礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

八月革命説は現憲法無効論の一種(相原良一)

2020-07-31 00:35:11 | コラムと名言

◎八月革命説は現憲法無効論の一種(相原良一)

『ジュリスト』一九七七年五月臨時増刊(通巻六三八号)、「日本国憲法―30年の軌跡と展望」から、丸山健の「日本国憲法制定の法理」という論文を紹介している。本日は、その四回目(最後)。

  四 現憲法無効説

 これまで紹介してきた学説や見解は、理解や説明のしかたは異なるにせよ、いずれも現憲法が有効に成立したものと解するのであるが、これに対して、現憲法は、その制定の手続と内容から見て無効であり、ないしは、占領下ではやむをえないとしても、占領終了によって失効すべきものであるとする説がある(1) (2)。以下に、その理由としているものの概略を述べよう。
  旧憲法の改正手続には、以下のように、「違法又は重大且明白なる瑕疵」がある。
 ① 改正の時期  占領期間中、つまりsubject toの期間において行なわれたこと。「国家の統治意思の自由なきところ、国家の根本法たる憲法の改正はありえない」。占領下の西ドイツが憲法制定を拒んで、いずれは失効すべき暫定的な基本法の制定にとどめ、フランス第四 共和制憲法、ブラジル連邦憲法、わが旧憲法が、特定の時期における憲法の変更を禁止しているのは、みぎの法理の例示である
 ② 改正の方法  占領軍による「不当なる威迫、脅迫、強要の存在したことが認識せられ」ること。わが民法九六条や英法のundue influenceの法理は、公法私法を問わず妥当すべきもので、脅迫による憲法改正は有効とはなしえない。
 ③ 国際法違反  「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」(一九〇七年、ハーグ条約)は、「国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルへク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ」と規定しているが(三款四三条)、この原則からして、占領下における旧憲法の改正は許されず、よしんば、憲法の停止はやむをえないことがあるとしても、その停止や改正の法的効果が占領解除後にまで及ぶことは、決してあるべきではない(3)。
  旧憲法の名称・文体を全面的に変更し、かつ一~四条を抹殺したことは、改正の限界をこえ、無効である(4)。
 みぎの論拠の中、については、改正の限界論の問題であるから措くことにして(5)、に関する批判を紹介しておこう(6)。
 まず、の①において例示された西ドイツ基本法は、東西ドイツの分裂という特殊事情が決定的であり、加えて、基本法を議決した「憲法評級会」がドイツ国民の選挙に基づいたものではなかったという手続上の問題があったこと、また、フランス第四共和制憲法は、一九四〇年のいわゆるペタン憲法の経験、つまり、ペタンが議会から憲法制定の全権の委任を受けたのであるが、議会は本来そのような授権の権能を有していなかったという点から、ペタン憲法の正統性を否認するという主張があること。したがって、いずれも、およそ占領下の意法制定にかかる一般原則を定めたものではないと解しうることが指摘される(7) 。
 つぎに、の③のハーグ条約についても、「ハーグ陸戦法規以後の国際法の変化というものをどうみるかが問題」で、「ポツダム宣言がむしろハーグ陸戦法規に代わるものとなったのではないか」ということ、また、同条約は、「絶対的ノ支障ナキ限」といっているが、旧憲法をそのままにしておくことは、占領目的達成の上での「絶対的ノ支障」であったのではないかということ(8)、さらに、現憲法が占領解除後においてもひきつづき効力を有することが、国際法的には、ポスト・リミニウム(原状回復)の法理(9)に反するとの主張については、そもそも同法理が、憲法の場合にも適用できるか否かが問題であるとの批判がなされている(9)。
 如上の問題に、さらに立ち入る余裕はないが、要するに、無効論は、現憲法が現に施行されてきたということの説明が不十分であって、ただ法理として否認するだけであり、また、失効論も、実質を伴わない、きわめて形式的な手続論にすぎない。それは、実践的に、現憲法の全面的改正の根拠を提供しようとするものであろうが、理論的にも無理があり、現実的にも混乱を招くのみで、有用性があるとは思われない。

(1) 相原良一「現行憲法の効力について」公法研究一六号(本文における引用は これによる)、井上孚麿〈タカマロ〉・現憲法無効論(日本教文社)、菅原裕・日本国憲法失効論(時事通信社)など。なお、憲法調査会・憲法無効論に関する報告書。
(2) 無効論の論拠を批判し、現憲法の正当性を説くものとして、芦部「現行憲法の正当性」、小林「制憲史の原理的考察」(いずれも思想四五五号。これに対する反論として、無効論の立場からではないが、大石・前掲、小森「日本国憲法の正当性」前掲書)、佐藤功「日本国憲法無効論(1)(2)」法学セミナー七三号・七四号、長谷川「制憲史と自主憲法制定論」ジュリスト二八九号。
(3) この部分は、失効論である。相原教授は、この故に、「有効と推定されてゐる現行憲法の『無効確認』を行ひ、……同時に、帝国憲法を復原して、……その上で、帝国憲法第七十三条により、改めて憲法改正を行ふべきである」とする(前掲三六頁)。
(4) この立場から、相原教授は、八月革命説を、「現行憲法の有効なる所以を論証し得ない」ものとして、現憲法無効論の一種であるとしている(前掲二八頁)。大石教授も、改正限界論者は、「旧憲法の改正の限界を越えた現憲法の制定は違法だといわなければならない」はずであるとする (前掲一〇頁)。   (まるやま・けん

