礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

死所を得た伊藤博文を羡しく思う(山県有朋)

2022-09-30 02:57:13 | コラムと名言

◎死所を得た伊藤博文を羡しく思う(山県有朋)

 山田孝雄著『古事記講話』(一九四四)を紹介している途中だが、昨日の記事「今より後の世をいかにせむ(山県有朋)」に、若干、補足する。
 伊藤博文と山県有朋は、ともに旧長州藩の軽輩の出身であり、ともに松下村塾に学んだ志士(革命家)であった。明治維新後、両人は、近代国家体制の確立に抜群の力量を示し、「元勲」として「長州閥」の頂点に立った。両人は、政治上の盟友であり、またよきライバルでもあった。伊藤博文は漢詩を得意とし、山県有朋は和歌を得意とした。
 安倍晋三元首相の国葬の際に、菅義偉前首相が友人代表として弔辞を読み、その中で山県有朋が伊藤博文の死を悼んだ和歌を紹介したことが話題になっている。
 伊藤博文は、一九〇九年(明治四二)一〇月二六日、ハルビンの駅頭で、至近距離から銃撃され、その日のうちに亡くなった。安倍元首相は、本年七月八日、奈良市内で、やはり至近距離から銃撃され、その日のうちに亡くなっている。伊藤博文は、長州出身の政治家で、初代・第五代・第七代・第一〇代の内閣総理大臣を務めた。安倍晋三氏は、山口県に選挙区を持つ政治家で、第九〇代・第九六代・第九七代・第九八代の内閣総理大臣を務めている。
 伊藤博文の「国葬」は、一九〇九年(明治四二)一一月四日、日比谷公園で営まれた。安倍晋三氏の「国葬」は、本年九月二七日、日本武道館で営まれた。
 伊藤博文の盟友・山県有朋は、ほぼ天寿を全うして、一九二二年(大正一一)二月一日に亡くなった。同月九日、日比谷公園で「国葬」が営まれている。
 菅前首相の弔辞によって、岡義武の『山県有朋――明治日本の象徴』という本が注目を集めた。
 菅前首相によれば、安倍元首相が、生前、最後に読んでいた本は、岡義武の『山県有朋』であり、しかも、山県有朋が伊藤博文を偲んで詠った歌のところに「しるし」が付けられていたという。
 いま、手元にある同書の岩波新書版(一九五八年五月)から、当該の部分を引いておこう。

 桂〔太郎〕内閣成立の翌年〔一九〇六〕六月、伊藤博文は韓国統監を辞して帰国し、山県に代って彼としては四度目の枢密院議長に就任した。伊藤はすでに前年〔一九〇五〕に統監辞任の意向を表明していたが、山県は桂とともにその留任を熱心に要望していた。これは、山県らとしては元老のうち天皇の信任の最も深い伊藤が外地に止まっていることは山県系勢力のために有利と考えたからであろう。それだけに、原〔敬〕は桂首相に対して老齢の伊藤が韓国に留っているのは気の毒であるとしきりに説き、伊藤の統監辞任をついに諒承させたのである。枢密院議長に就任後、伊藤は日露間の国交調整を推進したいとの希望を抱いてこの年〔一九〇六〕一〇月ロシアにむかって出発したが、ハルビンではからずも韓国独立運動に関係ある朝鮮人の手で射殺された。山県はこの凶報に接して、驚愕するとともに、松下村塾の昔以来五〇年にわたる交友の跡を回想し、また過去の日の伊藤とのかずかずの政治的交渉を思いうかべて、感慨に沈んだ。「かたりあひて尽しゝ人は先だちぬ今より後の世をいかにせむ」。これは、伊藤の死を悼んだ彼の歌である。彼はまた身近のひとびとに、伊藤という人間はどこまでも好運な人間だった。死所〈シショ〉をえた点においては自分は武人として羡しく思う、とも述懐した。〈一〇七~一〇八ページ〉

*このブログの人気記事 2022・9・30(9・10位に極めて珍しいものが入っています)

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今より後の世をいかにせむ(山県有朋)

2022-09-29 00:43:32 | コラムと名言

◎今より後の世をいかにせむ(山県有朋)

 九月二七日15:09配信の読売新聞オンラインの記事「国葬での菅氏の弔辞、山県有朋に込めた思い…安倍氏にあこがれた菅氏・菅氏をうらやんだ安倍氏」(執筆・伊藤俊行編集委員)によれば、安倍晋三元首相の国葬で弔辞を読んだ菅義偉前首相は、その弔辞の最後に、山県有朋の歌を紹介したという。以下は、同記事からの引用。

