◎西郷四郎が講道館入門以前に学んでいた柔術
「山嵐」で知られた西郷四郎は、天神真楊流の井上敬太郎道場にいたところを、嘉納治五郎に見出され、講道館に引っぱられたとされている。しかし、星亮一氏の新刊『伝説の天才柔道家 西郷四郎の生涯』(平凡社新書、二〇一三)によれば、嘉納が柔道場住込みの書生を求めていることを聞いた西郷が自分から門を敲いたという異説があるという。星氏自身は、その異説のほうが「信憑性が高いように思う」と述べている。
星氏がその異説を支持する根拠は、講道館発行の雑誌『有効乃活用』の一九一九年(大正八)一月号に載っている西郷四郎についての記事にあるらしい。そこには、強い東北ナマリの少年が講道館を訪れた際のエピソードが紹介されている。この雑誌記事から星氏は、西郷が、自分から講道館の門を敲いたという説のほうに、信憑性を見出したのである。
実を言うと、西郷四郎が、嘉納治五郎に引っぱられて講道館に入門したのか、それとも、自分から講道館にやってきたのかという問題は、それほど重要なことではない。むしろ気になるのは、雑誌記事にある、「〔西郷の〕柔道の生涯は其の紹介によりて師範の書生になるより始まる」という一文である。
私は、雑誌『有効乃活用』の記事全体を把握していないので、何とも言えないところがあるが、右の一文が、何とも漠然とした内容である。だいたい「其の紹介」というのが、よくわからないが、この点は暫く措く。
「柔道」という言葉は、何を指しているのだろうか。西郷は、上京してまず、「天神真楊流柔術」の井上敬太郎道場に入門している。この事実は、『伝説の天才柔道家 西郷四郎の生涯』の著者・星亮一氏も否定しておらず、当然、雑誌記事の執筆者も、そのことは知っていたであろう。だとすれば、この一文における「柔道」とは、講道館柔道のことであり、したがって、この一文は、それ以前に、西郷が天神真楊流という「柔術」を学んでいた事実を否定しているものではない。同時にまた、西郷が、それ以前に、すでに郷里において、何らかの「柔術」を学んでいた可能性を否定するものでもないと思う。【この話、さらに続く】