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日本国憲法は欽定憲法である(佐々木惣一)

2020-07-30 03:48:27 | コラムと名言

◎日本国憲法は欽定憲法である(佐々木惣一)

『ジュリスト』一九七七年五月臨時増刊(通巻六三八号)、「日本国憲法―30年の軌跡と展望」から、丸山健の「日本国憲法制定の法理」という論文を紹介している。本日は、その三回目。

  三 旧憲法七三条説

 佐々木〔惣一〕博士によって代表される。主として、⑴ ポツダム宣言および八・一一回答の解釈、⑵ 憲法改正の限界の有無、の二点で、八月革命説と対立する。以下に分説しよう。
  佐々木博士は(1)、ポツダム宣言や八・一一回答にいうJapanese peopleに関し、それは、外国人(とくに連合国の)ではなく日本人をさしているのであり、しかも日本人とは、「当時君主国であった日本国の、君主たる天皇に対照するものとして国民というようなことではな」く、天皇をも含む「日本国人」(2) (3)と解すべきであり、またthe freely expressed willというのも、「連合国の指揮によらない、自由の息思ということ」すなわち、「連合国の意思で彼此〈カレコレ〉指揮すべきでない」という意味であって、要するに、いずれも、「連合国との関係においていうので、天皇との関係においていうのでないこと、明〈アキラカ〉である」と説明する。そして、八・一一回答にいわゆるthe ultimate form of government とは、「政治府の究極の形体」の意であり、「日本で政府というのと異なる。日本で政府といえば、通例、天皇を含まず、又国会、裁判所などをも含まないが、併し、government の中には天皇、国会、裁判所をも含む。広く政治の機関を含む」のであって、したがって、みぎ回答は、「日本国の政治府の一般体制のことに言及しているが、併し、その内容については何も言わず」、前述の意味での「日本国人」の意思に委ねるということであるとしている。そして、ポツダム宣言一二項により「自由に表明せられた日本国人の意思によるべきものは、平和的傾向を有し且責任ある政府の樹立ということであって、改正せらるべき日本国の将来の憲法というようなものではない」というのである(八一・八五~九〇頁)。
 この見解によれば、ポツダム宣言受諾後も、旧憲法は従来どおり完全に有効であり、日本の政治形体は、占領政策と関係なしに、日本人の自由意思で決定されることになる(4) 。「この立論が、歴史的事実を少しでも正確につたえているかどうかは」、疑問であり、「形式論理のトリックである」との批判は(5) 、さけられまい。ポツダム宣言受諾によって、日本国民の自由な意思による政治形体の選択は、決して無条件・無制約のものではなく、同宣言の内容に矛盾しないことが、「日本にとっては義務となり連合国にとって干渉しうる権利となっていたこと」(6) は、決して無視することが許されないからである。
 また、河村〔又介〕博士は(7) 、八・一一回答のthe freely expressed will of the Japanese peopleというのは、「日本のことは日本国で自由に決定せよ」との意に解しても、「文意はかならずしも明瞭には通じない」として、「もっと政治的に解すべきではな」いかと主張する。すなわち、それは、「軍閥や、官僚や、独裁主義者によって、圧迫され、歪曲された意 思ではなく、多数国民の自由率直な意思、というほどの意味」であろうとする。だから、旧憲法七三条による「憲法の改正であっても、実質的に民意が十分自由に表明できるような手練をもってなされるのであれば、かならずしもこの回答の趣旨に反するものではな」く、この点は、後に、みぎの手続をマッカーサー司令部も承認し(8)かつ、その手統で制定された現憲法が、国民によって確定されたことを宣言したことに、同司令部から抗議がなかったことからも理解される、と説明している。要するに、博士の解釈では、八・一一回答を承認したことは、「将来究極の政治形態を決定するにあたって、第七十三条の規定を民主的に運用することを約束したにすぎないということになろう」。
 みぎに関して、宮沢〔俊義〕教授は(9) 、「回答の言葉だけからいうと、国民主権主義の確立という『厳密な法律的意義』をそれに与えることは、やや行きすぎ」かもしれないと、河村博士の所論を一応肯定しながらも、「しかし、回答の趣旨が、 ……『政治的』なものであるとしても、 まさにそのことが、主要な法律的意味をもつことを、見のがしてはなるまい」として、要は、同回答によれば、国民の意思いかんによっては、天皇制を否定する最終の政治形体が確立されることも可能であり、したがって旧憲法の原理であった「神権主義的な君主主権主義に立脚する政治形体は、そこで終局的に否定されている」点が、注意されなければならない、と答えている(10)。 
  早くから憲法改正無限界論者であった佐々木博士は(11) 、法が、現に存する法によらずに、法外の実力上の行動によって成立させられるとき、その行動は革命であり、その法は革命により成立すると解すべきであるから、「日本国憲法を成立せしめた行動は革命ではなく、日本国憲法は革命により成立したのではない。このことは、法の規定する内容如何の問題ではないから、日本国憲法が内容上、帝国憲法を全面的に変更するものであっても、その故に、その変更を目して革命といい、その憲法を目して革命による憲法といい得ないことには、変りはない。日本国憲法は……帝国憲法第七十三条の定めるところの、天皇の提案、帝国議会の議決、天皇の裁可という行動により、成立したものである。即ち、日本国憲法は天皇が制定したもうたのである。故に、日本国憲法は欽定憲法である」(12) (13)と説かれる。
 また、河村博士は、明治の末以来、わが国の公法学界において、国体と政体とを峻別し、後者は時勢に応じて変転するが、前者の変草は、旧国家が死滅して新国家が生誕することを意味し、したがって、国体規定の変革は、憲法改正によってはなしえない、という説が有力であったことを述べて、この説に依拠するならば格別、さもなければ、現憲法の成立の法理として、革命という考え方は必要がないとする。すなわち、国体規定も、いわば政体規定と同じように、統治組織に関するものであり、「この度の憲法改正は、同一国家内に於て、その統治組織が変革されたにすぎない」のであるから、それは、旧憲法七三条によってなされうることである。よって、「観来れば〈ミキタレバ〉、新憲法は、合法的過程を経て、明治憲法から生れ来たものであって、革命という概念を藉ら〈カラ〉なくとも、その法的根拠を説明し得る」と論じている(14)。

