礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

花嫁が通る晩は村の若い者が通行を妨害

2022-03-31 02:10:50 | コラムと名言

◎花嫁が通る晩は村の若い者が通行を妨害

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その四回目で、第一部「村へ帰る」の4「ふるさとの人々」の後半を紹介する。

 村人たちの生活は、敗戦後とはいえ、昔よりもはるかに悪くなっていた。農村ではヤミ米で百姓のふところがふくれ上っている頃のはずである。しかしこの村では、食糧を他に売るほどの余裕ある農家は、一部地主を除いては皆無といってよかった。大部分は出稼ぎの賃銀で、逆にヤミの雑穀を買い食いしていたようだ。しかも敗戦と共に経済機構が崩れ、出稼ぎの機会もなくなり、村人の多くは春を待って山菜野菜を取りにひしめいた。山菜に黄な粉をまぶしたものを主食として数十日の命をつないだと家庭はざらにあった。
 一方、統制経済がつづいていたので、役場と農業会は景気がよく、殆んど毎日酒を飲み、飲んだ後はまたかならずといってよいほど、喧嘩が始まった。おとなしい村人たちの間にも少しずつ忿懣の声が上りつつあった。私はときどき村役場を訪ねたが、大てい昼の間から、宿直室で酒宴が始まっていた。その宿直室は数々の喧嘩の跡を残し、障子の骨はばらばら、紙は穴だらけで書記たちのいる事務室はまる見えであった。畳はこぼれた酒でしめり、煙草の火の跡をにぎやかに残していた。今、私がこうしている村長室は、その宿苽室を作りかえたものである。
 村役場が景気がよいというのは、配給物資を横領したからだというのではない。酒の配給切符をもっていたからである。当時酒は冠婚葬祭用とか田植用などの配給物だけで、ヤミはひどく高かった。これに目をつけたのが、馬喰【ばくろう】たちである。牛や馬の商談が成立つと、売手と買手が一升ずつ出すのが慣習である。これがヤミ酒となれば大変である。配給酒だと同じ金で何倍もの量が飲める。そこで役場の宿直室に粜まって売貢の詫をつけ、決まれば村長さんどうぞ切符を一枚、ということになる。村長だけというわけにはいかないから、助役、収入役から、酒の好きな書記たちは皆あつまる。飲めない者は少ないが、そんなのはぽつんと事務室にいる。この酒の切符では、私の代になっても随分困らされた。村長自ら切符をにぎるのはどうかと思って、配給係にもたせた。しかしかならず村長さんどうぞ一枚といって来る。そんなものはもってないといっても絶対に信用しない。配給係にもたせても、村長の許しがなければというので、こっちへ廻って来る。ほとほと困ったことがしばしばであった。私がいないと助役に来る。村長や助役が係に任せきると収拾がつかない。毎日その辺にひき出されて、でれでれに酔うのである。敗戦直後のことで、婚礼などもあまりなかったし、葬式に飲むという風習もないので、配給の不正をいうものは余りなかったようだが、酔った挙句の喧嘩には、皆あきれはてていた。
 役場で喧嘩がはじまっても、村長はにやにやしながら飲んでいて、止めようとはしない。喧嘩の大将ははじめのうちは、今の収入役、当時の下屋敷書記だったそうだ。この男は海軍に長くいたのち、カムチャッカの漁場歩きを長年やった男で、相当にはったりを利かすことも知っていたらしい。しかし彼の覇権もくつがえる時が来た、大川原正吉という書記にとって代られたのである。何でも役場で一度とり組んだら、その後五晩つづけて家を襲われたという。薪ざっぽうをもって夜中にやって来て、戸口のあたりを、「野郎出て来い。ぶち殺してやる」とどなりながら、がんがん叩き廻る。これが五晩つづいたら、遂にこの海軍上りのつわものも降参して、一升買って謝まった由である。その後は大川原の天下で、或るときは夜中に火の見に上って半鐘をじゃんじゃん叩き、部落のものを皆おこしたという。
 役場の隣りは私の生家であり、その向いが農業会の事務所だった。ここも役場と並んで殷賑を極めた飲み場であった。ここには役場の大川原の弟がいて、兄に劣らぬ酒乱で、他人とはもちろん、しばしば兄弟でつかみ合っていた。喧嘩で負けると、やけくそになって、材木を道路にならべたり農業会の商品である炭俵の束を路上に幾つも投げ出したりする男であった。これにならったわけでもあるまいが、その頃花嫁が通るという晩には、村の若い者たちが、真暗い路上に丸太を沢山ならべて通行を妨害するのが、一つの流行となっていた。

