◎その老人は音もなく天井に消えた(坪井一等兵)
岡田啓介述『岡田啓介回顧録』から、第八章「二・二六事件の突発」を紹介している。本日は、その三回目。原文に施されていた傍点は、下線で代用した。
女中べやの押入れに
後に事件当日のてんまつについて軍法会議の調べのあった際、この坪井敬治という一等兵も調べられたが、彼の陳述したところはこうだった。
坪井は、はじめ松尾の死体を検分したとき、どうも首相ではないような気がする。『あれはちがうようですよ』と隊長の栗原〔安秀〕中尉に進言した。栗原は本館の総理大臣室で将校たちと会議していたが、『今は忙しいからよけいなことはいうな』といって一言のもとにはねられた。栗原はせっかく首相を仕止めたと確認しているのに、またそれがぐらついてはたまらない、という気持もあっただろうし、他人のいうことを落ちついて聞くゆとりもなかったんだろう。
栗原にはねつけられたが、やはりふに落ちぬものがあるので、坪井は二、三人の兵隊を連れて、もう一度松尾の死体を確かめに寝室へはいったわけだ。
彼はこう陳述している。『寝室に近づいてゆくと、暗やみの中にひとりの老人がいるのが見えた。だれか、と叫ぶと、その老人は音もなく天井に消えた。それでテッキリ首相の幽霊でも出たか、と思い、急に恐ろしくなって逃げ帰った』
わたしの話と、その一等兵の陳述とがピッタリ符合している、といって検察官がおもしろがっていたそうだ。坪井たちが、本館のほうへ引き返していったあと、わたしは寝室へ戻らず、そのままなんということなしに、廊下を回って女中べやのほうへ歩いてゆくとバッタリふたりの女中に会った。
秋本サクというのと府川キヌという女だが、騒ぎの最中は、女中べやにじっとしていたらしい。わたしを見るなり『まァ御無事でしたか。早くここへおはいりなさい』と女中べやに押しこむようにしていれた。騒ぎもおさまったので、わたしの身を案じて捜しにいこうとしているところだったという。女中べやにはいったが、これからどうしようか、と思いながら、へやのまん中につっ立っていた。どうするにしてもこみいったことをしてはいかん、簡単なほうがいいと考えたわけだが、へやには火ばちもないし、寒くていかん、ひとつ寝てやれ、と心を決めた。
女中べやには一間の押入れがある。押入れの上の段から天井へ上がれるようになっていて、女中たちは、しきりにそこへ上がれというものだから、ひとつどんなかしらん、と思いつつのぞいてみたが、何年前に人がはいったかわからんようなところで、とてもきたなくておれるものではない。また下におりて考えたが、ここは裏門のすぐ近くで、外部の樣子を深るに都合がよいからここにいよう。ここにいるなら、この一間の押入れのほかにはない。上の段はベッドにつくれるが、ぐあいが悪い。下の段には、せんたく物みたいなものが多少置いてあるだけだから、そこがいいだろうと、女中に片づけさせた。
下がコンクリートで、その上に床板が張ってある。女中たちはその板の上に布団を三枚くらい敷いて、わたしが寝られるようにこしらえてくれた。そこへ横になっていたら、だんだん知恵が出てきて、せんたく物をわたしの周囲に積みあげて、もし押入れを開けられても、わたしが見えないようにした。
女中たちはどうしていたかというと、押入れのから紙を背にして、キチンとならんですわっていたらしい。
サクという女中は、気のきいた女で、わたしが押入れにはいるなり、すぐ立って、松尾の寝ていたへやへゆき、その寝床を片づけてしまったそうだ。寝床の数と見つかった人間の数とがあわないと、また面倒なことになると思ったのだろう。
そのあとどういう用事があって、押入れの外に出ていたのか、今となってはよく覚えていないが、わたしがへやの中につっ立っているときだった。
急に廊下に人の近づく気配がした。来たなと思ったが、もうどうにもならんので、動かなかった。ガラリとからかみがあいた。廊下に立っているのは、永島という官邸の仕部(守衛のこと)なんだ。永島は、わたしを見るなりまっさおな顏になって、またぴしゃりとから紙をしめてしまった。永島のうしろには、兵隊が立って、こちらを見ていた。とうとう兵隊に見つけられてしまったわけだ。ところが別段なにごとも起らない。
わたしは、また押入れにはいって寝たが、女中と三人で反乱軍の中に孤立しているかっこうになっている。小用を催すと、小さなあきびんをもってこさせて、用をすませていた。
『おれは岡田だ。』とこちらから名乗り出るようなことは、しないほうがいいと思った。向こうも、そんなことをすれば、なんとかしなければならなくなってしまう。女中は女中で、もしわたしが兵隊に見とがめられたら、自分の父がいなかから上京して、官邸に泊まっている間に、こんな騒ぎにあったというふうに、とりつくろうつもりでいたらしい。