(1) 佐々木惣一「日本国憲法成立の過程に関する二三の事実と理論」憲法学論文選一巻五五頁以下。
(2) 博士は、第九〇帝国議会においても、「国民」の語は不適当で、「国人」というべきであるとし、不戦条約の例を引いて、この点を強調している(清水・前掲三四・一八七頁)。不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)一条の、peoplesの語義についての博士の見解は、前掲九〇頁以下。なお、政府は、「国民」には天皇も含まれるとの見解であった(清水・前掲一八三頁以下)。
(3) 鵜飼〔信成〕教授は、ポツダム宣言のpeopleについての、佐々木博士の見解は、「おそらく国際的文書解釈の原則に反するのではないかと思う」と述べている。西欧民主主義諸国で、peopleが、絶対君主への対立物として、国民主権を確立した歴史的遇程を考えると、それ以外の観念をポツダム宣言がもっていたとするには、特別の挙証が必要であり、また、憲法一〇条の用語例でも、博士のいわゆる国人に対しては、nationalの文字を当てていることから見ても、博士の所説には、積極的な根拠が欠けているというのが、主たる理由である(鵜飼信成「佐々木惣一博士『日本国憲法論』について」季刊法律学八号一四六頁以下)。これに対する、佐々木博士の反論、前掲九九頁以下。
(4) 一九四五年八月一三日付の外務省意見も、八・一一回答の第二項について、「元来国体の如何に関し外国よりの保障を求めんとするが如きは本末顛倒にして右は当然国内に於て決定すべきものとす従って敵側としては本問題については内政干渉の意図無く国民の自由意思に委すべしと言うは当然にしてこれ以上のことを期待するは無理なり」として、さらに、「我方においてはこれを又我国体に副う〈ソウ〉が如く解釈し得るものと信ず従って用語の如何に拘泥すること無く問題は国体については敵側において内政干渉の意図無きことを諒承すれば足り」ると述べている(憲法調査会・憲法制定の経過に関する小委員会報告書九九頁)。そして、八月一四日の御前会議もこの考え方をとり、同日の終戦の詔勅に、「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ」との文言が見られることになった。
(5) 長谷川・前掲二五〇頁。
(6) 芦部・前掲四八頁。
(7) 河村又介「新憲法生誕の法理」改造一九四七年五月号四頁以下、同・新憲法 と民主主義八〇頁以下(本文における引用は、前者による)。
(8) 一九四六年六月二一日のマッカーサー声明、いわゆる「議会における討議の三原則」が、「㈡本改正憲法が明治二二年発布の現行憲法と完全なる法的持続性を保障され」ることを必要としたことをいう。これは、すでに、五月一三日の、極東委員会の「日本の新憲法の採択についての原則」において決定されていた。旧憲法の改正手続による新憲法の制定を占領軍が承認したのは、ジョージア州の経験や、とくにハーグ条約に対する考慮に基づくもので(長谷川・前掲二五〇頁)、また、極東委員会も、「日本の憲法学者や超国家主義団体が、後に至って、新憲法は外部から強制されたものであり、法律上なんらの根拠なきものとして、無効論をふりかざすことのないためにとの念慮によ」ったといわれている(憲法調査会・前掲四六六頁)。
(9) 宮沢・前掲三九〇頁以下。
(10) 宮沢教授は、本文のような法律的効果は、降伏とともに、「物権的」に発生したものと解しているが、これに対して、政府は、降伏によっては、「債権的」に、そういう効果をもたらすべき義務が生じただけであると述べている(宮沢・前掲三九五頁)。
(11) 佐々木惣一「憲法改正」京都法学会雑誌一〇巻下・大礼記念号(一九一五年)一一三頁以下。
(12) 佐々木・日本国憲法論一一三頁 (ただし、博士は、現憲法の将来の改正は、欽定ではありえないとする)。同旨、大石義雄「現行日本国憲法の正当性批判」憲法の諸問題(清宮博士退職記念)一二頁。
(13) 八月革命説は、もとより、現憲法は民定憲法と解する。清宮〔四郎〕博士は、「現行憲法は、明治憲法にもとづいて制定されたのではなくて、国民が、国民主権の原理によって、新たに認められた憲法制定権にもとづき、その代表者を通じて制定したものとみなされるべきである。それは、民定憲法である」とし(清宮・前掲五一頁)、小林〔直樹〕教授は、旧憲法の形式的手続は、「欽定憲法の仮象」であるとしている(小林直樹 ・憲法講義上一一七頁)。なお、民定説・欽定説と異なり、現憲法は、協定憲法であるとする説がある。小森〔義峯〕教授は、「明治憲法七三条は、将来この憲法の改正をなす場合の手続を定めて、それは天皇と国民の代表たる帝国議会との合意によるべきことを強要して」おり、現憲法は、それによって成立した君民協定憲法であるとする(小森義峯「日本国憲法は民定なりや」同・憲法の基本問題二五頁)。もっとも、欽定・民定・協定という伝統的な分類は、「その限りでは形式主義的・画一主義的であって、少なくとも現実的・歴史的な観点からする他の分類によって補充されなければならない」性格のものであること、および現憲法の性格について、佐藤功「憲法成立の諸類型」清宮=佐藤編・憲法講座一巻五九頁以下、さらに、宮田豊・国法学一六八頁。
(14) 河村・前掲七頁以下。