◆山県有朋の歌に託した思い
 弔辞の最後で、菅氏は安倍氏が読みかけのままだった本にあった、山県有朋の盟友・伊藤博文を偲ぶ歌を「私自身の思いをよく詠んだ一首」として紹介した。
 <かたりあひて 尽くしゝ人は 先立ちぬ 今より後の世をいかにせむ>
 山県は、同じ長州出身の伊藤より3歳年上で、伊藤の2代後の首相を務めた。
 菅氏は、衆院議員になったのは安倍氏より1期遅かったが年は6歳上で、安倍氏の後に首相を務めた。
 自分よりも若い友に先立たれた悲しみが、菅氏の弔辞にあふれていた。

 九月二八日の朝日新聞朝刊の二七面には、「菅義偉前首相(友人代表)追悼の辞」が載っていた。それによれば、弔辞の最後の部分は、次のようになっていた。

 衆院第1議員会館1212号室の、あなたの机には、読みかけの本が1冊ありました。岡義武著『山県有朋』です。
 ここまで読んだ、という、最後のページは、端を折ってありました。そしてそのページには、マーカーペンで、線を引いたところがありました。
 しるしをつけた箇所にあったのは、いみじくも、山県有朋が、長年の盟友、伊藤博文に先立たれ、故人を偲(しの)んで詠んだ歌でありました。
 総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。
 かたりあひて 尽(つく)しし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
 かたりあひて 尽しし人は 先立ちぬ 今より後の 世をいかにせむ
 深い哀しみと、寂しさを思います。総理、本当に、ありがとうございました。
 どうか安らかに、お休みください。

 これによって、安倍元首相が、生前、最後に読んでいた本が、岡義武(おか・よしたけ)の『山県有朋――明治日本の象徴』であったことがわかる。この本が、一九五八年刊の岩波新書版だったのかそれとも、二〇一九年刊の岩波文庫版だったのかは、わからない。ちなみに、山県が伊藤を偲んだ歌は、岩波新書版では、一〇八ページに引かれている。
 それにしても、安倍元首相が、生前、最後に読んでいた本が、明治の元勲・山県有朋について論じた本であり、その山県が盟友・伊藤博文の死を悼んだ歌のところに、元首相が「しるし」をつけていたという話に、少なからぬ関心を抱いた。

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慈鎮和尚は諡で、元来は慈円僧正であります

2022-09-28 01:20:41 | コラムと名言

◎慈鎮和尚は諡で、元来は慈円僧正であります

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その一二回目。本日、紹介するところも、「第五 古事記序文第一段」の一部である。
 この部分は、「脱線」している部分ではあるが、「百王」という言葉をめぐって、たいへん興味深い話が展開されている。

