◎丸銀の極印のある日本の一円銀貨
本年五月一一日に「朝鮮政府、一圜銀貨・十文銅貨・五文銅貨を鋳造(1891)」というコラムを書いた。そこでは、土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、「朝鮮に於ける渋沢栄一」という文章の一部を紹介した。たとえば、次のような文章である。
朝鮮には古来本位貨幣なく葉銭【えふせん】と称する数種の銅銭と真鍮銭【しんちうせん】とが流通するのみで、後【のち】当百銭、当伍銭等鋳造せられたが、何れも粗悪、幣制紊乱【びんらん】、貨幣の信用地に墜ち、物価の騰貴、貿易の不便甚しかつた。我国との諸関係密となるに従つてその不便は痛切に感ぜられたので、我国の指導下に朝鮮政府をして二四年〔一八九一〕我が幣制に做ひ一圜【けん】銀貨、十文【もん】、五文銅貨を鋳造せしめ、更に二十七年〔一八九四〕八月日清戦役中新式貨幣発行章程を発布し新貨幣制度を制定せしめた。
この記述は、『日本貨幣カタログ 1997年版』(日本貨幣商協同組合、一九九六)のデータとは矛盾する。『日本貨幣カタログ』には、図版やデータが載っているので、こちらを信用することにすると、土屋喬雄の「二四年我が幣制に做ひ一圜銀貨、十文、五文銅貨を鋳造せしめ」とあるところの「二四年」(明治二四年=一八九一)は、「二一年」(明治二一年=一八八八)と訂正されなくてはならない。とりあえず、五月一一日のコラムのタイトルから、(1891)を削ることにしたい。
なお、「一圜」の「圜」には、【けん】という原ルビがあったが、これも正確とは言えない。むしろ、【えん】がよいのではないか。
土屋喬雄は、先ほど、引用した文章に続けて、次のように述べている。
この制度は銀貨本位制をとり、銀五両、一両の二種の外【ほか】白銅貨、銅貨及び黄銅貨【おうどうくわ】等発行せられたが、間もなく発行利益の多かつた白銅貨のみ濫発せらるゝ様になり、又公鋳の外特許料を納めて私鋳を許可し、遂に官製の刻印を貸下げた官吏さへあつて偽造貨頗る多く、外国殊に我が大阪近傍その他岡山等の地で鋳造されて盛んに輸入せられたので、白銅貨の本位貨幣に対する相場は暴落するに至つた。
ここでいう「銀五両、一両の二種の外白銅貨、銅貨及び黄銅貨」とは、一八九二年(明治二五)以降に発行された、五両銀貨、一両銀貨、二銭五分白銅貨、五分銅貨、一分黄銅貨を指している。二銭五分白銅貨の「私鋳」があった事実は、『日本貨幣カタログ』には記載されていない。
土屋は、さらに、次のように述べている。
かゝる有様の下にあつては、新式貨幣発行章程第七条の「新式貨幣が多額に鋳造せらるゝまでは暫く外国貨幣を混用するを得【う】」といふ規定に拠つて韓国法貨たるの効果を有してゐた我が一円銀貨の流通高が激増したのは当然であつた。然るに我が国は明治三十年〔一八九七〕十月一日より金貨本位制となり一円銀貨は当然朝鮮市場よりも回収せられねばならなかつたが、かくては粗悪なる韓銭を愈々跋扈【ばつこ】せしめ、我国貿易にとって不利益甚しいので、第一銀行は三十年八月「朝鮮国幣制私議」なる意見書を日本銀行に提出し、一円銀貨に刻印を捺して従前通り韓国貿易市場に通用せしむべきことを論じ、仁川釜山の日本人商業会議所又同様の意見を上申したので、遂に日本銀行、政府、並びに韓国を動かして貿易業者のために何等の不利益を蒙らしむることなきを得た。
ここにある「刻印を捺して」通用させた一円銀貨とは、『日本貨幣カタログ 1997年版』の一五ページにある「新一円銀貨(小型)丸銀打」のことであろう。このカタログでは、「刻印」という言葉を使わず、「極印」(ごくいん)と言っている。図版によれば、○に銀の極印で、オモテ面の「一円」という文字の右または左に打たれている。「新一円銀貨(小型)丸銀打」のデータ等の紹介は割愛する。