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憲法七三条はボツダム宣言受諸で効力を失った(美濃部達吉)

2020-07-29 00:02:51 | コラムと名言

◎憲法七三条はボツダム宣言受諸で効力を失った(美濃部達吉)

『ジュリスト』一九七七年五月臨時増刊(通巻六三八号)、「日本国憲法―30年の軌跡と展望」から、丸山健の「日本国憲法制定の法理」という論文を紹介している。本日は、その二回目。

  二 八月革命説

 ① つとに、宮沢〔俊義〕教授によって唱えられ(1)、学界の通説的地位を占めると称されている(2)。大略、以下のとおりである。
憲法の改正には限界があり「憲法そのものの前提ともなり、根本ともなっている根本建前」によって、「改正手続そのものが、……その効力の基礎を与えられているのであるから、その手続でその建前を改正するということは、論理的にいっても不能で」ある。旧憲法においては、「天皇が神意にもとづいて日本を統治するという原則は、日本の政治の根本建前であり、明治憲法自体もその建前を前提とし、根柢としていた」のであるから、「明治憲法の定める改正手練で、その根本建前を変更するというのは、論理的な自殺を意味し、法律的不能」と解すべきである(三八二頁)。
 ② しかし、現憲法の定立が、旧憲法の改正手続によって行なわれたことは、妥当である。「そういう改正は、明治憲法の改正として、ふつうでは許されないのであるが、特別の理由によって、それは許される」。この特別の理由というのが、いわゆる八月革命である。
すなわち、わが国の、ポツダム宣言受諾の申入(一九四五年八月一〇日)に対する連合国の回答(八月一一日付のアメリカ政府からの、いわゆるバーンズ回答。以下、八・一一回答という)が、「日本国ノ最終的ノ政治形態ハポツダム宣言ニ遵ヒ〈したがい〉日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルべキモノ」(The ultimate form of government of  Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration be established by the freely expressed will of the Japanese people. )と述べているのは、「日本の政治についての最終的な権威が国民の意志にあるべきだ」ということ、要すれば、「国民が主権者であるべきだ」ということを意味し、わが国がそれを受け入れたのは、みぎのことを「政治の根本建前とすることを約したのである」。このようなことは、旧憲法下にあっては、「天皇の意志をもってしても、合法的にはなしえないはずであった。したがって、この変革は、憲法上からいえば、ひとつの革命だと考えられなくてはならない。……憲法の予想する範囲内において、その定める改正手続によってなされることのできない変革であったという意味で、それは、憲法的には、革命をもって目すべきものであ」り、「国民主権主義が、八月革命によって、すでに成立している(3)という理由によってのみ、……新憲法が、国民主権主義を定めることが、決して違法でないとされうるのである」(三八二~四・三八八頁)。
 ③ しかしながら、八月革命によって旧憲法が廃止されたと見るべきではなく、「ただ、その根拠たる建前が変った結果として、その新しい建前に牴触する限度においては、明治憲法の規定の意味が、それに照応して、変った、と見るべきである。したがって、その新しい建前 に牴触しない限度においては、どこまでも明治憲法の規定にしたがって、ことを運ぶのが、当然である。憲法改正も――少なくとも、形式的には、――明治憲法第七三条によって行われるのが、適当と考えられる。ただ、その場合、国民主権主義の建前からして、憲法改正の手続は、できるだけ民定憲法の原理に則すべきことが要請され、その結果として、表面上は、明治憲法第七三条によりながらも、その民定憲法の原理に反する部分 ――天皇の裁可と責族院の議決――は、たとえ形式的には規定が存しても、実際的には、憲法としての拘束力を失っていたと見るべきで」ある(三八九頁)。
 ④ 八月革命は、国体の変革を意味する。もとより、問題は、国体の定義によることであるが、もしそれが、「天皇が神意にもとづいて日本を統治するという神権主義的天皇制」をさすとすれば(4)、「八月革命の革命たる所以が、何よりも、それまでの神権主義の否定にある以上」、みぎの意味での国体は、八月革命により消滅したと解される。ただし、単なる天皇制を国体と考えるならば(5)、それは必ずしも、八月革命によって変革されたわけではないが、この場合でも、「天皇制の根柢が、神権主義から国民主権主義に変ったこと、したがって、天皇制の性格がそこで根本的な変化を経験していること」が注意されるべきである。すなわち、「国民の意志いかんによっては、天皇制も廃止される可能性――理論的可能性――が与えられたわけである。天皇制の根拠たる神の意志は、永劫不変のものとされたが、国民の意志は、決して永劫不変のものではないからである」(三八五~六頁)。
 以上の八月革命説は、それが「現行憲法生誕の法理を民主的原理に忠実な形で矛盾なく説明しうる点」(6)で、広く評価されているが、同時に、その不十分な面に対する批判もある。
 たとえば、鈴木〔安蔵〕博士は、八月革命説は、憲法制定その他多くの法的措置に不断に関与した貴族院の活動が、法的には無効であるとしているように、「およそ現実の立法過程に余りにもかけはなれた法理論」であると批判し(7)、また、長谷川〔正安〕教授は、八月革命が旧憲法七三条による全面改正を可能にするという点について、「八月革命説をとっても、もっぱら天皇の発議による七三条は無効であり、したがってそれによる改正は、不可能であるということも、……十分にいいうる」として、「形式的にのこったという憲法の効力と占領の関係については、論じのこされている部分が多い」と指摘している(8)。影山〔日出弥〕教授も、八月革命によって主権(憲法制定権)の所在の変更があったとする以上、それは当然に憲法改正権の所在の変更を含んでいると解するのが合理的であり、宮沢教授の旧憲法 七三条による改正の是認は、適当ではないとしている(9)。さらに、芦部〔信喜〕教授は、 「現行憲法が実質的には法律上の革命にもとづいて生まれた新らしい民定憲法で あるという結論は、この説から疑いもな くみちびかれるけれども、そこから直ちに、民主的正当性をもつ憲法だという結論をひきだすことはできない」として、みぎの結論にいたるためには、「現行憲法前文冒頭の『日本国民は、……ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する』という宣言と、憲法成立過程における事実および憲法施行の実態との関連が、あらためて検討されなければならぬ」と述べている(10)。