 第一部は、このあとに、5「改革の胎動」、6「製酪工場の計画と失敗」、7「岩手開拓公社の創立」の章があるが、すべて割愛し、明日は、第二部「農地改革」の紹介に移る。

*このブログの人気記事 2022・3・31(8位に極めて珍しいものが入っています)

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台所と土間では名子たちが数人働いていた

2022-03-30 01:52:50 | コラムと名言

◎台所と土間では名子たちが数人働いていた

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その三回目で、第一部「村へ帰る」の4「ふるさとの人々」の前半を紹介する。

   4 ふるさとの人々
 一月ばかり寝たり起きたりしていたら、健康は大体回復した。もともと栄養の不足から来ているので、食って眠っていればよかったわけである。ただマラリヤから来た脾臓の痛みは、その後数年治らなかった。肝臓は根治したようだが、乗物に乗ればかならず脾臓が痛み出し、立っているのが苦しかった。それでも村を歩き廻るには支障を感じなくなった。
 村での私の友人といえば、その当時の村長ぐらいのものだった。彼は岩泉龍といい、寺田の旦那岩泉浩太郎氏の異父弟である。浩太郎氏の父は、岩泉家の長子であったが、若くして吹雪で遭難し未亡人となったその妻を、彼の弟の頼八という人にめあわせたのである。この頼八氏の長男が龍氏である。頼八氏は昔の職業下士官で、特務曹長で軍隊をやめ、大正九年〔一九二〇〕の一月から、昭和十五年〔一九四〇〕三月まで村長をつとめた。そのあとを浩太郎氏が継ぎ、十九年〔一九四四〕六月に応召出征するまで村長の職にあった。龍氏は二十年〔一九四五〕の一月に就任し、二十一年〔一九四六〕十一月追放令によって職を去った。
 頼八氏の祖父と私の祖父が兄弟だった。私たちの小さい頃は、岩泉家は大家族で、頼八氏夫妻と子供たちの他に、弟の八三郎という人の妻子も同居し、主人であった彼らの父夫妻の上に、主人の老母もいた。浩太郎、龍の全兄弟は、盛岡の農学校に在学中で、平常はいなかった。八戸の名子〈ナゴ〉をもち、邸宅も前に庭と池をひかえ、うしろは畑につづいて山林を背負って、村としては豪壮な、品格のある家であった。おのおのの座數には、夫妻を単位にした各家族が住み、台所と土間附近にはいつも常傭〈ジョウヤトイ〉や賦役〈ブヤク〉の名子たちが数人働いていた。主人は儀八という名で、長子に早く死なれ、浩太郎氏はまだ若かったので、ずっと当主として坐っていた。私たちの小さい頃にも既に六十歳をこえて見えた。温和な良い人であり、白足袋をはき、白いちりめんの帯をしめた上品な老人であった。龍兄弟の母の人も私にはなつかしい人であった。私が学校の休みに帰る度に、この家族たちはめいめい私に小遣をくれた。
 八三郎という人の一人息子で儀信というのが、私の小学校の同級生であり、盛岡商業を出て村役場に入り、龍村長の下で助役をしていた。
 私は学校の休などで帰るとかならず岩泉家を訪ねたし、龍氏とは川で魚捕りをした。彼は針も網も手で魚を捕えることも名人だったし、川に行くと飽きることも疲れることも知らなかった。これらの点で私と共鳴し、私は彼とは特に仲がよかった。帰郷後一年もたつかたたぬうちに、この男を敵として闘うなどとは、夢にも思えぬことだった。【以下、次回】

 名子(なご)というのは、中世、近世における隷属農民。主家に隷属して労役を提供していた。中野清見の郷里では、近代にいたっても、名子が残存していた。

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このままでは死ねないと思った(中野清見)

2022-03-29 00:14:02 | コラムと名言

◎このままでは死ねないと思った(中野清見)

