畳二間しかない。これはもと〔下関〕市内宮市前小路の藤村といふ人の邸にあつたのを、最近ここへ移築したと、案内の高札に書いてある。あとで、松崎神社の社務所で神主さんから往年の藤村邸の絵図面を見せてもらつたが、大きな邸宅の極く一隅にこの暁天楼はあつたらしい。下は通路になつてゐて、二階で志士たちが会合をしてゐたのだ。
「もともと旅館ではなかつたのを、志士たちが宿屋をしろといつて勧めたのだと藤村の当主はいつてゐます。この建物は物置か納屋のやうなものだつたやうです。高杉、木戸、井上、伊藤、山県、品川、坂本などといふ人たちがさかんに往来して国事を談じてゐたんですね。下は通路になつてゐるので、目だたないのでここを選んだものでせう。見張りは立ててゐたのですが、下の土間には漬物桶を置いたりして、いまの言葉でいふと、カムフラージユしてゐたさうです。入こんでゐだ間者を斬つたこともあるさうですが、間者がかくれてゐた立木もいつしよに伐つたといふ、その木が残つてゐます。また、思ふやうにいかないことが多かつたので悲憤のあまり、刀を抜いて柱などを切りつけたらしく、刀痕もあります。藤村の本屋の方には七卿も来て、茶など汲んだこともあるさうです。暁天楼といふのは、あとからつけた名です。」
 神主さんの話をききながら、私は、高杉晋作が三田尻の船宿の行燈に書いたといふ詩が、尊攘堂〔功山寺境内〕にあつたことを思ひ出してゐたが、志士たちも随分あちこちしたものだと感にうたれた。

 ここで火野葦平は、高杉、木戸らが国事を談じた暁天楼を訪ねている。史蹟と言えば史蹟だが、要するに、当時の革命家たちのアジトである。
 それにしても、あいかわらず、達者な文章である。特に、うどんの描写が印象的である。火野が、「日本で何番目か」とまで誉めたことについては、「外食」が困難になっていた当時の食糧事情を考慮する必要があろう。【この話、続く】

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