「而百王相続」といふ言葉の「百王」については、それは歴史的に考へますと非常に深い事実がこれに宿つてをります。これは支那の昔からあるのでありまして、礼記〈ライキ〉の中にも「百王ノ同ジウスル所古今ノ一トスル所ナリ」といふ風、昔から今まで沢山の王様、多数の帝王がある、これらを百王と言つたのであります。これは荀子の中にもあり、支那では珍らしい言葉ではないのであります。別に深い意味がなく、たゞ無数の帝王といふ意味であつたのでありますが、鎌倉時代になつて参りますといふと、百王といふ言葉の意味が間違へられて来たのであります。古事記の序文ではさういふことを言ふ必要はないのでありますけれども、こゝでは特にお話しておきます。慈鎮和尚の書きました愚管鈔といふのがありますが、これは歴史観を述べたものでありまして、日本の史論として注目すべきものだといつて今までの歴史家に極めて珍重せられて来てをるのであります。序に〈ツイデニ〉ちよつと申しますが、慈鎮和尚は天台宗の人でありますから、和【ヲ】尚とはいはず和【クワ】尚であります。和尚とよぶのは禅宗であるます。これは元来梵語〔upādhyāya〕の訳であります。それを音訳して和上、和尚と書いたのをいろいろによむことになつたのですが、律宗では和上【ワジヤウ】と申します。この慈鎮和尚といふのは諡〈オクリナ〉でありまして、元来は慈円僧正であります。この慈円和尚が愚管鈔を書いた。それが歴史史家に珍重せられてをるのでありますが、我々の國體観よりその思想を考へを見れば実に怪しからぬものがあるのであります。この愚管鈔のなかに百王といふ事をばどう解釈してをるかといふと、昔から天照大御神〈アマテラスオオミカミ〉、八幡大菩薩〈ハチマンダイボサツ〉が百王を守らせ給ふといふことがあるが、いま既に八十四代になつて、残りは十六代だといふことを言つてをる。これは順徳天皇様の御代は八十四代、あとが十六代残つてをる、かういふ事を言つてをります。即ちこの百といふもめをば限定数の百と考へたのが慈鎮の思想であります。かういふ風な思想が起つて参りますといふと、天皇の御位〈ミクライ〉が進むに従つてこの国の前途が危まれるのであります。九十九、百となればもう日本の国はお終ひになつてしまふ。もしさういふことがあつたとしたら皆さんにはどういふ考へが起るか。天皇様の御位が今度で九十五代だ、さあ困つた、九十六、九十七代、いよいよ大変だ、九十八、九十九となつて来たら、もうこれで日本はお終ひになつてしまふだらうといふ、さういふ情けない思想が起つて来るのは当然であります。しかもこの愚管鈔のなかにはその思想が繰返されてをる。さういふ点から考へて見ますと、愚管鈔といふ書物は我々の國體観の方からすればこれほど怪しからぬ〈ケシカラヌ〉書物はない。かういふ書物を褒めるやうな思想は國體を問題にしない思想であります。我々日常の生活でも、もう僅かしかお金がない、十円のものが九円無くなり一円になつた、さあそれから先をどうしようかといふことになるのが人情であります。それから先まだまだ旅行しなければないといふのに、若し百円持つてゐた旅費があと十五円しかない、一日経つて五円になつた、その補充がつかないとなればこれは旅行さへも心細い限りであります。日本の天皇様が百代しか続かない、それでお終ひだ、かういふ思想を持つてゐたならば大変な話であります。後醍醐天皇様の御代〈ミヨ〉は九十四代、九十五代、かういふ時代であります。この時代において足利尊氏の如きものがあの暴威を揮つたのも、あれは尊氏一人の力ではない、日本人の思想が麻痺してをつたのであります。大抵の歴史家は上面【ウハツラ】ばかり見て物を言ふ。勿論上面も見なければならないが、その当時の人間がどういふ思想を持つてゐたかといふことを考へて来ると、足利氏が跋扈〈バッコ〉した理由も自ら〈オノズカラ〉分るでせう。もう日本はあとが二、三代しかないといふことがはつきりと分つたならば、楠木正成とか北畠親房とかいふ純忠無比の人は別でありますが、当時の普通人は、どうせ国が亡くなるのだから生きてゐる中に御馳走を食べようと、かういふ思想になるのは当然です。この思想があの大乱を起して来るのです。私は左様に解釈し得ると思ふのです。〈一一四~一一七ページ〉

 文中、「愚管鈔」は原文のまま。一般には「愚管抄」と書かれる。

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一番悪い教育は「わかったか」と問う教育である

2022-09-27 03:00:20 | コラムと名言

◎一番悪い教育は「わかったか」と問う教育である

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その一一回目。本日、紹介するところは、「第五 古事記序文第一段」の一部である。
 なお、本日以降は、「脱線している部分」を中心とした紹介となろう。