(1) 宮沢俊義「八月革命と国民主権主義」世界文化一九四六年五月号、第九〇帝国議会における同氏の質疑(清水・前掲一〇〇頁以下)、「新憲法の概観」国家学会・新憲法の研究一〇頁以下、「日本国憲法生誕の法理」同•日本国憲法(コンメンタール)附録三〇八頁以下および憲法の原理三七五頁以下(本文における引用は最後の書による)。
(2) 芦部信喜「現行憲法の正当性」思想一九六二年五月号(四五五号)五〇頁。
(3) 清宮〔四郎〕教授も、八・一一回答の受諾は、「天皇主権から国民主権への移行という革命的な結果を容認すること」であり、「現行憲法発足の淵源は、ポツダム宣言の受諾にある」と述べている。清宮四郎・憲法I(法律学全集)新版五〇頁以下。
(4) 旧憲法下の判例でも、「我帝国ハ万世一系ノ天皇君臨シ統治権ヲ総攬シ給フコトヲ以テ其ノ国体ト為シ治安維持法第一条ニ所謂国体ノ意義亦之レニ外ナラサル」ものとし(大判昭和四・五・三一刑集八巻三一七頁、また、「憲法第一条ニハ大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治スト規定シ我国国体ノ如何ナルモノナリヤヲ明示シタリ」としていた(大判昭和六・七・九刑集一〇巻三二五頁)。
(5) 第九〇帝国議会における政府の見解は、これに近く、吉田〔茂〕総理大臣は、「国体を法律学者はどう解釈するか知りませぬ が、……日本の国に於ては、万世一系の皇 室が上にあらせられて、所謂君臣の間に何らの対立関係はない」ことを国体とし、また、金森〔徳次郎〕国務大臣は、天皇統治に関する旧憲法一条・四条に依拠して説明するのは、「謂わば法律学的な国体であり、意味の実質に於ては政体と云う範囲に属する」もので、「それらの学説の言っている国体は、大幅に変更せられ」たが、しかし国体とは、「天皇が現実に国権を御行使になると云う点にあるのではなくて、国の組立が天皇を国民一般の心の中に包んで、……憧れ の中心としてこれを包容して国家の統合組織が出来て居ると云う所にある」と述べている(清水・前掲八〇〇・八一三・八二二頁)。そして、宮沢教授がいっている、「国民の意志いかんによっては」、それが「廃止される可能性」に関しては、ふれていない。
(6) 芦部・前掲五〇頁。
(7) 鈴木安蔵「日本国憲法制定の基本論点」愛知大学法経論集・法律篇八二号九頁。
(8) 長谷川正安・昭和憲法史二四九頁。
(9) 影山日出弥「憲法の生誕の法理」同・憲法の基礎理論七〇頁。この点に関し、美濃部〔達吉〕博士は、憲法七三条は、「憲法改正の発案権を専ら勅命にのみ留保し、其の提案に対し議会は自由の修正権をも有しないものとしているに於て、明らかに右の宣言とは相〈アイ〉牴触するもので、斯かる憲法改正の手続に依っては、其の改正が自由に表明せられた国民の意思に依って決定せられたものと謂い得ない、ことは勿論であり、随ってそれは形式的には未だ改正せられず元の侭に存置せられているとしても、ボツダム宣言受諸の結果として、当然に効力を失ったものと解すべきであろう」として、直近の議会で、七三条を改正し、憲法改正草案作成に関し、学識経験者による憲法改正審議会の設置、枢密院の廃止、特別の憲法 議会の設置、国民投票による最終決定、の四点を定めるべきであるとしている(美濃部達吉「憲法改正の基本問題」世界文化一九四六年五月号)。この説に対しては、同博士が、前年一〇月に朝日紙上において、ポツダム宣言実施のために、旧憲法を改正する要はなく、その運用の適正を考えるのがよい、と述べたこととの背理をも含めて、佐々木〔惣一〕博士によって批判が加えられているが、この点はのちに扱う。なお、清宮教授は、旧憲法七三条は「憲法改正規定としての資格が疑われるにいたった」が、それを「便宜使用し、行為の形式的合法性をよそおった」ものと解している(前掲五一頁)。影山教授は、この方が宮沢説よりも「はるかに合理的である」とするが(前掲七一頁)、筆者には、両者は、ほとんど同趣旨ではないかと思われる。
(10) 芦部・前掲五〇頁以下。なお、同「憲法制定権力」日本国憲法体系(宮沢俊義先生還暦記念)一巻一一五頁以下。

