◎占領部隊は武士のなさけを知らない(迫水久常)
迫水久常の『機関銃下の首相官邸』(恒文社、一九六四)を紹介している。本日は、「戒厳令発令」の章を紹介する。
戒 厳 令 発 令
午後四時すぎ、そろそろくらくなるころ、筆頭閣僚たる後藤〔文夫〕内相が参内して、正式に閣議が開かれた。閣僚の間には内相の参内の遅延をせめる声がきかれた。まもなく予定のとおり、後藤内相に対し、「内閣総理大臣臨時代理被仰付〈オオセツケラル〉」という辞令がでた。私はほっと安心した。閣僚のだれもこの異式な辞令に気がついたものはなかったようだ。そして直ちに、後藤臨時首相の手によって、内閣の総辞職の辞表が捧呈された。私はここで、一たん官舎に帰えろうと思い、宮内省の自動車を拝借して、永田町に向ったが、官邸の周辺の道路のどの入口 でも、警戒に立っている反乱軍の兵隊に阻止され、なんとも仕方なく、再び宮内省にとってかえして、福田〔耕〕秘書官にその旨電話した。そのとき、福田秘書官は、きこえるかきこえないかほどの低声で「会ったよ」「もうしばらくがまんしてくださいといってきた」という。私はうれしいのか、親父がかわいそうだという心持かいまもわからないが、涙がでて困った。宮中はすっかり夜のとばりに包まれ、あまり明るくない電燈の下で閣僚たちは、三々五々、ひそひそ話をしている。私は大声で助けを求めたいという衝動をおさえかねた。そしてその夜半、とうとう私のもっとも信頼している司法大臣小原直〈オハラ・ナオシ〉氏と、総理とはもっとも親しい鉄道大臣内田信也氏の二人だけに、総理は生存していて官邸内の一室にかくれていることを打明けて、なんとかよい智恵をだしてくださいと懇願した。またこれからの閣議などそのつもりで指導してくださいとたのんだ。そして辞令の形式についても話した。二人ともことの意外に一瞬呆然とされた。「たいへんなことになったなあ」「しかしなんとか脱出せしめなくては」といわれるものの、私たちと同様に、よい案はない。内田さんはしばらくして、「大角〔海相〕に話したか」といわれるので、私は、実はしかじかとお話をした。内田さんは「大角もたよりにならんな」と感無量気〈カンムリョウゲ〉につぶやかれた。
私は約一時間おきに一晩中、福田秘書官に電話連絡した。福田秘書官がそのたびに「官邸のほうでは物音一つしないから異変はないと思う」というのをきいてまず一安心というわけである。やがて電話が安全であるということがわかったので、二人は少し大胆になり意見を交換した。なにしろ官邸のなかは、軍人ばかりで背広をきているものは一人もいない。他に頼ることができなければ、私たちだけの力で救出しなければならないのだが、それには官邸のなかに背広を着た人が相当数はいることができれば、それにまぎれて総理をだすことができるのではないかという話になった。そして、翌二十七日の早朝から、できるだけ多くの弔問客が官邸に出入ができるように取計ろうでは ないかということになった。私はそこで早速、陸軍大臣秘書官小松〔光彦〕中佐を探しだして、偽りをいって悪いとは思いながら、次のようなことを声をはげましていってみた。
「なにしろ、占領部隊は、武士のなさけを知らない。われわれは、事件後いっさい官邸にはいることをゆるされず、死体に対して、香華〈コウゲ〉を供えることができないばかりでなく、対面さえゆるされていない。死体がどうなっているのかもわからない、まして総理は海軍ではあるが軍人である。多くの友人や、遺族、親族もある、なんとか占領部隊に対して、武士のなさけとして、せめてもっとも親しい人たちだけでも官邸に弔問にゆけるように話をつけてくれないか」【以下、次回】
陸軍大臣秘書官小松中佐とあるが、原文のまま。ウィキペディア「小松光彦」の項によれば、小松光彦は、二・二六事件当時、歩兵少佐、陸軍省副官兼陸軍大臣秘書官。一九三六年(昭和一一)八月に、歩兵中佐に昇進したという。