 我々の先祖は直覚力が強い、直覚力が強いから直ぐに呑込んでしまふ。現在の教育は直覚力が余り強くない、強くないやうにしてしまつた。其のしてしまつた一番悪い所の教育は「分つたか」と云ふ教育である。是は此の頃私も一番喧しく云ふ、「分つたか」と云ふと「分りました」といふ。しかし、凡そ〈オヨソ〉ものは分けられてしまへばその生命は終ひです。其の時は死んでしまふ。幸にして口ばかりで分つたので実際には分けられぬから生きて居るものの、先生も分けなかつたが、生徒も能く分らなかつたからよかつたのである。小包郵便に致しましても分けてしまへば納りが附かない。慰問袋にしましても、是は帳面、是は紙、是はシヤボン、是は何と言つて皆んな並べてしまへば、成る程あなたの出す慰問袋には結構なものが入つて居りますなあと言つて分る。分つた侭で放つて置いては何時迄経つても慰問袋にならない。是が現在の「分つたか」の教育である。それには一番大事な魂が入つて居らない。さうではありませぬか。其の中に入つて居るものは是だけと云ふことは能く分ります。けれども分つたと云つたまゝでそれを放つて置いては何時〈イツ〉迄経つても戦地に行きませぬ。それを纏めて一つの袋に入れてすつかり封をして、宛名を書いて郵便局へ持つて行かなければ小包になりはせぬ。分つただけでは小包にならない。私は「分つたか」教育が全然いけないとは申しませぬ。分ると云ふことは必要だ。「何が入つて居るか」「分らぬ」と云ふことで「お金をよこせ」と言はれたつてだしませぬ。調べた後「それだけ入つて居るならば能く分つた、それだけ払つてやれ」と云ふことになります。かやうなことでそれは分る必要はありますけれども、分つた侭では小包の一つも出来はせぬ。処が明治以後今日に至る迄の教育は「分つたか」「分りました」だけで、それで終ひだ。人間ならば事実として実際にそのからだを分けたならば死んでしまふと云ふことになる。此処は胴だ、此処は足だ、此処は手だと言つて「能く分つたか」と言つて切つてしまへばそれで終ひだ。分つても分らぬでも、それが人間として活きてゐるといふことが大切である。この生きてゐるといふ点が大事なのです。我々の先祖が直覚力が強くて訳が分らぬでもすぐに事実をさとつた。仏教にも釈迦が大勢皆様がおいでになるやうな所で花をひねつて、につこり笑つた、魔訶迦葉〈マカカショウ〉がそれを見てにつこり笑つた。それでその道が伝はつた、それが禅宗の源だといふことである。それから何代目かが達磨と、斯う云ふ訳になる。訳も何にも分りはしませぬ、につこり笑つただけである。笑ふのはさとつたので分つたのではない。明治迄の教育は其の訳が分ると云ふことにばかり力を入れてさとらしめることが足りないのです。昔の教育は訳が分るといふことが足りなかつたらうが、兎に角〈トニカク〉受け継ぐことが出来る。例へば三味線の例でいへば、こゝは感所〈カンドコロ〉だと言つて三味線の師匠が教へる。習ふ者は感所といふことは何の事やら分らぬけれど、まあピンピンとやる。やつて居る内に三味線が旨く行く。処が今の教育は三味線がろくに弾けもしないのに感どころとは何ぢやといふ理窟をやかましくいふ。さうして感どころとは是である。あれであるといふ。その話は能く分る。しかしながら弾いて見ると何にも弾けないといふやうな有様である。是が現代の教育の弊だ。之を根本的に改めて、正しい皇国の教育にしようといふのが昭和十一年〔一九三六〕十月の教学刷新評議会の答申の精神である。その精神が具体化して来て居るのが今日の国民学校の制度であり、又高等学校の教授要目なり、或は中等教育もの教授要目等の改正の趣旨は此処にあるのである。〈一〇八~一一〇ページ〉

 何ともよく「分らぬ」話である。しかし、「わかったか」と問う教育が「一番悪い」というのは、何となくわかる。
 教えられる側に立った経験を振り返ると、教える側の方から「わかったか」と問われると、つい「わかりました」と答えてしまう。わかっていなくても、「何となく」などと答えてしまう。
 しかし、それにしてもこの山田孝雄の話は、わかりにくい。特に、慰問袋を例に引いているあたりが、よく「分らぬ」。
 そういう「分らぬ」話をしておいて、山田は、聴衆に向かって、「さうではありませぬか」と問いかけている。山田もまた、無意識に、「分つたか」の教育をおこなっていたのではないか。

*このブログの人気記事 2022・9・27(8位になぜか木畑壽信氏)

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是だけの文章は滅多にない(齋藤拙堂)

2022-09-26 00:10:11 | コラムと名言

◎是だけの文章は滅多にない(齋藤拙堂)

 山田孝雄の『古事記講話』(有本書店、一九四四年一月)を紹介している。本日は、その一〇回目。
 本日、紹介するのは、「第四 古事記序文総論」の最初と最後の部分である。ここで山田孝雄は、古事記の序文が漢文として優れていることを強調している。なお、この「第四 古事記序文総論」に関しては、「脱線」しているところはない。