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国体ノ大綱ハ移動スヘカラス(伊藤博文)

2020-07-28 00:24:37 | コラムと名言

◎国体ノ大綱ハ移動スヘカラス(伊藤博文)

 書棚を整理していたところ、『ジュリスト』の古い増刊号が出てきた。一九七七年五月臨時増刊(通巻六三八号)、「日本国憲法―30年の軌跡と展望」、本文四八一ページ。
 錚々たるメンバーが、それぞれのテーマで寄稿している。このあと、しばらくは、この号から、いくつかの論文を選んで紹介してゆくことにしたい。
 本日、紹介するのは、丸山健(一九二二~二〇一四)の論文「日本国憲法制定の法理」である。

 日本国憲法制定の法理      丸山 健 静岡大学長

  一 問題の所在

 日本国憲法(以下、現憲法という)は、大日本帝国憲法(以下、旧憲法という)七三条による旧憲法の改正として定立された。それは、帝国憲法改正案として、枢密顧問の諮詢を経たうえで、旧憲法七三条に基づき、勅書によって第九〇帝国議会の議に附され、各院は、同条所定の定足数と議決要件を満たして、原案に若干の修正を加えて、これを議決し、それが再度、枢密顧問の諮詢を経たのちに、天皇の裁可を得て、公式令三条に従って、上諭を付して公布されたのである。しかし、この手続を、実質的にも、そのまま現憲法定立の法理に適うものとすなおに認めることが、果たして妥当といえるであろうか。
 旧憲法は、典型的な欽定憲法ではあるが、それは欽定者じしんの意思により始源的に制定されたというよりは、欽定者が、「祖宗ニ承クルノ大権」(旧憲法発布勅語)としての憲法制定権によって、「皇祖皇宗ノ後裔ニ貽シ〈のこし〉タマへル統治ノ洪範ヲ紹述」(旧憲法告文)したものであり、「国家統治ノ大権ハ……之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル」(同上諭二段)ことを核心とする神権主義的天皇主権を謳った「不磨ノ大権」(同発布勅語)であって、天泉の「後嗣及臣民ノ子孫タル者ヲシテ永遠ニ循行スル所ヲ知ラシ」(上諭一段)めたものであった。それ故に、天皇みずからが「現在及将来ニ臣民ニ率先シ此ノ憲章ヲ履行シテ愆ラサラム〈あやまらざらむ〉コトヲ誓」(同告文)い、同時に、「現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フ」(同上論六段)べきものとしていたのである。旧憲法七三条は、みぎのような基本的性格のもとで、「将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至」(同上諭五段)った場合のための手続を定めたものであり、そこで予想されていたのは、あくまで部分的な「条項」(同七三条)の改正であった(1)。
 にもかかわらず、そのような旧憲法七三条に依拠して、「日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定(現憲法上論)められ、旧憲法の全条文が変更され、しかも天皇主権を廃して国民主権を宣言した現憲法が、国民によって「確定」(同前文一段)されるということが、法理上、妥当ないしは可能と認められるであろうか。本稿の課題は、みぎにかかわる論争の整理である。
 もとよりこの課題は、ポツダム宣言の受諾と国体変革の関係(2)および憲法改正の必然性の有無、憲法改正の限界の存否、旧憲法と現憲法との法的継続性ならびに現憲法の効力をめぐる問題などと表裏の関係にあり、それらの解明のためには、法理論のみならず、個々の事実おびその総体的意義の歴史学的な検証や政治学的な考究をも必要とする。しかし本稿では、これらの問題の中で、ほかで扱われることになっている憲法成立史、国民主権と天皇制および憲法改正限界論などについては、それぞれの論文に譲り、現憲法が旧憲法七三条による旧憲法改正行為の所産と解すべきか否かの点を中心に、できるだけ公平に諸説の整理・検討に当たることにする。

