◎死所を得た伊藤博文を羡しく思う(山県有朋)
山田孝雄著『古事記講話』(一九四四)を紹介している途中だが、昨日の記事「今より後の世をいかにせむ(山県有朋)」に、若干、補足する。
伊藤博文と山県有朋は、ともに旧長州藩の軽輩の出身であり、ともに松下村塾に学んだ志士(革命家)であった。明治維新後、両人は、近代国家体制の確立に抜群の力量を示し、「元勲」として「長州閥」の頂点に立った。両人は、政治上の盟友であり、またよきライバルでもあった。伊藤博文は漢詩を得意とし、山県有朋は和歌を得意とした。
安倍晋三元首相の国葬の際に、菅義偉前首相が友人代表として弔辞を読み、その中で山県有朋が伊藤博文の死を悼んだ和歌を紹介したことが話題になっている。
伊藤博文は、一九〇九年(明治四二)一〇月二六日、ハルビンの駅頭で、至近距離から銃撃され、その日のうちに亡くなった。安倍元首相は、本年七月八日、奈良市内で、やはり至近距離から銃撃され、その日のうちに亡くなっている。伊藤博文は、長州出身の政治家で、初代・第五代・第七代・第一〇代の内閣総理大臣を務めた。安倍晋三氏は、山口県に選挙区を持つ政治家で、第九〇代・第九六代・第九七代・第九八代の内閣総理大臣を務めている。
伊藤博文の「国葬」は、一九〇九年(明治四二)一一月四日、日比谷公園で営まれた。安倍晋三氏の「国葬」は、本年九月二七日、日本武道館で営まれた。
伊藤博文の盟友・山県有朋は、ほぼ天寿を全うして、一九二二年(大正一一)二月一日に亡くなった。同月九日、日比谷公園で「国葬」が営まれている。
菅前首相の弔辞によって、岡義武の『山県有朋――明治日本の象徴』という本が注目を集めた。
菅前首相によれば、安倍元首相が、生前、最後に読んでいた本は、岡義武の『山県有朋』であり、しかも、山県有朋が伊藤博文を偲んで詠った歌のところに「しるし」が付けられていたという。
いま、手元にある同書の岩波新書版(一九五八年五月)から、当該の部分を引いておこう。
桂〔太郎〕内閣成立の翌年〔一九〇六〕六月、伊藤博文は韓国統監を辞して帰国し、山県に代って彼としては四度目の枢密院議長に就任した。伊藤はすでに前年〔一九〇五〕に統監辞任の意向を表明していたが、山県は桂とともにその留任を熱心に要望していた。これは、山県らとしては元老のうち天皇の信任の最も深い伊藤が外地に止まっていることは山県系勢力のために有利と考えたからであろう。それだけに、原〔敬〕は桂首相に対して老齢の伊藤が韓国に留っているのは気の毒であるとしきりに説き、伊藤の統監辞任をついに諒承させたのである。枢密院議長に就任後、伊藤は日露間の国交調整を推進したいとの希望を抱いてこの年〔一九〇六〕一〇月ロシアにむかって出発したが、ハルビンではからずも韓国独立運動に関係ある朝鮮人の手で射殺された。山県はこの凶報に接して、驚愕するとともに、松下村塾の昔以来五〇年にわたる交友の跡を回想し、また過去の日の伊藤とのかずかずの政治的交渉を思いうかべて、感慨に沈んだ。「かたりあひて尽しゝ人は先だちぬ今より後の世をいかにせむ」。これは、伊藤の死を悼んだ彼の歌である。彼はまた身近のひとびとに、伊藤という人間はどこまでも好運な人間だった。死所〈シショ〉をえた点においては自分は武人として羡しく思う、とも述懐した。〈一〇七~一〇八ページ〉