 中野清見『新しい村つくり』(新評論社、一九五五)を紹介している。本日は、その二回目で、第一部「村へ帰る」の3「復員――帰郷」を紹介する。

   3 復 員――帰 郷
 一九四五年(昭和二〇)、敗戦の年も暮れようとする頃、私は妻子を疎開させていたこの村に帰って来た。沖縄県宮古島からである。マラリヤで脾臓と肝臟が腫れ、ながい栄養失調のため、五尺七寸四分の体躯が十一貫程度に痩せて、骸骨さながらの恰好であった。陸軍上等兵の襟章は既にかなぐりすてていたと思う。その時着ていた服は満洲から出て、朝鮮で船を待つ間に支給された夏物で、一年半の間身につけていたものである。シャツは靴下の糸で電線の針金を針にしてつぎはぎされた、シャツというよりは雑巾の形であり、その間にに虱〈シラミ〉が群生していた。
 妻子たちは私の生家から一軒おいた隣の百姓屋の一室を借りて住んでいた。室に入る前に、着ていたぼろをしらみと共にぬぎすてた。
 素肌に着物を着て、炬燵〈コタツ〉に入ったときは、百年の苦労から逃れたような安堵があった。妻子たちは人々の情によって、食うものには事欠かずに生きていたらしく、皆健康そうであった。三歳になる次男は、頰を真赤にし、まるまると太っていた。
 遠い海の彼方の戦地で、毎日毎夜夢見たもの、身をもだえて待ち望んだのは、すべていま目の前に、現実にあった。子供たちにも生きて会えた。ふるさとの山河もいまは身のまわりにある。飢餓の中で欲したものの数々も皆目前に現われた。味噌汁も漬物も牛乳も。そして古いけれども今私は畳の上にいる。
 私は神の存在を信じ得ない人間であるけれども、人間の心が、ふるさとや肉親につながる神秘を戦地においていろいろと知らされた。
 私たちの輸送船団は、釜山を出てから、敵の潜水艦や飛行機に悩まされて、あっちに逃れ、こっちにかくれて、沖縄に着くまでには四十日を要した。一度は那覇の第一回大空襲を知らずに、奄美大島附近まで南下し、あわてふためいて逃げ戻り、有明湾の奥ふかく大牟田まで入って待避したことがある。そんなに用心して進んだけれども、桜島のふもとを出て、再び奄美大島の近くにさしかかったとき、一隻の船は魚雷の犠牲になった。私たちの乗っていた直ぐ右隣りの船で、魚雷は私たちの船の直前を斜めすれすれに通ったという。その日がやって来る二、三日前、不思議なことが起った。私は、この村にいる自分の母の死ぬ夢を二晩つづけて見た。実にまざまざと見るので不吉なものを感じていた。或る夕方、他の中隊の兵隊たちが五、六人、甲板に集まって話しているのをちょっと耳にはさんで立ち止まった。その一人一人が、どうも夢見が悪い、何かあるのではないかと語り合っている。敵潜の襲撃に逢ったのは、その翌日の昼頃であった。
 宮古島には敵の上陸企図が三回あったと後できいた。一たび上陸があれば、ここもまた沖縄本島の運命を辿ることは必至に見えた。私が人間として耐え得ない屈辱にたえていたのは、妻子への責任すら果さないままに死にたくなかったからである。私は最悪の場合にも何とかして生き長らえようと日夜考えていた。しかし敵の上陸があれば、百に一つも生きる望はありそうもなく見えた。私の心の底には、何時の間にか諦念が出来ていた。しかしまた、このまま死ぬということが、何としてもたまらない気持だった。一つは同じ日本人の、しかも年若い愚劣な者たちに終始虐待と屈辱を受けて来たことであった。このままでは死ねないと思った。もう一つは、母やその他の肉親、自分を知っている故郷の人々の、期待を裏切ったまま死ぬことの心残りであった。母にすれば、珠玉にもまさる息子に違いない、東京帝国大学出身の息子である。どんなに偉くなるだろうと、その日の来るのを待って生きて来たに相違ない。死ぬのはやりきれぬ思いであった。
 にもかかわらず、死は必至の運命に見えた。そこで自ら言いきかせ一切をあきらめるようと思えば、またたちまち眼底にうかんで来るのは、秋草の乱れ咲くふるさとの山野であった。一度でいいから、ここに帰って死にたいと思う。こんな日が幾日もくりかえされた。そして不思議にも、その秋草の咲く山地というのは、村で「クレツボ」と呼ばれている私たちの祖先の墓場につづく、高台の草原であった。ふるさとを墳墓の地という所以が、そのときわかったような気がした。
 ああしかし、いま私は生きてふるさとに帰ったのだ。夢寐〈ムビ〉にも忘れなかったふるさとの山河が、奇蹟のように私の眼前に横たわっていた。私は帰った日から、半病人となって床に就いた。ふるさとの大地の上にねていれば、その枕から、ふかい安堵が伝わって来て全身をつつむのであった。