(1) 旧憲法七三条による改正には限界があり、「国体ノ大綱ハ万世ニ亘リ永遠恒久ニシテ移動スヘカラス」(伊藤博文・帝国憲法義解・国家学会蔵版一三四頁)と解され、また、「国体ヲ変革」する目的の結社を組織することは、重罰の対象であった(治安維持法一条)。ちなみに、旧憲法下では、「皇室典範及帝国憲法ノ変更ニ関スル事項」の請願は許されず(請願令一一条)、「各議院ハ憲法ヲ変更スルノ請願ヲ受クルコトヲ得ス」と定められていた(議院法六七条)。
(2) 現憲法成立の法理に関する根本の問題は、結局は、新旧両憲法の間における国家の同一性の存否であり(佐藤功「日本国憲法制定の法的手続」同・日本国憲法十二講一〇九頁)、第九〇帝国議会でも、国体変革の有無がもっとも議論の対象となった(清水伸・逐条日本国憲法審議録一巻一二四・四七三・とくに七九八頁以下)。【以下、次回】

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日本の政治家は豚頭です(繆斌)

2020-07-27 00:12:45 | コラムと名言

◎日本の政治家は豚頭です(繆斌)

 田村真作著『愚かなる戦争』(一九五〇、創元社)を紹介している。本日は、その十一回目(最後)。「Ⅱ」の〝19 「豚頭」〟を紹介する。

   19 「豚 頭」

 繆斌工作は、軍閥の意識的な妨害で貴重な八箇月間を足踏みさせられ、明らかに時期を失してはいたが、まだ希望は持てた。一るの望みはあつたのである。
 もし日本が、身を捨てゝ浮ぶ瀬を求める決意があつたならば、戦局の不利を有利に和平に展開出来るという、微妙な瀬戸際にあつた。
 繆斌工作は、日本軍閥と、その手先きになり下つた外務官僚の必死の妨害によつて、ついに実現をみないまゝに日本の敗戦に終つた。
 繆斌工作に、まづ正面から反対したのは、重光〔葵〕外相であり、背後から反対したものに、木戸〔幸一〕がある。
 もとより日華事変の拡大派であった杉山〔元〕陸相と梅津〔美治郎〕参謀総長、南京政府とくされ縁の出来た柴山〔兼四郎〕陸軍次官が反対した。また現地の南京総軍司令部と大使館が反対したこと勿論であつた。総軍の今井〔武夫〕参謀副長と谷〔正之〕大使がわざわざ東京まで馳せつけて暗躍した。南京大使館の清水〔董三〕書記官が妨害の連絡を必死になつてやつていた。いずれもつまらない私事の面子〈メンツ〉からであった。またその裏にはいやしい金銭関係が存在していた。
 近衛〔文麿〕と米内〔光政〕海相は相変らずどつちつかずのにえきらない態度であつた。
 東久邇宮〔稔彦王〕内閣が、日本の敗戦の直後ではなく、せめて小磯内閣の当時に実現していたらと思うのである。
 杉山は、終戦直後、自刃する前に
 「あの時、繆斌工作をやつておけばよかつた。おしいことをした。」
と側近にもらしている。彼も暗愚なる日本軍閥の一人であつた。しかし、ごうがんな重光にくらべれば、まだ杉山には、これだけの素直さがあつた。
【一行アキ】
 日本では「本土決戦」が呼号され、全国の隣組では竹槍の猛訓練が行われていた。この「日本の決意」には、さすがの知日派をもって自任していた繆さんも驚きの目を見張つていた。こんな原始的な武器で最後の決戰に国民をかりたてようとしている日本の指導者に、繆さんは義憤を感じていた。
 「日本の政治家は豚頭です。中国の民衆はなつとくの行かないことは政府のいうことでもきゝません。日本の民衆はおとなしすぎます。日本の指導者は世界中で一番らくでしよう。日本の民衆は気の毒ですね。」
 なお繆さんに対して小磯総理から経費の点に関して話があつたが、繆さんは日本の政府から金銭を受ける理由はないと謝絶したので、小磯総理は繆さんの希望する「清朝実録」という書籍を贈ることを約束した。しかし、これもついに実現されずに終つた。繆さんの潔癖を伝えたいと思う。
【一行アキ】
 繆さんは、すぐに帰国せず、日本の桜を見物するという理由で、麹町六番町の五條珠実〈ゴジョウ・タマミ〉さん方に身をかくしていた。このまゝ繆さんを帰すに忍びず最後の努力が続けられた。