いつごろだったか、まただれかへやにはいってきて、女中と問答をしている。そのうちに、いきなりからかみがあいた。チラリ見ただけだが、兵隊らしく軍服を着ている。わたしと顔を見あわせたかと思うと、またぴしゃりとからかみをしめ、へやを出ていった。そのときは、わたしは敷布団の上にあぐらをかいていたように覚えている。
いよいよやってくるかな、と思っていたが、あたりはしんとして人の動く様子は感じられない。
兵隊は味方だった
この兵隊は篠田惣寿という憲兵上等兵だったそうだ。篠田は青柳利之という憲兵軍曹【ぐんそう】といっしょに、近くの陸相官邸にいたらしい。首相官邸に反乱軍が押し寄せて、銃声が起ると同時に、飛びだして、首相官邸になだれこむ反乱軍にまぎれこんではいっていたわけだ。一通り騒ぎがおさまってから、兵隊どもに見つかり『なんだ、憲兵がうろうろしているじゃないか』といって、もんちゃくが起り、栗原中尉に『出てゆけ』と怒嗚られたが、
『官邸の中には女もいるし、いろいろ貴重な品物もある。騒ぎのあおりで、不届きなことでも起っては軍の汚名になるから、それを保護する意味でいるんだ』
と答えた。それで栗原も『それならいてもいいが、外部との連絡は一切許さん。電話も使用してはならん』ということになった。青柳のほうは、死んだ四名の警察官の死体の始末や負傷した巡査を病院へいれるためにまもなく官邸を出て、篠田だけが残っていた。
篠田は、女中たちは、どうしているかしら、と思って、へやをのぞくと、サクとキヌが、押入れのからかみを背にして、キチンとすわっている。『お前たちはもうここにいてもしようがないし危険だから引き取ったらどうだ』というと『だんなさまのごいがいがここにある間は、帰るわけにいきません』とひどく強硬である。あまりがんばるんで不審を起した。それに女中たちは、からかみにぴったりからだをくっつけているので、その中になにか隠してあるような感じをいだかせたらしい。それで『そこをのいてみなさい』といって、ひとりの腕をつかむと、のくまいとする、女中のからだが動いたはずみに、押されてからかみが開いた。それで中にあぐらをかいていたわたしと顔を見合わせたわけだ。
憲兵は不審なものを見つけた、と血相を変え、女中たちには『よしわかった。そのままにしていなさい』といって、どこかへ走っていったという。
その後も卅分おきぐらいに兵隊が見回りにくる。将校は、さすがに女ふたりしかいないへやにはいるのを遠慮して廊下に立ったまま『異状はないか』ときく。兵隊がふたりくらいはいってきて女中に『異状はないね』ときき『ありません』と答えると、こんどは押入れのからかみを……両端をすこしずつ開けて、中にあったせんたく物を一つ二つ外へつかみだして中を改めるようなしぐさをしてからかみをしめて『異状ありません』と将校に報告する。
そこでつくづく考えたのであるが、兵隊はわたしの味方だということだ。ちゃんとわたしの顔を見ている。わたしが押入れにいることを知っている。それでいて別段わたしをどうしようという気を起さないのは、不思議である。わたしを首相だと感づいているのに、黙っていたのか、それとも、もう首相は死んだものと思いこんでいるので、妙なじいさんがいるのを見つけても関心を持たなかったためなのか。
このことについてはわからないままになっていたが、近ごろになって、土肥竹次郎からこんな話を聞いた。そのむすこは支那事変中、中尉で戦地にいっていたが、たまたま二・二六事件の話が出た折り、部下の兵隊が『わたしは総理の生きていることを知っていたが、今さら殺すべきでないと思ったので、上官には報告しなかった』といっていたそうだ。それで、わたしもなるほどと当時の兵隊たちの態度について納得のいった次第だ。
さて、わたしは押入れの中にいて今後のことについていろいろと思案した。襲撃されたのは、おそらく自分だけではないであろう。暗殺は予想していたものの、五・一五事件のように若干の将校が動くだろうと思つていたら軍隊が出てくるという予想以上のことが起つている。
宮中はいかがな御様子であろう。重臣たちの安否は? とにかくこの暴挙を鎮めて、跡始末をする責任が自分にはある。軍の政治干与をおさえる絶好の機会になるかも知れない。いたずらに死んではいかん、という気が起る。【以下、次回】
「女中べやの押入れに」の節に、「永島という官邸の仕部」という箇所があるが、「仕部」は原文のまま。あるいは「使部」のことか。使部(しぶ)は、下級役人の意味で、「つかいベ」、「つかわれべ」とも言う。
「兵隊は味方だった」の節に、土肥竹次郎という人名がある。この名前は、すでに『岡田啓介回顧録』の第六章に出ている。小樽木材会社の常務取締役だったことがあり、当時、政財界の顔利きで通っていたという。
なお、映画『二・二六事件 脱出』(ニュー東映、一九六二)では、栗原安秀中尉は、「栗林中尉」として登場する。これを演じたのは江原真二郎さんである(好演)。