*このブログの人気記事 2022・3・29(9位の戸坂潤は久しぶり)

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馬淵川に沿って一条の県道が延びている

2022-03-28 06:52:24 | コラムと名言

◎馬淵川に沿って一条の県道が延びている

 一九九〇年の一月、国分寺駅前の新刊書店で、『回想 わが江刈村の農地解放』という本を買い求めた。どうして、この本を買ったのか覚えていないが、たいへい面白い本だった。読み始めたら止まらなくなった。
 著者は中野清見(なかの・きよみ、一九一〇~一九九三)、一九八九年一〇月に朝日新聞社から刊行されたばかりの本だった。
 その後、古本屋の店頭で、中野清見著『新しい村つくり』(新評論社、一九五五年三月)を見つけて買い求めた。『回想 わが江刈村の農地解放』の原形とも言える本で、内容的にかぶるところも多いが、『回想 わが江刈村の農地解放』よりも、詳しくリアルに書かれているところも多い。もちろん、こちらも興味深く読んだ。
 本日以降、この『新しい村つくり』という本を紹介してみたい。この本の価値に気づかれる方があらわれることを期待したい。
 本日は、同書の第一部「村へ帰る」の2「江刈村というところ」を紹介する。なお、1「新しい村つくり―序にかえて――」は割愛する。