 石原〔莞爾〕さんが繆さんに会いに山形から出て来た。石原さんは洋服に下駄ばきで航空本部総監の阿南惟幾〈アナミ・コレチカ〉大将に会いに出かけた。石原さんと阿南大将の会談があつた後で、私がよばれて阿南大将に繆工作の説明をした。石原さんと阿南大将とは、軍人の堕落腐敗について嘆いていた。
 翌日、阿南大将に陸軍大臣の内命があつた。この日の朝、私は三鷹の彼の自宅で、繆工作について会談した。阿南陸相は
 「自主的撤兵ならする。小磯総理はやめる必要はない。陸軍に繆工作を協力させる。」
とのことだつたので、私は自動車に同乗させてもらつて、緖方〔竹虎〕さんのところに駈けつけたが、緒方さんは〔小磯〕総理に辞表を出して帰つて来たところだつた。一足おくれてしまつた。
 阿南陸相は、辻政信大佐を南京によび戻して、日本軍の撤兵を強行させるとかたく約していた。しかし、陸軍大臣になつた阿南陸相は、強硬派に包囲されてしまつたかたちだつた。私と阿南陸相との連絡は、周囲によつて遮断され連絡のしようがなくなつた。
 中山優〈マサル〉氏が最後の努力に協力してくれた。外務省関係を説得につとめたが、外務省は依然としてソ連にすがる方針であつた。
 阿南氏は自殺する直前、「もう一度石原に会いたいなあ」と独言〈ヒトリゴト〉をいつていたと夫人が語つている。山形県鶴岡の石原さんの家には、阿南大将の死を弔う弔旗が立つていた。彼は軍人の政治干与を禁じ、もう一度、皇軍を粛正するつもりであつたらしいが、あまりにも遅すぎた。
【一行アキ】
 繆さんと石原さんとの会見は劇的であった。二人の話はつきなかつた。
 石原さんは
 「紙と木で出来た日本の家は、戦争なんか考えていなかつた証拠です。日本の住宅を見られても日本人がもともと平和の好きな民族であつたことをおわかり願いたい。
 東京の宮城は、天皇の住いではありません。あれは武家の城だつたのです。日本の天皇の住いは京都にあります。京都の街のまん中に皇居があります。堀も城郭もなく、市民の誰でもが皇居を通り抜けています。日本の天皇は代々日本の民の中に住んでおられました。日本の天皇の皇居は日本の平和を表象しています。」
 二人は枕をならべてねて、夜おそくまで話していた。仲のよい友達のように……。この夜、また空襲があつた。遠くで爆撃の地ひゞきがしていた。
【一行アキ】
 うつうつたる繆さんの唯一の思い出となったものは、繆さんが朝日新聞社の嘉治隆一〈カジ・リュウイチ〉氏の案内で関口泰〈タイ〉氏、三淵忠彦〈ミブチ・タダヒコ〉氏、長谷川如是閑〈ニョゼカン〉氏等と戦時下の日本で快談したことであろう。
 嘉治氏は、繆さんを、
 「ヤルタ会談後の世界情勢を根拠として、間もなく迫つていたヒットラー失脚、桑港〈サンフランシスコ〉会議、沖縄失陥などを契機として惹起せらるべき極東情勢の急転を予見すること掌〈タナゴコロ〉を指すが如きものがあつた。今にして思えば、その予見の余りに正鵠〈セイコク〉を得ていたのにも驚くが、日本の政治家、軍人の不聡明と不熱心とにも驚かされる。」
と評している。
【一行アキ】
 私はあくまで東久邇宮内閣の実現を期待して東京にとゞまることになり、繆さんには、私に代つて同志入交盛雄が同行して、繆さんは四月末、羽田を発つて上海に帰つた。

 文中、「阿南大将に陸軍大臣の内命があつた」というのは、小磯内閣の、末期のことだったと思われる。ウィキペディア「阿南惟幾」の項には、次のようにある。

 前政権の小磯内閣の最末期、本土決戦へ向けた第1総軍新設に際して、三長官会議が小磯國昭首相に無断で杉山元・陸相をその総司令官として閣外に転出させ、阿南を後任の陸相とすることを決定したことに対し、予備役陸軍大将の小磯首相が現役復帰による陸相兼任を要求して容れられず、内閣総辞職となった経緯がある。

 つまり、ここでいう「内命」とは、小磯首相からの内命ではなく、陸軍三長官の会議による内命だったことになる。小磯内閣の崩壊は、この陸相後任問題が、直接のキッカケだった。
 田村真作の『愚かなる戦争』は、今回、紹介した箇所以外でも、紹介したい箇所が残っているが、明日は、話題を変える。

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