◎書斎の柳田先生は、白い足袋に草履だった(戸板康二)
作家の戸板康二(1915~1993)に、『わが交友記』(三月書房、1980)というエッセイ集がある。名著だと思う。
「わが先人」と「わが交友」の二部からなり、「わが先人」の冒頭に置かれているのは、「柳田國男」というエッセイである。本日は、これを紹介してみよう。
柳田國男
昭和十五年〔1940〕の春に、成城の柳田國男先生の書斎にはいる機会を持った。
そのころ勤めていた明治製菓の宣伝誌「スヰート」のために、原稿をお願いしに行ったのである。この碩学【せきがく】が一日の大部分をすごしている場所を見た経験は、鮮烈である。
俗に万巻の書というが、ざっと二十畳ほどの部屋の三方に本棚があって、床の中央に一段高い台が置かれていた。その台の書卓の前に先生は腰かけ、しずかに煙草を吸いながら、ぼくの話を聴いて下さった。
袴【はかま】を着け、白い足袋に、スリッパでなく、草履だった。その姿はキリッと、何ともいえない大人【グラン・メートル】の風格であった。
神田や本郷の古書店に行けば、先生の書斎に数倍する書物がならんでいるにちがいないが、成城という町にあって野鳥の声の聞こえる柳田家の本は、いつでも索引できる主人の知識と直結している点で、一冊一冊 が、意味を持ち、相互に関連しあっている感じがある。書架のすべてが、 充電していた。
そのひとつの証拠として、「小豆の話」という論文をいただいた御礼 に、宣伝部長の内田誠さんと先生を訪ねた日、食物誌を書こうとしていた内田さんが、玉子売りについて質問した時、「それは七部集にありますよ。大川では舟で売りに来るんです」といいながら、本棚の或る所から、スーッと一冊活字本を引き出す呼吸の、名人の至芸に似たみごとさを見ている。ぼくの本棚にも七部集はあるし、それが置いてある所にすぐ行けはするが、あのおびただしい書物の密林を背景にした、柳田先生のそういう挙止は、いま思い出しても、遠い日に見た名舞台のようである。
柳田先生は、多くの弟子に、民俗学のいろいろな分野を、それぞれの向きに応じて、研究させたと思われる。逆にいえば門下生の専攻したすべてを総合した学問を身に体していたのだから、超人的だったというほかない。「君にはこの仕事がいい」とすすめる時の先生には、弟子が興奮せずにいられないふんい気があったのではないだろうか。
内田さんが「日本の食物について調べております」といった時、先生は莞爾として、「それこそ、あなたのような人に、してもらわなければならないことだ。本朝食鑑をまず、読むといい」といった。内田さんは感激して、帰りに車を神田に走らせ、一誠堂で日本古典全集を早速購入していた。
柳田先生をはじめて見たのは、日本民俗学大会が行われた昭和十一年〔1936〕の夏で、全国から集まった学者が、自分の住んでいる町や村に伝わっている習惯について報告する時の座長としてである。ひとつの報告があると、「それに似たことが、まったく別の土地にある」と、ただちに挙げられる。それも県、郡、村まで、正確に、スラスラ出て来るのだ。どういう頭なのだろうと思った。年譜を見ると、この年、先生、数えで六十二歳である。
同じころ、先生の連続講義を、丸ビルの一室で聴講した。「一つ目小僧」の話で、神社の山門の矢大臣が片目であることだの、鎌倉権五郎景政が目を射られたことだの、そういう例が挙げられて行って、日本にも昔、片目をつぶしたイケニエ(先生はヒューマン・サクリファイスという表現をまじえた)があったのではないかという結論に持って行く。
ひとつの引例に、何ともたくみな話術があり、うまい講釈を聴いているような陶酔があった。いつもそうなのかどうか知らないが、キメ手になる重要な例をひとつだけ大切に残しておいて、そういうところで、「ことがまだあります」と最後に提出する時に、先生はじつにうれしそうな笑顔を、見せるのだった。突飛な連想だが、欧米の名探偵が、事件の謎を絵解きする時の様子が、その講義と似ているような気がしないでもなかった。
笑顔で思い出したが、ぼくが慶応で師事した折口〔信夫〕先生が、或る時、こんなことをいった。「演芸画報で、羽左衛門(十五代目)の権九郎の写真を見ていたら、柳田先生そっくりだ。いい顔なんだね、二人とも」
ただし、この権九郎は、与三郎なんかとちがって、「黒手組助六」に登場、不忍池【しのばずのいけ】にはまって失笑される三枚目の番頭の役だから、柳田先生に伝えるわけには行かない雑談だが、折口先生のこういう直感は、するどかった。
折口先生と戦争中、町を歩いていると、煙草屋の前で行列がある。時間をきめて、売り出していたのだ。そういう時、「あんたもおならび」と自分が先に、行列の尾につく。そんな行動を好まない人が、煙草だけは、貪欲に買おうとした。折口先生は煙草を吸う人ではない。買い溜めて、成城の柳田先生に届けるのであった。
昭和十六年〔1941〕に、柳田先生をひとりで訪ねた。その時三つのことがあった。
玄関をあけてくれた女性が、ぼくの学生の時、書斎の本を自由に読ませてくれた父の友人の家を手伝っていたひとだった。奇遇におどろいた。よくよく本に縁のあったひとだと思う。
先生が最近出た本をあげようかといわれた時、だまっていればいいの に、「それは買わせていただきました」といって、署名本をいただき損った。第一、持っていても、折角そういわれたのなら、黙って頂戴すべきであろう。失礼をしたともいえる。
先生の書斎にいると、来客があり、緊急の用事らしい。ぼくは部屋の隅の椅子に移って、待っていた。紹介されたから名前を覚えている。長岡隆一郎さんだった。
「それは朝日も困っているだろう」。深刻な顔で、先生がうなずいている声が聞こえた。のちに考えたのだが、ゾルゲ事件について、柳田先生に知らせに来た客にちがいなかった。
柳田國男、折口信夫両碩学に関する貴重な証言である。
文中、「署名本をいただき損った」とあるが、戸板康二が、このとき、「最近出た本」を受け取ったとしても、署名はなかったであろう。柳田国男は、自著を贈るとき、署名をしない主義だったと聞いたことがある。