   2 江刈村というところ
 盛岡市の殆んど真北、汽車で一時間足らずのところに、沼宮内という駅がある。ヌマクナイと読む。ここから岩泉行の国鉄バスに乗り、二時間ほど南下すれば葛巻町〈クズマキマチ〉に至り、そこからさらに十五分ばかりで江刈駅に着く。ここが江刈村〈エカリムラ〉の役場の所在地である。村はなお三里ばかり南にのびて、国境〈クザカイ〉峠に達し、この峠を越せば、下閉伊〈シモヘイ〉郡の小川村であり、その先に岩泉町が在る。江刈村は東北本線から車窓から見られる岩手山の反対側、啄木の作品に出て来る姫神山〈ヒメカミヤマ〉の真裏の辺にあたり、北上山系の奥深いところにある。
 村役場の真北に神山という一、二一五米の山があり、その南麓が馬淵川〈マベチガワ〉の源である。川はここから南に流れ、村の南境の辺で弧を描いて逆に北流し、村の中央を縫って葛巻町に至り、さらに東北本線の小鳥谷〈コズヤ〉駅附近に出、鉄道に沿い、一戸【いちのえ】、福岡を通って青森県の八戸湾に注いでいる。
 この馬淵川の流れに沿って、一条の県道が蜿蜒とのび、村の唯一の交通路となっている。
 この川と道路に沿って耕地が断続し、またこれらと直角に山峡から小さい谿流が流れ出て本流に注いでいるが、多くの民家はこれらの流水に聚落している。つまり村全体が馬淵川の本流をはさんだ谿谷の中にあるが、一つ一つの部落はさらにこの本流に注ぐ谿流に集っているのである。従って一つの部落を通れば、目の前に次の部落が現れるけれども、どこといって中心はなく、商家の集団たる街の形をしている所は一つもない。そのために一軒の宿屋もなく、本屋さえないのである。
 役場の所在地が標高四二〇米で、気温は最高で三五度ぐらいだが、極寒の時には、零下二〇度にも下る。初霜〈ハツシモ〉は十月十日頃、終霜〈シュウソウ〉は五月下旬である。十一月初旬には毎年初雪を見るが、積雪量は大したことがなく、一尺乃至二尺程度が普通で、年々少なくなる傾向が見られる。
 昭和二十二年〔一九四七〕の調査によれば、この村の人口は四、一九四人であり、世帯数六六九戸(農家五三八)であった。総面積一九〇平方粁〈キロメートル〉の中、この年現在の耕地は畑四九二町水田六〇町、計五五二町であり、他は殆んど山林原野であった。
 以上は村の輪郭である。しかし私にとっては、村はただそれだけのものではない。それは私のふるさとだからである。
 一九一〇年〔明治四三〕の七月、私はこの村の中村部落に生れ、数え年十三歳の冬まで育った。父は一戸町の本宮氏。母方は遠藤の姓を名乗っているが、寺田部落の旧地頭、岩泉家の分れである。父はこの村に立木を買いにはいって来た由で、一度結婚したが死別したと称して母を欺したということである。しかし事実は既に妻子があったので、私は生れ落ちた瞬間から妾の子としての荊冠を身につけた。五、六歳で父に棄てられたが、尋常六年の冬、父の家にひきとられ、福岡中学に通った。一九二八年〔昭和三〕春大阪高等学校に入学し、三四年〔昭和九〕には東京帝大経済学部を卒業した。その後五つばかりの職業を転々したり、失業したりした。愛媛、高知、福岡、岡山各県に住み、新京にも二年近くいた。戦時中は産業設備営団にいたが、四四年〔昭和一九〕春、補充兵で応召し、満洲の西部国境より沖縄の宮古島に転じ、そこで終戦を迎えた。
 ふるさとの魅力は、何びとにとっても特別のものであろう。幼時の想出につながる故郷の山河も美しいものであるが、そこに住む人々のなつかしさも格別である。私がこの村の人々に、特殊の感情を抱くようになったのは、私が十三歳でこの村を去るまで、妾の子であるということを、知らずに過ごさしてくれた事実にも因るようである。私は一戸町に移って初めて、自分の莉冠の痛さを味わった。回顧して村が有難く、なつかしかったのである。他郷に在った二十五年間、私はこの村を慕い、なつかしんでいた。

*このブログの人気記事 2022・3・28(8位になぜかルメイ将軍)

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条件を変へれば、これはあなたのことです

2022-03-27 04:47:38 | コラムと名言

◎条件を変へれば、これはあなたのことです

 きだ みのるの『気違ひ部落周游紀行』(吾妻書房、一九四八年四月)を紹介している。本日は、その十三回目で、「67 むすび」の最後の部分を紹介する。

 条件を変へれば、これはあなたのことです。 
 げにや我々の親愛なるシン、ギダ、ピカ、サダ、ヨシ、三平、コイチ等、諸々の英雄豪傑の面々は異つた服装と体の中で日常に銀座を歩き、タクシーを飛ばし、官庁で捺印し、事務所【オフイス】で執務してゐるばかりでなく、なほ我々の心の中に巣を喰つてゐないとは云へないであらう。
 この言葉に対してなほ懐疑的な微笑を送る向〈ムキ〉には、フランク=ハリスがそのmy life and loveの中で述べてゐる次の一節を私と共に読むようお奨めしたい。
 この著名なイギリスの新聞人が南アフリカ黒人地帯に獅子猟に行つたときのことであ る。彼は一群の土人をその酋長と共に撮影し、現像し、印画して、それらの土人たちに見せたことがある。土人たちは酋長や仲間の姿は容易に識別することが出来た。しかるに夫子〈フウシ〉自身の姿を指してこれは誰れかと本人に訊ねると、
 ――はてこれは誰れだんべえ、一向に見ねえ顔だ、と誰れも答へるのであつた。
 ――おまへの姿だよ、と指摘しても、
 ――馬鹿べえこいてらあ、と断固否定ずるのだ。
 フランク=ハリスは驚きをもつて、この心態を実証するとともに大要次のやうに附言してゐる。
「自分を自分と認識するためには、ある程度の知的発達を必要とするもののやうに思はれ る」と。

*このブログの人気記事 2022・3・27(8位の古畑種基、10位のズビスコは久しぶり)

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