◎三国同盟の締結は妥当の政策であった(近衛文麿)
近衛文麿手記『平和への努力』(日本電報通信社、一九四六)から、「三国同盟に就て」という文章を紹介している。本日は、その七回目(最後)。
三国同盟成立事情およびその具体的目標は右申述べたる如くである。しかるに最近わが戦局すこぶる不利なるに加へて、ドイツ崩壊といふ重大事実に直面し、一部には三国同盟締結に対する貴任を云々するものあるやに聞く。仍ち〈スナワチ〉ここに余の所見を述べて置きたいと思ふ。
余は今以て三国同盟の締結は、当時の国際情勢の下においては止むを得ない妥当の政策であつたと考へて居る。即ドイツとソ連とは親善関係にあり、欧州のほとんど全部はドイツの掌握に帰し、英国は窮境にあり、米国は未だ参戦せず、かかる状勢の下に於てドイツと結び、更にドイツを介してソ連と結び、日独ソの連携を実現して英米に対する我国の地歩を強固ならしむることは、支那事変処理に有効なるのみならず、これによりて対英米戦をも回避し、太平洋の平和に貢献し得るのである。随つて昭和十五年〔一九四〇〕秋の状勢の下において、ドイツと結びしことは親英米論者のいふ如く、必ずしも我国にとりて危険なる政策なりとは考へられぬ。これを強いて危険なりといふは感情論である。感情論にあらざればドイツの敗退を見て後からつけた理窟である。
とかく我国の外交論には感情論が多い。同盟締結当時の反対論も、主として親英米的感情より発したるもの多く、英米の勝利、ドイツの敗退を科学的根拠より予想せる先見の明に基くものではなかつたやうである。故に親英とか親独とかいふ感情を離れて、冷静に日本の利害を中心として考へる立場より見れば、これらの反対論は十分首肯できなかつた。
しかしながら、昭和十五年秋において妥当なりし政策も、十六年〔一九四一〕夏には危険なる政策となつたのである。何となれば独ソ戦争の勃発によりて日独ソ連携の望は絶たれ、ソ連は厭応〈イヤオウ〉なしに英米の陣営に追込まれてしまつたからである。事ここに至れば、ドイツとの同盟になお拘泥することは我国にとりて危険なる政策である。すでに危険と感じたる以上は速に方向転換を図らねばならぬ。ここにおいて日米接近の必要が生じたのである。しかるに陸軍はこの期〈ゴ〉に及んでなおドイツとの同盟に執着し、余の心血を注ぎたる日米交渉に対し種々の橫槍的注文を発し、遂に太平洋の破局をもたらしたのである。これまた日本の利害を冷静に検討したる結果にあらずして主として親独的感情より発したるものと思ふ。感情論が外交を左右することのいかに恐るべきかを知るべきである。
同盟反対論物は米国の対日態度は三国同盟を契機として俄然強硬となり遂に日米開戦となつた。故に日米開戦の原因は三国同盟の締結にありといふ。しかしながらこれは法理に反し又事実に反する。
法理上からいへば日本は米国がドイツに宣戦せざるその前に進んで米国に対し宣戦したのである。故に宣戦の詔書にも、三国同盟といふ文字は全然見出されないのである。即法理上よりいへば、日米開戦と三国同盟との間には何らの因果関係はない。
次に事実上においてもその間に因果関係はない。なるほど三国同盟の締結が、英米の輿論を一層激化したことは事実である。しかしながら例の通商条約の廃棄の如きは、同盟締結前即ち五年四月〔ママ〕にすでに行はれて居り、又かの資産凍結令の如きは、同盟締結後約十ケ月を経たる仏印進駐を契機として行はれたのであつて、同盟締結の直接の反響としては具体的に何も表はれなかったのである。殊に日米国交調整を目的とする日米交渉が、同盟締結後約半歳を経たる昭和十六年〔一九四一〕四月米国の提議によりて開始せられたといふ事実は、三国同盟と日米開戦との間に事実上因果関係なかりしことを物語るものである。 (完)
文中、「例の通商条約の廃棄の如きは、同盟締結前即ち五年四月にすでに行はれて居り」のうち、「五年四月」とあるのは誤記であろう。アメリカが日米通商条約の破棄を通告したのは、一九三九年(昭和一四)七月で、同条約の失効は、一九四〇年(昭和一五)一月のことだった。
さて、この「三国同盟に就て」という文章で、近衛は何が言いたかったのか。「三国同盟と日米開戦との間に事実上因果関係なかりしこと」である。なぜ、それが言いたかったのか。「自分に日米開戦の責任はない」と釈明したかったからである。
三国同盟を締結した責任は、たしかに自分にある。しかし、三国同盟と日米開戦との間に因果関係はない。したがって、自分に日米開戦の責任はない。――これが、近衛の論理である。
執筆した時期から言って、明らかに近衛は、戦後、開かれるはずの「国際軍事裁判」を意識している。そこで、「戦争責任」を問われることを、近衛は恐れた。だからこそ、こんな文章を書いたのである。
近衛文麿という人物は、毀誉褒貶の激しい人物である。しかし、この「三国同盟に就て」という文章を見る限り、言い訳の多い、小心な人物に見える。なぜ彼は、「三国同盟と日米開戦との間には、因果関係がある。したがって、三国同盟を推進した自分には、戦争責任がある(あるいは「敗戦責任がある」)」と言えなかったのだろうか。
当ブログでは、このあとも三国同盟をめぐる話題を採りあげる。その際、三国同盟と日米開戦との間の因果関係を解明するという課題を、つねに意識してゆきたい。ただし、次回は、話題を変える。