第 四  古事記序文総論

 古事記と云ふものはどう云ふものであるかと云ふことを我々が手取り早く知りたいと致しますと、古事記全体を読んで居ると云ふことは暇がかゝると致しますれば、古事記の序文を読んで見れば分る訳であります。此の序文は先に申しましたやうに上表文でありますから、勅命を奉じて古事記を斯の如く編纂致しましたといふことを上奏する為の文であります。上表の表と云ふことはものを明らかにする意味を持つて居るのでありますから、所謂簡単にして明瞭に古事記其のものの本質なり、内容なり、組織なりを明かに読み取ることが出来るだけの組織を持つて居るのであります、唯古事記の本文は御存知の通りの文章で書いてあるに拘らず、上表文の方は漢文で書いたと云ふことはどう云ふ訳であるかと申しますと、初めに申しましたやうに、大化の改新以後国家の公の文と云ふものは詔勅も、法命も皆漢文で書いてあります。詔勅や法令若くは我々が御上へ出す時の届けに致しましても、報告に致しましても皆漢文でやるのが正式です。況んや上表文は固より漢文で書かなければならぬのでありますが、上表文などと云ふものは昔から書き方が決つて居りまして濫りに書くことに行かない。これらの文章は四六文と申しまして四字と六字が文の基礎体であります。而して斯う云ふものは駢儷体〈ベンレイタイ〉と申しまして対句が本体であります。此の四六文、若くは四六駢儷体と申しますものは今の漢文をやる方には余り親しみがない。只今は所謂唐宋八家文〈トウソウハッカブン〉と云ふやうに韓退之〈カン・タイシ〉とか柳宗元〈リュウ・ソウゲン〉とかいふ人が出て来て古文と云ふものを重んじることになり、四六文はつまらぬものであると言つて退ぞけてしまひましたのですが、徳川時代から引続いて漢文をやる方々は皆古文の方をやりまして、古事記の上表文のやうなものは余り親しみがないのですけれども、此の四六駢儷体と云ふものの性質を知つて居なければ此の頃の文章の意味をよく汲み取ることは困難です。それで私が其の本の文の組織の仕方をば土台にして分るやうに分けて置きましたのを一往読んで見たいと思います。〈七八~七九ページ〉

【七九ページの途中から八八ページの途中までを割愛】

斯う云ふう訳であります。此の和銅五年正月二十八日、是が日附でその次が署名でありますから是は講話には除きます。それから初めの
 臣 安 麻 呂 言
と云ふのと、一番終りの
 臣 安 麻 呂、誠 惶 誠 恐 頓 首 頓 首。
と是は御挨拶の言葉でありますから、是は全体の文章には関係して居りませぬ。其の中間の本文が所謂四六駢儷体の文と云ふことになるのであります。此の四六駢儷体の文と云ふものの構造法を一往御話して置く必要があるかと思ひます。
 是は四字と六字が本体になります。さうして序文を分解して下に色々名前を書いてありますが、是は全体で十三種類あるのであります。其の十三種類に依つて此の駢儷体と云ふものが組織せられて行くのであります。此の文章と申しますものは四六駢儷体の文章でありますから、余りさう立派な文章でないかの如くに考へられるかも知れませぬけれども、併し此の文章は非常に優れた文章でありまして、漢文の方から申しましても普通の人には私は出来ない文章であると思ひます。御承知の通り幕末の頃に伊勢の津に齋藤拙堂と云ふ文章家がありました。今の漢文教科書にも時々拙堂の文章が載せてありますが、此の齋藤拙堂の拙堂文話と云ふのがあります。それには斯ふ云ふとことを言つて居ります。
 太安萬呂古事記、野相公令義解序、微古典雅、文辞爛然、不得以排偶之文貶之。
と云つてゐる。排偶の文と云ふのは此の四六駢儷体のやうに四字六字を以てし、その上に対句を使ふのを排偶と申します。其の幕末の第一等の文章家といはれてゐる齋藤拙堂が是だけの文章は滅多にないと言つて褒めて居る程立派な文章です。近頃古事記は偽作だなどと云ふ人があります。偽作を仮りにしたとするなら此の序文を何人〈ナンピト〉が偽作し得るか。此の文章を偽作し得る人は滅多にないと思ふ。菅原道真公の時代になればもう此の序文は書けませぬ。まあ此の位の文章をどうしてでも書き得られるならば、徳川時代に出た荻生徂徠〈オギュウ・ソライ〉位のものだらうと思ひます。非常な学殖がなければ書ける文章でないのです。しかし徂徠は日本の学問が不十分だからこれは恐らくは書けまい。とにかく文章の方から言つても大したものです。まあそれは別問題と致しまして、此の古事記の序文は私は之を読んだだけで古事記其のものの精神が分り、之を読んだだけで古事記の組織も一通りは分ると思ふ程重大なものだと思つて居るのです。処が昔から此の古事記の序文を重んじない。本居〔宣長〕先生などは非常に軽く見て居られる。それは漢文で書いて居るからと云ふことでありませうが、漢文で書いても良いものは良いといはねばならぬ。それで是からずつとこれの説明を致します。〈八八~九〇ページ〉

 ここまでが、『古事記』の「序文」の総論である。ちなみに、山田孝雄の『古事記講話』は本文二八七ページだが、このあと九一ページから二八七ページまでは、すべて、その「序文」の解説に充てられている。

*このブログの人気記事 2022・9・26(10位の西部邁氏は久しぶり)

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