◎近衛文麿が自殺の数時間前に書いた遺書
最近、近衛文麿〈コノエ・フミマロ〉の「遺書」が話題になった。話題になったかどうかは知らないが、元首相の細川護熙〈モリヒロ〉氏が、週刊朝日八月一四日号のインタビューの中で、近衛文麿の遺書に言及するということがあった。
私の祖父の近衛文麿は、亡くなる前の晩に次男の通隆〈ミチタカ〉に宛てて遺書のようなものを残していますが、その中で、日支事変の拡大、仏印進駐は自分の政治的誤りであったということを言っています。/先の大戦は侵略戦争であったということを裏付けるような発言です。/当時その責にあった人がそう言っているわけで、その言葉は重く受け止めざるをえない。
ここで、細川護熙氏が、「私の祖父」と言っているのは、その母・温子が、近衛文麿の娘にあたるからである。ちなみに、細川護熙氏の父は、旧熊本藩主細川家第十七代当主の細川護貞〈モリサダ〉である。
この週刊朝日記事をインターネット上で読んで、久しぶりに、岩波新書『近衛文麿』を取り出してみた。岡義武著、一九七二年初版。末尾に近い二三三ページに、その「遺書」が引用されている。
僕は支那事変以来多くの政治上過誤を犯した。之に対して深く責任を感じて居るが、所謂〈イワユル〉戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪へ難い事である。殊に僕は支那事変に責任を感ずればこそ、此事変解決を最大の使命とした。そして、此解決の唯一の途は米国との諒解にありとの結論に達し、日米交渉に全力を尽くしたのである。その米国から今犯罪人として指名を受ける事は、誠に残念に思ふ。
しかし、僕の志は知る人ぞ知る。僕は米国に於てさへそこに多少の知己が存することを確信する。戦争に伴ふ昻奮と激情と勝てる者の行き過ぎた増長と敗れた者の過度の卑屈と故意の中傷と誤解に本づく流言蜚語〈ヒゴ〉と是等一切の所謂輿論〈ヨロン〉なるものも、いつか冷静さを取り戻し、正常に復する時も来よう。是時始めて神の法廷に於て正義の判決が下されよう。
近衛がこの遺書を書いたのは、一九四五年(昭和二〇)一二月一五日午後一一時以降である。次男・近衛通隆(一九二二~二〇一二)が見ている前で書いたのである。近衛が、青酸カリを仰いだのは、それから数時間後の、同月一六日午前二時ごろだとされている。【この話、続く】
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