◎戦争終結は抗戦意志の崩壊から
時代が、だんだんとキナ臭くなってきた。こういう時こそ、「歴史」に学ばなければならない。
東健一〈ヒガシ・ケンイチ〉著『防空の化学』〔科学新書37〕(河出書房)という本がある。今次大戦下の一九四二年(昭和一七)九月に初版が出た本で、いま私が手にしているのは、一九四三年(昭和一八)八月に出た「二版」である。
これを読むと、今次大戦においては、可燃性木造家屋の集合である日本の都市が、敵航空機による「空襲」に対処できなくなった段階で、日本の敗戦は決定的となったということがよくわかる。
第 一 章 焼 夷 弾
Ⅰ. 序 説
左府〔藤原頼長〕則、「合戦の趣はからひ申せ」との給ひければ、畏而、「為朝〔源為朝〕久しく鎮西に居住仕て、九国の者ども従へ候に付て、大小の合戦数をしらず、中にも折角の合戦廿余ケ度なり。或は敵にかこまれて強陣を破り、あるひは城を責て敵をほろぼすにも、みな利をうる事夜討にしく〔如く〕事侍らず。然れば只今高松殿に押よせ、三方に火をかけ、一方にてささへ候はんに、火をのがれん者は矢をまぬかるべからず。矢をおそれむ者は火をのがるべからず。主上の御方心にくくも覚候はず。(中略)未天の明ざらむ前に勝負を決せむ条、何の疑か候べき」と、憚る所もなく申たり。
以上は保元〈ホウゲン〉物語*、新院軍評定の一節である。鎮西八郎為朝の火攻〈ヒゼメ〉の献策は左大臣頼長の容る〈イルル〉ところとならず、却つて官軍によつて味方の本拠を焼かれ、
即院の御所へ猛火おびただしく吹かけたれば、院中の上﨟〈ジョウロウ〉女房、女童〈オンナワラワ〉方角をうしなひ、呼ばはりさけんでまどひあへるに、武士も是が足手まとひにて、進退さらに自在ならず。落行〈オチユク〉人の有様は、嶺の嵐にさそはるる、冬の木葉〈コノハ〉にことならず。
*岸谷誠一氏校訂 保元物語(岩彼文庫)に拠る。
かくて勝敗は一挙にして決したのであつた。若しも保元物語の記述が真相を語つて居るとすれば、勝敗の岐路はまさしく焼夷戦法の採用如何にあり、物語を飾る鎮西八郎為朝の勇戦奮闘は単に局部的の勝利を齎らした〈モタラシタ〉に過ぎなかつたのである。
歴史上戦争に火を応用した例は甚だ多いが、近代航空機の発達と共に焼夷爆弾として都市の攻撃に利用されたのは、第一次大戦の独軍英都空襲に始まる。その当時は使用した焼夷弾の数も少く、ツエツペリン飛行船が英本土に落した数は約2000個に過ぎなかつた。然るに今次大戦に於ては、昨年〔一九四一〕4月に独空軍が英国攻撃に用ひた焼夷弾は800,000個に達したと云ふ*。英都は消防用大型ポンプ3000台を備へ且つ高射砲2400門を以て防禦して居るにも拘らず、同年1月22日のロンドン空襲に際しては1200個所に火災を生じたと云ふ。元来欧洲大都市には不燃性建築物が多く、焼夷弾の効果は比較的に尠い筈であるが、現時に於ける焼夷弾の流行はその戦術的価値の増大を物語るものであらう。
*難波〔三十四〕中佐、現時局下の防空、(昭和16)講談社〔大日本雄弁会講談社〕に拠る。
一面焼夷弾の流行は航空機の発達に伴ふ近代戦の特徴を端的に示すものである。或る軍人は近代戦の要素を分類して前線の兵士、軍需生産力及び一般民衆の三種とした*。焼夷弾の使用は後の二要素の破壊を目的としたものである。
又焼夷弾による大火災の発生は敵国市民の精神を動揺せしむるに有効である。由来火災によつて住居を失つた民衆間には流言が発生し易いと云はれ、また不平不満、当局に対する反抗の情に駆られ易いと云はれる。いづれも戦時下に於ては甚だ危険な事態であると云はねばならぬ。戦争の終結が抗戦意志の崩壊に基くことは古今の鉄則で、一時的にせよ、敵にこのやうな危険な精神の動揺を齎らし得る手段は戦争遂行上甚だ有効と考へられるのである**。
焼夷弾の攻撃に対して特に注意を要することは、我国の都市が総て可燃性木造家屋の集団より成る事実である。内田祥三博士の統計***によれば、世界第一の大火は我国の大正12年〔一九二三〕関東大震災による東京の火災であるが、第三の大火も同震災による横浜の火災、第五も亦昭和9年〔一九三四〕の函館の大火であつて、我国は大火の世界記録の第一、第三、第五を持つのである。一方出火度数を調査すると、東京市の統計は3450人につき年1回であつて、これを外国の都市に比較すると甚だ少く、欧洲の諸都市の3分の1、アメリカの17分の1に過ぎない。従つて、日本人は欧米諸国の人々に比して著しく火の用心がよいにも拘らず、木造家屋の特質上一旦出火すると、延焼して大火になる確率が甚だ大きいのである。
* Major Endres :“Giftgas Krieg,”1928, Zürich.
**Dr. Leonhardt :“Der chemische Krieg, Luftschutz und Gasschutz” 1938, Frankfurt am Main.
***防空事情 (昭和15)11月号に拠る。【以下、次回】
今日の名言 2017・8・30
◎火災によって住居を失った民衆間には流言が発生し易い
東健一著『防空の化学』(河出書房、1942)に出てくる言葉。東健一オリジナルの言葉ではないようだ。上記コラム参照。
*『防空の化学』の紹介の途中ですが、都合により、明日から数日間、ブログをお休みいたします。